2012年10月29日月曜日

キューバ反体制派グティエレス=メノヨが死去


▼▼▼キューバ革命戦争のさなか、中部のエスカンブライ山脈に立てこもり、「エスカンブライ第2戦線」を構築して司令官となったエロイ・グティエレス=メノヨは、革命勝利後、フィデル・カストロと対立して袂を分かち1961年、米国に亡命した。

▼マイアミを拠点にCIAと組んでキューバにテロ攻撃を仕掛け、65年、コマンドを率いてキューバ島に上陸した。だが制圧され、反逆罪で禁錮30年の実刑に処せられた。86年、当時のスペイン首相フェリーペ・ゴンサレスの仲介で釈放された。

▼マイアミに住み、以前と打って変わって対玖和解運動を展開した。このため同地の亡命社会から「洗脳された」と非難され、白眼視された。

▼2003年、訪玖旅行中に米国旅券を破棄し、クーバ永住を申請、許可された。「内側から変革運動を続ける」というのが言い分だった。

★このグティエレス=メノヨが10月26日、ハバナ市内の病院で動脈瘤の持病により死去した。77歳だった。

▼ハバナのコロン墓地で28日、遺灰が埋葬された。遺灰の一部は、エスカンブライ山脈に散布された。

▼葬儀には反体制派の面々が参列した。プエルト・リーコ在住の長女パトゥリシアは、葬儀に駆け付け、「父ほどこの島を愛した者はいない」と語った。

▼キューバは25日、サンティアゴ市をはじめ東部一帯がウラカン(ハリケーン=台風)に見舞われ、甚大な被害が出た。国を挙げて復旧活動に取り組んでいる。また28日は、革命の英雄カミーロ・シエンフエゴスの行方不明死53周年の記念行事が挙行された。グティエレス=メノヨの死は陰に隠れてしまっている。

パナマのZLC土地払い下げ法が廃棄さる


▼▽▼パナマ国会は10月28日、コロン自由貿易地域(ZLC、国有地)の土地を民間に払い下げる新法(19日発効)を廃止する法を成立させた。日越両国歴訪から27日夜帰国したリカルド・マルティネリ大統領は廃止法に署名した。廃止法は29日の官報記載をもって発効し、1948年制定の旧ZLCが復活する。

▼国会は28日、19日以降の新法反対抗議行動のさなかに死亡した市民は3人とし、その死亡事件の経緯や、警官隊の過剰暴力について調査する委員会の設立も決めた。委員会は60日以内に報告書を作成し、それに基づいて政府は遺族らに賠償する。

▼一方、パナマ商業会議所は28日、19~26日の暴動や略奪で総額4000万ドルの被害が出たほか、5億ドル分のZLCの物流が止まった、との推計を明らかにした。

▼実業家であるマルティネリは頑迷な新自由主義者で、これまで国有資産の民営化を推進してきた。連続再選を禁止する憲法を手直ししての大統領再選を狙っているが、今回の失政で大統領は動きにくくなった。過去にも、荒っぽい開発政策などが先住民や農民の強い反発と抵抗を招いている。

▼次期大統領選挙(2014年)で政権奪取を狙う野党連合「拡大戦線」は、今回の新法廃棄闘争を組織し、勝利した。今後、政府に対し攻勢をかけていく構えだ。

2012年10月27日土曜日

パナマ大統領が土地払い下げ新法廃棄に追い込まれる


▼▽▼パナマのリカルド・マルティネリ大統領は10月26日、滞在中のハノイから、パナマ市で留守を預かる大統領府相に連絡し、コロン自由貿易地域(ZLC)土地払い下げ新法を廃止する手続きを直ちに開始するよう命じた。大統領は27日夜、帰国の予定。

▼同法廃止法案が同日急遽国会に提出され、商業委員会は第1回審議で可決した。28日の第3回(最終審議)で可決された後、本会議で採択される。遅くとも31日には施行され、土地払い下げ法は廃棄される。

▼パナマ市では同日、野党、労組などが国会前でデモ行進した。その後、覆面した若者らが、大統領一族が経営するスーパーマーケットなど商店を略奪し、乗用車などを破壊した。

▼払い下げ法は国会で18日成立し、大統領は19日署名し発効させると、そのまま日越両国歴訪に出発してしまった。法に反対していた労組、商業会議所、野党などはコロン市で抗議行動を展開し、それが首都をはじめ全国に波及した。

▼大統領は当初、法規定の手直しで難局を乗り切ろうと試みたが、抗議行動は暴動と広汎なストライキに発展し、廃棄を余儀なくされた。

▼新自由主義路線を邁進してきた実業家大統領だが、今回の完全な失政と敗北で、今後の施政がかなりやりにくくなった、と言える。一方、勝利した反大統領勢力は、次回大統領選挙での政権交代に向けて大きな一歩を前に進めた。

PARC自由学校講座でラ米を語る


☆★☆東京・神田淡路町に「アジア太平洋資料センター」(PARC=パルク)がある。そこで運営されている「PARC自由学校」の今年度通年講座の一つ、「グローバル・デモクラシーへの挑戦-人びとは立ちあがり、世界は動く」の第10回講座の講師を10月26日夜、務めた。

☆「ラ米:モンロー主義に対抗する<米州の南>」という議題で、昨年12月発足した「ラ米・カリブ諸国共同体(CELAC=セラック)」、今月7日にウーゴ・チャベス大統領が4選を果たしたベネズエラ大統領選挙の意味などを1時間語った。次の1時間は受講者との質疑応答だった。

☆受講者は年配者ばかりだったが、その半数は金曜恒例の首相官邸前の反原発集会デモから駆けつけたとのことだった。

☆学び考え発言する、心が熱く若い年配者たちの群! 若者たちとどこまで繋がれるかが、鍵だ。いつも感じるこの思いを、また新たにした。 

2012年10月26日金曜日

パナマ大統領来日、地元では大荒れ


▽▼▽パナマのリカルド・マルティネリ大統領が10月21日、日本公式訪問のため東京に到着した。ロムロ・ロー外相、ロベルト・ロイ運河相らが随行。

▼野田首相と22日首脳会談し、日本企業のパナマでの社会基盤投資、パナマ運河通航料値上げ交渉開始などで合意した。大統領は特に、運河をまたぐモノレールや、パナマ市の地下鉄第3路線建設への投資に期待を示した。

▼会談後の記者会見で大統領は、尖閣問題での日本支持を明言した。パナマと国交を持たない中国は23日、パナマに同問題に介入しないよう警告した。台湾のパナマ駐在大使も24日、パナマに中立の立場をとるよう要請した。

▼大統領は22日、経団連会長とも会談、天皇に会見した。

▼23日には財界人140人と会合し、「私は実業家(パナマ最大のスーパーマーケットチェーン経営)」、「パナマはラ米への最良の玄関口で、戦略的位置を占める」、「経済は過去5年、年率8%で成長してきた」と強調し、投資を呼び掛けた。[日本はパナマ運河第3水路建設工事に8億ドル融資している。]

▼大統領は同日、造船会社代表たち、全日空社長と会談。NHKによるインタビューで、運河通航料値上げの正当性を強調した。

▼24日には東京モノレールに試乗し、建設に意欲を示した。同日ハノイ入りし、25日ヴィエトゥナム首脳たちとの会談に臨んだ。

●●●自由貿易地域の土地払い下げに一大反対運動、大統領譲歩

●大統領来日に先立つ10月19日、パナマ運河北入口(カリブ海側コロン市)のサンクリストーバル港一帯にある「コロン自由貿易地域(ZLC)」(国有資産)の土地売却に反対する労組や市民が激しい反対行動に出た。警官の発砲で1人が死亡、30人が負傷した。逮捕者は125人にのぼった。

●大統領はZLCの土地を外資などに払い下げる法案を18日国会で通し、直ちに署名し発効させた。売却によって得られる資金の35%を地元コロン市に還元し、65%を国庫に入れる、という内容だ。

ZLCは1948年に設立され、面積1075hrで、日本企業を含む世界の大企業3000社が進出している。香港に次ぐ規模だ。輸入や保税加工再輸出によって年間、290億ドルをもたらしている。地元民3万人を雇用している。

●実業家大統領マルティネリは、政治的には極右で、新自由主義の信奉者であり、民営化を推進してきた。国内には新自由主義への反対者が多く、ZLCの土地払下げも「大統領が私腹を肥やすため」と非難されてきた。

●大統領の来日中、反対運動はコロン市から首都パナマ市や他の地域に拡大し、死者も5人に達した。コロン商業会議所、パナマ労働者総同盟(CGTP、加盟5万人)はストライキ戦術に出た。強引な大統領も23日、東京から命じて、閣僚3人をコロン市に派遣し、話し合い交渉を求めた。だが地元は交渉を拒否した。

●大統領は23日、新法を地元との合意が成立するまで施行しないと、ついに譲歩に追い込まれた。売却による資金も「100%地元に回す」と提案せざるを得なくなった。

●「コロンの反乱」で、パナマを自分の会社のように<経営>しようとするマルティネリの手法に限界が見えた。大統領は外遊から戻り次第、厳しい現実に対応せねばならない。

2012年10月25日木曜日

エル・サルバドール内戦中に生き別れた母娘が再会


☆★☆★☆エル・サルバドール内戦初期の1980年5月、チャラテナンゴ県のオンドゥーラス(ホンジュラス)国境スンプル川で陸軍特殊部隊が村人300人を虐殺した。対岸のオンドゥーラス軍は逃げ惑う村人の入国を阻み、虐殺を間接的に支援した。

☆辛くも虐殺を逃れたマリーア・シブリアンは逃げる途中、夫を殺され、5人の子供のうち4人と離れ離れになった。3人はその後、見つかったが、もう一人の娘ロサ(当時7歳)は行方不明になってしまった。

☆それから32年余りがすぎた。39歳になっていたロサは10月20日、国営ラジオの人気番組「大統領と対話しつつ」に電話し、マウリシオ・フネス大統領に母を探してほしいと訴えた。

☆これを受けて、国家・内戦中失踪児童捜索委員会(2010年発足)が動き、母親の所在を突き止めた。母と娘は24日、劇的な再会を果たした。

☆ロサは感涙にむせびながら、「心の空洞がやっと埋まった」と語った。

☆同委員会はこれまでに12件を解決したが、依然約100人の「失踪児童」を探している。

製作時点で古典的なポーランド映画「菖蒲」


☆★☆★☆東京・神田神保町の岩波ホールで、巨匠アンジェイ・ワンダ監督のポーランド映画「菖蒲」(2009年、87分)が上映されている。人生の不可逆性、生と死、「長く宿る死(癌)」と突然死、出会いと別離などを描いた人間的で、重厚な作品だ。

☆映画館で販売される、上映作品に関する薄い冊子を、以前は「プログラム」と呼んでいた。昨今は、飾り気なく「パンフレット(冊子)」と呼ぶようだ。「菖蒲」の冊子冒頭の「エキプ随想」欄に、「私のポーランドは『パサジェルカ』から始まった」という文章を書かせてもらった。「パサジェルカ(女船客)」とは、私が学生時代に観た1963年のポーランド映画である。

☆岩波ホールの映画ではないが、8月に「7 DAYS IN HAVANA」が上映された折、その冊子に「現代キューバの日常と哀愁を綴る美しい詩歌」という文章を書いた。それは作品内容の「解説」であり、随筆ではなかった。

☆私は今回、過去の記憶や思い出を盛り込んだ「随想」を書いたことで、「菖蒲」という映画で展開される人間模様に私自身も関与してしまったような気がしてならない。そのくらい、観る者を惹きつける作品なのだ。

☆製作時点ですでに古典のような、多くの人々にぜひ観てほしい「名作」である。

2012年10月24日水曜日

アルゼンチン「祖母たちの会」が結成35周年


☆★☆アルヘンティーナ(亜国=アルゼンチン)軍政時代(1977~83)に軍政は、拉致した左翼の若い妊婦たちを、赤子を産ませてから殺害した。その赤子たちは、子供を欲しがっていた軍人や警官の家に与えられた。

☆拉致された娘の母親にとっては、奪われた孫たちの奪回が人生をかけた使命となった。1977年10月22日、ブエノスアイレスで「五月広場の祖母たちの会」が生まれた。

★エステラ・バルネス=デ・カルロット(82)は、77年に娘ラウラを軍政に拉致され、78年娘の他殺体を引渡された。娘は拉致されたとき、妊娠2カ月だった。その後の調査で、ギドという男の子を軍事病院で出産していたことが分かった。

☆エステラの、孫ギド奪回の闘争が始まった。78年4月「祖母たちの会」に入会し、中心的な活動家になった。やがて会長に就任する。

☆会の果敢な活動によって、これまでに107人の奪われた孫たちの存在と出自が確認され、実の家族と対面した。だがギドを含む約400人は依然、<行方不明>のままだ。

☆10月22日、会結成35周年の日、クリスティーナ・フェルナンデス=デ・キルチネル(CFK)亜国大統領はエステラを政庁に招き、長年の貢献を労った。

★その後、市内の劇場で催された35周年記念式典でエステラは、奪回され救出された孫たちと、その子供たちに囲まれ、幸せそうだった。だが報道陣に対し、「私たちの闘争は、決して好んで始めたものではない。軍政に強いられたものだ」と語り、400人の孫たちを探し続ける決意を新たに示した。

2012年10月22日月曜日

フィデル・カストロが自ら「死亡説」打ち消す


☆★☆「キューバ革命の指導者」の肩書を持つフィデル・カストロ前国家評議会議長(86)が10月20日ハバナで、人前に姿を現した。このところ米国や欧州で流れている「死亡説」を打ち消す狙いがある。

☆フィデルは、来訪したエリーアス・ハウア前ベネズエラ副大統領と会談した後、ハウアの泊まっていたナシオナルホテルまでワゴン車で送って行った、という。フィデルの妻ダリア・ソトデルバージェが同伴した。

★ハウアはホテル前で記者団に、「フィデルと農業、歴史、国際情勢、文化などについて5時間話し合った。とても元気そうだった」と語り、ワゴン車内で麦藁帽をかぶって笑っているフィデルとハウアが写っているカラー写真を公開した。

☆ホテルの支配人は、「フィデルが来ていた。従業員らとしばし話し合っていた」と語った。

☆CIA筋はつい最近、「フィデルは右脳動脈血栓で大量の出血があり、死にかけている」との情報を流し、これが世界中に「ニュース」として拡がっていた。フィデルは17日、「卒業した医学生を祝福した」という、キューバの新聞記事に登場した。だが「死亡説」が収まらないため、自ら姿を現した。「またか、やれやれ」という風情だ。

☆CIAは今回も滑稽な観測気球を打ち上げ、それなりの回答を得たことになる。米大統領選が迫っている折だけに、オバマ陣営に不利になるような策謀があったかもしれない。「死亡説」が打ち消されないまま流され続ければ、「フィデル後のキューバ」との関係が米国の政策問題として浮上することになりかねず、キューバに強硬姿勢をとる共和党陣営が有利になるとの計算が働くからだ。

☆先に、米国内でイスラム教の教祖を侮蔑するような表現がなされ、イスラム諸国で米外交公館を狙った暴動が起きたのも、オバマ陣営を揺さぶる陰謀だった可能性が否定できない。ジミー・カータ大統領が2000年にレーガンによって再選を阻まれた要因には、イランでの米大使館員人質事件と救出作戦の失敗があった。

☆ハウアは、12月16日実施されるベネズエラ州知事・州議会議員選挙のミランダ州知事選に政権党・ベネズエラ統一社会党(PSUV)から出馬する。この選挙には、7日の大統領選挙でウーゴ・チャベス大統領に敗北したエンリケ・カプリレス前同州知事が出馬し、ハウアとの事実上の一騎討ちになる。

★ハウアがチャベスの特使として、フィデルの健康状態を確認しにキューバに行ったのは疑いない。チャベスとしては、ハウアを勝たせ、カプリレスの政治生命に打撃を与えたいわけであり、ハウアとフィデルの「意外な会談」を演出し、ハウアの存在を際立たせた。

☆キューバには17日から20日までガイアナのドナルド・ラモター大統領が公式訪問で滞在していた。同大統領はラウール・カストロ議長とは会談したが、フィデルに会ったという情報はない。

☆ラモターがフィデルに会えなかったとすれば、キューバ側がチャベスのベネズエラをいかに重視しているかがあらためて印象付けられた、と言える。

2012年10月19日金曜日

「LATINA」誌がベネズエラ大統領選の記事掲載


☆★☆★☆月刊誌「LATINA」11月号(10月20日発刊)の伊高浩昭執筆「ラ米乱反射(連載第81回)」は、ベネズエラ大統領選挙特集です。

☆題は「チャベスが4選、内外人民の希望をつなぐ」、「癌を抱える身に険しい20年政権の道程」です。

☆カラカスルポ、ホセ=ビセンテ・ランヘール(ジャーナリスト、チャベス政権で外相、国防相、副大統領歴任)インタビュー、内外メディアの意図的誤報、投票動向分析、今後の問題点、ラ米地政学上の重要性、対米関係、欧州に閃き与えるチャベス、コミューン国家建設の理想、真の人民主義とは、などが内容です。ご覧ください。

☆フィデル・カストロ著、キューバ革命の戦略論『戦略的勝利-マエストラ山脈のすべての道を伝って』(2010年)の邦訳書の書評も掲載されています。

コロンビアの政府とゲリラが11月ハバナでの交渉再開決める


☆★☆★☆コロンビア政府とゲリラFARCは10月18日オスロ郊外で、和平に向けての本交渉を正式に開始した。終了後、双方代表、仲介者のノルウェーとキューバ、および立会人のベネズエラとチリの代表が記者会見を開いた。

★共同声明によると、当事者双方の代表者が11月5日ハバナで準備会合を開き、11月15日ハバナで本交渉を再開する。(最初の議題は、農地問題になるもよう。)

☆デラカージェ政府代表は、「希望の時だ」と述べ、和平交渉が①今年2月から8月までのハバナでの非公式過程②本日開始されハバナで継続される本交渉③和平協定調印と和平実施-の3段階に分かれている、と説明した。

★FARC代表のイバン・マルケスは、「我々は国家暴力に対抗してきた」、「正義のないマコンドから和平の希望を持ってやって来た」、「3000万人のコロンビア人が貧困に喘いでおり、土地を奪われた農民600万人が路頭に迷っている」、「ハバナ交渉では土地問題が最初に議論されねばならない」、「和平は単に武装解除と復員を意味するのではなく、国家構造の変革を意味する」と指摘した。

☆双方は、仲介者と立会人の4ヵ国に感謝の意を表明した。

「週刊金曜日」がベネズエラ選挙分析記事を掲載


☆★☆「週刊金曜日」誌10月19日号の「国際ニュース」欄に、ウーゴ・チャベス大統領が4選を果たしたベネズエラ大統領選挙(10月7日実施)の分析記事が掲載されている。執筆者は伊高浩昭。

☆記事は、チャベスの究極の理想である「コミューン国家」建設に触れている。

☆1970年代初め、「西欧共産主義(ユーロコミュニズム)」を掲げた西仏伊3国共産党の指導者や左翼は、自由選挙で生まれたアジェンデ社会主義政権を学びに、盛んにチリ詣でをしていた。21世紀初頭のいま欧州左翼は、ベネズエラにしばしば通い、新自由主義経済政策を排除するチャベス政権から学ぼうとしている。この点も指摘している。

☆米州外交におけるチャベスの歴史的に重要な役割、も記している。ご一読を。

2012年10月18日木曜日

ハイチ派遣団の駐留を延長


▼▽▼国連安保理は10月15日、この日で駐留期限の切れるハイチ安定化派遣団(MINUSTAH)の駐留1年延長を決めた。

▼ただし兵力は7340人から6270人に、警察は3241人から2601人に、それぞれ削減されることになった。

▼派遣団は、米仏加3国がアリスティド大統領を国外に追放した後の2004年に創設された。無政府状態に陥った10年1月の大震災後はとくに、治安に不可欠な存在になった。だがハイチ人民の多くは、派遣団を「占領軍」と見なして、撤退を望んでいる。

▼大震災直後、米軍2万2000人がハイチに上陸し、首都ポルトープランスの空港を支配下に置くなど、事実上の占領軍として振舞った。その悪印象が派遣団にも及んでいる。
 
▼派遣団要員が、ハイチ人に性的虐待を加えるなどの人道的事件が次々に明るみに出たことも、評判を落とした。またハイチを覆ったコレラ禍の原因が、派遣団の外国人兵士がもたらした病原菌だったのではないか、との見方が拡がったことも、派遣団に不利に作用した。

▼ハイチでは8月から、ミシェル・マルテリ大統領の退陣を要求する野党や反政府勢力の動きが高まっている。とくに台風被害で農業に打撃が出たことなどから、食糧を中心に生活物資の急騰が続き、人民は一層困窮状態にある。このため退陣要求が激しくなりつつある。

▼17日にもカパイシエン市で大統領退陣を要求するデモがあった。派遣団は催涙ガスを用いて解散させた。

▼派遣団のマリアーノ・フェルナデス団長は、「合憲政府を維持することが重要だ。反対派は対案を出して、2016年の次期大統領選挙に備えるべきだ」と述べた。

 

オスロでコロンビア政府とFARCが和平交渉


☆★☆コロンビア政府とゲリラ「コロンビア革命軍」(FARC=ファルク)が10月17日、オスロで正式な和平交渉の予備会談に臨んだ。18日本会談をし、会談終了後、記者会見が行なわれる。

★このオスロ交渉は、ハバナでの非公式会談で8月26日に決まった。政府とゲリラの双方は、フアン=マヌエル・サントス大統領が2010年8月就任して間もなく、ハバナで非公式の話し合いを開始した。

☆本交渉はノルウェーとキューバを仲介者、ベネズエラとチリを立会人として行なわれている。オスロで一定の合意が為された後、月末にもハバナで交渉が続けられる。

FARCには、オランダ人女性タニア・ニーメイヤー(34)がいて、メディアの注目の的になっている。タニアはハバナでの交渉にゲリラ側代表の一人として参加するもよう。

☆コロンビア政府とゲリラとの戦いは1940年代末~50年代初めから続いており、<低強度内戦>と呼ばれてきた。90年代に、最も激しい戦闘が展開された。

★だが21世紀も第2・10年期入り、FARCは「武力革命」が非現実的となったのを認識した。武闘打ち切りを勧告したキューバとベネズエラの立場も踏まえ、サントス政権との秘密折衝に入っていた。

☆和平交渉は、過去に3度試みられ失敗してきた。今交渉の末に来年までに和平が成れば、ラ米の<冷戦>の一つが終息することになる。

ウルグアイが堕胎合法化へ


☆★☆ウルグアイ国会上院は10月17日、堕胎合法化法案を可決した。下院は通過済みのため、近くホセ・ムヒーカ大統領の署名をもって発効する。

★対象者は妊娠12週間以内の妊婦。希望者は医師の診断書を持って、政府審査委員会に臨む。同委員会は、精神分析者、産婦人科医、社会活動家の代表で構成される。

☆委員会が「堕胎可」と裁定した場合、妊婦は5日間の最終的判断期間を経て、手術を受けたければ受ける。

★この方法による以外の堕胎は、すべて非合法。

☆これまで堕胎は、近隣ではキューバ、ガイアナ、および米植民地プエルト・リコで合法化されている。

シモン・ボリーバル弦楽四重奏団を聴く


☆★☆ベネズエラ文化週間の公演のため来日中の「シモン・ボリーバル弦楽四重奏団」の演奏を10月17日、東京・四谷の紀尾井ホールで聴いた。

☆演目は、アルヘンティーナ人アルベルト・ヒナステーラ作曲「弦楽四重奏曲第1番」、ショスタコーヴィッチ作曲「弦楽四重奏曲第8番」、ベネズエラ人ゴンサロ・カステジャーノス作曲「弦楽四重奏曲」、ドヴォルザーク作曲「弦楽四重奏曲第12番へ長調」Op96「アメリカ」。それにアンコールの3曲。2時間ちょうどの演奏だった。

☆ホールには、ベネズエラの石川成幸駐日大使夫妻、ラ米の駐日大使たち、日本の元ラ米駐在大使らがそろい、「チャベス4選」などが話題となっていた。

☆演奏したヴァイオリン2人、ヴィオラとチェロの各1人の若い男性4人は、ベネズエラの青少年管弦楽団「エル・システマ」で育まれ鍛えられた。歯切れよく力強い奏法が印象的だった。

☆日本のNGOピースボートは、エル・システマに楽器を送る運動を展開してきた。弦楽器、管楽器、打楽器、楽器ケース、弓、弦などを日本で集め、ピースボートの大型旅客船でカラカスの外港ラ・グアイラに運んでいる。

☆楽器提供についての問い合わせは、電話03-3363-7561。

2012年10月16日火曜日

キューバが出国許可制度を廃止


☆★☆★☆キューバ政府は10月16日、移民法(出入国法)改正を発表した。改正法は来年1月14日発効する。従来、非公用出国希望者にとって足枷になっていた「出国許可」制度が廃止された。

☆これまで公用以外の出国希望者は、国外からの招待状、職場離脱許可書、出国許可書をそろえなければならなかった。長い時間がかかるうえ、手続きに350ドルもの経費がかかった。1月からはパスポートと、旅行先の国の査証が必要な場合は査証を取得すれば、出国できることになる。

☆公用でない外国滞在期間は、従来の11カ月から24カ月に延長される。この期間内に一度帰国し、国外滞在期間の延長手続きをしないと、キューバ在留資格は失われる。

☆政府は人材流出を避けるため、高度医療技術保持者ら重要な専門職の出国は規制する。治安・国防上の理由からも関係者の出国は制限される。徴兵など国家義務を遂行していない者も出国できない。

☆かつては革命政権の思想や政策を毛嫌いして出国する「政治亡命者」が多かったが、80年代ごろから、よりよい消費生活を求める「経済難民」が増えている。去年だけでも、国外滞在11カ月の期限切れ後も帰国せず居住権を失った者は3万8000人いた。

☆出国条件の大幅緩和で当然、脱国者が急増することが予想される。だが政府は、若い世代には、2年ごとに帰国して滞在延長手続きをして居住権を維持しつつ、故国との関係を断ち切らない者が少なくないと見ているようだ。

☆政府は、出国者が多ければ、それが脱国者になったとしても、キューバの家族らに送金してくると期待している。その額は膨大で、それが換金制度を通じて国庫収入になるため、この<利点>は無視できない

☆ラウール・カストロ議長の政府は、1962年10月のキューバ核ミサイル危機の50周年の節目に合わせて、キューバでは画期的な移民法改正に踏み切った。

 

 

 

ミサイル危機さなかにケネディが対キューバ「接近策」


▼▽▼1962年半ばから月末にかけて、キューバ核ミサイル危機が起きた。その50周年に当たり、米国で10月13日、機密指定を前日解除された関連文書2000ページが公開された。最も興味深いのは、ジョン・ケネディ大統領がフィデル・カストロ首相に宛てた書簡だ。

▼米軍のU2偵察機は62年10月14日、キューバにソ連製ミサイルが配備されつつあるのを発見した。ケネディは17日付でカストロに、「ソ連はミサイルを配備したことにより、キューバに深刻な問題をもたらした。配備され続ければ米国は、キューバの将来にとって死活的に重要な手段を講じることになる」と警告する書簡案文を用意した。

▼それには、「ソ連人が出ていきミサイルが撤去されれば、米玖関係は改善される」との<人参>も含まれていた。

▼だが大統領補佐官らは、書簡内容は、米軍がキューバを空爆で急襲する選択肢を失わせるとして、書簡内容に反対した。

▼そこでケネディは、ソ連にミサイル撤去の決断をする時間を与えつつ、キューバ空爆を避けるため、外交解決の選択肢を策定するよう国務省に命じた。

▼国務省は25日、ブラジルのジョアン・ゴラール大統領の仲介で、対玖関係改善策を含む書簡をカストロに渡すことを決めた。「カストロ体制打倒」と「ソ連人・ミサイルを追放した場合は打倒しない」という選択肢が、書簡に盛り込まれた。だが「打倒しない」という約束を米国が守るか守らないかは別のこと、というニュアンス(意味合い)だった。

▼ブラジル政権の特使は29日ハバナに到着した。ところがソ連のニキータ・フルシチョフ首相は28日、「米国はキューバを軍事侵略しない」という公約と、「トルコからの米ミサイルを撤去する」という密約と引き換えに、キューバからミサイルを撤去する決定を米側に既に伝えていた。

▼ミサイル危機当時のケネディのキューバ「接近策」については、04年に部分的に公開されていた。細部は今回初めて明らかにされた。

 

2012年10月15日月曜日

「エコノミスト」誌がベネズエラ大統領選の分析記事掲載


☆★☆ベネズエラ大統領選挙の分析記事が、『週刊エコノミスト』10月23日号(15日発売、毎日新聞社)の「フラッシュ」欄に掲載された。

☆題は「固定票のみで圧勝ならず  問題山積で20年政権へ」。筆者は伊高。

☆これから掲載される伊高執筆の一連の分析・解説記事の最初のもの。ご覧ください。

2012年10月14日日曜日

マドゥーロ・ベネズエラ副大統領は外相を兼務


☆★☆ベネズエラのウーゴ・チャベス大統領は10月13日、政府人事を発表し、宣誓式を行なった。癌に侵されている大統領が職務を遂行できなくなった場合、代行、もしくは大統領に就任する資格を持ちうる副大統領には、ニコラス・マドゥーロ外相が任命された。外相を兼務する。

★内務・司法相、通信・情報相、大統領府相、農地・土地相、先住民相、環境相も交代した。大統領府相は、新設の「政府施策検証事務所長」を兼ねる。この事務所は、チャベスが4選を果たした7日の大統領選挙の選挙戦中、野党候補エンリケ・カプリレスから執拗に攻撃された「施策の未達成」への対応策だ。

☆チャベスは通信・情報相に、チャベス政権を誹謗中傷する内外メディアの悪宣伝キャンペーンに対抗して攻撃的に活動するよう、訓示した。今選挙の選挙戦中、野党候補に肩入れする内外の保守・右翼メディアが常軌を逸した反チャベスのキャンペーン報道を展開し、「ジャーナリズムの自殺行為」と厳しく批判された。

★チャベスは就任式で、副大統領ら新任6人に「可能な限り効率的であれ」と命じた。

☆今回職務を解かれたハウア前副大統領、エルアイサミ前内相ら4人は、それぞれ統一知事選(12月16日実施)に出馬する。ハウアは、ミランダ州知事選で、カプリレスと対決する。

2012年10月11日木曜日

チェ・ゲバラ処刑45周年で行事続く


★☆★革命家エルネスト・チェ・ゲバラが1967年10月8日、ボリビア東部のアンデス前衛山脈山中での戦闘中に逮捕され、翌9日処刑されてから45年が過ぎた。キューバ、ボリビア、アルゼンチンなど縁の国々では8、9両日を挟んでさまざまな行事が催されている。

★キューバでは8日、サンタクララ市のゲバラ広場に建つゲバラ像の前で、記念式典が挙行された。キューバ革命戦争中、ゲバラの直系の部下だったラミーロ・バルデス革命司令官(国家評議会副議長)が演説し、ゲバラの業績と、ゲバラ思想の「今日的有効性」を讃えた。

★式典には、ギジェルモ・ガルシア革命司令官、リカルド・アラルコン国会議長のほか、ゲバラの娘アレイダ・ゲバラ=マルチ医師ら遺族も出席した。小学生のピオニール多数も参加した。

★キューバ政府は、8日から来年6月14日のゲバラの誕生日までを「ゲバラ追悼年」と定めた。3大陸人民連帯機構(OSPAAAL=オスパアル)とALBA文化館の共催で、いろいろな行事が展開される。ハバナでは8日、造形芸術家40人による「2人、3人、たくさんのチェ」という造形展示会が開会した。「二つ、三つ、たくさんのヴィエトゥナムを」というゲバラの有名な言葉をもじった展示会名だ。

★ボリビアでは、ゲバラが処刑されたラ・イゲーラ村、この村が属しゲバラの遺体が埋められていたバジェグランデ市を中心に記念行事が催された。

★アルゼンチンでは生地ロサリオ市、首都ブエノスアイレスなどで行事が続けられている。

★ゲバラが青年時代に滞在したエクアドールのグアヤキル市では、ゲバラの部下だった「ポンボ」ことハリー・ビジェガス退役少将が講演した。ビジェガスは8日、首都キトの政庁でラファエル・コレア大統領に迎えられた。

★一連の行事で、ゲバラ関連の新書が紹介されている。 

2012年10月9日火曜日

チャベス大統領の得票が800万票超える


☆★☆ベネズエラ国家選挙理事会(CNE=中央選管)は10月8日、前日の大統領選挙の結果(開票率97・65%段階)を発表した。ウーゴ・チャベス55・14%=806万票。エンリケ・カプリレス44・24%=646万票。チャベスはカラカス首都圏および、23州中21州で勝利した。

☆チャベスは8日、カプリレスに電話をかけ、「国の団結」を呼び掛けた。カプリレスは、「私に投票してくれた650万人を代表して国の団結を呼び掛けたい」と応じた。

☆一方、米国務省は8日、「600万人以上がカプリレスに投票した事実に(チャベスは)留意すべきだ」と言及した。また米大統領政庁(ホワイトハウス)は、「(高い投票率を記録した)ベネズエラ人民を祝福する。チャベス大統領とは(意見の)違いがある」と述べた。

☆また欧州連合(EU)は、「チャベス大統領は国内のすべての部分を施政の対象とすべきだ」と述べ、野党勢力の立場に配慮するよう促した。 

2012年10月8日月曜日

チャベスが勝利宣言し、神に健康を祈願


☆★☆★☆ベネズエラ大統領選挙(10月7日)で4選を果たしたウーゴ・チャベス大統領は、7日深夜から8日未明にかけ、カラカスの大統領政庁前で催された支持派との祝賀集会でバルコニーから演説し、「ベネズエラ人民とともにラ米・カリブが勝った」と述べ、勝利を宣言した。

☆「きょうから最良の大統領になる」と誓うとともに、「神よ、この国に尽くすための健康と命を与えたまえ」と祈願した。体内に癌を抱えている不安をのぞかせた。

☆善戦した対立候補カプリレス陣営に対しては、「我が方に反対票を投じた全有権者の民主的態度を多とする」と評価し、「野党が我が方の勝利を認めたことは、ベネズエラの平和と共生にとって極めて重要だ」と指摘した。

☆そのうえで、「一緒に、よりよい国造りを進めようではないか」と呼び掛けた。

☆「憎しみを増幅させてきた人々」に対しては、「(我が政府の)良い政策を認めない精神から脱せよ」と呼び掛け、「対話と討論と、ボリバリアーナ(ボリーバル主義の)ベネズエラのために協働しよう」と訴えた。

☆チャベスはこの演説で、24州中20州で勝利したことや、得票が800万票を上回ったことを明らかにした。

☆チャベスは来年1月10日、2019年まで6年の新任期に入る。

ベネズエラ大統領選-カプリレスが敗北を認める


☆★☆★☆10月7日のベネズエラ大統領選挙で敗れた野党統一候補エンリケ・カプリレス前ミランダ州知事(40)は同日夜、カラカスで記者会見し、「結果を深く尊重する」と述べ、敗北を認めた。

☆4選を果たしたウーゴ・チャベス大統領(58)を祝福しながらも、「勝利の意味をよく考えてほしい。有権者の半数近くは政府政策に反対しているのだから」と注文を付けた。

☆「相手の得票が多かった。かくして民主制度は機能する」と、今選挙の投開票の透明性を認めた。

☆だが、「わが陣営には若い力がみなぎっている。若者は自らを敗者と思ってはならない」と強調。「今後も政治活動を続ける。樹木はいずれ果実を生むはずだ」と述べ、次回大統領選挙に挑戦する意欲を示した。

「チャベス勝利」と、ベネズエラ紙伝える


☆★☆★☆ベネズエラの反政府紙エル・ナシオナルの電子版は10月7日夜、国家選挙理事会(CNE)の発表を踏まえて、チャベスが勝利した、と伝えた。

☆国家選挙理事会(CNE)は7日午後10時、開票率90%段階で、チャベス54・42%(744万票)、カプリレス44・97%(615万票)と発表した。投票率は80・94%で、過去最高だった。
 
☆この両候補の得票率は、9月末まで一連の支持率調査結果を反映している。

「チャベス100万票リード」と西国紙伝える


☆★☆スペイン保守右翼紙エル・パイースは10月8日未明、ベネズエラ大統領選挙の開票結果について電子版で、「国家選挙理事会(CNE)筋からの非公式情報によると、開票率80%の段階でチャベスが100万票リードしている。これはカプリレス陣営に冷水を浴びせるもの」と伝えた。

★同紙は、一貫してカプリレス支持とチャベス批判・非難を続けてきた。それだけに、この電子版報道は注目される。

☆一方、CNEは、投票開始約2時間後に開票経過を伝えようとするウェブサイトがあり、これを遮断した、と発表した。選挙法では、選挙結果を発表できるのはCNEだけ。

☆一部の投票所で7日午後6時以降も投票が続いた。これは、投票時に行列があるかぎり投票を認める、という選挙法規定に基づく。

ベネズエラ大統領選の投票進む


☆★☆ベネズエラ大統領選挙の投票は10月7日午前6時(日本時間午後7時半)始まった。順調に進んでいる。規定では午後6時に終わるが、実際には同8時(同午前9時半)まで投票が認められる、と伝えられる。

☆国家選挙理事会(CNE、中央選管)の最終発表では、登録有権者は18歳以上の1890万人。

☆全国的に投票所で行列ができており、投票率はかなり高くなるもよう、という。

☆電子投票であり、大規模な停電などがない場合、午前零時(同午後1時半)ごろには大勢は判明する。