2011年11月4日金曜日

俳句とジャーナリズム

   「散文的な人間」という言い方がある。「平凡で、つまらぬ奴」といった意味だ。私は半世紀近く、ジャーナリズムという散文の味気ない方のジャンルを飯のタネにしてきたことから、「散文的な人間」と受け止められても仕方ないと思っている。

   NHKの衛星TVは、昨年までか、今年3月までか、毎週土曜日朝、松山から「俳句王国」という50分の番組を流していた。私は、少しでも「韻文的」になれればと、よく観ていた。主宰のなかに、鷹羽狩行(たかは・しゅぎょう)という、いつも和服姿で登場する風格のある著名な俳人がいた。(もちろん、いまも活躍している人だが。)

  この主宰の批判や指導には、深みと趣があった。何年か前、ある会合で、この人物を見かけた。
私は臆面もなく、自己紹介をして話しかけた。つまり、質問をしたのだ。

  「先生、俳人の立場から、俳句と短歌の違いをどう捉えておられますか」

  俳人は、少し考えてから答えた。
「われわれからすると、5・7・5で十分です。あとの7・7があると、詩が説明的、散文的になってしまうかもしれませんね」

  恐れ入った。<世界最短の詩>の達人は、俳句と短歌の境に、韻文と散文の境を見ていたのだ。私はその後、先生の言葉を教訓として、表現には気をつけるようにしてきたが、長い散文の記事を書きつづけているため、教訓は精神としてしか生かせない。だが、あの言葉は、私の脳裡でいつも輝いている。

  今年1~4月、ピースボートで船上講師として世界周遊航海をした折、船上で俳人に出会った。「山河」同人の、高野公一さんである。私は、高野さんに相談して「船上俳句会」を開こうと企画した。だが、いくつかの理由で実現しなかった。

  船を下りて半年近く経ったころ、高野さんから『アンダンテ』という新しい句集が送られてきた。そのなかに織り込まれている作品の数々のなかから4句を紹介したい。(いずれも高野さんの作品である。)

  地球から零(こぼ)れていくか冬の蠅

  かくまでに小さき地球や卯浪立つ

  夏の月あかるすぎても拒まぬ手

  羊水の中の寝返り春を航(ゆ)き

(2011年11月4日 伊高浩昭)