2016年3月7日月曜日

メキシコ・米国合作映画「カルテル・ランド」を観る

 この映画は、現代の一部を時間をかけて切り取ったドキュメンタリーであるがゆえに面白い。虚構のドラマ、半実半虚のドキュドラマでは、この味は出ない。

 メヒコ中西部のミチョアカン州の自警団創設者ホセ=マヌエル・ミレレス医師の密着取材を、よくもここまでやったものだと思わざるを得ない。このこと自体、感嘆に値する。

 メヒコでは1960年代に大麻が蔓延していたが、南米産のコカインの消費地、および対米・対欧・対亜密輸の中継地になったのは1990年代のこと。コロンビアの「麻薬戦争」でマフィアが降参してからのことだ。

 当時のメヒコ政府は、脆弱なメヒコ資本主義経済に、莫大にして潤沢な麻薬資金を投下し、経済強化を図った。政府・財界と麻薬マフィアが結託した瞬間だった。

 以来、政府は麻薬マフィアと持ちつ持たれつの関係に陥り、本気で取締まることは不可能となった。メヒコの政治家、官憲、自治体が麻薬資金で汚染、買収されてしまったからだ。抗えば、容赦なく殺される。

 そんな状況に、昔の米保安官よろしく立ち上がったのが、ミレレスと仲間たちだった。そして、治安を奪回し、あなりの成果を挙げた。「銃の平和」を敷いたのだ。それが時代離れしていないところに、メヒコ治安状況の深刻さがある。

 だが、それは、政府という最大の官憲の存在と役割を否定することに等しい。当局は結局、自警団潰しにかかった。もちろん、自警団にやられていたマフィアからの賄賂が効いた。

 私は若いころ、メヒコ全土を取材した。ミチョアカンは貧しくも美しい大地だった。素晴らしい先住民文化がある。私の大好きな州の一つだった。それがいまでは、麻薬マフィアが群雄割拠する麻薬マフィアベルト(支配地帯)に包みこまれてしまっている。

 「もしも狂気の絶頂に居ることができたならば」(さぞ素晴らしい瞬間になるだろう)という言い方がある。だが、ミチョアカンはまさに「狂気の絶頂」に在り続けている。瞬間でなく、果てしない継続である。これは厳しい苦痛以外の何物でもない。

 この映画の失敗面は、米墨国境の北側・アリゾナ州の国境線一帯を武装警備する勝手組の男たちの生態と、ミチョアカンの状況を対(つい)にしたところにある。これによって、その分だけ作品が安っぽくなってしまった。期待されていたアカデミー賞も逃げて行った。製作者や監督は、状況を真に理解していなかったようだ。

 だが見るに十分に値する映画であるのは疑いない。東京・青山のイメージフォーラム劇場で5月公開される。問い合わせ先は、配給会社「トランスファー」。

 先日も当ブログに少しだけ書いたが、主人公ミレレスは刑務所に閉じ込められており、この映画を観ていない。

 映画の題名は、カルテル(麻薬マフィア)のはびこる地域というような意味。この場合のマフィアは、テンプラリオス=聖堂騎士団。字幕では「テンプル騎士団」となっているが、これでは日本人には意味不明だ。