2016年3月28日月曜日

映画「山河ノスタルジア」と「ボーダーライン」を観る

 試写会を梯子した。ジャジャンクー監督の中国映画「山河ノスタルジー」(原題「山河故人」、2015)は125分の長物。カメラの動きや不要な場面の挿入が素人っぽいところがあり、やや気になった。共産党独裁政権が「社会主義市場経済」を採って三十余年、この映画は共産党支配や社会主義をほとんど感じさせない。

 ただ、有産層、知識層らが米加豪など白人支配の資本主義工業諸国に移住する筋から、捨てた祖国・中国の問題点を間接的に描いている。祖国は祖国であり、望郷が生まれる。

 移住した金権主義者の中国人実業家ジンシェンは豪州で暮らしながら、手元から拳銃を離せない。その息子ダオラーは父に愛想を尽かし、父と別れた母タオの居る中国を目指す。

 カナダに移住した女性ミアは白人の夫と離婚し、豪州に住み、ダオラーと出会い、年の差のある恋をする。ダオラーと中国への帰国を試みようとする。

 ジンシェンとタオを争い敗れた青年リャンズーは、その痛手から中国の異境に出稼ぎに行き、炭鉱夫なるが重度の珪肺に罹り、妻子とともに故郷に戻る。入院費用を工面してくれたのは、かつて愛したタオだった。

 このような幾つかの人生が交錯しながら物語は展開する。中国人が金持になって世界に散らばりディアスポラ(華人)化するが、根なし草になりかねないこと、国内に巨大な貧困状況があり、そこから抜け出せない人々が数多いこと、だが国内では人情がまだ健在であること、中国内外での文化の違いの大きさなどが、この作品から感じ取れる。

 急激な変化からは必ず無理が出る、という認識がある。

 登場人物たちがどうなるのか、映画は寸止めで終わる。あとは観る者が想像すれば良いわけだ。★4月23日、東京渋谷文化村のル・シネマで公開される。

              ×              ×               ×

 ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の米作品「ボーダーライン」(2015、121分)は、米墨国境3200kmの中央部エルパソ・フアレス市の国境、その西方にあるアリゾナ州ノガレス・ソノラ州ノガレスの国境が主要舞台。

 原題は「シカリオ」。ラ米スペイン語で「職業的殺し屋」を意味する。この映画の冊子が訳しているような「暗殺者」ではない。ニュアンスが違う。事実上の主人公は「殺し屋」を演じ、強烈な存在感を見せているベニチオ・デルトロだ。

 主人公は女性FBI捜査官の女性(エミリー・ブラント)。メヒコの麻薬マフィア殲滅を狙って奇襲攻撃をかけるCIA殺戮部隊の凄惨な流血劇の中で、女性捜査官は「作戦にはFBIのお墨付きがある」証拠として利用されたのだが、感傷的に描かれている。

 非人道的な凄惨さに「人間味」「現実味」を与えるため、敢えて女性を主人公にしたのだろう。もちろん女性客にそっぽを向かれない用心もあろう。彼女が戦闘の最前線に出ること自体、虚構性を感じさせ、観客を安心させるのかもしれない。

 米墨国境地帯の麻薬絡みの戦闘は、米国という世界最大の麻薬消費国があるから起きている。コロンビアからメヒコに密輸されてくるコカインが米国に密輸されるのを食い止める戦いが実際に行われているのだが、この映画は、殺し屋の協力を得て作戦するCIAを「善」、メヒコを「悪」と位置付ける伝統的、通俗的な捉え方から脱していない。それを補うかのように、デルトロ扮する殺し屋を「元メヒコ検察官」としている。

 人間性の失われた、あるいは人間が破壊された過酷な状況として真っ先に思い当たるのは戦場だ。映画は「麻薬戦争」の戦場を描いている。マフィア要員もCIA要員もみな殺される可能性の高い戦士であり、命の価値はない。だからこそ、女性捜査官が主人公に引っ張りだされたのだ。

 このような映画が人気を博する現代世界の状況は、人間性喪失があたかも当然のことであるかのような錯覚を与える。やりきれない。★4月9日、東京の角川シネマ有楽町、新宿ピカデリーなどで公開される。

 一言付け加える。殺し屋よ、驕るなかれ。シカリオだけでなく、兵士、警官、CIA、麻薬マフィアら皆、驕るなかれ。映画人もジャーナリストも驕るなかれ。