スペイン人作家フアン・ゴイティソロ(86)が6月4日、モロッコのマラケシュで死去した。小説、論集、随筆、紀行文、ジャーナリズム記事を書き、多作だった。1931年1月6日、バルセローナに生まれた。バスコとクーバの血を引く。兄ホセ=アグスティンは詩人、弟ルイスは学者である。
フランコ独裁期の1956~69年、パリで亡命生活を送り、出版社ガリマールで文学所顧問を務めた。その職場で知り合ったモニク・ランジと78年結婚した。だが妻に死なれ、マラケシュに96年定住した。
論集『小説の問題』(1962)、最後の小説『自国でも他国でも亡命者』(2008)などがある。オクタビオ・パス文学賞(2002)、フアン・ルルフォ・ラ米文学賞(04)、スペイン文学賞(08)、セルバンテス文学賞(14)などを受章した。
ペリオディズモ(ジャーナリズム)に近い紀行文には、西国アルメリア市の地区を描いた『ラ・チャンカ』(1962)、『クーバ訪問記』(62)、『オスマントルコのイスタンブール』(89)、『サライェヴォ・ノート』(93)などがある。「社会派リアリズモ」路線と呼ばれた。
1969~75年には、米国のカリフォリニア、ボストン、ニューヨークの3大学で文学を教えた。スペインのエル・パイース紙の寄稿者でもあり、露チチェン紛争、ボスニア戦争などを、同紙特派員として取材し、紀行を物にした。イスラム史・文化に造詣が深く、ジャーナリズムからの執筆依頼が多かった。
私は、通信社時代の1998年、20世紀末企画の一環として「スペイン内戦」(1936~39)について記事を書くに際し、ゴイティソロに会うことにした。当時既に60年前の出来事だったスペイン内戦は、体験者が依然少なからず生存してはいたが、戦場は遺跡化していた。
そこで終戦後間もなかった、ボスニア戦争を含むユーゴスラヴィア戦争の内戦的戦場を観ることにした。そこで読んだのが『サラェヴォ・ノート』(クアデルノ・デ・サラヘボ)だった。読んでから、マラケシュの自宅にいたゴイティソロにインタビュしたいと電話で伝えると、×月×日×時ごろ、サライェヴォのアテネフランスに来てほしいと言われた。
私は、この約束を頼りに東京を出発、ウィーン経由でサライェヴォに入り、翌日、約束の日に無事インタビューをすることができた。ボスニアとクロアティアを取材してから、ウィーン経由でバルセローナに行き、スペイン内戦の傷跡を取材した。
拙著『ボスニアからスペインへ-戦の傷跡をたどる』(2004年、論創社)は、この取材旅行をまとめたもので、ゴイティソロへのインタビューのほぼ全文を載せてある。世話になったこともあって、このオメナヘ(オマージュ)文を書いた。
私は2011年3月、マラケシュに滞在したが、ゴイティソロと連絡をとらなかった。とれなかったのだ。日本で、東電原発大事故を伴う「東日本大震災」が発生した日だったからだ。