OD号は、エル・サルバドール(ES)最重要港アカフトゥラに入港した。ここでは「現代史探求」のバスツアーに加わって、首都サンサルバドールで内戦の傷跡を取材した。人権NGOの案内で、広大な公園の一角に建てられた人道犯罪の犠牲者たちの氏名を刻んだ長い石の壁を訪ねた。その前で、連帯集会が開かれた。
次いで、このNGOの本部で昼食会と、状況説明会が催された。私は、ある人道犯罪被害者の女性にインタビューし、苦悩の声を聴いた。長らく閉ざされていた声と言葉が今は出るようになっている、と彼女は言った。
同本部の正面には、サルバドール・サンチェス=セレーン大統領の政権党「ファラブンド・マルティ民族解放戦線」(FMLN)の党本部がある。そこも訪れ、取材した。この首都取材は近い将来、長い記事に仕立てる。だから今は細部は語るまい。
別のバスツアーは1泊2日で、ホンジュラス国境に近い山中のエル・モソテ集落で内戦初期に起きた大虐殺の現場を訪れた。船客の中の被爆者たちは、このツアーに参加した。
私は1990年代初め、エル・モソテを取材した。当時は、その10年前の虐殺事件発生時とほぼ変わらない情景があった。それが今日では、立派に整えられ、内戦の極悪さを示し、かつ犠牲者を慰霊する聖地となっている。
私はアカフトゥラ2日目に下船し、海岸線の山道約100kmを車で1時間45分走り、オスカル・ロメーロ大司教国際空港に行った。海岸線は標高600mを超える山地が連なり、急峻な崖が海に落ちている。雨季とあって緑生い茂り、内戦を想起させるものはない。
アエロメヒコ機は2時間半遅れで出発、夜半、メヒコ市のベニート・フアレス空港に着いた。直ちにアエロメヒコの成田行きに乗り、14時間半の窮屈な空路に身を置いた。隣席は、日本に2週間、ホームステイ旅行するグアナフアト大学予科生10人組の1人で、いろいろと話し合った。
彼は、機内で配られたメヒコの新聞に全く興味を示さず、ひたすらスマホや座席前の画面に集中していた。この生態は、日本の若者とさして変わらない。
東京に帰着。辛くも都議会議員選挙に間に合った。都民が自民党と安倍政権に鉄槌を下したのは評価できるが、新しい第2保守党の正体は不明だ。何が出て来るのか、定かでない。かくして、半月の短い船旅は終わった。今回も実り多き旅だった。