2014年4月23日水曜日

ピースボート第83回航海「2014波路遥かに」第2回 =地中海にて= 伊高浩昭

 オーシャンドゥリーム号はイタリア東海岸のバーリに着いた。復活祭で静寂な古い街に入ると、大聖堂前と周辺で、まさに復活祭の行列に出くわした。正装した警察の楽隊が葬送の曲を奏で、喪装の男たちが山車を担ぐ。ガラス棺に横たわるキリストが行列の中央にあった。小雨降る中世の遺跡のような街を、歴史が流れる。
 新市街地の、遅く開いたレストランで生ハム、スパゲッティ、白葡萄酒の昼食をとる。船上講師仲間の千田善やPB職員と一緒だ。旧市街には、巨大な砦がある。洞穴式のバルでカフェを飲む。主人は元船乗りで、日本を知っていて、日本好きを名乗った。そして日本製の高級カメラを持ち出してきて、200ドルで買わないか、と持ちかける。カメラバッグごとだ。おそらく日本人客が店に忘れていったものだろう。もちろん、買わない。
 翌朝、アドリア海対岸のドゥブロヴニク港に入る。クロアティアの飛び地だ。90年代後半に、内戦の傷跡取材でボスニアやクロアティアを訪ねたのを思い出す。中世の町を高い城壁が囲んでいる。内戦中、ユーゴスラヴィア、セルビア人、モンテネグロの軍隊に包囲さて、攻撃された。着弾地が地図で示されている。この中世の市街地は世界遺産で、一大観光名所になってる。我々日本人、中国人、韓国人ら、東洋の面々が猟景する。すると、団体の中の中年女性が近寄ってきて、「私たち中国人じゃないよ」と言った。台湾人の一行だった。「学生たちが国会を占拠して、賑やかだったようですね」と言うと、黙して肯いた。
 千田さんは、日本サッカーチーム監督オシムの通訳をしていた。セルビア語が得意で、レストランの注文やバスの乗り降りの際に大いに貢献してくれた。猫が実に多い。みな野良ちゃんと見受けた。街が飼っているわけだ。愛のある街だ。猫も美男美女が多い。長らく猫族と同盟関係にある私は、昼飯の魚介類の切れ端を振舞った。私は牛ステーキを食べたのだが、千田さんらが注文したのの残飯をニャンたちに回したのだ。
 次の日は、モンテネグロの峡湾奥の中世の町コトロを訪ねた。3日続きの雨だ。岩山の連なりを自然の防壁とし、その中腹に万里の長城のような城壁と見張り台がある。アドリアの海から峡湾に入ってくる敵船の有無を絶えず見張っていたのだろう。雨に煙る岩山、街、湖水のような海。水墨画そのものだ。T骨ステーキを食べたが、硬くて歯が折れそうだった。

 3日間の3港停泊が終わり、船は地中本海に出、シチリア島南端、マルタの北方を通過した。船は数日後、エスパーニャのモトゥリールに入港する。「スペイン内戦と現代」を主題に、90分間話した。この日、東京では訳書『ウーゴ・チャベス-ベネズエラ革命の内幕』が出たはずだ。船はサルディニア島の南、チュニジアの北を通り、西へ航行する。 

2014年4月22日火曜日

★☆★2014年「波路遙かに」第1回~伊高浩昭~

   4月半ばの、日付が変わったばかりのある深夜、羽田空港からアラブ首長国連邦のエミレイト航空機で日本を離れた。羽田から日本を離れたのは、1967年に初めてメヒコに向かった時と、72年に再びメヒコに向かった時以来で、3回目だと思う。しかし今の羽田の国際便専用空港部分は、世界でも真新しい光輝く殿堂で、遠い日の追憶と郷愁を許さない、過去と隔絶した機械的空間だった。
 機は、ソウル、北京の上空をかすめ、中国の外延部を回ってインド北部からパキスタンを縦断し、インド洋上に出た。アフガニスタンとイランの領空通過を避けた航路である。オマーンの南を通ってドゥバイに着く。荒れ地に蜃気楼のごとく現れる石油の富が生んだ人工都市である。空港内を1kmは歩いて、アテネ行きの待合室に辿り着く。当然のことながら、アラブの人々が行き交うのが新鮮だ。女たちは色白だが、男達は浅黒く髭が濃い。時差は5時間。
 羽田で知り合ったフラメンコ歌手のハイメと夫人は、グラナダの故郷に帰るため、マドリー行きの待合室に去っていった。機中で隣合わせた人のいい蘭人商業者もアムステルダム便目指して、うれしそうに歩いていった。機はペルシャ湾を、イラン領空を避けつつ西西北に飛び、クウェート上空からイラクに入る。バスーラとバグダッドの上空を通過して北西端に出て、トルコを東端から横断する。通常の航路はシリア経由だが、その上空を避けたわけだ。イスミール上空からエーゲ海に出て、アテネに着いた。飛行4時間半。時差が1時間加わる。都心のホテルに入った時、東京の家を出てからぴったり24時間経っていた。正味1日であり、くたびれた。眠る。
 翌朝、シンタグマ広場から繁華街を通って、アクローポロスを彼方に見上げる広場に行き、そこから丘を巻くように登ってアクローポリス正面下に出た。大通りを経てシンタグマ広場に戻り、ホテルへ。1時間、大急ぎ、5km弱の散策だった。13ヶ月ぶりのアテネだったが、元気を出し過ぎて疲れてしまった。
 タクシーで小30分、ピレウス港へ。我が海の家、ピースボート「オーシャン・ドゥリーム」号に迎えられる。この大型旅客船は横浜を経って既に一ヶ月経っている。スエズ運河、トルコ、ミコノス島を経て、到着していた。若い仲間たちと抱擁を交わし、再会を祝した。この船が、向こう70日間の我が家となる。
 横浜から乗ってきていて、アテネで下船し帰国する中東研究者の高橋和夫水案(船上講師)と、久々に会う。彼から水案のバトンを渡された。ギリシャ駐在の西林万寿夫大使が正午来船、船内を視察。昼食は、エーゲ海を見下ろす断崖上の舟形のヨットクラブレストランで海産物料理を大使からご馳走になった。ギリシャ経済、海運産業の特別な地位、対日関係などについて聴き、日本社会、ラ米情勢を話す。昨日発生した韓国フェリーの海難事故について、新情報をもらう。
 17日、「内外ニュース」を80分に亘って船客に伝える。これが終わったところに、ガブリエル・ガルシア=マルケスがメヒコの自邸で死去した、との一報が届いた。87歳だった。私は出発前に、肺炎にかかっていたガボは退院したが容態は微妙、という情報をブログに記した。やはり、死ぬために自邸に帰ったのだ。ガボの数多い作品や評論には世話になった。学ぶことが多かった。
 24日に東京で発売される拙訳『ウーゴ・チャベス-ベネズエラ革命の内幕』は、ラ・アバーナからカラカスに向かう機内でのチャベスとガボの会話から始まる。ガボには70年代初めのメヒコから90年代初めの東京まで、何度かインタビューしたり言葉を交わす機会があった。忘れ得ぬラ米知識人の一人だ。

 時差は1時間加わる。船は、ペロポネソス半島を大きく迂回して、イタリア東海岸に向かう。晩冬の寒気が迫ってきた。

2014年4月14日月曜日

『ウーゴ・チャベス-ベネズエラ革命の内幕』近く刊行

 ベネスエラの故ウーゴ・チャベス大統領の施政14年を、欧州人ジャーナリストが分析した『ウーゴ・チャベス-ベネズエラ革命の内幕』が4月24日発売される。

 著者は、アイルランド人で英紙ガーディアン記者のローリー・キャロル。チャベス政権期にカラカス通信員を務めた経験を基に、調査取材を加え、本書をまとめた。訳者は伊高浩昭、出版社は岩波書店。

 だが、執筆の最終過程にあった昨年3月5日、末期癌のチャベスが死去した。キャロルは急遽、一部を書き直し、時制を過去形にし、4月19日のマドゥーロ現政権発足までを書き加え、7月刊行に漕ぎ付けた。キャロルは現在、同紙ロサンジェルス通信員。

 ベネスエラ情勢は、本ブログも伝えてきたように、2月初めから荒れ続けてきた。本書には、チャベス政権の作風だけでなく、なぜ現在のような状況になったのか、今後どうなるのか、などを考える基盤が盛り込まれている。

 ラ米、とりわけベネスエラに関心を抱いている人々に是非読んでいただきたい。最寄の図書館に入れていただき、多くの人が読めるようになるのを、訳者として期待したい。

ベネズエラ大統領が「チャベス復権記念日」に反政府派を牽制

 ベネスエラのニコラース・マドゥーロ大統領は4月13日、全国からミラフローレス政庁前に参集した支持者数万人を前に演説し、「寡頭勢力(オリガルキーア)はゴルペ(クーデター)によっても投票によっても政権に復帰することはできない」と述べた。

 12年前の2002年4月11日、当時のウーゴ・チャベス大統領を追い出すクーデターが発生し、経団連会長ペドロ・カルモーナが暫定政権に就いた。だが13日、チャベスに忠誠を誓う陸軍主力部隊が反乱し、カラカス丘陵地帯のチャベス派人民が政庁に押しかけ、チャベス復権を要求した。

 カリブ海の島に幽閉されていたチャベスは、13日から14日にかけての深夜、陸軍のヘリコプターで政庁に帰還し、政権に戻った。カルモーナはコロンビアに亡命した。

 政府は4月13日を「尊厳の日」と定めた。また軍と人民がともに蜂起したことから、その後組織された「国家民兵隊」(MNB)の創設記念日にもなった。MNBは、「市民・軍人連携の象徴」とされている。

 マドゥーロは、「12年前の4月11~13日は、21世紀ベネスエラの分岐点だった。親帝国主義のブルジョア資本主義モデルか、それとも反帝国主義の人道的・民主的な憲政モデルか、どちらに進むかの決定的な日々だった」と述懐した。

 また、「寡頭勢力は歴史に学んでいない。チャベス死後1年足らずで、過去と同じようなゴルペ、サボタージュ、街頭暴力を仕掛けた」と、反政府勢力を強く牽制した。

 一方、チャベス政権下で副大統領、外相、国防相を歴任したジャーナリスト、ホセ=ビセンテ・ランヘールは13日、「市民と軍人が連携し忠誠を意識しているかぎり、革命は継続可能だ」と指摘した。

エル・サルバドール次期大統領がキューバ訪問

 エル・サルバドール(ES)のサルバドール・サンチェス次期大統領(現副大統領)は4月12日、ハバナでラウール・カストロ国家評議会議長と会談した。

 サンチェスは6月1日就任するが、就任前の近隣諸国訪問の一環として訪玖した。ラウール議長は、ゲリラとして革命戦争を2年半戦った将軍。一方のサンチェスは、革命戦争と位置付けたES内戦を12年間戦ったゲリラ部隊の司令だった。

 次期大統領は、既にグアテマラ、ベリーズ、パナマ、ニカラグア、ラ・ドミニカーナを訪問している。近くヴァティカン、米国、コスタ・リーカなどを訪問する予定。

バルパライーソ燃ゆ

 チリ首都サンティアゴの外港都市バルパライーソの丘陵地帯で4月12日火災が発生、13日鎮火したが、12人が死亡、500人が負傷した。住民1万人が非難した。うち8000人が焼け出された。

 ミチェル・バチェレー大統領は、15日に予定していたアルヘンティーナ公式訪問を中止・延期し、現地で対応している。

 この都市は、港を中心に太平洋岸に細長く拡がり、北はビニャデルマル市に隣接する。市の東側には海岸山脈の丘が連なり、低所得者居住地域となっている。

 火災は丘でしばしば発生し、強風に煽られて火の手が拡がる。今回も5つの丘、計800hrが全焼した。

 筆者が同市に滞在していた昨年2月半ばにも、同じ丘陵地帯で火災が起きた。黄金色の厚い煙が丘陵から海にたなびき、さながら「バルパライーソ燃ゆ」の観を呈した。

 低地の市内には、国会議事堂、パブロ・ネルーダ邸跡や、歴史ある旧市街があり、通勤電車が走っている。低地から幾つかの丘にはケーブルカーやエレベーターで上がることができる。

2014年4月13日日曜日

オクタビオ・パスの『太陽の石』を読む

 メヒコのノーベル文学賞詩人オクタビオ・パス(1914~98)が1957年に世に出した長編詩「太陽の石」が日本語に訳され、刊行された。パス生誕100周年の3月31日、東京のメヒコ大使館で出版記念会を兼ねた、この詩の朗読会が催された。

 やはり1957年にパスとの共訳で、芭蕉の『奥の細道』をメヒコで出版した元外交官林屋永吉、日本文学研究者ドナルド・キーンら、パスと縁の深い文化人らも出席した。

 この詩本『太陽の石』の後半には、林屋、キーン、詩人・大岡信らの文章が並ぶ。みな味わい深いものばかりだ。巻末の、監訳者が述懐する翻訳の苦労話も興味深い。

 パス生誕100年は、ローマに行った支倉常長が1614年にアカプルコに上陸した400周年でもある。この記念すべき年に、パスの長編詩の翻訳出版は、日墨文化交流史に特質されるべき優れた事業となった。

 文化科学高等研究院(EHESC)の出版。監訳者は阿波弓夫、伊藤正輝、三好勝。この3人を含む6人の共訳。

 さて、肝心の作品だが、抒情と叙事が絡み合い、走馬灯のように流れている。解説はできない。読者に読んでいただくしかない。