2013
「波路はるかに」 第4回 バルパライソ
【2月14日バルパライソにて伊高浩昭】PBオーシャン・ドゥリーム号は、南部のフィヨルド航行を終え14日、サンティアゴの外港バルパライソに入港した。途中、船員が負傷する事故があり、船はコンセプシオン港沖の、ヘリコプター航続距離内に進路を変更した。チリのヘリコプターは、この船員を病院に送り届けた。
フンボルト寒流は寒気を運び、船内はかなり涼しかった。その上、低気圧の接近で海は時化た。海が凪ぐと、鯨たちが盛んに潮を吹き、イルカの大群が我が船と競い泳いだ。チリ最大のこの港に着くと快晴で、暑かった。2週間前ブエノスアイレスで感じた厚さが戻ってきた。この港町は、私にとっては5年ぶりの訪問だった。
40年前、アジェンデ人民連合社会主義政権が、米国に支援されたピノチェー率いる軍部のクーデターで倒され、アジェンデは政庁内で自害した。この血なまぐさい流血の政変直後のチリ取材は、私の記者生活で最も重要な仕事の一つとなった。青年だった私は、老境に入り、望郷や悔恨の混ざった気持で遠い過去を振り返っている。
否、過去ではない。チリ人は依然、ピノチェー政変糾弾と支持の両派に引き裂かれたままだ。内戦終結後74年のスペインで、人々の心と政治意思が内戦の敗者と勝者の両派に割れたままになっているのと同じである。実は、私にとっても決して過去ではない。ジャーナリストとして、あの政変をどう位置づけるか、という仕事が終わっていないのだ。40周年を期に、総括せねばならない。
バルパライソでは、マプーチェ民族と野外で過ごした。「パリン」というホッケーに酷似した、彼らの伝統スポーツに興じ、分厚い牛と豚のステーキを食べ合い、彼らの置かれている立場について説明を聴いた。彼らの組織の幹部3人が来ていたため、考えをじっくり聴くことができた。これは収穫だった。
港に戻る途中、バルパライソの丘の彼方の森で大規模な火災があった。北隣のビニャデルマル市の上空から海上かけて赤茶色の濃い煙が大きく長くたなびき、さながら「バルパライソ燃ゆ」の感があった。
船には、友人のドキュメンタリー映画監督ネコら地元の知識人や、11月の大統領選挙に左翼候補として出馬するという経済学者が来ていた。私は彼らとの会合に参加し、夕食を共にした。私にとっての大きな掘り出し物は、晩年のパブロ・ネルーダの公式運転手を務めた人物を紹介されたことだった。ネルーダの死の直前の「真相」を聴くことが出来た。これについてはいずれ、文章にするつもりだ。
バルパライソを離れてから、マレーネ・ディートゥリッヒの歌14曲を流しながら語り合うDJを、船客の「ドイツ出身の欧州人」を招いて行なった。歌詞のドイツ語的意味合いや時代背景を語る彼の言葉が興味深かった。いつの日か、「日本出身のアジア人」だと、胸を張って言える時代が来ることを切に願う気持になった。
友人の写真家・義井豊が乗船した。カヤオまでの5日間だけだが、インカ文明の話を聴くのが楽しみだ。カヤオ入港前夜には、二人で「ペルー四方山話」をする。