2011年10月12日水曜日

スペインの日

 10月12日は、1492年のその日、クリストーバル・コロンがカリブ海に到達した記念日で、スペインの国祭日となっている。フランコ時代には「エル・ディア・デ・ラ・イスパニダー(スペインアイデンティティーの日)」と呼ばれていた。私は毎年この日、スペイン大使公邸でビノとハモンとケソを味わわせてもらっている。
  私は、ラ米文化専門の月刊誌「ラティーナ」に「ラ米乱反射」を連載しているが、11月号(10月20日刊)に、チリの話を書く。そのなかにノーベル文学賞詩人パブロ・ネルーダ(1904~73)が登場する。その文章を書くにあたって、ネルーダの自伝『コンフィエソ・ケ・エ・ビビード(我が生涯の告白)』を久々にひもといた。
  「スペイン戦争(内戦)は、フェデリコ・ガルシア=ロルカ(FGL)の消滅で始まった。この戦争は私の詩を変えた」ーー印象深い言葉だ。ネルーダは1933年、領事として赴任したブエノスアイレスでFGLと会って、詩人同士、意気投合した。翌34年、領事としてバルセローナに行き、FGLと再会する。親交はゆるぎないものとなる。だが内戦勃発から間もない36年8月、FGLはフランコ派ファシスト勢力から殺されてしまう。遺骨はいまだに見つかっていない。ネルーダは、この暗殺を「内戦の起点」と詩的に捉えているのだ。
  自伝には、「詩は常に平和の行為である。パンが小麦から生まれるように、詩は平和から生まれる」とある。だが、「スペインとの接触が私を強化し成熟させた」と述懐。ここに、「この戦争が私の詩を変えた」の意味がある。詩は平和の行為だが、時として戦争からも生み出さなければならない、ということだろう。ネルーダは37年、詩集『心の中のスペイン』を発表する。私が大好きな詩集だ。
  ネルーダはスペイン内戦後の1940~43年、総領事としてメキシコ市に住む。内戦を本気で戦った壁画家ダビー・アルファロ=シケイロスと親交を結ぶ。サンティアゴのネルーダの邸宅「ラ・チャスコーナ」には、シケイロスから贈られたキャンバス画が飾られている。
  「市場(いちば)のなかにメヒコがある」、「米州にはメヒコ人ほどの人間的深さをもつ国はない」、「メヒコの知的生活は絵画に支配されていた」ーー洞察に満ちた絵画的文章が並ぶ。メキシコ市を8年半、拠点にしてラ米を取材報道した私には、よく理解できる。私もシケイロスから仕事を通じてたいへん世話になった。【拙著『メヒコの芸術家たち』(現代企画室)参照】
  ネルーダはメキシコ駐在が終わると、チリへの帰途、マチュピチュに行く。「私はマチュピチュの頂で、歌(詩)を続けるための信仰告白を見いだした」と高らかに謳う。帰国し1945年、チリ共産党に入党する。「私はチリ人の詩人になることができた」と記す。
  アンデス山脈を、「我々の山脈の、あの無秩序や、あの巨石の狂乱や、あの憤怒の荒涼」と描く。超大で豪壮で険しいアンデスは、詩人の心を映していたのだろう。ネルーダは1973年9月23日、前立腺癌を患いつつ、失意のうちに死んでいった。ピノチェー軍部とニクソン米政権によるクーデターでアジェンデ社会主義政権が崩壊した9月11日の、わずか12日後の死だった。

伊高浩昭