2012年1月16日月曜日

スペインの政治家マヌエル・フラガ死去

▼▼▼現代スペインで「大政治家」と呼ばれた元ガリシア州知事マヌエル・フラガ氏(89)が1月15日、マドリー市内の自宅で心臓発作により死去した。フランコ独裁時代に学者、外交官、政治家になったことから毀誉褒貶の多い人物だが、現代スペインの傑出した人物であったことは疑いない。

     1922年ガリシア州ルーゴに生まれ、48年から50年代半ばにかけてバレンシア大学やコンプルテンセ大学で法学、国家論、憲法などの教授を務めた。51年、イスパノアメリカ文化庁総務に就いたのを始めとしてフランコ体制に関与し、62~69年情報・観光相として、スペインの観光立国の基盤を築いた。

     情報相としては、報道の自由、宗教自由の拡大に貢献した。外交官としては68年にスペイン領赤道ギネアの非植民地化交渉の政府代表を務め、73年には駐英大使に就任した。

     75年にフランコ総統が死去し、ナバーロ政権が発足すると、副首相兼内相になり、76年、
保守政党「アリアンサ・ポプラル」(AP=人民同盟ないし国民同盟)を結成する。78年新憲法の起草者の一人となった。保守の穏健改革派で、英国政治を模範とし、スペインの段階的民主化を促進した。

     77年に就任した下院議員を87年に辞め、欧州議会議員に転出。後継者に、ホセマリーア・アスナールを据えた。90年、APを改造して「パルティード・ポプラル」(PP=人民党ないし国民党)とし、06年まで党首を務めた。

     90年から2005年までガリシア州知事、06~11年上院議員を務めた。その間、アスナールのPP政権を実現させ、後見人としてアスナール首相を支えた。

     昨年9月政界を引退したが、その後、ラホーイ現PP政権の発足を見届けた。

     著書が90点近くあり、知識人としても名高かった。

     ガリシア人2世のフィデル・カストロとも親交があった。カストロが92年7月、バルセローナ五輪時にガリシア州の父親の生家跡を訪ねた折、カストロを大歓迎した。キューバをも訪れている。

     私は、州知事時代の90年代、来日したフラガにインタビューしたことがある。柔和な対応で、政治家としての側面は隠され、知識人の側面が全面的に出ていた。それが印象的だった。