船はNYからバハマの首都ナッソーに着いた。NYでヤンキーの雀2羽が乗船、甲板レストランのパンくずを盛んについばんでいたが、ナッソーでうち1羽が港に近い椰子の林に飛んで行った。渡り鳥ならぬ移住鳥はこうして生まれる!
だが1羽は船内に残った。どこまで同道するのだろう。日本の入管を通るだろうか? 気になって仕方がない。バハマに着くまでの中2日間は、バハマ史を講義し、さらにクーバ訪問に備え、国交再開に至る玖米関係を話した。
ナッソーはラ米・カリブ33カ国の中で、一人当たり所得が一番高い。だが観光とオフショー金融で持っている。いずれも他力本願の産業であり、長年これに頼っていれば、自力更生、自助の精神は弱まってしまう。外資と外国人観光客の遊びの楽園、投資家や富裕層の脱税天国と批判されてきた。
クリストーバル・コロン(コロンブブス)は1492年10月12日、バハマ諸島のある島に漂着、その島をサンサルバドール島と名付けた。ナッソーの政府庁舎の前には小さなコロン像がある。
政府関係機関をはじめ3権の施設はみな、壁が桃色に塗られていて、わかりやすい。熱帯の島なのに、役人や護衛らは、真っ黒なスーツで身を固めている。これは、カリブ諸島の流行の一つだ。観光客らは、港近くの酒場に群がり、ラム酒、ビール、ほら貝の厚い肉を食べていた。
ナッソーからハバナの間の中1日、武者爺と広範なテーマで対談した。学生時代から論文を読み発言を聴いていた知の大家と演壇に並ぶとは、考えたこともなかった。武者爺、羽後さんとは船内酒場で、よく飲み語り合い、閃きを得た。
ハバナは、自営業者が大きく増え、あちこちで営業していた。外貨に対応する兌換ペソと、安いクーバペソのどちらでも物資を買える店が数多く出来ていた。ラウール政権の、二重通貨統合促進政策の現れだ。一方で、伝統的な配給所では、鶏肉を安く売っていた。渋面の市民たちが黙して順番を待っていた。
来年封切られる日玖合作映画「エルネスト」の阪本順治監督の補佐を務めたクーバ映画人ロランド・アルミランテには8月東京でインタビューしていたが、再会し、自宅での昼食会に招かれた。面白い談義が展開された。
その後、星条旗ひらめく米大使館を見てから、海岸通りマレコンを歩き、メイン号爆破事件記念碑の下で、仲睦まじい白人男と黒人女に会った。男性は建設現場で働いているが、資材不足で毎半ドンという。女性は家事手伝い。
革命広場に行くと言うと、遠いから近道を案内しようと言われ、ハバナリブレホテル、ハバナ大学、コロン墓地を巻いて、広場に行き着くことができた。ここを見ないと、ハバナにいる気分になれないのだ。
そこからは乗り合いバスで港近くに行った。彼らから生活苦を詳しく聞いた。市場経済原理の正式導入から5年半、市民の間の経済格差は開く一方だ。空腹がたまらないと言う。めったに飲めないというラム酒の大瓶を買い、道案内のお礼に渡した。タクシーとバスは使ったが、ずいぶん歩いた。それなりに取材ができた。
船内で、1968年の日玖合作映画「キューバの恋人」(黒木和雄監督、津川雅彦主演)を流した。先に、オリヴァー・ストーン監督の「我が友ウーゴ」(2013年)を流したのに次ぎ2本目の映画鑑賞。
実り多い2日間の滞在だった。国連総会は、米国の対玖経済封鎖解除決議を賛成191、反対無し、棄権2(米国、イスラエル)で可決した。1992年以来連続25回目の可決だが、ずっと反対していた米国(イスラエルも)は初めて棄権した。次の政権に封鎖解除を託したのだ。ハバナは、この「歴史的勝利」に沸いていた。
それが26日。翌27日には国連総会第1委員会(軍縮)が「核兵器禁止条約」交渉を来年開始するという決議を、賛成123カ国、反対38カ国、棄権16カ国で可決した。唯一の被爆国日本は、米国に同調して反対に回った。ピースボートの反核専門家、川崎哲は国連で怒りの声明を発表した。
船はジャマイカに向かう。音楽番組でボブ・マーリーの人生とレゲエを紹介。講座ではジャマイカ史を語った。夜半、暴風雨が襲来した。夜が明けると、雀がいなくなっていた。心が痛む。