2016年6月30日木曜日

~「波路はるかに」~ パナマ市チョリージョ地区

◎2016・06「波路遥かに」~最終回~ 「パナマ市チョリージョ地区」

 パナマ運河第3水路が6月26日開通した。20世紀後半、この運河を通航できない大型タンカー、コンテナ船、軍艦などが待ち望んでいた日だった。この日、ピースボート船内で、「パナマとパナマ運河の歴史」について講演した。

 カラカスから乗船していたパナマ先住民(エンベラ人)の娘で20歳の大学生であるミリッツァ・フラコを壇上に迎え、感想を尋ねると、「パナマ人として開通を誇りに思う。パナマ市にいないのが残念。しかし生まれて初めての大型旅客船での航海も得難い体験です」と上手に答えた。

 パナマ市には翌日行き、運河の太平洋側出口東岸に隣接する低所得者居住地区チョリージョを取材した。1989年12月20日のブッシュ父親政権による米軍大規模侵攻の最大の被害地で、いまだに侵攻による死傷者数はわかっていない。

 フアン・バレーラ大統領は昨年、侵攻26周年を機に調査を約束。その調査委員会が近く発足する。同大統領の残る2年の任期中にどこまで解明できるか、それが当面のすべてだ。

 「米軍パナマ侵攻死者遺族・友人の会」の代表者と、その娘に会った。代表者トゥリニダー・アヨロの夫、娘パウラ・ロドリゲスの父は軍人で、侵攻時、米軍に殺された。「調査で事実関係が判明し、賠償問題が出てくるはずですが、何よりも私たちが望むのは、米政府による公式な謝罪です」と母娘は口をそろえた。

 侵攻時の爆撃で住まいを焼かれながら生き延びた女性は、恐怖の体験を生々しく語り、「すべてを失ったか、私と家族は全員、奇蹟的に命を失わずに済んだ」と述べた。地区のファティマ教会では、侵攻後の破壊の後を写した貴重な写真を見た。

 この取材の後、運河東岸奥のトクーメン空港から久々に出発、トロント経由で帰国の途に就いた。今回は17日間、船内13日間の短い船旅だった。