チレ民俗歌謡の大歌手ビオレタ・パラ(1917~67)は1967年2月5日、首都サンティアゴ郊外で経営していた音楽酒場で拳銃自殺を遂げた。それから半世紀経った5日、首都の一般墓地の墓前で歌手たちがギターを弾きながらビオレタが作詞作曲した歌の数々を歌い、故人に敬意を表した。
ビオレタは1917年10月4日、南部のビオビオ州サンカルロスに音楽教師で民俗歌謡歌手だったニカノール・パラを父に生まれた。7歳で父親のギターを自己流で弾き始める。父が病気で倒れ苦しい生活を送るが、父の死後、首都で学んでいた兄に呼ばれてサンティアゴに出、17歳でカンタアウトーラ(シンガー・ソングライター)になる。
世界的名曲となった『人生よ、ありがとう』や、1973年の軍事クーデターを予知したような『ケ・ペーナ(何という胸の痛みだろうか)』など、自作の約130曲を世に出した。
ビオレタの声はチレ農民女性に多い「疲れた声」であり、いわゆる美しい声ではない。だが情熱あふれる存在感とギターのうまさが声に勝って、聴く人々の心を掴んだ。
先住民族マプーチェの血を引くビオレタは、気性の激しい女性で、差別や無視に対して怒り、抗議した。自らを「人民に同一化している」と言って憚らなかった。作詞には「人民」や虐げられたマプーチェが主題としてしばしば登場、白人が支配するレコード会社、ラジオ・テレビ局、新聞社などはビオレタに門戸を閉ざした。
共産党員だったビオレタは1953年、「世界青年・学生祭」に招かれ渡欧、東欧やソ連を回り、パリにも滞在する。ビオレタはギター弾き語りの他、絵画、彫刻、刺繍など幅広い創作活動を展開、64年にはパリのルーヴル博物館に絵画などの作品が展示された。
パリでは、フランコ独裁に抗議するためスペイン大使館への抗議行進に参加した。50年代には、同胞の詩人パブロ・ネルーダと知己になった。ルーヴル展示により故国チレで名士になったが、白人社会からの差別、無理解、無関心は大きくは変わらなかった。
しかしビオレタの歌は「新しい歌」として既に脚光を浴びており、59年元日のクーバ革命によって生まれた新しい芸術運動と相俟って、ラ米で広く賞賛されていた。同胞のビクトル・ハラ、キラパジュン(歌謡団)、インティ・イリマニ(同)、ロランド・アラルコン、マウリシオ・レドレースらとともに一世を風靡した。
ビオレタは恋多き女でもあり、2度の結婚や恋愛生活を続けた。息子アンヘルと娘イサベルは歌手で、ビオレタの歌をひき継いでいる。
ビオレタは67年2月、恋人のウルグアイ人音楽家とモンテビデーオに汽車で旅行することになり切符も買っていたが、出発の2日前、自殺した。死後に訪れたピノチェー軍事独裁政権下で、ビオレタの作詞した歌詞は「反戦歌」、「抗議歌」と捉えられ、検閲された。
2011年、アンデレス・ウッド監督が映画「ビオレタ、空に去る」(110分)で、ビオレタの生涯を描いた。その中で主人公は、「描く、刺繍する、歌う、は私にとって同じこと」と語り、何が一番重要かと問われては「私は人民と共にありたい」と答える。
今年10月4日には、盛大な生誕100周年記念行事が計画されている。この誕生日は「チレ音楽の日」に指定されている。
▼ラ米短信 ◎早大でクーバ情勢シンポジウム催さる
最新のクーバ情勢などを主題とするシンポジウムが2月6日午後、東京都新宿区戸塚の早稲田大学・小野梓記念講堂に130人を集めて催された。
発言者は、ジャーナリスト伊高浩昭(現代クーバ情勢)、中部大学教授・田中高(日本でのラ米への取り組み)、早稲田大学準教授・岩村健二郎(クーバのアフリカ系の状況)。早稲田大学準教授・高橋百合子が意見を述べたうえで3人に質問、司会は早稲田大学教授・山崎眞次が務めた。
聴衆は、大学教員、研究者、ジャーナリスト、大学生、映画監督、国会議員、NGO関係者ら多彩な顔ぶれだった。