2017年3月27日月曜日

  アルゼンチンの知識人ロドルフォ・ワルシュが軍政に殺されてから40年。状況参加ジャーナリズムで不正義を告発、ノンフィクション作品も数多く世に出した 

 アルヘンティーナ(亜国)の著名なジャーナリストでノンフィクション(NF)作家だったロドルフォ・ワルシュ(1927~77)が1977年3月25日、当時のビデーラ軍政に殺害されてから40年が過ぎた。24日の軍事クーデター41周年記念日と併せて、故人を知る人々が追悼行事を催した。

 アイルランド系亜国人ワルシュは、1950年代から創作物語やNF作品を書き、ジャーナリストとしては1959年のキューバ革命後にハバナで設立された通信社プレンサ・ラティーナの創設にも関与、健筆を振るった。

 以後、政治・社会状況に関与する「ペリオディズモ・コンプロメティード」(アンガージュマン・ジャーナリズム)の手法で調査報道をよくし、殺害される直前まで書き続けた。

 歿後18年の1995年に刊行された『書くという激烈な仕事』には、1953~77年に発表されたジャーナリズムの記事がまとめられている。

 ワルシュは、1960年半ばから70年代半ばにかけての都市ゲリラ活動激化期、ペロン派極左の「モントネロス」に参加、イデオローグとなった。76年のクーデターで政権を握った故ホルヘ・ビデーラ陸軍司令官(軍政大統領)の軍部独裁下で3万2000人が暗殺・殺害されることになるが、ワルシュは「状況参加」し、軍政の悪を告発、糾弾した。

 地下に潜伏し、76年4月、「ANCLA」(地下通信社)を始め、地下から報道を続けた。その年9月、愛娘ビクトリアが軍政の秘密警察に拉致され殺された。

 ワルシュは1977年1月、NF『フアンは川伝いに行こうとしていた』を書き終えた。そのころモントネロス指導部はワルシュにローマに亡命するよう勧告、旅費を渡そうとする。これをワルシュは断り、亜国に留まり、ジャーナリスムを通じて軍政告発を継続した。

 77年3月24日、クーデター1周年の日、ワルシュは軍政の人道犯罪、CIAと組んでの国家間連携テロリズム、富裕層のための経済政策などを非難、告発する長文の「ある作家の軍事評議会への公開書簡」を書いた。ブエノスアイレスに亡命していたボリビア軍政の元大統領JJ・トーレス暗殺、同じくアジェンデ・チレ政権の中枢部に居たカルロス・プラッツ将軍暗殺などへの軍部関与を暴いた。

 ワルシュは、この書簡の写しを10部作成、国内主要紙と外国メディア支局に配布した。軍政は激怒、翌25日、ブエノスアイレス市内で海軍兵25人がワルシュを包囲、ワルシュは拳銃で抵抗するが、たちまち銃弾を浴びせられ命を絶たれた。

 遺体は、拷問・殺害所となっていた市内の海軍上級機械学校(ESMA)に運ばれた。ESMAでの拷問を辛くも生き延びた仲間が、後年、ワルシュの身内に、遺体を見たことを伝え、明るみに出た。

 その後、遺体の在り処は不明のままだが、ESMAの向かい側にある土地に埋められている可能性が強いとされている。だが、依然発掘作業は為されていない。

 ワルシュのNF作品には、『虐殺作戦』、『サタノフスキ事件』、『誰がロセンドを殺したか』など。物語には『赤の変化』、『一キロの金』、『写真、書簡と、その女』などがある。