ベネスエラ政府は1月23日、ラウール・レオニ政権期の1966年、軍部諜報局(SIFA)に虐殺されたジャーナリストでゲリラだったファブリシオ・オヘーダ(当時37)の遺骨を、カラカス市内の南部一般墓地から国立霊廟(パンテオン・ナシオナル)に移し、盛大な記念式典を催した。
ファブリシオは1929年生まれ、国立ベネスエラ中央大学卒、エル・ナシオナル紙記者となり、大統領政庁を担当した。57年、共産党(PCV)、民主共和同盟(URD)および左翼活動家らと地下組織「愛国会議」を結成。時のマルコス・ペレス=ヒメネス独裁軍政打倒を目指し闘争を開始する。
翌58年1月23日、愛国会議と軍部が結集、軍政打倒に成功する。ニコラース・マドゥーロ現政権は、この日に因んで遺骨を移納した。
58年末の選挙でロムロ・ベタンクール政権が誕生、ファブリシオはURD所属の下院議員になる。翌59年1月23日、革命戦争に勝利して3週間余しか経っていなかったフィデル・カストロ玖反乱軍最高司令官がカラカスを訪問、熱狂的に迎えられた。
フィデルはファブリシオを招待。これを受けてクーバに翌60年4月まで滞在する。ファブリシオは帰国するやURDと訣別し、議員を辞職。62年に共産党がゲリラ組織「民族解放軍」(FALN)を結成する際、ドゥグラス・ブラボらと協力し参加、ゲリラ闘争に入った。
同年末、逮捕されるが、翌63年脱獄。65年にはFALN議長に収まった。だが組織内に台頭した非武闘争派と抗争。66年6月初め、同派に裏切られ、「居場所は首都」と暴露された。
これを受けてSIFAは同月20日ファブリシオを逮捕、拷問して虐殺。翌21日、「独房内で自殺した」と発表した。チャベス政権末期の2012年11月、遺骨は発掘され、法医学調査に付された。
国立霊廟前での式典では、国軍の栄誉礼に続いてマドゥーロ大統領が演説、「人民革命闘争を遂行した革命家の模範」と讃え、「解放者勲章」を死後叙勲し、遺族に渡した。国立霊廟にはシモン・ボリーバルをはじめ独立期の英雄たちが眠っている。
式典には大統領夫人シリア、タレク・エルアイサミ執権副大統領、ディオスダード・カベージョ国会議員(政権党副党首)、ブラディーミロ・パドゥリーノ国防相ほか、オンブズマンのタレク・サアブ、最高裁長官、検事総長らが参列した。元ゲリラ、ルフォ・メネセス(84)も出席した。
ファブリシオの人生を紹介したオンブズマンのサアブは、「大統領ラウール・レオニの命令で拷問され殺害されたのには疑いの余地がない。そのうえ自殺説をでっちあげた」と、51年前の政権を糾弾した。
ジャーナリストで元副大統領のホセ=ビセンテ・ランヘールも演説、「ファブリシオはベネスエラ人民の尊厳と共に国立霊廟に入った」と述べた。パドゥリーノ国防相は、「ファブリシオは人民の解放、尊厳、独立のために闘った」と語った。
式典に出席しなかった閣僚からも賛辞が相次いだ。デルシー・ロドリゲス外相は、「祖国解放のための人民闘争の鑑。偉大な革命家、人民殉死者、思想家だった」と礼賛した。故ウーゴ・チャベス大統領の実兄アダン・チャベス文化相は、「遺骨移納には歴史的正統性がある。尊厳、勇気、祖国愛への栄誉礼だ」と指摘。エリーアス・ハウア教育相も、「ファブリシオは権力の側に居て安閑としていることもできたが、それを拒否し、権力を糾弾して闘争の道に入った」と述べた。
▼ラ米短信 ◎メヒコ富豪が在米メヒコ系向けテレビ放送開始を決定
富豪カルロス・スリムは1月23日、在米メヒコ人およびメヒコ系市民3370万人向けにテレビ放送「ヌエストラ・ビシオン」(私たちの視点)を年内に米国内で開始する、と発表した。放送内容は「100%メヒコ製」にするという。
スリムは、ドナルド・トランプ米大統領のメヒコとメヒコ人に対する一連の言動に鑑み、在米放送開設を決意したと表明した。