☆☆☆20世紀後半のサッカー報道の草分けの一人、元共同通信記者、奈良原武士氏(1937~2007)が8月21日、日本サッカー殿堂入りすることが決まった。日本サッカー協会による掲額式は9月10日に行なわれる。
☆カトマンズでNGO活動をしている長女の志磨子さんからの吉報だった。
☆奈良原は、私の通信社時代の先輩だった。1970年の第9回W杯メキシコ大会から、ドイツ、アルゼンチン、スペイン各大会まで4大会を連続取材した。私は光栄にも、70年大会と82年のスペイン大会を奈良原の指揮下で取材した。
☆メキシコ大会はブラジルが圧倒的な強さで優勝した。大会中、グアダラハーラの選手村で奈良原はペレー(エジソン・オランテス=ド・ナッシメント)にインタビューし、私が通訳した。付近にいた日本人特派員や外国人記者が私たち3人を取り囲み、大きな輪になった。
☆スペイン大会は6月末から7月半ばにかけて開かれた。私は当時、ヨハネスブルク支局駐在だったが、4~6月、アルゼンチンと英国のマルビーナス(フォークランド)戦争の取材で長期間ブエノスアイレスに出張し、亜国敗戦を見守ってからヨハネスブルク経由で、バルセローナに飛んだ。晩秋から初冬にかけての亜国は涼しく時には寒かった。ところがスペインは真夏だった。疲労も手伝って、30代末の私の体調は万全ではなくなっていた。その分、取材の戦力としては減退した。
☆80年代後半、私はリオデジャネイロ支局にいた。奈良原が写真記者とともにやってきた。当時、20歳未満でクリチーバで活躍していた三浦知良選手にインタビューして、その若いサッカー人生を描くためだった。私は、お手伝いをした。
☆90年代は、編集委員室で一緒だった。初めて先輩と机を並べた。97年、定年間近の奈良原にインドに出張してもらった。私が編集を担当していた通年企画の取材をお願いしたのだ。「ご褒美だな」と言いながら、インドに旅立っていった。その年、『ワールドカップ物語』(ベースボール・マガジン社)が出て、署名した一冊をいただいた。この本は、貴重な記録で埋まっており、いまも重宝している。
☆2002年にW杯日韓合同大会が開かれた。その折、私に「俺の人生もそろそろ終わりかな。もう長くはないと思う」と言った。それから5年後、70歳になる手前で亡くなった。病院に何度か見舞ったが、既に危篤で意思は通じなかった。棺の中の顔は、穏やかな初老の顔になっていた。
☆「国際情勢のわからない運動記者はだめだ。スポーツのわからない外信記者もだめだ」ー奈良原の言葉である。外信記者だった私は、五輪2回、W杯2回をはじめ、さまざまなスポーツの世界大会を取材する機会に恵まれた。ボクシングの世界タイトルマッチも何回も取材した。その都度、奈良原の言葉を思い出していた。