5月11日はジャマイカ人レゲエ王、ボブ・マーリーの歿後35周年。キングストン、マイアミ、ロンドンなどボブ縁の地で記念行事が催された。
ボブは1945年2月6日ジャマイカで、英国人ノーヴァル・マーリーと黒人女性セデラの間に生まれた。5歳の時、両親は別居、10歳の時、ノーヴァルが死去し、仕送りも止まった。母を支えるボブは、首都キングストンに引っ越す。
ボブは黒人と白人の混血(ムラト)であるため、幼年時代から、黒人から差別されていた。だがボブは黒人を自身の認同(アイデンティティー)とし、ひるむことはなかった。
「我々黒人は奴隷根性を無くさねばならぬ。それができるのは我々自身しかいない」とボブは言っていた。ムラト差別も、黒人差別の裏返しだと知っていたからだ。
ボブは1959年、音楽に専念。63年、グループを結成、「ウェイリング・ウェイラーズ」と命名する。「シマー・ダウン」という最初の作曲を手掛けた。
66年、エティオピア皇帝ハイレ・セラシエがジャマイカを訪問する。「ラス・タファリ」と呼ばれた皇帝が1930年末に即位すると、ジャマイカにアフリカ回帰の「ラスタファリ運動」が興る。アフリカで多くの国々が独立した1960年の「アフリカの年」を境に、世界中の黒人の間でアフリカを見直す文化・思想運動が起きていた。
ジャマイカでは新しい音楽運動とラスタファリ運動がレゲエによって結びついた。その旗頭がボブだった。ボブは、グループで離合集散を繰り返す仲間たちを率いて、シンガー・ソングライターとして作品を次々に世に出していく。
1972年ロンドンで公演、74年には大ヒットし、74年にアルバム「ラスタマン・バイブレイション」を出した。ハイレ・セラシエ皇帝の言葉が歌詞に盛り込まれるが、これが何よりも重要だった。
ところが1970年代は、ジャマイカは内戦のさなかにあった。左翼マイケル・マンリー党首の人民民族党(PNP)と、保守エドゥワード・シアガ党首のジャマイカ労働党(JLP)が血みどろの政争を展開していた。マンリーは北の隣国クーバから武器や資金を得ていた。これに対し、シアガはクーバの北の米国から援助を受けていた。
ボブは76年の選挙戦でマンリー派と見なされ、敵対勢力から銃撃されて負傷、ロンドンで手当てを受け静養した。78年帰国し、コンサート会場でマンリーとシアガを壇上に招き上げ、握手させた。有名な逸話だ。
翌77年、癌を宣告されたが、ボブは治療を拒否し、音楽活動に集中する。78年には国連平和勲章を受章、79年には来日公演も果たし、あこがれの地アディスアベバを訪れた。同年のアルバム「エクソダス」は最重要作品と評価され、ボブの評価を不動のものとした。
1981年、海外公演中、死期を察し、帰国を急いだが、急遽入院したマイアミの病院で死去した。36歳だった。生きていれば、71歳になる。
ボブは結婚や同棲で7人の女性との間に男7人、女3人の子を儲け、孫は4人。今日でも、ボブの生き方と音楽は、世界中のアフリカ人や黒人の間で絶大な人気を誇っている。