2013年2月21日木曜日

「波路はるかに」 第5回 =リマ=

2013 波路はるかに 第5回 =リマ=

【2月19~21日リマにて伊高浩昭】2年ぶりのリマは、新自由主義経済がさらに進んでいた。オヤンタ・ウマーラ大統領は経済を財界に任せっきりで、貧者対策としての人民主義をとっている程度、とペルーの記者たちは言う。
 3日間のカヤオ港とリマ市滞在期間は、仕事と決めていた。19日はインタビュー、某事件現場踏査、友人訪問、別の友人たちとの会食と、日程が夜半まで続き、収穫の多さに比例して、くたくたになった。「エストイ・ノケアード(私はノックアウトされた状態だ)」の語感がぴったりで、カヤオ港まで無理をして戻るべきではないと心した。このような場合に備え、友人・義井豊に調べてもらってあった中心街のホテルに投宿した。
 このホテルのバルで、名カクテル「ピスコサワー」は生まれた。団体の外国人観光客が、バルを見ながらカクテルの由来を聴くためにだけ訪れる。かつては由緒ある最高級ホテルだったが、その後は没落し、長らく閉鎖されていた。それを買い取って営業再開に漕ぎ着けたのは、中国人である。
 ペルーの大衆料理はなかなかうまい。完成したメヒコ料理には及ばないが、うまい。メヒコ料理をラ米の横綱とすれば、ペルー料理は大関というところか。張り出し横綱は、亜国のビフェ・デ・チョリーソだ。
 19日付ペルー紙で、ウーゴ・チャベス大統領がハバナからカラカスに18日未明戻ったことがわかった。エル・コメルシオ紙は第1面を、この記事で埋め尽くしていた。もしかすると、祖国を死地にするための帰還かもしれない。ニコラース・マドゥーロ副大統領が大統領権限を代行する事態に変化はない。大統領帰国で、チャベス派は一時的に団結を取り戻すだろう。だが先行きは悲観的だ。チャベスの命は、風に煽られる蝋燭の灯のように心許ない。
 ボリビアのエボ・モラレス大統領は、チャベス帰国に歓喜し、早速19日、カラカスに飛んだ。だがチャベスに会うことは叶わなかった。エボは、国連「国際キヌア年」開始行事に出席するためニューヨークに行く途上、わざわざ立ち寄ったのだった。エボは12月にもハバナに行きながら、チャベスに会えなかった。容態は、それほどまで重いのだ。
 20日もインタビューが続いた。昨夜のことを考え、過労になる前にと、早めにカヤオ港に戻った。21日もカヤオーリマ滞在だが、船は夜半、ラパ・ヌイ=パスクア島=イースター島に向け出航する。
 17日の赤道国(エクアドール)の大統領選挙は、予想通り現職のラファエル・コレアが圧勝して3選を果たした。面白みに乏しい選挙だった。ペルー紙は、「チャベスが去った場合、後釜のラ米左翼の指導者は誰か」という論評時事で、幾つかの理由を並べて「コレアは指導者になれない」と指摘した。
   

2013年2月16日土曜日

2013 「波路はるかに」第4回 =バルパライソ=

2013 波路はるかに」 第4回 バルパライソ

【2月14日バルパライソにて伊高浩昭】PBオーシャン・ドゥリーム号は、南部のフィヨルド航行を終え14日、サンティアゴの外港バルパライソに入港した。途中、船員が負傷する事故があり、船はコンセプシオン港沖の、ヘリコプター航続距離内に進路を変更した。チリのヘリコプターは、この船員を病院に送り届けた。
 フンボルト寒流は寒気を運び、船内はかなり涼しかった。その上、低気圧の接近で海は時化た。海が凪ぐと、鯨たちが盛んに潮を吹き、イルカの大群が我が船と競い泳いだ。チリ最大のこの港に着くと快晴で、暑かった。2週間前ブエノスアイレスで感じた厚さが戻ってきた。この港町は、私にとっては5年ぶりの訪問だった。
 40年前、アジェンデ人民連合社会主義政権が、米国に支援されたピノチェー率いる軍部のクーデターで倒され、アジェンデは政庁内で自害した。この血なまぐさい流血の政変直後のチリ取材は、私の記者生活で最も重要な仕事の一つとなった。青年だった私は、老境に入り、望郷や悔恨の混ざった気持で遠い過去を振り返っている。
 否、過去ではない。チリ人は依然、ピノチェー政変糾弾と支持の両派に引き裂かれたままだ。内戦終結後74年のスペインで、人々の心と政治意思が内戦の敗者と勝者の両派に割れたままになっているのと同じである。実は、私にとっても決して過去ではない。ジャーナリストとして、あの政変をどう位置づけるか、という仕事が終わっていないのだ。40周年を期に、総括せねばならない。
 バルパライソでは、マプーチェ民族と野外で過ごした。「パリン」というホッケーに酷似した、彼らの伝統スポーツに興じ、分厚い牛と豚のステーキを食べ合い、彼らの置かれている立場について説明を聴いた。彼らの組織の幹部3人が来ていたため、考えをじっくり聴くことができた。これは収穫だった。
 港に戻る途中、バルパライソの丘の彼方の森で大規模な火災があった。北隣のビニャデルマル市の上空から海上かけて赤茶色の濃い煙が大きく長くたなびき、さながら「バルパライソ燃ゆ」の感があった。
 船には、友人のドキュメンタリー映画監督ネコら地元の知識人や、11月の大統領選挙に左翼候補として出馬するという経済学者が来ていた。私は彼らとの会合に参加し、夕食を共にした。私にとっての大きな掘り出し物は、晩年のパブロ・ネルーダの公式運転手を務めた人物を紹介されたことだった。ネルーダの死の直前の「真相」を聴くことが出来た。これについてはいずれ、文章にするつもりだ。
 バルパライソを離れてから、マレーネ・ディートゥリッヒの歌14曲を流しながら語り合うDJを、船客の「ドイツ出身の欧州人」を招いて行なった。歌詞のドイツ語的意味合いや時代背景を語る彼の言葉が興味深かった。いつの日か、「日本出身のアジア人」だと、胸を張って言える時代が来ることを切に願う気持になった。
 友人の写真家・義井豊が乗船した。カヤオまでの5日間だけだが、インカ文明の話を聴くのが楽しみだ。カヤオ入港前夜には、二人で「ペルー四方山話」をする。

2013年2月11日月曜日

2013 「波路はるかに」 第3回 =チリ南部沖にて=                       --  

 【2月10日チリ南部太平洋上にて伊高浩昭】PB船は昨日、今航海で見られる最大の氷河「ピオ11世氷河」を奥地のフィヨルドに訪ねた。海に落ち込む最先端の幅が4・5km、山の懐まで数十キロという大氷河だ。寿命の長からんことを祈ったが、温暖化で先行きが危ぶまれている。
 今日は、プンタアレナスから乗った船上講師リカルド・クラケオ弁護士による、マプーチェ民族についての講演を聴いた。苗字で明白なようにマプーチェの血を引くリカルドは、マプーチェの関わる裁判でマプーチェのために闘っている。
 マプーチェは、南下を図るインカと戦ったという。だが交流もあった。マプーチェの布や、水壷の形と模様がインカのそれにそっくりなのも、交流を思わせる。そしてマプーチェの鳥の踊りや口琴は、アイヌのそれと酷似している。バルパライソに着く前の夜、私はリカルドと質疑応答する講演会を開く。
 私の今日の講演の演題は、「チリ軍事クーデター40周年」。私はクーデター直後のチリをサンティアゴ一帯で取材したが、あれから40年も経った。一抹の感慨を禁じえない。ラ米諸国の新聞は1973年9月11日の翌日、「チリは泣いている」と書いた。チリやラ米だけでなく、心ある世界中の人々が泣いていた。私のジャーナリスト人生で最も忘れがたい重大事件の一つである。
 マプーチェの人々も軍政に迫害された。民政移管後23年、彼らは土地奪回闘争を続けている。その取材が、私の今回のチリ訪問の主題だ。まともな記事が書けるかどうか覚束ない。やってみるだけだ。

2013年2月8日金曜日

2013 「波路はるかに」 第2回 =プンタアレナス=

 「2013 洋上ルポ 波路はるかに」 第2回=プンタアレナス=

【2月7日プンタアレナスにて伊高浩昭】PBオーシャン・ドゥリーム号は明け方、チリ・マガジャネス州都プンタアレナスに入港した。昨日6日は終日、エストゥレーチャス・デ・マガジャネス(マゼラン海峡)の迷路のような狭路をさまようかのように航行し、海にそびえ立つアンデス山脈南端部の至る所にある氷河と、その〈死骸〉を見た。
 チリ南部最大のこの都市は、水平線のある海、つまり大海原に面した平地に広がっている。昨日、両側に岩山の迫る細い海峡の水道を巡航したのが幻のように感じられる。ここは、チリの南極への前進基地であり、南極戦略の本拠である。私は1980年代に、オゾン層拡大の記事を書くためやってきた。以来何度か来た。前回訪れたのは5年前、南極からの帰途だった。
 市中心街のアルマス広場の中央に高く大きく立つフェルディナンド・デ・マガリャンイス(マゼラン)の銅像と久々に再会した。中心街の情景は、5年前とさして変わっていない。州立インターネット・国際電話局が開かれていて、繁盛しているのが目立つ程度だった。人々はこの地を「エル・フィン・デル・ムンド」(世界の果て)と呼ぶ。一昨日寄港した亜国ウスアイアの人々も、自らの大地をそう呼んでいる。だが、この〈果て〉に身を置いている私にとって、地の果ては、あのアジアの果ての日本なのだ。
 昼食は、大型のロモ・デ・ポブレ(亜国ではビフェ・デ・チョリーソ=ビーフステーキ)、夕食は、その小型を食べた。バイレス(ブエノスアイレス)からこれを食べ続けてきたが、バルパライソとリマでも、これでいく。発想を少し変えようとの狙いからだが、とにかく味が良い。日本の肉食は概して貧しいが、ステーキに関して特に貧しい。その貧しさを束の間、豊かに満たせば、視座が少し変わるのではないかと、新たに挑戦しているわけだ。
 船は夜出港し、真夜中に再び海峡に入った。明日8日は終日、フィヨルド巡りだ。地球温暖化で滅びゆくアンデス山脈氷河群を、心中で葬送の曲を奏でながら見詰めるのだ。
 

2013年2月6日水曜日

2013年洋上ルポ「波路はるかに」

2013年ピースボート(PB)78回航海紀行ルポ=「波路はるかに」第1

【2月6日マゼラン海峡にて伊高浩昭】クラッシックで美しいPB客船「オーシャン・ドゥリーム」号は25日夜、亜国(アルヘンティーナ)ティエラ・デル・フエゴ州都ウスアイアを出港し、ビーグル海峡を経て、マゼラン海峡に入った。奇怪な姿のアンデス山脈南端の山並みに挟まれた海峡の濃紺の水路に白波が立つ。ここを船で通るのは3度目だが、往時の航海者たちの幻影を波間に見る。今は真夏だが、かつて夏でも氷河を抱き雪を被っていた山脈は、岩肌が浮かび、土や森が広がる。温暖化の深刻さを来る度に直視させられる。
 私は1月末に成田を発ち、36時間のきつい長旅の末にバイレス(ブエノスアイレス)に着いた。同市とモンテビデオ(ウルグアイ首都)で重要なインタビューをし、厚さ5センチの大きく柔らかい超美味のビーフステーキを3度食べた。肉食が貧しい日本では考えられない安さだ。1500円程度だが、日本ならば赤ワイン、野菜サラダ、デザートなど込みで3万円位するのではないか。
 南大西洋の海は、マゼラン海峡出口とマルビーナス(フォークランド)諸島の間の海域で1日半、大いに荒れた。衛星通信が途絶えたこともあった。乗船時の多忙さ、担当講座の連続、寄港地の多さ、悪天候などで、この紀行ルポの送信がきょうまで叶わなかった。ラ米情勢をはじめ、世の中の状況はほとんど把握出来ないままだ。徐々に把握し、考察していきたい。
 船内には乗客900人と、乗員250人がいる。一蓮托生の動く運命共同体は、海峡の太平洋側出口海域で大波と強風区欧風に翻弄されたが、これから海峡周辺のフィーヨルド海域をチリ人水先案内人の先導でゆっくりと進むことになる。南米大陸南端の雄大な断崖の光景に再会したいが、光のあるうちに、そこを通過するのかどうかわからない。では次回まで。