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2014年1月20日月曜日

名護市長選挙に思う


 辺野古<関ヶ原>の1月19日の決戦は、米海兵隊大型新基地建設を拒否する稲嶺進名護市長(68)が再選され、当面の決着を見た。名護市民は、仲井真知事の裏切りで地に落ちた島人の誇りと名声を辛くも取り戻すことができた。

 「札束に弱い」保守派沖縄人の体質は腐臭を放ち、重大局面にある名護で嫌われた。

 稲嶺1万9839票、自民党系の末松文信1万5684票。投票率76・71%。この4155票の差が、安倍政権の形振り構わぬ買票作戦を打ち砕いた。

辺野古基地は決して普天間海兵隊航空基地の「移設」ではない。大型基地の新設なのだ。この政府の長年のまやかしが、今選挙でまたも暴かれた。

 私は若いころ那覇に3年間駐在し、米軍基地をはじめとする沖縄情勢を取材した。名護市中心部や辺野古に何度足を運んだかわからない。

沖縄は移民を通じてラ米との関係が深い。沖縄に打ち込みながらラ米を遠望しながらの毎日だった。

 私は19日の選挙を前に、久々に沖縄物を読んだ。岡本恵徳(1934~2006)の『「沖縄」に生きる思想』(2007年、未来社)である。岡本の死に際し、評論集出版の声が上がり、私も賛同者となった、その本である。

 「基地周辺で日常的に数多くの米兵と接触することで生じる<異文化の衝突>の具体的な形を見ることができる。そういう日常的な接触は、沖縄人の中にフランツ・ファノンの言う<白い仮面>に対する欲望を生み出すこともあった」

 この記述が興味深い。名護の主権者の多数派は、反米国家主義を裡に秘めながら米国ににじり寄る安倍的・仲井真的・末松的<白い仮面>を剥ぎ取った。

 安倍国家主義の謳い文句「美しい国」は危険だが、「美しい」を美の形容として単純に受け止めるとしても、真に美しさが残る辺野古の珊瑚礁の海を破壊して軍事基地を建設することは「美しい」と完全に矛盾する。

 このことだけからも、「美しい国」がいかにいい加減なイデオロギーであるかがわかるだろう。

【参考:伊高浩昭著『双頭の沖縄』(2001年、現代企画室)、同『沖縄アイデンティティー』(1986年、マルジュ社)】 

2013年6月21日金曜日

沖縄の反オスプレイ闘争描く「標的の村」を観る


ドキュメンタリー映画「標的の村」(三上智恵監督、琉球朝日放送制作、91分)を試写会で観た。沖縄島東村高江集落の住民による、集落周辺に米軍のオスプレイ兵員輸送機離発着場(ヘリパッド)を建設しようとしていた防衛施設局員・土建業者職員・警察機動隊に対する5年間の闘争を描いたルポルタージュの力作だ。

政府権力に訴えられた住民たちの、那覇での裁判闘争も含まれる。住民にとっての真の敵は、住民と沖縄を犠牲の生贄にする日本政府だが、その姿は見えない。

生活者は喜怒哀楽の「怒と哀」を、日米安保最前線の軍事基地の入り口で爆発させる。日本政府の賓客である米兵たちは、にやにや笑って傍観する。だが珍しく、米兵が住民を基地内に引っ張りこもうとした場面が撮影され、この映画に含まれている。これは貴重な映像だ。

私は1970年代末に3年間、沖縄で基地問題を取材した。当時の取材相手や友人が何人か年老いて画面に登場する。沖縄への郷愁が一気に膨らみ、現在の現実の住民闘争と結びついた。昔も今も、沖縄人が政府と生活によって分断させられ、同胞同士がいがみ合い対峙し、時として肉弾戦を演じている。

理は住民にある。だから政府は無理を押し通すだけなのだ。 

8月10日(土)から、東京の「ポレポレ東中野」で公開される。 
 

2013年6月12日水曜日

尖閣「棚上げ」問題に思う


 日中間での尖閣諸島領有権「棚上げ」に関する野中広務発言が波紋を投げかけている。安倍政権は「棚上げ」を否定した。自民党政権にとって都合が悪いからだろう。

 「日中国交正常化」は1972年になされた。その鍵となったのは、田中角栄首相と周恩来首相との北京での会談だった。その会談で「棚上げ」合意があったか否かが問題になっているのだ。

 私は、70年代半ばラ米から日本に戻り、通信社の那覇支局に行った。約3年間、沖縄問題を取材したのだが、中国漁船が魚釣島を執拗に包囲する事件が起きた。私は海上保安庁の巡視船で現地を取材した。[当時の状況は、拙著『沖縄アイデンティティー』(マルジュ社)に詳しい。]

 そのころ私は那覇市で、日本のある省庁の高官にインタビューした。中国漁船の「尖閣出動」の話になったとき、その高官は次のように話した。

 「田中首相は突然、周首相に、尖閣問題を話し合いましょう、と切り出した。すると周は待ってましたとばかり、その問題は後で話し合いましょう、と応じた。結局そうなった」。これが、「棚上げ」の瞬間だった、という。

 同高官は、「日本は尖閣諸島を実効支配しているのだから、領有権問題を絶対に切り出してはならなかった。短気な田中は、ゆったりと構える周の罠にまんまとはまった。田中は売国奴になった」と、苦々しそうに語った。

 この「事実」は、当時の日本の多くの高官が把握していたはずである。日中交渉取材に携わった当時の政治記者や外信記者も知っているだろう。「売国奴」呼ばわりは不要だが、事実の検証は怠ってはならず、通信社や新聞社は当時の取材記録を調べて事実関係を明らかにすべきだろう。

 全体主義国家とは異なる民主制度が曲がりなりにも機能している国の真の強さは、このような検証が可能なところにあるのだから。

 安倍政権は「過去隠し」、「歴史改竄」で、右翼ないし極右と見なされ、日本内外で極めて厳しく批判されてきた。ワシントンポスト紙は社説で、「安倍晋三の歴史評価への無能力」を叩いた(月刊誌「世界」7月号「世界の潮」参照)。国際世論は、日本が全体主義の方向に再び舵を切ろうとしているのではないか、と懸念し警戒しているのだ。

 
 

2013年4月29日月曜日

「小さな祖国沖縄、大きな祖国アジア・太平洋」


 安倍首相は、祖父で戦犯だった故・岸信介元首相を敬愛している。日本本土は1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効して独立を取り戻したが、沖縄などは米国施政権下に置かれ続けた。岸信介は条約発効で公職追放を解除された。安倍が昨日、「主権回復・国際社会復帰記念式典」を強引に開いた理由の一端が頷けるというものだ。

 講和条約は日米安保条約と表裏一体だった。切り離され切り捨てられた沖縄は、引き続き米軍支配下に置かれ、1972年5月15日の施政権返還(日本復帰)後も安保条約を最前線で支えさせられてきた。「主権回復」式典にしらけ怒るのは当然のことだ。

 「国際社会復帰」の言葉も空々しい。日本軍が侵略戦争をした結果、沖縄を奪われ、広島・長崎に原爆を投下された。このような明白な歴史的事実があるにも拘わらず、安倍は国会で「侵略の定義は定まっていない」と妄言を吐いて憚らない。侵略されたアジア諸国は怒り、日本を降伏させた米国も、あきれ返りつつ困っている。

 南米北部アンデス諸国独立の英雄シモン・ボリーバル(1783~1830、ベネズエラ人)は、「小さな祖国ベネズエラ、大きな祖国ラテンアメリカ」という、ラ米統合主義の思想を打ち出した。3月に死去したウーゴ・チャベス大統領は、このボリーバル思想に立って、ラ米・カリブ33カ国の機構「ラ米・カリブ諸国共同体」(CELAC=セラック)を2011年12月結成した。

 日本がアジアで中朝などとの対立を超克するには、狭量な「靖国主義」や、寄らば大樹の陰主義の「日米安保国体論」などにしがみつくのをやめることだ。「小さな祖国日本、大きな祖国アジア・太平洋」という、ボリーバル思想のような遠大な理想主義を掲げ、その実現に尽力しなければ、袋小路状態の歴史的状況は打開できない。

 日本が「美しい国」などという時代錯誤の国家右翼主義に固執しつつ、沖縄をないがしろにし続ければ、沖縄が日本を置き去りにして「小さな祖国沖縄、大きな祖国アジア・太平洋」という方向に将来進んで行かないともかぎらない。沖縄より小さな独立国は世界にいくらでもある。いまは日本と沖縄にとってまさに、歴史的正念場である。  

2012年11月1日木曜日

仲里効著『悲しき亜言語帯』(未来社)を読む


☆★☆日本語(標準語~共通語)の<言語植民地>にされてきた沖縄(琉球)の、沖縄語~琉球諸語と日本語の間の対峙、葛藤、対決、融合、翻訳、屈従など複雑で多様な関係を解き明かした優れた本である。

☆日本本土(ヤマト)にとって<南の辺境>である沖縄のさらなる<僻地>南大東島に生まれ、東京の大学に学び、那覇市を拠点に文筆活動している著者ならではの複眼的かつ重層的な視座から問題が分析され、書かれている。

☆山之口獏、川満信一、中里友豪、高良勉の詩人4人、目取真俊、東峰夫、崎山多美の小説家3人、劇作家・知念正真、沖縄語研究者・儀間進の9人が分析対象者として登場する。私はこのうちの5人にインタビュー取材したことがあり、9人の書いたものをある程度読んでいた。だから、本書の内容は理解しやすかった。

☆川満信一は「詩と思想」で「<おまえ>に向かって問いかけ」、「内的他者」を発見した。こう著者は記す。この部分を読んで、大城立裕の『カクテル・パーティー』の後段の「お前」で突き進む記述との関連性を考えた。川満の「パナリ」(離れ(島))や、中里の「異化と同化(の相克)」という言葉も、大城作品の題名との共通点があるように思えた。

☆著者は、大城立裕を本書では正面から取り上げていない。「大城らの言語的取り組みは東峰夫に超えられてしまった」という指摘において登場する程度だ。又吉栄喜に至っては全く登場しない。詩人も、船越義彰、星雅彦、伊良波盛男らは登場しない。

☆この著者の文章の特徴は、自らの発想を支える豊かな読書体験から、引用をふんだんに盛り込むことだ。また、日本では外来語として十分には熟していない横文字言葉を盛んに用いることだ。本書でもアポリア、テクネー、エクリチュール、コノテーション、マスキュリニティー、メタモルフォーゼ、インファンティアなど枚挙にいとまがない。

☆読書に基づく引用と横文字の多さは、衒学的な印象を醸す。著者が、それらを完全に消化して自分のものとしたとき、真に読みやすい熟達した文章になるのではないか。

 

2012年8月12日日曜日

~波路はるかに~第9回

812日太平洋上にて伊高浩昭】波はあるが晴天で、静かな海だ。昨夜の「パブロ・ネルーダ朗読会」で、今回の私の船上講師としての仕事は99%終わった。「詩は決して無駄には詠われない」というネルーダの、ノーベル文学賞授賞式での言葉が甦った。11編の詩を読んだ11人の船客は、聴衆の前で朗読したことで詩人になったのだから。
 仕事は、明朝の音楽DJですべてが終わる。いま背後のバルで、ベネズエラと福島の学生たちがシンフォニーの合同演奏の練習をやっている。「ベネズエラ」という名の讃歌の音色が美しい。明日以降の発表に備えてだ。こういうのが、ピースボートのいいところだ。
 今日は、船内上映会でF・コッポラ監督の映画「三島由紀夫伝」を観た。日本では遺族の反対で未公開のままという。登場人物が話す日本語は英語字幕になるが、その上にポルトガル語の字幕がかぶさっていた。ブラジル辺りで上映されたものだろうか。面白かった。4部作で、三島の3つの作品を通じて三島の人物と美学を浮き彫りにし、最後は防衛庁での切腹の場面で終わる。インターネットで観られるというから、既に観た日本人も少なくないはずだ。
 数日前に沖縄についてシンポジウム形式の講座を開いたが、これを機に、持ってきていた『沖縄返還の代償-核と基地-密使・若泉敬の苦悩』(NHKスペシャル取材班、2012年5月、光文社)を読んだ。佐藤栄作の密使として活動した若泉の本心や、96年7月の自殺の謎を探る興味深い内容だ。乗船前に、取材班のひとり宮川徹志ディレクターから贈られていたものだ。日本外交は、密約と嘘という姑息な作風をやめない、ちっぽけな外交屋に牛耳られている。大いなる不幸だ。
 水平線が暮れてきた。オーシャンドゥリーム号は、大海原を北西の方向に斜めに進んでいる。

2012年6月16日土曜日

下嶋哲朗著『非業の生者たち』を読む

▼▽▼▽▼ノフィクション作家の下嶋哲朗が、執念の著書『非業の生者たち』(岩波書店)をついに世に出した。著者は、1975年に石垣島滞在中、読谷村チビチリガマで戦時中に集団自決があったことを知り、その現場を83年に調査した。それから30年目に、この鬼気迫る労作にして大作が世に出た。著者のライフワークであり、この著者にしか書けない本だと言えるだろう。

▽下嶋は、読谷村、沖縄、そして日本のタブーに挑戦した。社会科学的アプローチで、タブーを打ち破り、「世界」誌に2010年1月号から11年3月号にかけて14回連載した。それに加筆して、この超重量級の本が生まれた。

▼冒頭で、「(集団)自決は、自国による自国民のホロコーストといっても言いすぎではない。ナチですら、自国ドイツ民族の抹殺などは計画しなかった」と、鋭く指摘する。「世界に例を見ない、日本人特有の死の形」と(集団)自決を捉える。

▽(集団)自決には、「強制」と「自発性」の二重性がある-と前置きし、「からくも生き残った人々は、その二重性、つまり矛盾が解き明かせぬために、自ら<自己責任>に一本化させて苦しみ、よって内向するしかなく、<非業の生者たち>となった」と、核心を突く。「この本は、<非業の生者たち>の聞き書き-伏流する魂の声を聞き、それを学び、(集団)自決の真実(真相)、<強いられた自発性>の矛盾を解き明かそうとするものである」と、執筆の目的を明らかにする。

▼明治天皇、山県有朋以来の「死ぬ国民作り」に始まり、戦時中の「一億玉砕」主義、「鬼畜米英」という偽りの煽動が、多くの非戦闘員=民間人を非業の死に至らしめた。著者は、こう説く。

▽私は、戦時中に生まれ戦後に育った。日本人が開戦に踏み切りながら、日本人自身が自らの戦争責任を明確にしていない戦争の時代に生まれた者として、私も「非業の生者」であることから免れない。そんな思いを抱きつつ、この本を繰り返し読んでいる。

2012年5月16日水曜日

沖縄<施政権返還>40周年

▼▽▼日本が明治維新後、強引に日本領とした琉球(沖縄)は、太平洋戦争敗戦の1945年、米軍に占領され、施政権は日本から米国に移った。それが27年後の72年5月15日、日本に返還された。<沖縄の日本復帰>である。政府は事実関係を矮小化して<本土復帰>という不正確な用語をはやらせ、多くのマスメディアがこの言葉を用いた。施政権は沖縄と本土の間の問題ではなく、日米間の問題だった。日本から奪われ日本に還ったのであり、<日本復帰>が正しい。その施政権が日本に返還された日から40年が過ぎた。

★私は77年初めから79年末まで3年近く通信社の那覇支局員として、復帰から5~7年の沖縄情勢を取材し報道した。政府は軍事植民地状態を維持するため、沖縄経済を自立させない経済援助を続け、思想と制度の面では沖縄の日本化を推進していた。沖縄の<同化>に躍起となっていたのだ。

☆ウチナーンチュの記者たちから<ヤマトンチュ>とけなされ、毎夜、酒場で喧嘩や論争を吹っ掛けられた。そうするうちに理解し合って、多くの友人ができ、友情は今日まで続いている。

★この40年間、知事選は革新4勝、保守7勝。知事在職期間は革新14年、保守26年である。現在の保守・仲井真知事になってから、保守知事でありながら、米海兵隊普天間航空基地の辺野古移転に反対を表明するようになった。それまでの20年余りの保守県政は、対米従属主義の自民党政権と歩調を合わせて米軍基地の存在をやむなしとしていた。

☆いまや沖縄の生活は相当に豊かである。特に第三世界諸国の状況と比べるのが無意味なほど発展している。その発展の過程で、有権者の過半数が保守の知事をより多く選んできた。現在の知事が普天間問題で政府に<異議>を唱えたのは、沖縄の県民生活の向上と無縁ではないだろう。

★沖縄経済は依然自立していない。だが生活はかなり豊かになった。いまこそ政治面で主張すべきだという次元に達したのではないだろうか。政府の長年の分断統治策は効力を失いつつある。保革が本気で一致して声を大にすれば、軍事基地は動かざるを得なくなるだろう。

☆<心あるヤマトンチュ>は、政府と沖縄保守県民・政界の、軍事基地維持における<共犯性>に長らく疑念を抱き、心を痛めていた。この<共犯性>は、沖縄保守の変化によって薄れてきた。

★現実問題として日本は、海軍増強などによる軍事圧力と尖閣諸島領有権問題で中国から揺さぶられている。沖縄は、その最前線にある。中国には人口圧力もある。「沖縄・日本」対「中国」という、<一衣帯水の宿命>である。だが<宿命>も長期的には変化しうる。

☆現時点で考えられる打開策は、沖・日がじっくり話し合い、その結果を踏まえて日米が協議を重ね、沖縄から米国の海兵隊および陸軍の基地をなくしていくことだろう。そのためには、沖縄と本土の世論が一致しなければならない。米海空両軍の基地の扱いは、将来の課題となる。日米協議では、政府間だけに限らず、有権者の代表である国会議員同士の協議が不可欠だ。

★沖縄における自衛隊基地の在り方も当然、関連付けて協議されなければならない。

☆復帰40周年に際して、沖縄について書いた。上記の矮小化に関連してもう一例挙げれば、日米安保条約に付随する「在日米軍地位協定」を、政府は「日米地位協定」と訳し、メディアもこれに追随している。この協定は「日米」ではなく、「在日米軍」の地位に関するものだが、政府訳では意味が極めて曖昧になる。軍事植民地状態にある政府官僚の卑屈さの顕れとも言えようか。 沖縄のメディアまでが「日米。。。」とやっているが、なぜだろうか。

【『沖縄アイデンティティー』(1986年、マルジュ社)、『双頭の沖縄』(2001年、現代企画室)、『沖縄-孤高への招待』(02年、海風書房)=いずれも拙著=参照】

2011年11月30日水曜日

喜納昌吉ら沖縄御三家<奇蹟の競演>

★☆★☆★沖縄民衆音楽界を率いてきた喜納昌吉(63)、知名定男(66)、照屋林賢(62)=アイウエオ順!=が12月1日、<歴史的競演>をする。相互にライバル意識が強く、「絶対に交わらない三ツ星(ミーチブシ)」と言われた3人だが、共通の友人でフォークシンガーの南こうせつの仲立ちで実現することになった。司会は南が務める。

   会場は、3人が育った沖縄市(旧コザ市)の沖縄市民小劇場で19:30から。

   「LIVEコザ 三線SAMURAI~島うた40年史」がコンサート名。(なぜ沖縄でサムライなのか、やや違和感がある。)

   私は10月初め那覇で昌吉に会った際、この合同コンサートの 話を聞いた。「信じられない」と言うと、「僕自身が信じられないさ。こうせつの熱意に折れざるをえなかった、としか言いようがない」と昌吉。

   宣伝ビラに刷り込む名前の順番とか、誰がトリになるかとか、打ち合わせが大変だったらしい。「とにかく、やってみないと、どんなコンサートになるのかわからないさ」

   新聞は「歴史的競演」、「奇蹟の競演」などと書いて、前景気を煽っている。

   私は1977~79年、3年近く通信社の那覇支局にいて、沖縄情勢を取材し報道した。昌吉とは当時からの友人。定男は「バイバイ沖縄」が大ヒットした時インタビューし、その後、ペルーのクスコ郊外でばったり出会ったことがある。照屋は、林賢よりも、父親の林助(故人、漫談家)の方をよく知っていた。

   ライブを聴けないのが残念だが、ビデオで必ず観る。3人のシンガー・ソングライターも年をとった。だから対立を棚上げし、融和のひと時を共有しようと同意し合ったのだろう。

(2011年11月30日 伊高浩昭執筆)

【沖縄の日本復帰(米国から日本への施政権返還)から間もない1970年代後半の状況や、若き日の喜納昌吉の活動については、拙著『沖縄アイデンティティー』(1986年、マルジュ社)を参照されたい。また沖縄の21世紀初頭までの状況については、拙著『双頭の沖縄』(2001年、現代企画室)をどうぞ】