国連公認のNGOピースボート(PB)が企画し、旅行代理店ジャパン・グレイス(JG)が運営する世界一周船には、「水先案内人」(水案)と呼ばれる船上講師が交代で乗船する。国際情勢、沖縄、環境、人権・反差別、軍事・反核、教育、世界遺産などの語り手から、冒険家、奇術師、落語家、俳優、音楽家、スポーツ選手、画家、歌手、料理評論家、自立生活者などまで、様々な分野の専門家たち約70人である。
その望年会が12月7日、昨年に続いて、横浜港大桟橋停泊中のPB「オーシャン・ドゥリーム号」の船内で開かれた。初代ルポライター鎌田慧、フォトジャーナリスト豊田直巳らジャーナリズム関係者を始め、アニメーション作家や細川佳代子(元首相夫人)ら40人が集い、PB・JGスタッフと歓談した。軍事ジャーナリスト前田哲男は珍しく欠席。落語家古今亭菊千代も多忙で不参加だった。
昨年3月死去したアイヌ研究・文化運動推進者の計良光範、今年10月死去した登山家田部井淳子の不在を感じた。親しい水案仲間だった。
PBの旅客船運航は1983年に始まった。それから数えて100回目の記念航海が2018年12月から96日間、アフリカ・南米南端周りで実施される。この南周り航海の内容が望年会場であらためて発表された。
私は92回航海をホノルルで切り上げ11月半ば過ぎに帰国したばかりだったが、20日ぶりに船上で仲間たちと再会できた。船は明日9日、南周りの第93回航海に乗客1000人乗せて出航する。
その中にはシンガポール、上海、台湾などの華人客が60人含まれている。従来の英西両語に加え、中国語通訳も乗船する。今後、乗客の多国籍化が急速に進むと見られており、水案講座の主題も変化してゆくだろう。
2016年12月8日木曜日
2016年11月28日月曜日
~~波路遥かに2016年10~11月~第6回ジャマイカ-パナマ-グアテマラ~~
ジャマイカは北西端の観光地モンテゴベイに入港する。秋田県とほぼ同じ面積の島国で、対角線つまり南東端に首都キングストンがある。首都はいろいろな意味で面白いが、保養地は、それを楽しむつもりのない者にはつまらない。
記者時代から何度も来ている所、特に取材上の興味はない。今回は船内生活でなまりがちの足腰を鍛えるため、港から中心部まで5kmの海岸通りを1時間余りかけてゆっくりと歩いた。
海浜のディスコテカはレゲエの踊り場で、ビールやラム酒を飲みながら何時間も踊り続ける。汗をかけば、海につかる。売店では、ブルーマウンテンコーヒーやラム酒を売っている。
武者爺と羽後さんは下船した。カナダ西部で過ごしてから帰国するとのこと。夜出港、パナマ運河北岸(カリブ海)のコロン市クリストーバル港に着くまでの中一日には、パナマ史とパナマ運河史を語った。
クリストーバル港に入港。11月に入った。 ジャマイカで乗った草緑色の小鳥は、運河通航中に密林に消えた。また移民鳥が出た。
クリストーバル・コロンの姓名をクリストーンバル港とコロン市の名前に分けて使っている。太平洋岸に最初に到達したスペイン人の名前バルボアは、パナマ市の港名とパナマ通貨の名となっている。
パナマは6月に来て取材したばかりなので、港構内で休養した。夕刻、友人ワゴと何年振りかで再会した。クナ民族で、モラの専門家だ。たまに乗船し、モラを語ることがある。
翌日、早朝から運河を通航する。運河入口の東側に6月開通したばかりの運河第3水路入口が見えた。通航中、時折、第3水路を通航中の巨大コンテナ船のコンテナの山が密林の上をゆっくりと動くのが見える。旧来の運河は10回は通った。一度、第3水路を通航してみたいものだ。
パナマ市のバルボア港を横に観て太平洋に出る時、東方の彼方にパナマ市新都心の高層ビル群のスカイラインが見える。「パナマ文書」事件の中心となっている弁護士事務所は、そこにある。
運河を出て中2日で、グアテマラのケッツァール港に着く。これに備え、グアテマラ史を講義した。同港1日目は、乗り合いタクシーで行ったアンティグア市で独りのんびり過ごした。4年ぶりだった。いつ来ても思うのだが、半世紀前とほとんど変わらない風情だ。
2日目は資料整理に当てた。船の陰に群がる魚たちは飢えている。大きな魚が小魚を追いまわし、食べてしまう。束の間ながら共食いを止めさせようと、パンくずをやった。船はメヒコのマンサニージョ港を目指す。
記者時代から何度も来ている所、特に取材上の興味はない。今回は船内生活でなまりがちの足腰を鍛えるため、港から中心部まで5kmの海岸通りを1時間余りかけてゆっくりと歩いた。
海浜のディスコテカはレゲエの踊り場で、ビールやラム酒を飲みながら何時間も踊り続ける。汗をかけば、海につかる。売店では、ブルーマウンテンコーヒーやラム酒を売っている。
武者爺と羽後さんは下船した。カナダ西部で過ごしてから帰国するとのこと。夜出港、パナマ運河北岸(カリブ海)のコロン市クリストーバル港に着くまでの中一日には、パナマ史とパナマ運河史を語った。
クリストーバル港に入港。11月に入った。 ジャマイカで乗った草緑色の小鳥は、運河通航中に密林に消えた。また移民鳥が出た。
クリストーバル・コロンの姓名をクリストーンバル港とコロン市の名前に分けて使っている。太平洋岸に最初に到達したスペイン人の名前バルボアは、パナマ市の港名とパナマ通貨の名となっている。
パナマは6月に来て取材したばかりなので、港構内で休養した。夕刻、友人ワゴと何年振りかで再会した。クナ民族で、モラの専門家だ。たまに乗船し、モラを語ることがある。
翌日、早朝から運河を通航する。運河入口の東側に6月開通したばかりの運河第3水路入口が見えた。通航中、時折、第3水路を通航中の巨大コンテナ船のコンテナの山が密林の上をゆっくりと動くのが見える。旧来の運河は10回は通った。一度、第3水路を通航してみたいものだ。
パナマ市のバルボア港を横に観て太平洋に出る時、東方の彼方にパナマ市新都心の高層ビル群のスカイラインが見える。「パナマ文書」事件の中心となっている弁護士事務所は、そこにある。
運河を出て中2日で、グアテマラのケッツァール港に着く。これに備え、グアテマラ史を講義した。同港1日目は、乗り合いタクシーで行ったアンティグア市で独りのんびり過ごした。4年ぶりだった。いつ来ても思うのだが、半世紀前とほとんど変わらない風情だ。
2日目は資料整理に当てた。船の陰に群がる魚たちは飢えている。大きな魚が小魚を追いまわし、食べてしまう。束の間ながら共食いを止めさせようと、パンくずをやった。船はメヒコのマンサニージョ港を目指す。
2016年11月25日金曜日
~~波路遥かに2016年10~11月~第5回バハマ-キューバ~~
船はNYからバハマの首都ナッソーに着いた。NYでヤンキーの雀2羽が乗船、甲板レストランのパンくずを盛んについばんでいたが、ナッソーでうち1羽が港に近い椰子の林に飛んで行った。渡り鳥ならぬ移住鳥はこうして生まれる!
だが1羽は船内に残った。どこまで同道するのだろう。日本の入管を通るだろうか? 気になって仕方がない。バハマに着くまでの中2日間は、バハマ史を講義し、さらにクーバ訪問に備え、国交再開に至る玖米関係を話した。
ナッソーはラ米・カリブ33カ国の中で、一人当たり所得が一番高い。だが観光とオフショー金融で持っている。いずれも他力本願の産業であり、長年これに頼っていれば、自力更生、自助の精神は弱まってしまう。外資と外国人観光客の遊びの楽園、投資家や富裕層の脱税天国と批判されてきた。
クリストーバル・コロン(コロンブブス)は1492年10月12日、バハマ諸島のある島に漂着、その島をサンサルバドール島と名付けた。ナッソーの政府庁舎の前には小さなコロン像がある。
政府関係機関をはじめ3権の施設はみな、壁が桃色に塗られていて、わかりやすい。熱帯の島なのに、役人や護衛らは、真っ黒なスーツで身を固めている。これは、カリブ諸島の流行の一つだ。観光客らは、港近くの酒場に群がり、ラム酒、ビール、ほら貝の厚い肉を食べていた。
ナッソーからハバナの間の中1日、武者爺と広範なテーマで対談した。学生時代から論文を読み発言を聴いていた知の大家と演壇に並ぶとは、考えたこともなかった。武者爺、羽後さんとは船内酒場で、よく飲み語り合い、閃きを得た。
ハバナは、自営業者が大きく増え、あちこちで営業していた。外貨に対応する兌換ペソと、安いクーバペソのどちらでも物資を買える店が数多く出来ていた。ラウール政権の、二重通貨統合促進政策の現れだ。一方で、伝統的な配給所では、鶏肉を安く売っていた。渋面の市民たちが黙して順番を待っていた。
来年封切られる日玖合作映画「エルネスト」の阪本順治監督の補佐を務めたクーバ映画人ロランド・アルミランテには8月東京でインタビューしていたが、再会し、自宅での昼食会に招かれた。面白い談義が展開された。
その後、星条旗ひらめく米大使館を見てから、海岸通りマレコンを歩き、メイン号爆破事件記念碑の下で、仲睦まじい白人男と黒人女に会った。男性は建設現場で働いているが、資材不足で毎半ドンという。女性は家事手伝い。
革命広場に行くと言うと、遠いから近道を案内しようと言われ、ハバナリブレホテル、ハバナ大学、コロン墓地を巻いて、広場に行き着くことができた。ここを見ないと、ハバナにいる気分になれないのだ。
そこからは乗り合いバスで港近くに行った。彼らから生活苦を詳しく聞いた。市場経済原理の正式導入から5年半、市民の間の経済格差は開く一方だ。空腹がたまらないと言う。めったに飲めないというラム酒の大瓶を買い、道案内のお礼に渡した。タクシーとバスは使ったが、ずいぶん歩いた。それなりに取材ができた。
船内で、1968年の日玖合作映画「キューバの恋人」(黒木和雄監督、津川雅彦主演)を流した。先に、オリヴァー・ストーン監督の「我が友ウーゴ」(2013年)を流したのに次ぎ2本目の映画鑑賞。
実り多い2日間の滞在だった。国連総会は、米国の対玖経済封鎖解除決議を賛成191、反対無し、棄権2(米国、イスラエル)で可決した。1992年以来連続25回目の可決だが、ずっと反対していた米国(イスラエルも)は初めて棄権した。次の政権に封鎖解除を託したのだ。ハバナは、この「歴史的勝利」に沸いていた。
それが26日。翌27日には国連総会第1委員会(軍縮)が「核兵器禁止条約」交渉を来年開始するという決議を、賛成123カ国、反対38カ国、棄権16カ国で可決した。唯一の被爆国日本は、米国に同調して反対に回った。ピースボートの反核専門家、川崎哲は国連で怒りの声明を発表した。
船はジャマイカに向かう。音楽番組でボブ・マーリーの人生とレゲエを紹介。講座ではジャマイカ史を語った。夜半、暴風雨が襲来した。夜が明けると、雀がいなくなっていた。心が痛む。
だが1羽は船内に残った。どこまで同道するのだろう。日本の入管を通るだろうか? 気になって仕方がない。バハマに着くまでの中2日間は、バハマ史を講義し、さらにクーバ訪問に備え、国交再開に至る玖米関係を話した。
ナッソーはラ米・カリブ33カ国の中で、一人当たり所得が一番高い。だが観光とオフショー金融で持っている。いずれも他力本願の産業であり、長年これに頼っていれば、自力更生、自助の精神は弱まってしまう。外資と外国人観光客の遊びの楽園、投資家や富裕層の脱税天国と批判されてきた。
クリストーバル・コロン(コロンブブス)は1492年10月12日、バハマ諸島のある島に漂着、その島をサンサルバドール島と名付けた。ナッソーの政府庁舎の前には小さなコロン像がある。
政府関係機関をはじめ3権の施設はみな、壁が桃色に塗られていて、わかりやすい。熱帯の島なのに、役人や護衛らは、真っ黒なスーツで身を固めている。これは、カリブ諸島の流行の一つだ。観光客らは、港近くの酒場に群がり、ラム酒、ビール、ほら貝の厚い肉を食べていた。
ナッソーからハバナの間の中1日、武者爺と広範なテーマで対談した。学生時代から論文を読み発言を聴いていた知の大家と演壇に並ぶとは、考えたこともなかった。武者爺、羽後さんとは船内酒場で、よく飲み語り合い、閃きを得た。
ハバナは、自営業者が大きく増え、あちこちで営業していた。外貨に対応する兌換ペソと、安いクーバペソのどちらでも物資を買える店が数多く出来ていた。ラウール政権の、二重通貨統合促進政策の現れだ。一方で、伝統的な配給所では、鶏肉を安く売っていた。渋面の市民たちが黙して順番を待っていた。
来年封切られる日玖合作映画「エルネスト」の阪本順治監督の補佐を務めたクーバ映画人ロランド・アルミランテには8月東京でインタビューしていたが、再会し、自宅での昼食会に招かれた。面白い談義が展開された。
その後、星条旗ひらめく米大使館を見てから、海岸通りマレコンを歩き、メイン号爆破事件記念碑の下で、仲睦まじい白人男と黒人女に会った。男性は建設現場で働いているが、資材不足で毎半ドンという。女性は家事手伝い。
革命広場に行くと言うと、遠いから近道を案内しようと言われ、ハバナリブレホテル、ハバナ大学、コロン墓地を巻いて、広場に行き着くことができた。ここを見ないと、ハバナにいる気分になれないのだ。
そこからは乗り合いバスで港近くに行った。彼らから生活苦を詳しく聞いた。市場経済原理の正式導入から5年半、市民の間の経済格差は開く一方だ。空腹がたまらないと言う。めったに飲めないというラム酒の大瓶を買い、道案内のお礼に渡した。タクシーとバスは使ったが、ずいぶん歩いた。それなりに取材ができた。
船内で、1968年の日玖合作映画「キューバの恋人」(黒木和雄監督、津川雅彦主演)を流した。先に、オリヴァー・ストーン監督の「我が友ウーゴ」(2013年)を流したのに次ぎ2本目の映画鑑賞。
実り多い2日間の滞在だった。国連総会は、米国の対玖経済封鎖解除決議を賛成191、反対無し、棄権2(米国、イスラエル)で可決した。1992年以来連続25回目の可決だが、ずっと反対していた米国(イスラエルも)は初めて棄権した。次の政権に封鎖解除を託したのだ。ハバナは、この「歴史的勝利」に沸いていた。
それが26日。翌27日には国連総会第1委員会(軍縮)が「核兵器禁止条約」交渉を来年開始するという決議を、賛成123カ国、反対38カ国、棄権16カ国で可決した。唯一の被爆国日本は、米国に同調して反対に回った。ピースボートの反核専門家、川崎哲は国連で怒りの声明を発表した。
船はジャマイカに向かう。音楽番組でボブ・マーリーの人生とレゲエを紹介。講座ではジャマイカ史を語った。夜半、暴風雨が襲来した。夜が明けると、雀がいなくなっていた。心が痛む。
2016年11月23日水曜日
~~波路遥かに2016年10~11月~第4回ニューヨーク~~
久々のNYマンハッタンをハドソン川から眺める。昼、友人一家3人が来訪、船上で会食する。次いで、別の友人、NY在住30年に及ぼうとしている音楽家の大竹史朗が来訪。ギタリストにして、作曲家だ。歌も歌う。かつてはモダンダンサーでもあった。
若いころ、アタウアルパ・ユパンキに心酔、一瞬の出会いに閃きを得て、亜国フォルクローレに集中した。ユパンキから「エル・アリエロ」(馬を引く人)、言わば吟遊詩人パヤドールに近い呼び名をもらった。
今では、バッハの古典から現代アメリカ(大陸世界)音楽に至る統合的な「イベロアメリカ」音楽の創設に邁進している。だがフォルクローレも大切にしており、ユパンキと聞き間違うほどのギターの演奏技術も保っている。
牛車ならぬ、彼の車に揺られながら、ハーレムのアフリカ系街、同ラ米系街を散策。次いで、イースト川沿いを抜けて、グリニッジヴィレッジへ。その間、エル・アリエロの語る言葉を取材した。いずれ記事になるだろう。
夜は、オーシャン・ドクリーム船内で、事務次長を含む国連の関係者、ジャーナりストらNY在住者500人を招いての会合と、大パーティーに史朗と共に出席、参加した。何人もの懐かしい顔ぶれに再会した。
「おりづる」(被爆者ら)一行と反核兵器チームは、この日、国連を訪れ、反核運動を展開した。
二日目は、大ぶりの雨の中、傘ささず、びしょぬれになって、3時間近く歩いた。埠頭から中央公園角のコロンブスサークル、ブロードウェイ。タイムズスクエアを経て、数ブロック先を曲がり、帝国ビルに出、五番街。途中、ロックフェラープラザから曲がって、埠頭に戻った。
友人の居るK通信NY支局に寄ろうかと思ったが、大統領選挙間近ゆえに、訪問を敢えて避けた。(後で、寄ってほしかったと、その友人からeメイルで言われた。)
NYを離れ行く船上から、9・11事件の後に聳え立つ新しい高層ビルを眺めた。NYからは西語CC(通訳)3人が乗ってきたが、その一人から、スペイン関係情報会社イスパニカの井戸光子前社長が癌で20日死去したと伝えられた。四半世紀来の友人だった。
その後、間もなくして今度は、登山家の田部井淳子の癌死の情報が届いた。同じ20日のことだった。思えば、かつて船上講師仲間同士。成田からNYに同道し、NYやタンパを歩き回り、愉快に談笑したお姉さんだった。ラテン名を付けてほしいと言われ、「アンディーナ」と名付けた。「アンデスの女」を意味する。登山家にふさわしく、とても喜んでいた。
去年末、第88回航海でタヒチ・サモア間をご一緒するはずだったが、病院検査で田部井さんは乗らなかった。このため船内で、登山家田部井さんに関する会合を開いた。そのころから予感はあった。追悼会合を開かねば。
オランダは、アムステルダムの東インド会社の支店をカリブ海のクラサオ(キュラソー)に置き、マンハッタンと三角航路を拓いていた。だが英国との戦に負け、マンハッタンを奪われ、代わりに南米北部のギアナをもらった。それが今日、独立してスリナムになっている。
武者小路爺が87歳の誕生日を迎えた。船内の大食堂と和式酒場で祝宴を開いた。船はバーミューダ三角海域を航行、バハマに向かう。
若いころ、アタウアルパ・ユパンキに心酔、一瞬の出会いに閃きを得て、亜国フォルクローレに集中した。ユパンキから「エル・アリエロ」(馬を引く人)、言わば吟遊詩人パヤドールに近い呼び名をもらった。
今では、バッハの古典から現代アメリカ(大陸世界)音楽に至る統合的な「イベロアメリカ」音楽の創設に邁進している。だがフォルクローレも大切にしており、ユパンキと聞き間違うほどのギターの演奏技術も保っている。
牛車ならぬ、彼の車に揺られながら、ハーレムのアフリカ系街、同ラ米系街を散策。次いで、イースト川沿いを抜けて、グリニッジヴィレッジへ。その間、エル・アリエロの語る言葉を取材した。いずれ記事になるだろう。
夜は、オーシャン・ドクリーム船内で、事務次長を含む国連の関係者、ジャーナりストらNY在住者500人を招いての会合と、大パーティーに史朗と共に出席、参加した。何人もの懐かしい顔ぶれに再会した。
「おりづる」(被爆者ら)一行と反核兵器チームは、この日、国連を訪れ、反核運動を展開した。
二日目は、大ぶりの雨の中、傘ささず、びしょぬれになって、3時間近く歩いた。埠頭から中央公園角のコロンブスサークル、ブロードウェイ。タイムズスクエアを経て、数ブロック先を曲がり、帝国ビルに出、五番街。途中、ロックフェラープラザから曲がって、埠頭に戻った。
友人の居るK通信NY支局に寄ろうかと思ったが、大統領選挙間近ゆえに、訪問を敢えて避けた。(後で、寄ってほしかったと、その友人からeメイルで言われた。)
NYを離れ行く船上から、9・11事件の後に聳え立つ新しい高層ビルを眺めた。NYからは西語CC(通訳)3人が乗ってきたが、その一人から、スペイン関係情報会社イスパニカの井戸光子前社長が癌で20日死去したと伝えられた。四半世紀来の友人だった。
その後、間もなくして今度は、登山家の田部井淳子の癌死の情報が届いた。同じ20日のことだった。思えば、かつて船上講師仲間同士。成田からNYに同道し、NYやタンパを歩き回り、愉快に談笑したお姉さんだった。ラテン名を付けてほしいと言われ、「アンディーナ」と名付けた。「アンデスの女」を意味する。登山家にふさわしく、とても喜んでいた。
去年末、第88回航海でタヒチ・サモア間をご一緒するはずだったが、病院検査で田部井さんは乗らなかった。このため船内で、登山家田部井さんに関する会合を開いた。そのころから予感はあった。追悼会合を開かねば。
オランダは、アムステルダムの東インド会社の支店をカリブ海のクラサオ(キュラソー)に置き、マンハッタンと三角航路を拓いていた。だが英国との戦に負け、マンハッタンを奪われ、代わりに南米北部のギアナをもらった。それが今日、独立してスリナムになっている。
武者小路爺が87歳の誕生日を迎えた。船内の大食堂と和式酒場で祝宴を開いた。船はバーミューダ三角海域を航行、バハマに向かう。
2016年11月22日火曜日
~~波路遥かに2016年10~11月~第3回ニューヨークまで~
レイキャビックからNYまでの1週間は、国連で核兵器禁止条約が議論されているのに関連付けて、「反核兵器」が中心テーマとなった。反核兵器専門家であるピースボート共同代表・川崎哲を中心に、さまざまな国籍の反核活動家らが連日華々しくも真剣に討論した。
広島・長崎への原爆投下を命じた故トルーマン大統領の孫クリフトン・トルーマン・ダニエル(59)=米地方コラムニスト=は、「広島原爆投下に関する記述を乗せた教科書を読んだ息子に触発され、2012、13年、息子らと訪日、被爆者証言を聴いた」と切り出し、被爆死した佐々木禎子の家族と交流し、折り鶴を通じて平和を発信する活動をするに至った過程を語った。ミズーリ州内にあるトルーマン大統領記念館の名誉館長であり、館内に「禎子伝承」の在米窓口を設けている。
NHKが今夏流した原爆投下の真相では、軍部が原爆投下の効果を確認するための実験として日本の5カ所を標的に選び、トルーマン大統領の意志が定かでないまま最初の2カ所に投下された事実が明るみに出された。あまりにもひどい惨劇に驚愕した大統領側近は3発以降の投下を禁止した。だがトルーマンは「多数の米兵の命を救い、早期終戦を招くため必要だった」と釈明せざるを得なかった。これについてクリフトンは、「その番組内容は私にとっても初耳だった」と言った。
原爆投下時にエノラゲイなど米軍機2機のいずれにも搭乗していた軍事技士を祖父を持つアリ・ビーザー(28)は、被爆者について米国人に伝え、祖父のことを日本人に語りながら、「戦争という過ちを繰り返さないため」活動している。クリフトンの訪日に同行したこともある。外国人「地球大学生」として船内で発言を続けた。
元国連軍職担当上級政務官の米国人ランディ・ライデルは、核兵器禁止をめぐり核保有国と非保有国の間で激しい闘争が展開されてきた経緯を語り、合意達成の難しさを説明した。
イスラエルの核兵器対策について訊くと、「彼らは持っていないと否定するから、取り組みは難しい」と肩をすくめた。かつて小型核弾頭を保有していた南アフリカの首都プレトリアの核施設で原爆製造の跡を見た、とも語った。
船内では、国連が推進してる「持続可能な開発のための17目標(SDGs)」をめぐる講演会や話し合いも活発に展開された。オーシャン・ドゥリーム号の船体には、17目標のロゴが描かれている。
知的大家の武者小路公秀は地球規模の文明論を展開。国際政治やジェンダー論の専門家である羽後静子は、17目標を解説、分析し、TPP(環太平洋連携協定)の問題点を鋭く指摘した。
私はと言えば、NYとクーバに備え、「クーバ革命体制の変遷」、「チェ・ゲバラ論」、「NYの歴史」などを語った。音楽番組では、ファド、シャンソン、カントリーをやった。
グリーンランド南方、ニューファウンドランド東方の海は寒く、波が高かった。だが、徐々に暖かさが増してゆく。オーロラの余韻を楽しみつつも、心は南下する。
2016年11月21日月曜日
~~波路遥かに2016・10~11月~第2回アイスランド~
オーシャン・ドゥリーム号は10月9日、アイスランド北岸沖の、北極海外縁部に入り、北緯66度付近を航行する。そして10日未明、曇り空が突然晴れ、頭上に北極星と北斗七星が輝き始めて間もなく、私たちは幻想の世界に招き入れられた。
北極の方面から白い光の帯が縦に何本も垂直に打ち上がり、両側の2本が高速度で伸びてきて、太い光になった。オーロラである。乗船していたアイスランド人専門家は「北の光」と呼んでいる。日本語では「極光」。北極光だ。南極光もあるからだ。
この航海最大の見ものが叶えられた。船の西側に高く太く迫ったオーロラの先端は、カーテンのように巻いて、ちりちりと燃えてゆく。何という光景だろう! 生涯忘れることはないだろう。そしてオーロラはいったん隠れてから、再び現れ、今度は船の真上に厚い光の幕となって、私たちを歓迎した。
夜が明けて、島国の西側の狭湾(フィーヨルド)に入る。鯨の群があちこちで塩を吹き、大きな頭と尾びれを何度も見せてくれた。鯨の上を海鳥が飛び交う。小魚に有り付こうとしているのだ。
首都レイキャビックには2日間、滞在した。雨が降り続けた。ルター派教会の大聖堂前で良い取材ができた。1000年の伝統を持つ議会や、オーロラ博物館、伝承文学館も訪ねた。交通費を含め物価は高い。物資の多くを島外からの輸入に頼るからだろう。
船の仲間である「おりづる」一行(広島・長崎被爆者と被爆語り部継承者ら)が市庁舎で市長と会い、学生たちの前で被爆体験を語る会合に私も出席した。
レイキャビックから乗船した故トルーマン米大統領の孫も参加した。その後ニューヨークまで、彼と語ったり、彼の講演を聴くことになる。原爆を投下した米軍機の乗員の孫も乗っている。彼とも話すことになる。
北極の方面から白い光の帯が縦に何本も垂直に打ち上がり、両側の2本が高速度で伸びてきて、太い光になった。オーロラである。乗船していたアイスランド人専門家は「北の光」と呼んでいる。日本語では「極光」。北極光だ。南極光もあるからだ。
この航海最大の見ものが叶えられた。船の西側に高く太く迫ったオーロラの先端は、カーテンのように巻いて、ちりちりと燃えてゆく。何という光景だろう! 生涯忘れることはないだろう。そしてオーロラはいったん隠れてから、再び現れ、今度は船の真上に厚い光の幕となって、私たちを歓迎した。
夜が明けて、島国の西側の狭湾(フィーヨルド)に入る。鯨の群があちこちで塩を吹き、大きな頭と尾びれを何度も見せてくれた。鯨の上を海鳥が飛び交う。小魚に有り付こうとしているのだ。
首都レイキャビックには2日間、滞在した。雨が降り続けた。ルター派教会の大聖堂前で良い取材ができた。1000年の伝統を持つ議会や、オーロラ博物館、伝承文学館も訪ねた。交通費を含め物価は高い。物資の多くを島外からの輸入に頼るからだろう。
船の仲間である「おりづる」一行(広島・長崎被爆者と被爆語り部継承者ら)が市庁舎で市長と会い、学生たちの前で被爆体験を語る会合に私も出席した。
レイキャビックから乗船した故トルーマン米大統領の孫も参加した。その後ニューヨークまで、彼と語ったり、彼の講演を聴くことになる。原爆を投下した米軍機の乗員の孫も乗っている。彼とも話すことになる。
2016年11月20日日曜日
~~波路遥かに2016年10~11月~第1回ティルベリーから~
10月初め成田空港を飛び立って2時間半、韓国西岸のインチョン空港に着いた。東アジアのハブ空港を目指すだけに規模が大きい。海の浅瀬を埋め立てた広大な空の港だ。朝鮮(韓国)語が耳にリズムよく飛び込んでくる。
ロンドン行きのアシアナ航空便も空港同様、韓国(朝鮮)語の合唱だった。本場のキムチが付いた機内食はうまかった。夜遅く、ヒースロー空港に着く。
同じ朝、成田空港を私の1時間後に別の便でアムステルダム経由で出発した写真家水本さんが1時間先に着いていて、私を迎えてくれた。ロンドンの街を観ることなく、テムズ川沿いを東方の河口に向かって2時間近く走る。河口に近いティルベリー港に、慣れ親しんできたNGOピースボートの世界周遊船「オーシャン・ドゥリーム」号がいつも通り、白く優雅な姿で迎えてくれた。
翌日、テムズ川を小舟で渡り、南岸に拡がるティルベリーの街を水本さんと散策する。ロンドンを築いた財は、何世紀にも亘って、この港から運び込まれた。往時の繁栄を偲ばせる街並みだ。
次の日、ベルギーのブルージュを歩いた。中世が残る美しい古都だ。何十羽もの白鳥が川べりの緑に遊び、運河を小舟が行き交う。乗っているのは、外国人観光客ばかりだ。
ベルギーは特にコンゴで収奪し、無数のアフリカ人を凄まじく殺戮した。そこで奪った富とブルージュとの関係性は、時代の落差もあって定かではないが、「コンゴ動乱」を想起しつつ街を歩き回った。
翌日はアムステルダムだ。何十年振りかで、中央駅の輝く姿を観た。海に繋がる運河は、幾つかの水面の高低を調整する水門を経て、この古都まで繋がっている。昔、東インド会社の本店がここにあった。
この会社のアジア拠点はジャカルタで、そこから平戸、長崎にオランダ人たちはやってきた。そして幕府に、「スペインとポルトガルは日本領土奪取を策謀している」と耳打ちした。これが鎖国の原因の一つとなった。彼らによる収奪と、彼らがもたらした「蘭学」を思いつつ、市電を乗り継いでゴッホ美術館に行き、懐かしい絵に再会した。
船内で船上講師たちが紹介された。ティルベリーから乗った武者小路公秀・羽後静子両先生、アムステルダム乗船の細川元首相夫人らが紹介された。 私も、紹介された講師の一人である。
私は最初の講座として「アイスランドの歴史」を語った。『原爆基地』(1948年)を書き55年にノーベル文学賞を受賞したハルドル・ラックスネスや、今をときめく警察小説作家アーナルディルについても話した。「音楽番組」では、東方の彼方のロシアを思いやり、ロシア民謡をまず紹介した。
外界の情報が正確かつ詳細に船に届くには時間がかかる。コロンビアから到着した、内戦終結のための和平合意承認の是非を問う10月2日実施の国民投票結果は、1ポイント以下の超僅差で「不承認」が勝った。6月の英国のEU脱退を決める国民投票で脱退賛成派が僅差で勝ったのに次ぐ「番狂わせ」だ。
ならば11月8日に迫る米大統領選挙も、両候補のどちらが勝ってもおかしくない。カリブ海のハイチとキューバを「マシュー」と命名された大型ハリケーンが襲った。10月9日実施予定のハイチ大統領選挙は11月20日に延期された。
船は北海を北北西に進む。目指すはアイスランドだ。
ロンドン行きのアシアナ航空便も空港同様、韓国(朝鮮)語の合唱だった。本場のキムチが付いた機内食はうまかった。夜遅く、ヒースロー空港に着く。
同じ朝、成田空港を私の1時間後に別の便でアムステルダム経由で出発した写真家水本さんが1時間先に着いていて、私を迎えてくれた。ロンドンの街を観ることなく、テムズ川沿いを東方の河口に向かって2時間近く走る。河口に近いティルベリー港に、慣れ親しんできたNGOピースボートの世界周遊船「オーシャン・ドゥリーム」号がいつも通り、白く優雅な姿で迎えてくれた。
翌日、テムズ川を小舟で渡り、南岸に拡がるティルベリーの街を水本さんと散策する。ロンドンを築いた財は、何世紀にも亘って、この港から運び込まれた。往時の繁栄を偲ばせる街並みだ。
次の日、ベルギーのブルージュを歩いた。中世が残る美しい古都だ。何十羽もの白鳥が川べりの緑に遊び、運河を小舟が行き交う。乗っているのは、外国人観光客ばかりだ。
ベルギーは特にコンゴで収奪し、無数のアフリカ人を凄まじく殺戮した。そこで奪った富とブルージュとの関係性は、時代の落差もあって定かではないが、「コンゴ動乱」を想起しつつ街を歩き回った。
翌日はアムステルダムだ。何十年振りかで、中央駅の輝く姿を観た。海に繋がる運河は、幾つかの水面の高低を調整する水門を経て、この古都まで繋がっている。昔、東インド会社の本店がここにあった。
この会社のアジア拠点はジャカルタで、そこから平戸、長崎にオランダ人たちはやってきた。そして幕府に、「スペインとポルトガルは日本領土奪取を策謀している」と耳打ちした。これが鎖国の原因の一つとなった。彼らによる収奪と、彼らがもたらした「蘭学」を思いつつ、市電を乗り継いでゴッホ美術館に行き、懐かしい絵に再会した。
船内で船上講師たちが紹介された。ティルベリーから乗った武者小路公秀・羽後静子両先生、アムステルダム乗船の細川元首相夫人らが紹介された。 私も、紹介された講師の一人である。
私は最初の講座として「アイスランドの歴史」を語った。『原爆基地』(1948年)を書き55年にノーベル文学賞を受賞したハルドル・ラックスネスや、今をときめく警察小説作家アーナルディルについても話した。「音楽番組」では、東方の彼方のロシアを思いやり、ロシア民謡をまず紹介した。
外界の情報が正確かつ詳細に船に届くには時間がかかる。コロンビアから到着した、内戦終結のための和平合意承認の是非を問う10月2日実施の国民投票結果は、1ポイント以下の超僅差で「不承認」が勝った。6月の英国のEU脱退を決める国民投票で脱退賛成派が僅差で勝ったのに次ぐ「番狂わせ」だ。
ならば11月8日に迫る米大統領選挙も、両候補のどちらが勝ってもおかしくない。カリブ海のハイチとキューバを「マシュー」と命名された大型ハリケーンが襲った。10月9日実施予定のハイチ大統領選挙は11月20日に延期された。
船は北海を北北西に進む。目指すはアイスランドだ。
2016年6月17日金曜日
「波路はるかに」プリンス・エドワード島から南下
伊高浩昭「2016~波路はるかに~」第1回
東京-成田-トロント-シャーロットタウン、13000km、自宅から現地のホテルまで24時間かかった。6月某日、午前1時すぎチェックイン、朝方まで眠り、同じ日の夜また泊まったから、一日に二夜ホテルで費やすという、たまにある体験だった。
終日、小雨と霧雨に交互に見舞われた。シャーロットタウンは海抜1~2mの街だが、白樺の緑が並び、日本ならば高原だな、と思わせる。
英国の田舎町そっくりの住居や建物が連なる。ケベック州に近く、フランス風の屋根作りも見られる。教会がやたらに目立つ。大海原を渡った苦難の初期移住者には多くの神が必要だったのだ。
町外れの海岸近くに古典的な豪邸があった。まさに、これぞマンション、大邸宅だ。博物館になっている。5加ドル払って入館、1870年代に建てられた造船会社経営者の邸宅だったことがわかった。
大西洋やカリブ海を行き来する大型帆船を建造、一財産を築き、豪邸を建てたのだが、家主一家は5年しか住めなかった。世は、帆船から蒸気船の時代に変わり、対応できなかった造船会社は破産したのだった。
オイル式暖房装置が130年後の今も健在で、使われている。短期間だったにせよ、いかに栄華の限りを尽くした資産家の邸宅だったかが頷ける。
島都シャーロットタウンは南岸の入り江にあるが、北岸はセントローレンス湾に面している。
その湾が見える地グリーン・ゲイブルに『赤毛のアン』の架空の家がある。ここが一大観光地になっている。
日本のTVドラマで、この少女小説絡みの物語が放映されたためというが、日本女性が殺到している!! 私は小学生時代、絵本で『アン』を読んだ記憶があるが、物語は覚えていない。折角ここまで来たのだからと、友人に誘われ、「アンの家」を見物した。「名物にうまい物無し」と言うが、「名所にも。。。。」。
私は、セントローレン湾、その大河の河口辺りに関心があった。ワシントン・アーヴィングの書いた物語『リップ・ヴァン・ウィンクル』の地だからだ。中学生か高校生の時、英語の授業で読んだのだが、こちらは内容を記憶している。樵(きこり)が森に行くと、九柱戯を遊ぶ人たちに誘われ、遊ぶが疲れて眠ってしまう。
目覚めると20年の歳月が流れており、一帯は全く変わってしまっていた。リップは恐妻家だったが、その妻も死んでいた。つまり、カナダ版「浦島」である。
島都に戻る。レストランの入り口には、挟みが大きなロブスターと牛の絵が描かれている。伊勢海老とビーフステーキが2大豪華料理なのだ。両方とも約4000円。安くはない。
私は敢えて、生牡蠣、茹でシュリンプ、焼き蛤を食べた。3000円。まずくはなかったが、特にうまいと褒めるべき味ではなかった。
街で何人か、段ボール片に「昨日から何も食べていない」と書いたのを手に、銭乞いする男らの姿を見た。ロブスターと段ボール片の歪(いびつ)な対称。
島都滞在二日目の昼前、アイスランドのレイキャビックからやってきた、ピースボート世界周遊船「オーシャン・ドゥリーム号」が中5日の航海を経て入港した。若い仲間たちに迎えられて乗船、空の長旅の疲れは気分的には吹き飛んだ。だが肉体に疲れはどにょりと沈んでいる。
明けた朝、船内の大劇場兼講堂で、ベネスエラ情勢を90分語った。この船は中6日の航海で、一週間後にはカラカスの外港ラ・グアイラに着く。ベネスエラの状況を間近に見ることになる。この旅の山場である。
半年振りの旅だが、淀んでいた私の人生がまた、旅によって動き出した。
2014年6月21日土曜日
◎ピースボート「オーシャン・ドゥリーム号」世界周遊航海紀「波路はるかに」第9回=最終回=
船は6月15日、ミッドゥウェイ島のはるか南方を西方に航行し、夜半16日を迎えた。だが1時間後、日付変更線を通過し、17日に入った。16日は、はかなく消えた。日本との時差は+3時間となった。3時間を引けばJSTになるから、便利だ。
15日の気になっていたコロンビア大統領選挙決戦は、5月25日の第1回投票で2位に甘んじたJMサントス大統領が逆転当選した。一騎討ちの相手は右翼候補だった。サントスが勝って、ゲリラとの和平交渉はサントス流に継続されることになった。コロンビアとラ米のためには、いい結果だった。
岩波ホールの特別許可を得て、「みつばちの大地」を上映した。蜜蜂が世界的に減少している。植物の雄蕊と雌蕊を結ぶこの昆虫がいなくなれば、植物の35%は立ち行かなくなる。野菜や果物の多くが実らなくなる。映画は、船内の観衆に衝撃を及ぼした。
高瀬毅の定番「ビブリオバトル」に審査員として参加した。面白かった。本を読まない若い世代に幾ばくかの刺激を与えることになるに違いない。武田緑、笠井亮吾の二人の若者代表と、高瀬、伊高が「世代格差」について討論する特別企画もやった。若い船客からの反応がはっきりと現れ、やってよかったと思う。
被爆者・被曝者8人との「記者会見」もした。被爆・被曝体験をいかに語り継ぐか、という喫緊の主題が常に問題となっている。横浜帰着直後、本物の記者会見が待っている。
船は、横浜下船の準備態勢に入った。便利で快適な動くホテルから数日後、出なければならない。船上講師としての仕事は、今夜の「軽音楽の夕べ」をもって全て終わる。合計60数回の出演となった。
本は、書評用に、参考書として、また楽しむため十数冊読んだ。最後に呼んだのは、石垣綾子著『スペインで戦った日本人』(朝日文庫)。20年ぶりに再読した。ジャック白井の生き方と死に様を綴った名著だ。面白かったし、懐かしかった。
4月半ば東京を発ってから70余日で帰着する。船からの通信事情の不自由さから、「波路はるかに」は9回しか送れなかった。書くべきラ米情勢もほとんど書けなかった。前方には、溜まっている雑務の処理という憂鬱な仕事が待っている。長い祭の後には責め苦が来る。時差は2時間減って、既に1時間だ。これがなくなるとき、船は横浜に入る。=2014・06・21 船上にて伊高浩昭=
2014年6月16日月曜日
◎ピースボート「オーシャン・ドゥリーム」世界周遊航海「波路はるかに」第8回 伊高浩昭
PBは、ハワイを「ハワイイ」と呼ぶ。米国での綴りがHAWAIIであるように、「ハワイイ」と発音されるからだ。そこでハワイイについて連続3回の講座を開いた。真珠湾攻撃に至る歴史、移民史と沖縄ハワイイ関係、現代ハワイイの社会・文化・観光・軍事、と3回に分けて話した。ホノルルには2日間滞在し、真珠湾で戦艦アリゾーナ沈没記念碑を訪ねた。日米開戦後69年の歴史が脳裏を駆け巡った。歴とした観光名所でもあり、記念碑に行く小舟は絶えず満員だった。
記念碑のすぐ近くには、1945年9月2日、日本が降伏文書に署名した戦艦ミズーリが停泊している。23年前に退役し、展示されているのだ。つまり、日米開戦のしるしがアリゾーナであり、米国勝利の証がミズーリなのだ。戦争の頭と尻尾が並べられているわけだ。天皇制軍国主義が侵略戦争に突進して日本を廃墟にした歴史や、戦後今日までの日米関係を考えた。それは、海中に沈んでいるアリゾーナと、係留されているミズーリが見事に象徴している。単純化が際立つが、その通りだから、うなずくしかない。
ホノルル旧市街は、中華街など昔の面影はわずかに残っているが、高層ビルが林立し、すっかり様変わりしている。「再開発」されていない旧市街はすたれ、観光地ワイキキ一帯に現代が集中している。英語の次に氾濫しているのは、日本語だ。一日当たり4000人来る日本人が、いかに重要な観光収入源か、がわかる。ある通りは日本人街であるがごとく、日本人と日本語ばかりだ。アリゾーナもミズーリも知らない日本人の群れがうつろな目で闊歩する。
先住民族の路上生活者や浮浪者の姿が目立ち、胸が痛んだ。ハワイイ諸島の主人公たちの少なからぬ人々が、惨め極まりない困窮状態に陥れられている。これが観光繁栄の後ろ姿なのだ。
浜辺は、往時のたたずまいとさして変わっていまかった。地元の庶民は、巨大なア・ラ・モアーナというモールで食事する。ここは大衆価格で、安い。折から、建国の父カメカメハ大王の誕生日とあって休日で、大繁盛していた。ビショップ博物館は、カメハメハ王朝史、ハワイイとポリネシアの繋がり、日本人移民史などが興味深かった。往時の日語紙の記者たちの集合写真が展示ていた。
もし自分が移住者だったら、日語紙を興していたかもしれないと思った。カメハメハ大王像は、誕生日記念のレイで覆われていた。
アテネで乗ったこの船、地中海、大西洋、カリブ海、パナマ運河、太平洋と巡ってきたが、最終寄港地がハワイイだった。他の港町と大きな隔たり、違和感がある。真珠湾の因縁がなかったら、その違和感は一層強くなったに違いない。
ホノルルの夜景を眺めつつ出航した。「イル・ポスティーノ」を観てから、パブロ・ネルーダの朗読会をした。いつも通り、あるいはそれ以上の成功だった。アジア各地代表の3人を壇上に招いて、「沖縄からアジアへ、アジアから沖縄へ」というシンポジウムもやった。まずは話し合うことに意義がある。このような対話を積み重ねていかねばならない。横浜まで、あと十日足らずとなった。
2014年6月11日水曜日
◎ピースボート「オーシャン・ドゥリーム」号・世界周遊航海「波路遙かに」第7回・伊高浩昭
船は6月2日パペーテに入港した。14ヶ月ぶりだ。乗客としてこの船旅に参加している広島・長崎の被爆者8人らと、フランスによるムルロア環礁水爆実験被曝者らとの会合に出席した。会場は、パペーテ郊外にあるファアア市の会議場だった。正面の壁には、フランス語とタヒチ語で「自由・平等・友愛」と書かれてあった。「ティ・アマラア、ティ・ファイトラア、ティ・タエアラア」。オスカル・テマル市長の息子テトゥア・ハウ・テマル市長代理が議長となって、被曝者2人が体験を語った。
マリウス・シャン(67)は、フランス語で話した。元警察官。1978年から3年間、地下核実験場の警備を担当した。立ち入り禁止を徹底させるための警備だった。被曝の危険性については、一切説明されていなかった。だが、ある出来事を契機に、彼らの隠し事が暴露された。住民が蛸を食べた翌日、強い痛みが出、体中に湿疹ができて、救急車で病院に搬送された。
シャンは同乗を拒否されたため、蛸の捕れた海岸へ行き、原因を知った。被害者への面会を求めたが、当局から拒絶された。真実を知らせろと上司に迫ると拒否され、罰としてさらなる実験場警備を命じられたが、断った。フランス政府は、実験場一体の住民に、汚染食糧に代わる食糧を供給した。
地下実験上では、サイレンが鳴ってからカウントダウンが始まり、3秒でしゃがみ込む。0秒で島全体が揺れる。当局は、礁湖で死んで浮いた魚などを採集して、調査していた。
警官だから、拳銃を所持していた。これで誰を撃ち殺すべきか、と考えさえした。フランス政府関係者を案内する仕事もしたが、上司から、質問されても一切答えるなと命じられていた。今も体調が思わしくない。
次いでレイモン・ピア(69)がタヒチ語で話した。核実験場で1968~90年働いた。大型の風船で核爆弾を吊り上げる仕事だった。74年からは、礁湖地下の実験場に変わった。フランス人が立ち会う時だけ、放射能測定器が使われた。彼らは去っていったが、その多くは死んでしまった。我々の仕事仲間の多くは癌で死んだ。反核行動を起こさないと、事態は変わらない。
1990年に発病し、体調は依然おかしい。生き残っている仲間の多くも同じだ。当時、塩を保存用の材料として用いていたが、当局から塩を使うなと言われたが、理由の説明はなかった。フランス政府は真実を明かさない。立ち上がろう。後継世代に真実を伝えよう。
今度は三瀬清一朗(79)が長崎での被爆体験を語った。内容は、先方にはフランス語訳の文書であらかじめ手渡されていた。
「ムルロア・エ・タトゥ」の代表ロラン・オールダム(64)が、ムルロア核実験被曝実態を展示する資料館を建設する計画について話した。予算は8万4000ユーロだが、独立性を維持するため、フランス政府には支援を求めないことにしている。「博物館」という呼称は、若い世代に敬遠されがちなため、使用しない方針だ。記憶の記念碑のようなものにしたい。資金は国連、NGOなどに求めていく。ポリネシア全体に、この運動を広げていきたい。
これを受けて、ピースボート船内代表(航海ディレキター)の田村美和子が、世界周航で各国に働きかけていくことを約束した。
独立か従属かを決める住民投票は今年9月、ニューカレドニアで実施される。私がタヒチでの見通しを市長代理に訊くと、住民は洗脳されてしまっており、いま住民投票しても意味がない、とのことだった。2013年5月17日、国連はタヒチを植民地名簿に復活させた。フランスは1963年に名簿から外したが、78年にテマルが復活運動を開始した。最近、国連はフランス政府に核実験情報を住民に明かすよう要請した。時間をかけてタヒチ人に情報を与え、意識化を達成してから住民投票をしても遅くはない、という。
意味のある会合だった。DJスプーキー、タヒチから乗船した高瀬毅夫妻も出席した。スプーキーとガビーはパペーテで下船した。
船は翌朝、ボラボラ島に入港した。巨大なエイの頭部そっくりの形をした奇怪なオテマヌ山(標高727m)が心に刻み込まれた。透明な礁湖の海に30分つかった。出港してから、3回続きのハワイイ講座の歴史編と移民編を済ませた。船は6日夜半に赤道を越え、北半球に戻った。南十字星は後方にあり、前方には北極星がある。灰田勝彦、岡晴夫、山口淑子の歌を聴いた。若い船客100人が熱演した「ア・コモン・ビート」は楽しかった。
全被爆者死後、被爆実態をいかに後世に伝えていくべきか、で話し合いがあった。これもピースボートならではの会合だ。活動家(被爆者・支援者)、ジャーナリズム、芸術家、アカデミズムが協力して運動を起こすのがいいかもしれない。
2014年6月4日水曜日
◎ピースボート「オーシャン・ドゥリーム」号世界周航「2014年波路遙かに」第6回
カヤオからラパヌイに至る船内は、ラパヌイ青年文化運動指導者の1人エンリケ・イカが大活躍し、ラパヌイ色が濃厚となった。日本では絶滅した種類の逞しい男子だ。船客女性陣は老いも若きも目をぱちくりさせていた。
彼を「ラパヌイと南太平洋の音楽」の番組に招き、曲の合間に語ってもらった。彼らの文化運動に協力することにした。
講座はチリ情勢と、「太平洋とはどんな海か」の前編をやった。5月25日ラパヌイ沖に停泊した。この日はコロンビアの大統領選挙だ。誰が当選したか、あるいは誰と誰が決選に進出したか、が気になる。しかし情報は入らない。
島に15ヶ月ぶりに上陸した。もう1人の指導者マリオ・トゥキと島の中心地ハンガロアを歩きながら話し合った。カヤオから乗っていたアフリカ系米国人DJスプーキー(ポール・ミラー)が手持ちぶさたにしているのに出くわした。ポールも散策に参加し、3人で軽食をとる。
島を離れ、4000km離れたタヒチに向けて北西に針路をとる。「太平洋」の後編を済ませた。あすはスプーキーと対談する。その後は「ポール・ゴーギャンとタヒチ」を話す。その資料をまとめた。
ラパヌイから乗ったタヒチの反核と対仏独立運動家ガブリエル・テティアラが講演した。ガビーに船上で会うのは3度目だ。船客の被爆者たちとガビーの会合もある。ピースボートらしい船内企画が沢山出てきた。一方、甲板で、若い日本人乗客の結婚式が催された。
6月1日には、エル・サルバドール新大統領サルバドール・サンチェスが就任する。その模様を細かく知るのは、東京に帰着してからだろう。日本の動きはほとんどわからない。
2014年5月23日金曜日
◎ピースボート「オーシャン・ドゥリーム」号「2014年・波路遙かに」第5回 伊高浩昭
船は、一日かけてパナマ運河を通航した。記者時代に取材で1回、ピースボートでは7回目、計8回目の通航であり、新鮮さはない。来年末ごろ完成見込みの第三閘門式水路は通航してみたい。
運河を出て、舵は南に切る。パナマ市新地区ヌエバパナマのスカイラインが海上に浮かぶ。4月にこの国の地下鉄第1号が新地区で開通したばかりだ。太平洋に出た。日本が近づいた。その意識が台頭する。
コロンビア沖を南下する。イルカが浮沈する。トビウオが舞う。海鳥がやって来る。ある日の未明、赤道を越えた。エクアドール。キトとガラーパゴス諸島を結ぶ、目に見えない赤い船が脳裏に刻まれた。フンボルト寒流を横断するから、気温が下がり、寒くなる。ペルー情勢を語り、アンデス音楽を紹介した。
カヤオでは、写真家義井豊、曲芸娘メリーナ、料理評論家枝元なほみが下船した。義井豊に連れられてリマ中心街、サンクリストーバル丘、ラルコマルを散策する。一日休養してから、メリーナのいる郊外のビーヤ・エルサルバドールを訪れる。団長のアナソフィアに再会する。振る舞われたキヌアと、アロス・ア・ラ・ハルディネーラがうまかった。
最終日は政治評論家やベテラン記者に会い、ペルー情勢を取材する。ケイコ・フジモリは今のところ、次期大統領有力候補の一人だという評価だ。ケイコに会うつもりだったが、アンデス高地で遊説中とのことで、会えなかった。
リマに来るたびに、新自由主義のビル街の拡大を見る。新自由主義街と、それを十重二十重に囲む巨大な貧困地帯の対峙する異様な光景は威圧的ですらある。
船の職員が、『ウーゴ・チャベス ベネズエラ革命の内幕』をカヤオに運んでくれた。初めて手にし、出来映えを見た。
カヤオを出て2日目、ラパヌイの青年エンリケが歌い、踊り、語った。去年のマリオ・トゥキとは、またひと味違うたたずまいだ。彼を招いてラパヌイとポリネシアの音楽を紹介する企画が待っている。チリ情勢を語った。ラパヌイ到着前に「太平洋とはどんな海か」の前編を語る予定。
好天だが、海は荒れている。トビウオがまた舞っている。(5月21日記)
2014年5月14日水曜日
◎ピースボート「2014波路遙かに」第4回=パナマにて=伊高浩昭
カサブランカから10日航海し、11日目にカラカスのラ・グアイラ港に着いた。この大西洋・カリブ海航路が3分の2過ぎたころ、北回帰線を通過して熱帯に入った。とたんに暑くなり、連日、飛び魚の群が飛び交った。船を巨大な鯨とでも見なし、驚いて逃げ飛んだのだろう。
北回帰線から西南西に斜めに下り、マルチニク島の南を、その島影を見ながら航行し、カリブ海に入った。この航路のさらに南にはセントルシア島があるが、遠すぎて見えない。
15ヶ月ぶりのカラカスは、私にとって、チャベス死後最初の訪問だった。「チャベスは生きている、祖国は存続する」のスローガンがあちこち描かれている。「チャベスは生きている、戦いは続く」というのもある。壁面には、前方を鋭く見つめるチャベスの両眼が描かれている。チャベスの神通力は、この社会を辛くも支えている。
船内講座は、ラ米概観、モンロー宣言200周年、ラ米軍政、クーバ革命、チェ・ゲバーラの人生、ベネスエラ情勢上下2回をやった。船上講師には、カサブランカから、料理評論家の枝元なほみ、
ベネスエラ青年オルケスタ「エル・システマ」の8人らが加わった。カラカスからは、環境写真家の藤原幸一、米国人元経済狙撃手のジョン・パーキンズ、アンデス文明写真家の義井豊、ペルーの「砂と葦簀(よしず)」(アレナ・イ・エステーラ)の17歳の女性団員、ベネスエラ外務省の東アジア担当の女性職員4人が加わった。オルケスタの青年たちは下船した。
カラカスでは、盆地の外輪山に上って、放火の山火事で燃えた斜面に植樹した。大いにくたびれた。その夜、植物の名前を知らずに植えたのに気づき、専門家の藤原幸一に笑われた。2日目は、パンテオン、偉人記念碑、チャベス廟を訪ねた。廟では、感慨があった。インタビューした思い出やたくさんの記事を書いたことを思い巡らせた。キャロルの本を訳したばかりだったこともある。
夜は、「エル・システマ」トップの室内楽団の演奏を聴いた。素晴らしかった。その後、ニコラース・マドゥーロ大統領が、住宅建設計画に基づき建設されたアパルタミエントを住民に引き渡す、全国統一中継番組の放送現場を取材した。6年前に東京で会ったマドゥーロは外相だったが、今は最高指導者だ。地位が少しずつ人をつくっているのか、貫禄が増していた。
2月上旬以来の反政府勢力による街頭行動は、下火になったが、散発的に狙撃手による殺人などが起きている。大統領は、住宅引渡しの番組のさなかに2~3度、特定されていない殺害事件の犯人に対して警告した。
帰船してからは、カラカス首都圏担当相ビジェガス、バルガス州知事ガルシア=カルネイロらと会食した。両人と対話したが、得るところが少しはあった。知事からは、2002年クーデター時の様子を書いた著書をもらった。カラカスを離れてからは、パナマ運河史を語った。パーキンスと会食した。彼とベネスエラ外務省職員はコロンで下船した。藤原も、ガラーパゴス行き組を率いて、グアヤキルに飛び立った。
コロンでは3年ぶりに、クナ民族のモラ制作師ワゴ・メンデスと会い、ビールを飲んだ。明日は一日かけて運河通航だ。第3閘門式水路建設工事現場を遠望できるかいなかが問題だ。2年前に通航したときには見えなかった。
2014年5月1日木曜日
☆ピースボート「2014波路遙かに」第3回 =「翼休める燕」=伊高浩昭
アドリア海を離れて3日、スペイン内戦とジブラルタル史について講演した。船は、アンダルシーアのモトゥリール、英領ジブラルタル、モロッコのカサブランカに一日ずつ寄港した。モトゥリールからバスでグラナーダ市に行った。40年ぶりのグラナーダだった。友人らがアルハンブラを見たいというので、付き合った。市中心部の巨大な大聖堂も見た。そして港に引き返した。
ジブラルタルは、千田善とエル・ペニョン(巨岩)を巻くようにして歩きに歩き、ほぼ一周した。西国との「国境」から、彼方にセウタの見える南端までだ。ジブラルタル空港の滑走路を歩行者も車も横切る。離着陸する航空機があると、サイレンが鳴り、通行が遮断される。のどかな光景だ。だがエスパーニャは、植民地奪回の夢を捨てていない。時折「ヒブラルタル・エスパニュール」と叫び、気勢をあげる。今は静かだ。
昨年夏、ラホーイ政権は、腐敗を暴露され退陣の危機に瀕したが、突如ヒブラルタルで「緊張状態」をでっち上げて世論の目をそらせ、危機を乗り切った。亜国政権がマルビーナス諸島の領有権問題を持ち出して、反政府世論を反英に向けるのと同じ手法だ。
ギリシャから船上講師として乗っていたロマーナ(ジプシー女性)のパトリシアがヒブラルタルで下船した。ヒターノス(ジプシー)の人権闘争を展開している彼女の話は興味深かった。いずれ詳しく記事にする。良い友人ができた。
カサブランカは、友人らと、カスバに囲まれたメディナの市場を散策した。野良猫が肉や魚のおこぼれをちょうだいしていた。ここにも、野良ちゃんたちを皆で飼う愛情があった。映画「カサブランカ」の舞台になぞらえた「リックスカフェ」が、Hホテルの入り口脇にある。他愛ない。
観光客向けのレストランでないと、ビールさえ飲めない。女郎蜘蛛のような怪しげなマダムのいる真っ暗な酒場で辛くもビールにありついたが、気が抜けていた。千田善はここで下船、一泊してから東京に向かう。ヨルダンのアカバから乗ったパレスティーナとイスラエルの青年男女10人は、モトゥリ-ルで下船した。
その前夜、彼らは2週間に亘る議論の経過を先客に公表した。難民、入植、分離壁、安全保障、パレスティーナ国家建設、領土、拘束者、個人と政府の見解、市民による抵抗運動、の9項目について議論したという。
一人ずつ感想を述べたが、当初は対立感情が理性を凌ぎ、議論ができなかったという。イスラエル人女性が、イスラエル政府はパレスティーナ領土の占拠をやめるべきだ、と語ったのが印象的だった。PB船上での数年来の両者の対話には既に1000人が参加している。PBが平和情勢活動の一環として貸座敷役を務める価値ある実例がまた増えた。
船はカリブ海を目指し西へ航行中。船客の関心が、次の寄港地カラカスに向いている。ラ米基本知識、ラ米対北米、冷戦期のラ米軍政の講座は既に済ませた。ベネスエラ情勢の講座が近づいている。
燕が10羽、PBで翼を長時間休めていた。どこから来てどこに渡ろうとしているのか。大西洋を飛ぶ渡り鳥の本能、勇気、無謀を考えた。この船に辿り着けずに海に落ち、魚に食われた渡り鳥は計り知れないほど多いはずだ。哀れ、胸が痛む。
2014年4月23日水曜日
ピースボート第83回航海「2014波路遥かに」第2回 =地中海にて= 伊高浩昭
オーシャンドゥリーム号はイタリア東海岸のバーリに着いた。復活祭で静寂な古い街に入ると、大聖堂前と周辺で、まさに復活祭の行列に出くわした。正装した警察の楽隊が葬送の曲を奏で、喪装の男たちが山車を担ぐ。ガラス棺に横たわるキリストが行列の中央にあった。小雨降る中世の遺跡のような街を、歴史が流れる。
新市街地の、遅く開いたレストランで生ハム、スパゲッティ、白葡萄酒の昼食をとる。船上講師仲間の千田善やPB職員と一緒だ。旧市街には、巨大な砦がある。洞穴式のバルでカフェを飲む。主人は元船乗りで、日本を知っていて、日本好きを名乗った。そして日本製の高級カメラを持ち出してきて、200ドルで買わないか、と持ちかける。カメラバッグごとだ。おそらく日本人客が店に忘れていったものだろう。もちろん、買わない。
翌朝、アドリア海対岸のドゥブロヴニク港に入る。クロアティアの飛び地だ。90年代後半に、内戦の傷跡取材でボスニアやクロアティアを訪ねたのを思い出す。中世の町を高い城壁が囲んでいる。内戦中、ユーゴスラヴィア、セルビア人、モンテネグロの軍隊に包囲さて、攻撃された。着弾地が地図で示されている。この中世の市街地は世界遺産で、一大観光名所になってる。我々日本人、中国人、韓国人ら、東洋の面々が猟景する。すると、団体の中の中年女性が近寄ってきて、「私たち中国人じゃないよ」と言った。台湾人の一行だった。「学生たちが国会を占拠して、賑やかだったようですね」と言うと、黙して肯いた。
千田さんは、日本サッカーチーム監督オシムの通訳をしていた。セルビア語が得意で、レストランの注文やバスの乗り降りの際に大いに貢献してくれた。猫が実に多い。みな野良ちゃんと見受けた。街が飼っているわけだ。愛のある街だ。猫も美男美女が多い。長らく猫族と同盟関係にある私は、昼飯の魚介類の切れ端を振舞った。私は牛ステーキを食べたのだが、千田さんらが注文したのの残飯をニャンたちに回したのだ。
次の日は、モンテネグロの峡湾奥の中世の町コトロを訪ねた。3日続きの雨だ。岩山の連なりを自然の防壁とし、その中腹に万里の長城のような城壁と見張り台がある。アドリアの海から峡湾に入ってくる敵船の有無を絶えず見張っていたのだろう。雨に煙る岩山、街、湖水のような海。水墨画そのものだ。T骨ステーキを食べたが、硬くて歯が折れそうだった。
3日間の3港停泊が終わり、船は地中本海に出、シチリア島南端、マルタの北方を通過した。船は数日後、エスパーニャのモトゥリールに入港する。「スペイン内戦と現代」を主題に、90分間話した。この日、東京では訳書『ウーゴ・チャベス-ベネズエラ革命の内幕』が出たはずだ。船はサルディニア島の南、チュニジアの北を通り、西へ航行する。
2014年4月22日火曜日
★☆★2014年「波路遙かに」第1回~伊高浩昭~
4月半ばの、日付が変わったばかりのある深夜、羽田空港からアラブ首長国連邦のエミレイト航空機で日本を離れた。羽田から日本を離れたのは、1967年に初めてメヒコに向かった時と、72年に再びメヒコに向かった時以来で、3回目だと思う。しかし今の羽田の国際便専用空港部分は、世界でも真新しい光輝く殿堂で、遠い日の追憶と郷愁を許さない、過去と隔絶した機械的空間だった。
機は、ソウル、北京の上空をかすめ、中国の外延部を回ってインド北部からパキスタンを縦断し、インド洋上に出た。アフガニスタンとイランの領空通過を避けた航路である。オマーンの南を通ってドゥバイに着く。荒れ地に蜃気楼のごとく現れる石油の富が生んだ人工都市である。空港内を1kmは歩いて、アテネ行きの待合室に辿り着く。当然のことながら、アラブの人々が行き交うのが新鮮だ。女たちは色白だが、男達は浅黒く髭が濃い。時差は5時間。
羽田で知り合ったフラメンコ歌手のハイメと夫人は、グラナダの故郷に帰るため、マドリー行きの待合室に去っていった。機中で隣合わせた人のいい蘭人商業者もアムステルダム便目指して、うれしそうに歩いていった。機はペルシャ湾を、イラン領空を避けつつ西西北に飛び、クウェート上空からイラクに入る。バスーラとバグダッドの上空を通過して北西端に出て、トルコを東端から横断する。通常の航路はシリア経由だが、その上空を避けたわけだ。イスミール上空からエーゲ海に出て、アテネに着いた。飛行4時間半。時差が1時間加わる。都心のホテルに入った時、東京の家を出てからぴったり24時間経っていた。正味1日であり、くたびれた。眠る。
翌朝、シンタグマ広場から繁華街を通って、アクローポロスを彼方に見上げる広場に行き、そこから丘を巻くように登ってアクローポリス正面下に出た。大通りを経てシンタグマ広場に戻り、ホテルへ。1時間、大急ぎ、5km弱の散策だった。13ヶ月ぶりのアテネだったが、元気を出し過ぎて疲れてしまった。
タクシーで小30分、ピレウス港へ。我が海の家、ピースボート「オーシャン・ドゥリーム」号に迎えられる。この大型旅客船は横浜を経って既に一ヶ月経っている。スエズ運河、トルコ、ミコノス島を経て、到着していた。若い仲間たちと抱擁を交わし、再会を祝した。この船が、向こう70日間の我が家となる。
横浜から乗ってきていて、アテネで下船し帰国する中東研究者の高橋和夫水案(船上講師)と、久々に会う。彼から水案のバトンを渡された。ギリシャ駐在の西林万寿夫大使が正午来船、船内を視察。昼食は、エーゲ海を見下ろす断崖上の舟形のヨットクラブレストランで海産物料理を大使からご馳走になった。ギリシャ経済、海運産業の特別な地位、対日関係などについて聴き、日本社会、ラ米情勢を話す。昨日発生した韓国フェリーの海難事故について、新情報をもらう。
17日、「内外ニュース」を80分に亘って船客に伝える。これが終わったところに、ガブリエル・ガルシア=マルケスがメヒコの自邸で死去した、との一報が届いた。87歳だった。私は出発前に、肺炎にかかっていたガボは退院したが容態は微妙、という情報をブログに記した。やはり、死ぬために自邸に帰ったのだ。ガボの数多い作品や評論には世話になった。学ぶことが多かった。
24日に東京で発売される拙訳『ウーゴ・チャベス-ベネズエラ革命の内幕』は、ラ・アバーナからカラカスに向かう機内でのチャベスとガボの会話から始まる。ガボには70年代初めのメヒコから90年代初めの東京まで、何度かインタビューしたり言葉を交わす機会があった。忘れ得ぬラ米知識人の一人だ。
時差は1時間加わる。船は、ペロポネソス半島を大きく迂回して、イタリア東海岸に向かう。晩冬の寒気が迫ってきた。
2013年11月10日日曜日
NGOピースボートが結成30周年行事を横浜で挙行
NGOピースボ-ト(PB)結成30周年記念行事が11月9日、横浜市で催された。
1983年秋、早大生たちが創った「平和の船」は81回の航海を続けてきたが、うち55回は世界一周航海だった。11月には新たに世界周遊に出航する。これまで180を超えるに世界の港に寄港。延べ5万人が乗船した。
記念行事の第1部は「トークイベント」で、関内ホールにジャーナリスト、市民活動家ら800人を集めて開かれ、内外の活動家や知識人が講演し討論した。
原子力問題の専門家である川崎哲PB共同代表は、「日本は平和憲法を持つ。その日本のNGOとして内外に平和や軍縮を呼び掛けてきた」と語った。
福島県双葉町の井戸川克隆元町長は、「世界に原発を全廃する意思を訴えてきた」と強調した。
第2部はパシフィック横浜アネックスホールで、「地球をまわる。未来をつくる」を標語に開かれた。前田哲男氏、鎌田慧氏ら「水先案内人」(船内講師)が挨拶した。
【伊高も第2部で挨拶することになっていたが、急用で参加できなかった。】
2013年3月26日火曜日
2013「波路はるかに」 第8回(最終回)=横浜=
ピースボート「オーシャン・ドゥリーム号」は3月25日昼過ぎ、100余日間の世界周遊航海を終えて、横浜港大桟橋に帰着した。私は半分ちょっとの55日間の船旅だったが、東京から乗船地ブエノスアイレスまでの空路の旅を入れると57日間になる。水案(水先案内人=船上講師)としての今回の旅も、寄港した各地で取材ができ、船内での多くの人々との交流も含め、実り多い旅路だった。
予想していたとはいえ、ウーゴ・チャベス大統領の3月5日の死は衝撃だった。船内で「チャベス後のラ米情勢」という緊急講座を開いたが、船客の半数に当たる450人が熱心に聴いてくれた。
さて長旅の報いで、過去2ヶ月間の情報の空白を埋めなければならない。これなしには先に進めない。ラ米情勢についてのまとめ記事も、少しずつこのブログに復活させたい。
パペーテ・横浜間の最後の16日間の航海では、パペーテから乗船の水案で軍事ジャーナリスト前田哲男さんの太平洋戦争、安保条約、憲法9条の今日的有効性、自衛隊、原爆と原発などをめぐる連続講座が圧巻だった。3月20日の「イラク戦争」開戦10周年の日には、私は前田さんと特別講座を開き、米戦略や報道の観点から、会場を交えて論じ合った。
私は会場からの「なぜ日本のマスメディアは、権力批判という根源的役割を捨てて体制の宣伝機関になり下がってしまったのか」という質問を受け、「戦前の天皇制軍国主義という国体(国の体制)に代わる日米安保・同盟という今日の国体にがんじがらめにされ、多くのメディアと記者が麻痺してしまっている。だからだ」と答えた。
「中国や北朝鮮と政治的・外交的に敵対する状況をいかに打開していくか」という質問に対して私は、「小さな祖国日本、大きな祖国アジア太平洋という新しい認同=アイデンティティーを構築していくのが肝要だ」と応じた。
船客の中に86歳の元従軍看護婦、上野みつるさんがいて、前日19日に特別講演をした。「満州国」で直面した虐殺、戦闘、死、抑留などの地獄絵を淡々と語った。最後を「だからこそ戦争をしてはならない。殺し合ってはならないのです」と、声を振り絞って叫んだ。会場は、深い沈黙と感動に包まれた。
私たち水案仲間は、早すぎる桜花爛漫の横浜を中華街まで歩き、解散宴を張った。
「7月の荒海に挑む平和船」(参議院議員選挙を展望しつつ)
「7月の荒海に挑む平和船」(参議院議員選挙を展望しつつ)
2012年8月18日土曜日
ピースボート記者会見 ~波路はるかに~番外
☆私が船上講師として、カラカス・横浜間を乗船したPB(ピ-スボート、オーシャンドゥリーム号)第76回航海船は8月17日朝、横浜港大桟橋に帰着し、港内で、世界一周航海での活動状況をめぐる記者会見が行なわれた。
☆会見には、吉岡達也PB創設者・共同代表、モリース・レイナ在日ベネズエラ大使館文化担当官、乗客だった福島県人3人(早川のり子、見上香織、門間孝一)らが出席した。神奈川新聞、共同通信、毎日新聞など数社の記者が取材した。
☆県人らはロンドン、ヨーテボリ(スェーデン)、オスロで、東電福島原発の水素爆発事故後の深刻な放射線拡散被害状況を伝える運動を展開した。ロンドンでは、保守政権が原発推進派であるという事情もあってか、英国民に福島の悲劇が十分に伝わっていないことを実感し、福島の生の声を伝えるのが極めて重要だと認識した、という。
☆原発を持たないノルウェーの首都オスロでは、福島の声が届いているのを知った。現地で発言した60歳の早川さんは、「日本政府の事故終息宣言で福島の状況についての日本の報道が著しく減った。だが現実は依然厳しく、克明に報道してほしい」と訴えた。
☆スウェーデンには原発がある。福島事故後、国論は原発維持か廃絶かで二分されている。このため、福島の現状に強い関心を示している。早川さんは、「ある意味で当事者である日本人よりも関心が強い」と指摘した。
☆ベネズエラの首都カラカスでは、PBは写真家豊田直巳氏撮影の福島写真展を開いた。千羽鶴を折る人を新しいスペイン語で「オリガミスタ」というが、現地のオリガミスタたちが、写真展に自分たちが折った千羽鶴を寄贈した。その千羽鶴は、記者会見で披露された。
☆早川さんは結論として、「福島県民は心を一つにして」深刻な放射線状況に対峙すべきだと述べた。また「心のケア」が依然ないことを指摘するとともに、「汚染されている可能性のある野菜を先の短い老人が食べ、子供や若者には食べさせない」と日常生活の在り様を語り、「日本の広範な地域がすでに放射線で汚染されてしまっているのではないか」と懸念を訴えた。
☆県内の婚約者と結婚する26歳の見上さんは、「嫁に行くが、困難が待っているかもしれない。婚約者と、体内汚染などについて話し合っていく」と語った。
☆ニカラグアの首都マナグアで、ダニエル・オルテガ大統領夫妻によるPB乗船者全員に対する歓迎会が開かれた。大統領と吉岡代表は、壇上で「原発廃絶運動を展開していくこと」で合意した。ニカラグアは、国内の全市長が「平和市長会議」に参加している世界でただ一つの国だ。
☆大統領と言葉を交わした74歳の門間さんは、大統領から「原発事故直後の当局の対応は遅すぎたのではないか。原発は事故が重大な結果を招くため、民間企業ではなく政府の直轄とすべきだ」と指摘されたと明らかにした。
☆門間さんは、「事故直後、諸外国は在日自国民に半径80km以内から直ちに避難するよう勧告したが、日本政府は情報を隠していた」、「今も県民7万人が山形、新潟、東京などに避難している。仮設住宅では心労などで既に500人が死んでいる」、「原発事故後、屋外の人影、特に子供の姿が途絶えた。最近になってようやく、姿が見られるようになった」と語った。
☆記者会見では、本日18日1630から東京・千駄ヶ谷の津田ホールで開催される、福島のジュニアオーケストラの7人と、ベネズエラの青年オーケストラ「エル・システマ」の8人が合同で開くコンサートについて紹介された。計15人はメキシコのエンセナーダから乗船し、船内で稽古し、コンサートを開いた。
☆ヴァイオリンを弾くヘスース・グスマン君(16歳)は、「PB船で、福島の現実、放射線による深刻な問題を知った。僕の人生にとり重要なことだった。音楽を通じて平和と、生きる喜びの増進に貢献したい。PBの福島・広島・長崎を世界中に訴えていく使命の重要さがわかった」と述べた。
☆南相馬市の桜井勝延市長、東海村の村上達也市長らが世話人を務める「脱原発を目指す首長会議」の設立趣意書が会見の場で配布された。8月16日現在、全国の78市町村長らが会員になっている。韓国やオーストリアからの賛同する声も紹介された。
☆会見には、吉岡達也PB創設者・共同代表、モリース・レイナ在日ベネズエラ大使館文化担当官、乗客だった福島県人3人(早川のり子、見上香織、門間孝一)らが出席した。神奈川新聞、共同通信、毎日新聞など数社の記者が取材した。
☆県人らはロンドン、ヨーテボリ(スェーデン)、オスロで、東電福島原発の水素爆発事故後の深刻な放射線拡散被害状況を伝える運動を展開した。ロンドンでは、保守政権が原発推進派であるという事情もあってか、英国民に福島の悲劇が十分に伝わっていないことを実感し、福島の生の声を伝えるのが極めて重要だと認識した、という。
☆原発を持たないノルウェーの首都オスロでは、福島の声が届いているのを知った。現地で発言した60歳の早川さんは、「日本政府の事故終息宣言で福島の状況についての日本の報道が著しく減った。だが現実は依然厳しく、克明に報道してほしい」と訴えた。
☆スウェーデンには原発がある。福島事故後、国論は原発維持か廃絶かで二分されている。このため、福島の現状に強い関心を示している。早川さんは、「ある意味で当事者である日本人よりも関心が強い」と指摘した。
☆ベネズエラの首都カラカスでは、PBは写真家豊田直巳氏撮影の福島写真展を開いた。千羽鶴を折る人を新しいスペイン語で「オリガミスタ」というが、現地のオリガミスタたちが、写真展に自分たちが折った千羽鶴を寄贈した。その千羽鶴は、記者会見で披露された。
☆早川さんは結論として、「福島県民は心を一つにして」深刻な放射線状況に対峙すべきだと述べた。また「心のケア」が依然ないことを指摘するとともに、「汚染されている可能性のある野菜を先の短い老人が食べ、子供や若者には食べさせない」と日常生活の在り様を語り、「日本の広範な地域がすでに放射線で汚染されてしまっているのではないか」と懸念を訴えた。
☆県内の婚約者と結婚する26歳の見上さんは、「嫁に行くが、困難が待っているかもしれない。婚約者と、体内汚染などについて話し合っていく」と語った。
☆ニカラグアの首都マナグアで、ダニエル・オルテガ大統領夫妻によるPB乗船者全員に対する歓迎会が開かれた。大統領と吉岡代表は、壇上で「原発廃絶運動を展開していくこと」で合意した。ニカラグアは、国内の全市長が「平和市長会議」に参加している世界でただ一つの国だ。
☆大統領と言葉を交わした74歳の門間さんは、大統領から「原発事故直後の当局の対応は遅すぎたのではないか。原発は事故が重大な結果を招くため、民間企業ではなく政府の直轄とすべきだ」と指摘されたと明らかにした。
☆門間さんは、「事故直後、諸外国は在日自国民に半径80km以内から直ちに避難するよう勧告したが、日本政府は情報を隠していた」、「今も県民7万人が山形、新潟、東京などに避難している。仮設住宅では心労などで既に500人が死んでいる」、「原発事故後、屋外の人影、特に子供の姿が途絶えた。最近になってようやく、姿が見られるようになった」と語った。
☆記者会見では、本日18日1630から東京・千駄ヶ谷の津田ホールで開催される、福島のジュニアオーケストラの7人と、ベネズエラの青年オーケストラ「エル・システマ」の8人が合同で開くコンサートについて紹介された。計15人はメキシコのエンセナーダから乗船し、船内で稽古し、コンサートを開いた。
☆ヴァイオリンを弾くヘスース・グスマン君(16歳)は、「PB船で、福島の現実、放射線による深刻な問題を知った。僕の人生にとり重要なことだった。音楽を通じて平和と、生きる喜びの増進に貢献したい。PBの福島・広島・長崎を世界中に訴えていく使命の重要さがわかった」と述べた。
☆南相馬市の桜井勝延市長、東海村の村上達也市長らが世話人を務める「脱原発を目指す首長会議」の設立趣意書が会見の場で配布された。8月16日現在、全国の78市町村長らが会員になっている。韓国やオーストリアからの賛同する声も紹介された。
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