スペイン人作家フアン・ゴイティソロ(86)が6月4日、モロッコのマラケシュで死去した。小説、論集、随筆、紀行文、ジャーナリズム記事を書き、多作だった。1931年1月6日、バルセローナに生まれた。バスコとクーバの血を引く。兄ホセ=アグスティンは詩人、弟ルイスは学者である。
フランコ独裁期の1956~69年、パリで亡命生活を送り、出版社ガリマールで文学所顧問を務めた。その職場で知り合ったモニク・ランジと78年結婚した。だが妻に死なれ、マラケシュに96年定住した。
論集『小説の問題』(1962)、最後の小説『自国でも他国でも亡命者』(2008)などがある。オクタビオ・パス文学賞(2002)、フアン・ルルフォ・ラ米文学賞(04)、スペイン文学賞(08)、セルバンテス文学賞(14)などを受章した。
ペリオディズモ(ジャーナリズム)に近い紀行文には、西国アルメリア市の地区を描いた『ラ・チャンカ』(1962)、『クーバ訪問記』(62)、『オスマントルコのイスタンブール』(89)、『サライェヴォ・ノート』(93)などがある。「社会派リアリズモ」路線と呼ばれた。
1969~75年には、米国のカリフォリニア、ボストン、ニューヨークの3大学で文学を教えた。スペインのエル・パイース紙の寄稿者でもあり、露チチェン紛争、ボスニア戦争などを、同紙特派員として取材し、紀行を物にした。イスラム史・文化に造詣が深く、ジャーナリズムからの執筆依頼が多かった。
私は、通信社時代の1998年、20世紀末企画の一環として「スペイン内戦」(1936~39)について記事を書くに際し、ゴイティソロに会うことにした。当時既に60年前の出来事だったスペイン内戦は、体験者が依然少なからず生存してはいたが、戦場は遺跡化していた。
そこで終戦後間もなかった、ボスニア戦争を含むユーゴスラヴィア戦争の内戦的戦場を観ることにした。そこで読んだのが『サラェヴォ・ノート』(クアデルノ・デ・サラヘボ)だった。読んでから、マラケシュの自宅にいたゴイティソロにインタビュしたいと電話で伝えると、×月×日×時ごろ、サライェヴォのアテネフランスに来てほしいと言われた。
私は、この約束を頼りに東京を出発、ウィーン経由でサライェヴォに入り、翌日、約束の日に無事インタビューをすることができた。ボスニアとクロアティアを取材してから、ウィーン経由でバルセローナに行き、スペイン内戦の傷跡を取材した。
拙著『ボスニアからスペインへ-戦の傷跡をたどる』(2004年、論創社)は、この取材旅行をまとめたもので、ゴイティソロへのインタビューのほぼ全文を載せてある。世話になったこともあって、このオメナヘ(オマージュ)文を書いた。
私は2011年3月、マラケシュに滞在したが、ゴイティソロと連絡をとらなかった。とれなかったのだ。日本で、東電原発大事故を伴う「東日本大震災」が発生した日だったからだ。
2017年6月5日月曜日
2017年6月4日日曜日
今福龍太著『クレオール主義』を読む。「週刊読書人」が今福らの鼎談を特集。「週刊金曜日」は書評を掲載
文化人類学者・今福龍太(東京外語大学教授)が『クレオール主義』を水声社から3月新装出版した。私は、「週刊金曜日」6月2日号に、「<島国全体主義>からの解放の鍵は多文化・多民族主義」と題して、書評を書いた。「島国全体主義」は私の造語である。
限られた文字数で内容を紹介するため、私はラ米関係に的を絞った。クリオージョ、先住民族カリーベ人、ニカラグアの詩人ルベーン・ダリーオ(1867~1916)、モデルニズモ、ホセ・マルティ(1853~95)、「我らのアメリカ」、ネグリチュード運動などを本文から引っこ抜いて並べ、まとめた。全体主義の闇が狭い列島を覆おうとしている今、この本は市民に活路を与えるはずだ。そのことを書いた。金曜日誌を読んでほしい。
「週刊読書人」5月5日号は『クレオール主義』再・新刊に際し、「ポスト・トゥルース(真実)に抗って」という鼎談を特集した。この専門紙は、新刊書の紹介はもちろんのこと、第1面から2~3ページに及ぶ対談などの特集記事が素晴らしい。明石健五編集長は特に企画熱心で、毎号のように面白い企画を読ませてくれる。
鼎談には、今福龍太、中村隆之(大東文化大学講師)、松田法子(京都府立大学講師)が登場する。これは内容厖大で、さまざまな議論が展開されるため、全文を読まないと、鼎談の全体像は把握できない。読むのをお勧めしたい。
限られた文字数で内容を紹介するため、私はラ米関係に的を絞った。クリオージョ、先住民族カリーベ人、ニカラグアの詩人ルベーン・ダリーオ(1867~1916)、モデルニズモ、ホセ・マルティ(1853~95)、「我らのアメリカ」、ネグリチュード運動などを本文から引っこ抜いて並べ、まとめた。全体主義の闇が狭い列島を覆おうとしている今、この本は市民に活路を与えるはずだ。そのことを書いた。金曜日誌を読んでほしい。
「週刊読書人」5月5日号は『クレオール主義』再・新刊に際し、「ポスト・トゥルース(真実)に抗って」という鼎談を特集した。この専門紙は、新刊書の紹介はもちろんのこと、第1面から2~3ページに及ぶ対談などの特集記事が素晴らしい。明石健五編集長は特に企画熱心で、毎号のように面白い企画を読ませてくれる。
鼎談には、今福龍太、中村隆之(大東文化大学講師)、松田法子(京都府立大学講師)が登場する。これは内容厖大で、さまざまな議論が展開されるため、全文を読まないと、鼎談の全体像は把握できない。読むのをお勧めしたい。
2016年1月25日月曜日
コロンビア人作家JGバスケスの「物が落ちる音」を読む
コロンビア人作家フアン=ガブリエル・バスケス著「物が落ちる音」(柳原孝敦訳、松らい社、2000円)を読んだ。バスケスは1973年生まれ、今年43歳になる若手作家である。
コロンビア人としての自身の半生と時代状況を絡ませた小説だ。コロンビアは70年代に本格的なコカイン密造密売時代に入った。これが一貫した時代背景なのだが、作家は主人公にコカインでなく大麻の密輸から始めさせている。
主人公は、語り手(作家の分身)の目の前で殺し屋に殺されてしまう。謎めいた語り口は、主人公が大麻からコカイン取引に移り、麻薬マフィア間の利権争いに巻き込まれていたことを示唆する。
主として麻薬戦争が激化する前の時期の話だが、政府軍と左翼ゲリラとの内戦は続いていた。内戦を思わせる記述も、わずかながら出てくる。
世界最大のコカイン生産国コロンビアの男と、同最大消費国・米国の女性が結びつくところが味噌だ。語り手の人生の流れの中で、語り手が玉突き場で知り合った主人公の人生が劇中劇のように語られ、最後には両者は収斂する。その時、語り手の妻は夫に愛想をつかし、娘を連れて去ってゆく。
人と人の出会い、別れ、再会は、愛や打算を伴いつつ、人と運命の絡み合いの元となる。これが骨組みになっている。巧みな構成だ。
1960年から56年も続いてきたコロンビア内戦は、3月下旬、和平協定調印が実現しそうになっている。実現すれば、内戦期のさまざまな実話、逸話、体験などを踏まえた小説が生まれてくるだろう。大いに期待したい。
コロンビア人としての自身の半生と時代状況を絡ませた小説だ。コロンビアは70年代に本格的なコカイン密造密売時代に入った。これが一貫した時代背景なのだが、作家は主人公にコカインでなく大麻の密輸から始めさせている。
主人公は、語り手(作家の分身)の目の前で殺し屋に殺されてしまう。謎めいた語り口は、主人公が大麻からコカイン取引に移り、麻薬マフィア間の利権争いに巻き込まれていたことを示唆する。
主として麻薬戦争が激化する前の時期の話だが、政府軍と左翼ゲリラとの内戦は続いていた。内戦を思わせる記述も、わずかながら出てくる。
世界最大のコカイン生産国コロンビアの男と、同最大消費国・米国の女性が結びつくところが味噌だ。語り手の人生の流れの中で、語り手が玉突き場で知り合った主人公の人生が劇中劇のように語られ、最後には両者は収斂する。その時、語り手の妻は夫に愛想をつかし、娘を連れて去ってゆく。
人と人の出会い、別れ、再会は、愛や打算を伴いつつ、人と運命の絡み合いの元となる。これが骨組みになっている。巧みな構成だ。
1960年から56年も続いてきたコロンビア内戦は、3月下旬、和平協定調印が実現しそうになっている。実現すれば、内戦期のさまざまな実話、逸話、体験などを踏まえた小説が生まれてくるだろう。大いに期待したい。
2016年1月12日火曜日
カール・サンドバーグの『シカゴ詩集』を読む
米国の詩人カール・サンドバーグ(1878~1967)の『シカゴ詩集』(1916)を読んだ。原稿執筆のための資料としてでなく、楽しむための年頭読書用に買い込んであった中から選んだ本である。安藤一郎訳、岩波文庫、560円。
「シカゴ」
世界のための豚と殺者、
機具製作者、小麦の積み上げ手、
鉄道の賭博師、全国の貨物取扱い人。
がみがみ怒鳴る、ガラガラ声の、喧嘩早い
でっかい肩の都市。
この最初の詩を読んでピンと来た。案の定、移民、労働者、女工、黒人、波止場、文明批判、戦争、アステカ民族、ジャック・ロンドン、オマール・ハイヤーム、ジプシーなどが次々に出てきた。欧州からの移民労働者にはイタリア人が盛んに登場する。ナポリ民謡の「遥かなるサンタルチーア」や「カタリ」を思い出した。
「二人の隣人」は、「二つの不滅の顔がいつもおれを見ている。一人はオマール・ハイヤームと例の紅い飲みものさ、」で始まる。サンドバーグも、あの『ルバイヤート』を愛したのだ。
著者がプロレタリア詩人だったころの詩集だが、ジャーナリストでもあった著者は、おそらくジョージ・オーウェルの著作も読んでいたのではなかったか。
リンカーン伝6巻の大作も物にしている。1898年の「米西戦争」時、歩兵部隊の一員として、スペイン植民地だったプエルト・リコに出兵、8ヶ月間駐屯した経験の持ち主だ。
この戦争は、スペイン軍を相手に独立戦争を長らく戦っていたクーバ独立軍が間近に見据えていた勝利を米国がかっさらった不正な帝国主義戦争だった。ヘンリー・ソローは、同じく不正な戦争だった「米墨戦争」を批判し、払税を拒否した。サンドバーグがソローを読んでいたのは想像に難くない。
この詩集は第一次世界大戦のさなかに世に出た。この大戦が「米西戦争」と二重写しになって著者の脳裡を駆け巡っていたのは疑いない。
「人夫たち」は、次のように締めくくられている。
「それを眺めている二十人の中の十人はつぶやく、<おお、なんという酷い仕事だ> あとの十人は言う、<どうか、おれにも仕事があるように>と。」
「シカゴ」
世界のための豚と殺者、
機具製作者、小麦の積み上げ手、
鉄道の賭博師、全国の貨物取扱い人。
がみがみ怒鳴る、ガラガラ声の、喧嘩早い
でっかい肩の都市。
この最初の詩を読んでピンと来た。案の定、移民、労働者、女工、黒人、波止場、文明批判、戦争、アステカ民族、ジャック・ロンドン、オマール・ハイヤーム、ジプシーなどが次々に出てきた。欧州からの移民労働者にはイタリア人が盛んに登場する。ナポリ民謡の「遥かなるサンタルチーア」や「カタリ」を思い出した。
「二人の隣人」は、「二つの不滅の顔がいつもおれを見ている。一人はオマール・ハイヤームと例の紅い飲みものさ、」で始まる。サンドバーグも、あの『ルバイヤート』を愛したのだ。
著者がプロレタリア詩人だったころの詩集だが、ジャーナリストでもあった著者は、おそらくジョージ・オーウェルの著作も読んでいたのではなかったか。
リンカーン伝6巻の大作も物にしている。1898年の「米西戦争」時、歩兵部隊の一員として、スペイン植民地だったプエルト・リコに出兵、8ヶ月間駐屯した経験の持ち主だ。
この戦争は、スペイン軍を相手に独立戦争を長らく戦っていたクーバ独立軍が間近に見据えていた勝利を米国がかっさらった不正な帝国主義戦争だった。ヘンリー・ソローは、同じく不正な戦争だった「米墨戦争」を批判し、払税を拒否した。サンドバーグがソローを読んでいたのは想像に難くない。
この詩集は第一次世界大戦のさなかに世に出た。この大戦が「米西戦争」と二重写しになって著者の脳裡を駆け巡っていたのは疑いない。
「人夫たち」は、次のように締めくくられている。
「それを眺めている二十人の中の十人はつぶやく、<おお、なんという酷い仕事だ> あとの十人は言う、<どうか、おれにも仕事があるように>と。」
2015年12月31日木曜日
アイスランド人作家アーナルデュルの警察小説「湿地」を読む
今年最後の読書は、アイスランド人作家アーナルデュル・インドリダーソン著『湿地』(柳沢由実子訳、創元推理文庫)だった。アイスランド産の警察小説を読んだのは初めてだ。
犯人が頭隠して尻隠さずのような間抜けという意味で、やたらに「いかにもアイスランド的犯罪だ」という記述が出てくるのが面白い。ところが、この本の犯人はアイスランド人であるが、事件は「いかにもアイスランド的」なものではなかった。
作者の2000年の作品で、この訳書は今年半ばに出た。他の2作も翻訳されているから、年明けに読むこととする。私は一年中、ラ米漬のため、極北に近い土地の気候風土の味わえる物語はありがたい。
この読書をきっかけに、まだ読んだことのないアイスランド人ノーベル文学賞作家ハルドル・ラクスネス(1902~98、55年受賞)の幾つかの作品も読もうと決めた。
若いころ、米州のどこでだったか覚えていないが、旅行者のアイスランド青年と話し合ったことがある。はにかみ屋で好人物だったのを記憶している。そのとき、いつかアイスランドに行ってみたいと思ったものだ。
明日は新年だ。アイスランドに行きたいという夢が正夢になるのを期待する。
犯人が頭隠して尻隠さずのような間抜けという意味で、やたらに「いかにもアイスランド的犯罪だ」という記述が出てくるのが面白い。ところが、この本の犯人はアイスランド人であるが、事件は「いかにもアイスランド的」なものではなかった。
作者の2000年の作品で、この訳書は今年半ばに出た。他の2作も翻訳されているから、年明けに読むこととする。私は一年中、ラ米漬のため、極北に近い土地の気候風土の味わえる物語はありがたい。
この読書をきっかけに、まだ読んだことのないアイスランド人ノーベル文学賞作家ハルドル・ラクスネス(1902~98、55年受賞)の幾つかの作品も読もうと決めた。
若いころ、米州のどこでだったか覚えていないが、旅行者のアイスランド青年と話し合ったことがある。はにかみ屋で好人物だったのを記憶している。そのとき、いつかアイスランドに行ってみたいと思ったものだ。
明日は新年だ。アイスランドに行きたいという夢が正夢になるのを期待する。
2015年12月24日木曜日
宇田川彩著『アルゼンチンのユダヤ人』を読む
風響社のブックレット≪アジアを学ぼう≫別刊9で、「食から見た暮らしと文化」という副題が付いている。60ページ、800円だ。含蓄ある、さまざまな記述が登場する。その一部を紹介する。
食べ物を分け与えることは、食べ物に本来的に備わっている性質である。他人に食べ物を分け与えないことは、食べ物の精髄を殺すことに等しく、自分に対しても他者に対しても、その食べ物を破壊することになる。
ユダヤ教には、喜捨という重要な倫理がある。貧者への喜捨は、社会に公正をもたらす。自分、家族、身近な人々以外の人々と食べ物を分かち合うことで繋がりが拡がる。
ユダヤ人にとり、他のユダヤ人の内臓を体内に移植することは、「適正な食べ物」をとり込むことと同義である。ある学者は、臓器移植は人肉食と原理的に何ら変わらない、と指摘した。
この本の著者は、ブエノスアイレスを中心に亜国で2年間調査活動した新進気鋭の文化人類学者である。
食べ物を分け与えることは、食べ物に本来的に備わっている性質である。他人に食べ物を分け与えないことは、食べ物の精髄を殺すことに等しく、自分に対しても他者に対しても、その食べ物を破壊することになる。
ユダヤ教には、喜捨という重要な倫理がある。貧者への喜捨は、社会に公正をもたらす。自分、家族、身近な人々以外の人々と食べ物を分かち合うことで繋がりが拡がる。
ユダヤ人にとり、他のユダヤ人の内臓を体内に移植することは、「適正な食べ物」をとり込むことと同義である。ある学者は、臓器移植は人肉食と原理的に何ら変わらない、と指摘した。
この本の著者は、ブエノスアイレスを中心に亜国で2年間調査活動した新進気鋭の文化人類学者である。
2015年10月25日日曜日
ガルシア=マルケスの遺品アルバムに黒澤明との写真も
米テキサス州都オースティンにあるテキサス大学ハリー・ランサム人文学センター文書館で、コロンビア人作家、故ガブリエル・ガルシア=マルケス(愛称ガボ)の資料の分析が進んでいる。
10月24日公表されたところでは、1990年代初め来日した際に会った黒澤明監督との写真も見つかった。
同センターは昨年、メヒコ市に住むガボの遺族から220万ドルで段ボール78箱分の資料を買い取った。手紙2000通、写真アルバム43冊、手書きのノート22冊、小説作品10作分のタイプ記述などである。
アルバムには題名が付けられており、「ラ・アバーナ」(ハバナ)4冊には、革命軍最高司令官、共産党第1書記、国家評議会議長(元首)、首相を兼任していたころの元気なフィデル・カストロとのさまざまな写真が貼られている。
「フィデル、ビラーン」には1996年に、ガボがフィデルと共に訪れたフィデルの生地、オルギン州ビラーンの復元された生家での写真が収められている。
友人たちとの華やかな交流の記録でもある「アミーゴス」には、黒澤のほか、映画監督ルイス・ブニュエル、俳優ウッディー・アレン、作家グレアム・グリーン、同フリオ・コルタサル、同カルロス・フエンテス、詩人パブロ・ネルーダらが登場する。
「大統領たちと共に」には、ミハイル・ゴルバチョフ、ビル・クリントンらが出てくる。ガボは革命初期からCIAに眼をつけられ、米入国が禁止されていたが、90年代に、ガボの愛読者クリントン大統領が解禁。ガボは、クーバから米国への筏難民流入事件を解決するため、クリントンの密使としてハバナを訪れ、フィデルに米政府の意志を伝えたことがある。
ガボ゙夫妻は2008年、病気療養中だったフィデルをハバナの自邸に訪ね歓談したが、その時のことをフィデルは「楽しい時間だった」と記している。
同センターの今後の分析で、重要な資料や事実関係が明らかにされる可能性があり、センターの分析者は「驚きがあるはずだ」と言い、そのことを示唆している。
10月24日公表されたところでは、1990年代初め来日した際に会った黒澤明監督との写真も見つかった。
同センターは昨年、メヒコ市に住むガボの遺族から220万ドルで段ボール78箱分の資料を買い取った。手紙2000通、写真アルバム43冊、手書きのノート22冊、小説作品10作分のタイプ記述などである。
アルバムには題名が付けられており、「ラ・アバーナ」(ハバナ)4冊には、革命軍最高司令官、共産党第1書記、国家評議会議長(元首)、首相を兼任していたころの元気なフィデル・カストロとのさまざまな写真が貼られている。
「フィデル、ビラーン」には1996年に、ガボがフィデルと共に訪れたフィデルの生地、オルギン州ビラーンの復元された生家での写真が収められている。
友人たちとの華やかな交流の記録でもある「アミーゴス」には、黒澤のほか、映画監督ルイス・ブニュエル、俳優ウッディー・アレン、作家グレアム・グリーン、同フリオ・コルタサル、同カルロス・フエンテス、詩人パブロ・ネルーダらが登場する。
「大統領たちと共に」には、ミハイル・ゴルバチョフ、ビル・クリントンらが出てくる。ガボは革命初期からCIAに眼をつけられ、米入国が禁止されていたが、90年代に、ガボの愛読者クリントン大統領が解禁。ガボは、クーバから米国への筏難民流入事件を解決するため、クリントンの密使としてハバナを訪れ、フィデルに米政府の意志を伝えたことがある。
ガボ゙夫妻は2008年、病気療養中だったフィデルをハバナの自邸に訪ね歓談したが、その時のことをフィデルは「楽しい時間だった」と記している。
同センターの今後の分析で、重要な資料や事実関係が明らかにされる可能性があり、センターの分析者は「驚きがあるはずだ」と言い、そのことを示唆している。
『概説 近代スペイン文化史』を読む
『概説 近代スペイン文化史 18世紀から現代まで』(立石博高編著、ミネルヴァ書房、3200円)を読んだ。「近現代スペインの豊かな文化と歴史を学ぶ。一面的なスペインのイメージから脱し、魅力あふれる多様な文化と歴史的背景を解説」と帯に記されている通り、総合的な記述がなされており、スペイン文化の高級な入門書だ。
スペイン史を学ぶことは、歴史が連動したラ米の歴史を理解することにも繋がる。書評に書いたので詳しくは触れないが、読み応えのある本書をラ米学徒にお薦めしたい。
骨組みに触れれば、第1部(1~6章)は、啓蒙思想期、自由主義とロマン主義、王政復古、内戦、フランコ独裁期、民主化。第2部(7~16章)は、言語、文学、女性像、教会、市民性、美術、映画、フラメンコ、闘牛、スポーツ。
スペイン史を学ぶことは、歴史が連動したラ米の歴史を理解することにも繋がる。書評に書いたので詳しくは触れないが、読み応えのある本書をラ米学徒にお薦めしたい。
骨組みに触れれば、第1部(1~6章)は、啓蒙思想期、自由主義とロマン主義、王政復古、内戦、フランコ独裁期、民主化。第2部(7~16章)は、言語、文学、女性像、教会、市民性、美術、映画、フラメンコ、闘牛、スポーツ。
2015年10月17日土曜日
伊藤昌輝訳『スペイン語で奏でる方丈記』が受賞
鴨長明の『方丈記』をスペイン語に訳した『スペイン語で奏でる方丈記』(大盛堂書房)が、日本翻訳家協会(平野裕理事長)の「翻訳特別賞」となり、訳者の元外交官、伊藤昌輝ラテンアメリカ協会理事長が受賞した。
「異文化間の相互理解と日本文化の向上に貢献する優れた翻訳作品」と評価された。表彰式は10月16日、学士会館で催された。
対訳形式になっており、ラ米学徒、スペイン語学徒には教本ともなる。今年3月、出版された。
「異文化間の相互理解と日本文化の向上に貢献する優れた翻訳作品」と評価された。表彰式は10月16日、学士会館で催された。
対訳形式になっており、ラ米学徒、スペイン語学徒には教本ともなる。今年3月、出版された。
2015年8月10日月曜日
大仏次郎の『パナマ事件』を読む
大仏次郎(1897~1973)には、フランス近現代史の仏語資料を基にまとめた一連の作品がある。その一つが、1959年に発表された『パナマ事件』である。朝日新聞社の文庫本(1983)で読んだ。
スエズ運河を建設したフェルディナンド・ドゥ・レセップス(1805~94)の栄光と波乱に富んだ生涯を描いたノンフィクション。スエズ運河建設で世界的著名人となったレセップスは、その声望に後押しされてパナマ運河建設に挑むが、見事に失敗する。それからは失意のうちに凋落の晩年を送る。
著者は、これを戦前に書く予定だったが、2・26事件後の日本政治の軍国主義化で断念した。巻末の解説で井出孫六が指摘するように、時宜を逸したことや、文章が細部に入り込みすぎて、迫力を欠く嫌いがある。
だが、レセップスルの人生を知る上で、十分に面白い。私はスエズとパナマの両運河を通航した経験があるが、レセップスの人生の明暗を分けた二つの運河は彼と不可分の関係にある。
通航する時、オマージュを捧げないわけにいかない。スエズ運河は最近、一部水路が複路化された。
スエズ運河を建設したフェルディナンド・ドゥ・レセップス(1805~94)の栄光と波乱に富んだ生涯を描いたノンフィクション。スエズ運河建設で世界的著名人となったレセップスは、その声望に後押しされてパナマ運河建設に挑むが、見事に失敗する。それからは失意のうちに凋落の晩年を送る。
著者は、これを戦前に書く予定だったが、2・26事件後の日本政治の軍国主義化で断念した。巻末の解説で井出孫六が指摘するように、時宜を逸したことや、文章が細部に入り込みすぎて、迫力を欠く嫌いがある。
だが、レセップスルの人生を知る上で、十分に面白い。私はスエズとパナマの両運河を通航した経験があるが、レセップスの人生の明暗を分けた二つの運河は彼と不可分の関係にある。
通航する時、オマージュを捧げないわけにいかない。スエズ運河は最近、一部水路が複路化された。
2015年7月28日火曜日
鶴見俊輔先生の思い出
哲学者、評論家の鶴見俊輔先生が京都市で7月20日、肺炎で亡くなった。93歳だった。私の<学外恩師>だった。
鶴見さんは1972年9月から73年6月まで10ヶ月間、メヒコ市に滞在し、大学院大学コレヒオデメヒコで教鞭をとった。私は、同コレヒオ前任の石田雄(いしだ・たけし)先生の紹介で、鶴見さんに会った。
私は10ヶ月間、私のラ米出張取材時を除き、メヒコ市でみっちり教えをこうむった。メヒコ市内、郊外を共に取材がてら散策し、一度は遠方のソノラ州内のヤキ民族居住地まで訪れた。
鶴見さんが50歳、私が29歳の時だった。私が東京に戻ってからも、80年代後半ブラジルに駐在していた時も、『思想の科学』誌への記事執筆や伝記執筆の機会を与えていただいた。京都の家に泊めていただき、寺を案内していただいたこともある。
思い出は数知れないが、一つだけ紹介すれば、「漫画は命がけで読むんですよ」と言われた言葉も印象深い。漫画の研究者でもあった鶴見さんから、さまざまな漫画、劇画を貸していただき読んだものだ。
敗戦後70年の日本史の最大・最悪の曲がり角で、鶴見さんは亡くなった。しかし数知れない鶴見門下生が恩師の思想を受け継いでゆく。
鶴見さんは1972年9月から73年6月まで10ヶ月間、メヒコ市に滞在し、大学院大学コレヒオデメヒコで教鞭をとった。私は、同コレヒオ前任の石田雄(いしだ・たけし)先生の紹介で、鶴見さんに会った。
私は10ヶ月間、私のラ米出張取材時を除き、メヒコ市でみっちり教えをこうむった。メヒコ市内、郊外を共に取材がてら散策し、一度は遠方のソノラ州内のヤキ民族居住地まで訪れた。
鶴見さんが50歳、私が29歳の時だった。私が東京に戻ってからも、80年代後半ブラジルに駐在していた時も、『思想の科学』誌への記事執筆や伝記執筆の機会を与えていただいた。京都の家に泊めていただき、寺を案内していただいたこともある。
思い出は数知れないが、一つだけ紹介すれば、「漫画は命がけで読むんですよ」と言われた言葉も印象深い。漫画の研究者でもあった鶴見さんから、さまざまな漫画、劇画を貸していただき読んだものだ。
敗戦後70年の日本史の最大・最悪の曲がり角で、鶴見さんは亡くなった。しかし数知れない鶴見門下生が恩師の思想を受け継いでゆく。
2015年7月12日日曜日
ボリビア人作家の小説『チューリングの妄想』を読む
ボリビア人作家エドゥムンド・パス=ソルダン(1967年生まれ)が2003年に世に出した『チューリングの妄想』を半年前に読んだとき、あの近代と現代が相剋し合っているボリビアで、こんな電脳(コンピューター)世界の小説が出たとは! と新鮮な感想を得た。
私は、この作風と小説内容に「レアリズモ・ビルトゥアル」(ヴァーチュアル・リアリズム)と名付けた。
舞台は、アンデス前衛山脈の幾重にも連なる山並みと、その間に渓谷、盆地が拡がるバージェと呼ばれる地帯の中心地で、この作家の出身地であるコチャバンバ市を想定した架空都市「リオ・フヒティーボ」(「逃亡の川」の意味)。
「チューリング」は、第2次大戦中、ナチドイツの難解な暗号を解読し、英国攻撃の一部を防いだ功労者アラン・チューリングに因んでいる。今年3月には、東京でチューリングの実話を描いた「イミテーションゲーム」という映画が上映された。あの映画を観た人ならば、この小説に親しみを覚えるだろう。
1970年代に米国、ブラジル軍政と歩調を合わせて圧政を敷いた軍政首班ウーゴ・バンセルが、しばしば登場する。バンセルは90年代後半、選挙で政権に返り咲くが、癌により任期途中で辞任し、死んでいった。この時期の時代背景も小説に描かれている。
惜しむらくは、コチャバンバを勢力基盤とするコカ葉栽培農民組合連合会長エボ・モラレス(現大統領)が全く登場しないことだ。モラレスの政治的将来の有望性を見抜いて筋に絡ませていれば、小説の厚みが増したはずだ。
ハッカーと諜報機関が熾烈な戦いを繰り広げるが、その過程で登場人物や「犯人」の素性が暴かれていく。「魔術的現実主義」ならぬ「ヴァーチュアル現実主義」の世界が、アンデス大高原(アルティプラーノ)のボリビアの印象とかけ離れているところが、この小説の味だ。
日語訳は現代企画室から昨年7月刊行された。服部綾乃、石川隆介共訳。両訳者の巻末解説も面白い。本書の書評を新聞か雑誌に書くつもりだったが機会を失い、、このような形で遅ればせながら紹介することにした。
私は、この作風と小説内容に「レアリズモ・ビルトゥアル」(ヴァーチュアル・リアリズム)と名付けた。
舞台は、アンデス前衛山脈の幾重にも連なる山並みと、その間に渓谷、盆地が拡がるバージェと呼ばれる地帯の中心地で、この作家の出身地であるコチャバンバ市を想定した架空都市「リオ・フヒティーボ」(「逃亡の川」の意味)。
「チューリング」は、第2次大戦中、ナチドイツの難解な暗号を解読し、英国攻撃の一部を防いだ功労者アラン・チューリングに因んでいる。今年3月には、東京でチューリングの実話を描いた「イミテーションゲーム」という映画が上映された。あの映画を観た人ならば、この小説に親しみを覚えるだろう。
1970年代に米国、ブラジル軍政と歩調を合わせて圧政を敷いた軍政首班ウーゴ・バンセルが、しばしば登場する。バンセルは90年代後半、選挙で政権に返り咲くが、癌により任期途中で辞任し、死んでいった。この時期の時代背景も小説に描かれている。
惜しむらくは、コチャバンバを勢力基盤とするコカ葉栽培農民組合連合会長エボ・モラレス(現大統領)が全く登場しないことだ。モラレスの政治的将来の有望性を見抜いて筋に絡ませていれば、小説の厚みが増したはずだ。
ハッカーと諜報機関が熾烈な戦いを繰り広げるが、その過程で登場人物や「犯人」の素性が暴かれていく。「魔術的現実主義」ならぬ「ヴァーチュアル現実主義」の世界が、アンデス大高原(アルティプラーノ)のボリビアの印象とかけ離れているところが、この小説の味だ。
日語訳は現代企画室から昨年7月刊行された。服部綾乃、石川隆介共訳。両訳者の巻末解説も面白い。本書の書評を新聞か雑誌に書くつもりだったが機会を失い、、このような形で遅ればせながら紹介することにした。
2015年6月17日水曜日
16世紀に書かれた『バスク初文集』を読む
バスコ人ベルナト・エチェパレが1545年、南仏ボルドーで出版した『バスク初文集』(萩尾生・吉田浩美共訳、2014年白水社)という詩集を読んだ。エチェパレはコロンブスが新世界と出遭った(1492年)ころ生きていたカトリック司祭だった。
司祭らしく「神」を主題にした詩が多い。その中に「この世の暮らしは短く、あの世の暮らしは永遠なのです」という一行がある。
「神は世界中の何にも増して女を愛しています 女に愛をささやくために天から降りてこられたのでしょう その女のお陰で私たちは神と兄弟になれるのです 神の愛のためにすべての女が賞賛されるべきなのです」という一節もある。
圧巻は、「バスク語よ、世界に出よ、世界を闊歩せよ、踊りに出でよ」と、バスク語を高らかに謳う「コントラパス」だ。この『初文集』は、バスク語で書かれ印刷された最初の本なのだ。
「サウトゥレラ」も、「バスク人たる者は皆、頭を上げよ、自分たちの言語が花と咲く日が来たのだから」と、出版を詠い上げる。
この本の三分の一は解説に費やされている。バスク国、バスク語の歴史は複雑だ。バスク語文法や発音の説明もあるが難しい。
バスク語は、独裁者フランコの死後、現代のルネサンス期にある。現代文学も書かれている。若いころ、ピレネー山脈の両側のバスク地域を何度か取材した。そのころを思い出しながら、この詩集を味わった。
司祭らしく「神」を主題にした詩が多い。その中に「この世の暮らしは短く、あの世の暮らしは永遠なのです」という一行がある。
「神は世界中の何にも増して女を愛しています 女に愛をささやくために天から降りてこられたのでしょう その女のお陰で私たちは神と兄弟になれるのです 神の愛のためにすべての女が賞賛されるべきなのです」という一節もある。
圧巻は、「バスク語よ、世界に出よ、世界を闊歩せよ、踊りに出でよ」と、バスク語を高らかに謳う「コントラパス」だ。この『初文集』は、バスク語で書かれ印刷された最初の本なのだ。
「サウトゥレラ」も、「バスク人たる者は皆、頭を上げよ、自分たちの言語が花と咲く日が来たのだから」と、出版を詠い上げる。
この本の三分の一は解説に費やされている。バスク国、バスク語の歴史は複雑だ。バスク語文法や発音の説明もあるが難しい。
バスク語は、独裁者フランコの死後、現代のルネサンス期にある。現代文学も書かれている。若いころ、ピレネー山脈の両側のバスク地域を何度か取材した。そのころを思い出しながら、この詩集を味わった。
2015年6月14日日曜日
グアテマラ内戦中の人道犯罪扱った『無分別』を読む
遅ればせながら、中米人作家オラシオ・カステジャーノス=モヤ(1957~)の『無分別』(2004年、白水社2012年細野豊訳)を読んだ。本の瓦礫の山に埋もれていたものだ。
グアテマラ内戦中の夥しい数の人道犯罪の実態の報告書「グアテマラ、二度と再び」の編集に主人公が携わるという設定だ。身の危険を感じた主人公はドイツに逃れるが、その地で、報告書を公表したヘラルディ司教の暗殺のニュースに接するという結末。
人道犯罪の最大の責任者である将軍エフライン・リオス=モントは齢90歳にならんとして、裁判から逃げ回っている。将軍の部下で、将校時代人道犯罪に関与したと指摘されている人物が、現大統領オットー・ペレス=モリーナである。彼は今、大規模な腐敗事件への関与で辞任か、逮捕起訴かの瀬戸際に立たされている。
史実を踏まえており、現代グアテマラ情勢を理解するためにも読むにふさわしく、面白い。瓦礫の中から、もっと早く見つけ出すべきだった。
グアテマラ内戦中の夥しい数の人道犯罪の実態の報告書「グアテマラ、二度と再び」の編集に主人公が携わるという設定だ。身の危険を感じた主人公はドイツに逃れるが、その地で、報告書を公表したヘラルディ司教の暗殺のニュースに接するという結末。
人道犯罪の最大の責任者である将軍エフライン・リオス=モントは齢90歳にならんとして、裁判から逃げ回っている。将軍の部下で、将校時代人道犯罪に関与したと指摘されている人物が、現大統領オットー・ペレス=モリーナである。彼は今、大規模な腐敗事件への関与で辞任か、逮捕起訴かの瀬戸際に立たされている。
史実を踏まえており、現代グアテマラ情勢を理解するためにも読むにふさわしく、面白い。瓦礫の中から、もっと早く見つけ出すべきだった。
2015年6月6日土曜日
ガルシア=マルケスの『誘拐の知らせ』を再読する
頭の疲れをとるには、酒か読書にかぎる。その後に、よく眠れるからだ。酒があまり飲めなくなった老人には、読書の方がはるかにいい。
そんなわけで、疲れた頭を休ませるため、続けて2冊読んだ。一つは、1962年生まれの亜国人作家ギジェルモ・マルティネスの『オックスフォード殺人事件』(2003年原題「見えない犯罪」、和泉圭亮訳、2006年扶桑社)。
数学者である作家が、数学的犯罪を、数学者を主人公の一人として絡ませ、謎を解く。「推理小説を読みつくした読者への挑戦本」という趣旨の巻末解説がある。推理小説としては面白いとはいえない。かえって頭が疲れてしまった。
だが、いろいろな試みが合っていい。淘汰されて短命に終わり消えていくか、風雪に耐えて生き残り古典になるか、のどちらしかないからだ。
もう一つは、ガブリエル・ガルシア=マルケス著『誘拐の知らせ』(1996年、旦敬介訳、2010年筑摩書房)。GGMのジャーナリストの筆致が遺憾なく発揮されている面白い本だ。だが、ほんの少しの遅れ(時間差)を「何万光年も遅れた」と書くなど、魔術的表現が時折出てくる。やはりガボは、得意技を100%抑えるのに我慢できないのだ。
読んでいるうちに、待てよ、読んだような気がする、と気づいた。読み終えてから巻末を見ると、1997年に角川春樹事務所から『誘拐』として出ていたのがわかり、それを読んでいたのを思い出した。
この本には、私が記者時代にコロンビアでインタビューした公安庁長官ら何人かの人物も出てくる。それもあって面白いと思ったのではないか、と自問した。いや、それがなくとも面白い。再読だったが、よく眠れた。
そんなわけで、疲れた頭を休ませるため、続けて2冊読んだ。一つは、1962年生まれの亜国人作家ギジェルモ・マルティネスの『オックスフォード殺人事件』(2003年原題「見えない犯罪」、和泉圭亮訳、2006年扶桑社)。
数学者である作家が、数学的犯罪を、数学者を主人公の一人として絡ませ、謎を解く。「推理小説を読みつくした読者への挑戦本」という趣旨の巻末解説がある。推理小説としては面白いとはいえない。かえって頭が疲れてしまった。
だが、いろいろな試みが合っていい。淘汰されて短命に終わり消えていくか、風雪に耐えて生き残り古典になるか、のどちらしかないからだ。
もう一つは、ガブリエル・ガルシア=マルケス著『誘拐の知らせ』(1996年、旦敬介訳、2010年筑摩書房)。GGMのジャーナリストの筆致が遺憾なく発揮されている面白い本だ。だが、ほんの少しの遅れ(時間差)を「何万光年も遅れた」と書くなど、魔術的表現が時折出てくる。やはりガボは、得意技を100%抑えるのに我慢できないのだ。
読んでいるうちに、待てよ、読んだような気がする、と気づいた。読み終えてから巻末を見ると、1997年に角川春樹事務所から『誘拐』として出ていたのがわかり、それを読んでいたのを思い出した。
この本には、私が記者時代にコロンビアでインタビューした公安庁長官ら何人かの人物も出てくる。それもあって面白いと思ったのではないか、と自問した。いや、それがなくとも面白い。再読だったが、よく眠れた。
2015年5月25日月曜日
映画「イル・ポスティーノ」の原作、スカールメタの小説をどうぞ
詩人パブロ・ネルーダ(1904~73)とカルテーロ(郵便配達夫)との交流を描いたチレ人作家アントニオ・スカールメタの小説『燃えたぎるような忍耐』(別名「ネルーダの郵便配達夫」)がある。
1985年の作品で、これを翻案して制作されたのが94年の映画「イル・ポスティーノ(郵便配達夫)」だ。主演マッシモ・トロイージの名演技と、この映画の完成直後にトロイージが急死したこともあって、映画は世界的に大ヒットした。
映画の当たりを受けて日本では96年に訳書が徳間文庫(鈴木玲子訳)として刊行された。題名な何と、映画の題名と同じ! 違和感が否めない。
小説の舞台となったのは、チレ中部太平洋岸のイスラ・ネグラ(直訳すれば「黒島」)。この地にある邸宅にネルーダ夫妻は晩年住んでいた。夫妻の墓も庭にある。
映画は、舞台をイスラ・ネグラから地中海のイタリア・カプリ島に移し、筋をかなり変えている。ネルーダが祖国で迫害されカプリ島で亡命生活を送っていた時期に筋を上手に合わせたのだ。
訳書の巻末で解説者は、イスラ・ネグラを「島」と誤解して書いている。読者は、それが島ではなく陸地の一部の地名であることを認識してほしい。
海と船が大好きだったネルーダは、海岸地帯の低い丘の上の邸宅を船のように造り、海岸まで続く庭は太平洋の大海原を借景にしている。邸宅は今は有料のムセオ(博物館)になっている。
映画を観て感動した人々に、是非スカールメタの原作を読むよう勧めたい。
因みに、イスラ・ネグラの北方100kmの太平洋岸にあるバルパライソの旧ネルーダ邸も、バルパライソの東方120kmの首都サンティアゴにある旧ネルーダ邸も、内部が船のような構造になっている。これらの邸宅もムセオで、観覧できる。
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1985年の作品で、これを翻案して制作されたのが94年の映画「イル・ポスティーノ(郵便配達夫)」だ。主演マッシモ・トロイージの名演技と、この映画の完成直後にトロイージが急死したこともあって、映画は世界的に大ヒットした。
映画の当たりを受けて日本では96年に訳書が徳間文庫(鈴木玲子訳)として刊行された。題名な何と、映画の題名と同じ! 違和感が否めない。
小説の舞台となったのは、チレ中部太平洋岸のイスラ・ネグラ(直訳すれば「黒島」)。この地にある邸宅にネルーダ夫妻は晩年住んでいた。夫妻の墓も庭にある。
映画は、舞台をイスラ・ネグラから地中海のイタリア・カプリ島に移し、筋をかなり変えている。ネルーダが祖国で迫害されカプリ島で亡命生活を送っていた時期に筋を上手に合わせたのだ。
訳書の巻末で解説者は、イスラ・ネグラを「島」と誤解して書いている。読者は、それが島ではなく陸地の一部の地名であることを認識してほしい。
海と船が大好きだったネルーダは、海岸地帯の低い丘の上の邸宅を船のように造り、海岸まで続く庭は太平洋の大海原を借景にしている。邸宅は今は有料のムセオ(博物館)になっている。
映画を観て感動した人々に、是非スカールメタの原作を読むよう勧めたい。
因みに、イスラ・ネグラの北方100kmの太平洋岸にあるバルパライソの旧ネルーダ邸も、バルパライソの東方120kmの首都サンティアゴにある旧ネルーダ邸も、内部が船のような構造になっている。これらの邸宅もムセオで、観覧できる。
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2015年3月24日火曜日
世に出た『方丈記』対訳書の訳者・伊藤昌輝さんが語る
鴨長明(1155~1216)が鎌倉時代の1212年ごろ著した随筆集『方丈記』の日西対訳書が3月23日、神戸市の大盛堂書房(電話078-861-3436)から発売された。本体1700円。
翻訳者は、オンドゥーラス駐在大使、ベネスエラ駐在大使などを務めた元外交官、伊藤昌輝氏。
伊藤さんは対訳書が世に出るのに際し、本ブログに、翻訳時の工夫や苦労を語ってくれた。
苦労、工夫した点ですが、『方丈記』は散文形式で書かれています。そして日本の古典文学における三大随筆の一つとされています。
この作品の魅力は、言葉の力にあると言われています。当時の日本には歌はありましたが、西洋的な詩はありませんでした。
そのため鴨長明は散文形式にせざるを得ませんでした。ですが本質的には詩であると私は思います。
そこで、詩形式にして訳してみました。もちろん、韻を踏む本格的な詩ではありません。言わば、散文詩です。そこが一番の工夫だと言えるかもしれません。
苦労といえば、どの翻訳にも共通しますが、原文の字面にとらわれず、いかにその心、真意を捉えるか、それをいかにしてスペイン語らしいスペイン語で表現するか、ですね。
原文からあまり離れてもいけないし、原文にこだわって、スペイン語がぎこちなくなってもいけません。その究極のバランスですね。
その点では、ベネスエラの女流詩人ヨランダ・デル・ノガルさんの献身的な協力が得られたのは大きかったと思います。
彼女は現地のラジオで自分の番組を持ち、私も何度か出演し、俳句などについて話したことがあります。彼女は、そのラジオ局の設備を使って『方丈記』全文を朗読しCDにして、私の大使離任の際の餞別としてくれました。
このCDが付いているのも、本対訳書の魅力の一つかと思います。
翻訳者は、オンドゥーラス駐在大使、ベネスエラ駐在大使などを務めた元外交官、伊藤昌輝氏。
伊藤さんは対訳書が世に出るのに際し、本ブログに、翻訳時の工夫や苦労を語ってくれた。
苦労、工夫した点ですが、『方丈記』は散文形式で書かれています。そして日本の古典文学における三大随筆の一つとされています。
この作品の魅力は、言葉の力にあると言われています。当時の日本には歌はありましたが、西洋的な詩はありませんでした。
そのため鴨長明は散文形式にせざるを得ませんでした。ですが本質的には詩であると私は思います。
そこで、詩形式にして訳してみました。もちろん、韻を踏む本格的な詩ではありません。言わば、散文詩です。そこが一番の工夫だと言えるかもしれません。
苦労といえば、どの翻訳にも共通しますが、原文の字面にとらわれず、いかにその心、真意を捉えるか、それをいかにしてスペイン語らしいスペイン語で表現するか、ですね。
原文からあまり離れてもいけないし、原文にこだわって、スペイン語がぎこちなくなってもいけません。その究極のバランスですね。
その点では、ベネスエラの女流詩人ヨランダ・デル・ノガルさんの献身的な協力が得られたのは大きかったと思います。
彼女は現地のラジオで自分の番組を持ち、私も何度か出演し、俳句などについて話したことがあります。彼女は、そのラジオ局の設備を使って『方丈記』全文を朗読しCDにして、私の大使離任の際の餞別としてくれました。
このCDが付いているのも、本対訳書の魅力の一つかと思います。
2015年3月19日木曜日
伊藤昌輝スペイン語訳『方丈記』が世に出ます!
伊藤昌輝(元外交官)は、日本の古典文学をスペイン語に訳す貴重な仕事を重ねてきた。そして3月23日、『方丈記』の訳書を世に出す!
出版社は、神戸市の大盛堂書房(電話078-861-3436)。定価は1700円。
「ゆく河の流れは絶えずして」=La corriente dei rio jamas se detiene。
スペイン語学徒の皆さん、読んでみませんか。私は既に手にしています。
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出版社は、神戸市の大盛堂書房(電話078-861-3436)。定価は1700円。
「ゆく河の流れは絶えずして」=La corriente dei rio jamas se detiene。
スペイン語学徒の皆さん、読んでみませんか。私は既に手にしています。
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2014年8月22日金曜日
ドクトル荻田政之助が集めたチョンターレス詩集『チョンタルの詩』を読む
メヒコ南部のオアハカ州一帯に生きる先住民族チョンターレスの詩を編んだ『チョンタルの詩』を読んだ。ラ米の本が何千冊もある、とある部屋で偶然見つけた本だった。
私は、それを手に取って驚き、感激した。何と、故・荻田政之助が収集した詩の訳詩集だったからだ。仁術歯科医で、メヒコの貧しい人々から「ドクトル荻田」と呼ばれ慕われていた荻田先生は、私のメヒコ時代に欠かせない何人かの日本人の一人だった。大変お世話になった。
深夜、遅すぎる晩餐を御馳走になり、メスカルを飲みながら、チョンタルの詩について何度も話を聞いた。それが高野太郎の手によって本になったのだ。
1981年11月に誠文堂新光社から出ていたのだが、ようやく手にして読んだのだ。
1976年初め死去したドクトルにあらためて感謝の気持ちを捧げつつ、この詩集から一篇を紹介する。
「歯の出る時うたう歌」
歯が出てきました
もう出てきました 私の歯
だから私はうたいます
だから歌をうたいます
レオンよ レオンよ
おまえの歯を私におくれ
私の歯をおまえにやろう
おまえの歯を私におくれ
私の歯をお前にやろう
おまえの歯は堅く 厚く 真っ白だ
おまえの歯で私は食べよう
そうして おまえは食べるのだ
私の歯で
私は、それを手に取って驚き、感激した。何と、故・荻田政之助が収集した詩の訳詩集だったからだ。仁術歯科医で、メヒコの貧しい人々から「ドクトル荻田」と呼ばれ慕われていた荻田先生は、私のメヒコ時代に欠かせない何人かの日本人の一人だった。大変お世話になった。
深夜、遅すぎる晩餐を御馳走になり、メスカルを飲みながら、チョンタルの詩について何度も話を聞いた。それが高野太郎の手によって本になったのだ。
1981年11月に誠文堂新光社から出ていたのだが、ようやく手にして読んだのだ。
1976年初め死去したドクトルにあらためて感謝の気持ちを捧げつつ、この詩集から一篇を紹介する。
「歯の出る時うたう歌」
歯が出てきました
もう出てきました 私の歯
だから私はうたいます
だから歌をうたいます
レオンよ レオンよ
おまえの歯を私におくれ
私の歯をおまえにやろう
おまえの歯を私におくれ
私の歯をお前にやろう
おまえの歯は堅く 厚く 真っ白だ
おまえの歯で私は食べよう
そうして おまえは食べるのだ
私の歯で
2014年4月13日日曜日
オクタビオ・パスの『太陽の石』を読む
メヒコのノーベル文学賞詩人オクタビオ・パス(1914~98)が1957年に世に出した長編詩「太陽の石」が日本語に訳され、刊行された。パス生誕100周年の3月31日、東京のメヒコ大使館で出版記念会を兼ねた、この詩の朗読会が催された。
やはり1957年にパスとの共訳で、芭蕉の『奥の細道』をメヒコで出版した元外交官林屋永吉、日本文学研究者ドナルド・キーンら、パスと縁の深い文化人らも出席した。
この詩本『太陽の石』の後半には、林屋、キーン、詩人・大岡信らの文章が並ぶ。みな味わい深いものばかりだ。巻末の、監訳者が述懐する翻訳の苦労話も興味深い。
パス生誕100年は、ローマに行った支倉常長が1614年にアカプルコに上陸した400周年でもある。この記念すべき年に、パスの長編詩の翻訳出版は、日墨文化交流史に特質されるべき優れた事業となった。
文化科学高等研究院(EHESC)の出版。監訳者は阿波弓夫、伊藤正輝、三好勝。この3人を含む6人の共訳。
さて、肝心の作品だが、抒情と叙事が絡み合い、走馬灯のように流れている。解説はできない。読者に読んでいただくしかない。
やはり1957年にパスとの共訳で、芭蕉の『奥の細道』をメヒコで出版した元外交官林屋永吉、日本文学研究者ドナルド・キーンら、パスと縁の深い文化人らも出席した。
この詩本『太陽の石』の後半には、林屋、キーン、詩人・大岡信らの文章が並ぶ。みな味わい深いものばかりだ。巻末の、監訳者が述懐する翻訳の苦労話も興味深い。
パス生誕100年は、ローマに行った支倉常長が1614年にアカプルコに上陸した400周年でもある。この記念すべき年に、パスの長編詩の翻訳出版は、日墨文化交流史に特質されるべき優れた事業となった。
文化科学高等研究院(EHESC)の出版。監訳者は阿波弓夫、伊藤正輝、三好勝。この3人を含む6人の共訳。
さて、肝心の作品だが、抒情と叙事が絡み合い、走馬灯のように流れている。解説はできない。読者に読んでいただくしかない。
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