関西外国語大学という創立60年の大学が大阪府枚方市中宮にある。全学1万3000人の学生のうち1万人が学んでいるという中宮キャンパスは、築10年ちょっとの煉瓦色の建物が並び、黴菌の存在も許されないように思えるほど、輝くばかりに美しい。日本人と、世界各地からの留学生がゆったりと時間を過ごしている。恵まれている。
10月28日、そこを訪ねた。ラ米関係の様々な主題について、いろいろな専門性を持つ人々が交代で話をする「リレー講座」に招かれ、「クーバとベネズエラ」について90分間話すためだった。
この企画を運営している桜井悌司教授は、1970年代の一時期、メヒコ市で仕事を通じ知り合っていた。実に40年ぶり近い再会だった。
また沼田晃一教授は、環境共生学博士で、別名「トマト博士」。ペルーでトマトなど食品を研究し博士号を取った独特な学究である。かつて立教大学ラ米研の受講生だったこともあり、やはり懐かしい再会だった。
私は一時間話し、30分を質疑応答に割いた。現役学生が何人も真面目に質問してくれたのが、嬉しかった。若いラ米学徒が少しずつ着実に育っている。そんな印象を受けた。年配の市民も質問してくれた。
枚方を「ひらかた」と読むのは、関西では異邦人である私には難しい。枚数を数えるのは紙や葉っぱなど平たいものだから、きっと、由来はそれだろう。京都駅から近鉄で丹波橋駅に行き、乗り換えた京阪電鉄で、あてずっぽうでそんなことを考えていたら、すぐに枚方駅に到着してしまった。
教授連によると、枚方は広重時代の東海道の宿場町で、東海道が走っている。その洒落た道をしばし歩いて、ワイン酒場で小宴が催された。
その席で、29日は先斗町だけ行って東京に帰りたいと伝えたら、京都出身の教授らから「辿るべき道」を教えられた。電車を清水五条で降り、清水寺、高台寺、八坂神社と歩いて先斗町に行くべきだと忠言されたのだ。一級ホテル並みの大学来賓宿泊所で眠った。
清水寺は中学と高校の修学旅行で訪れた。今回は以来、実に五十数年ぶりの訪問だった。あの印象深い「清水の舞台」に半世紀ぶりに身を置いた。幾ばくかの感慨があった。先の豪雨で斜面の何か所かで土砂崩れが起き、青い覆いが痛々しかった。
修学旅行の児童生徒が圧倒的に多かった。次に目立ったのが欧米人と中国人だった。中国人には、男女とも日本の着物を着て京都を観光するのが人気らしい。そのような姿の彼らがたくさんいた。次に目に着いたのは、韓国人ではなく、ヴィエトゥナム人だった。経済の隆盛を反映するようだ。
聖徳太子が建立したという八坂の塔を見たあと、たまたま遭遇した「霊山歴史館」を見た。幕末の内戦をテーマにしたムセオだ。大味だった。近くの護国神社には坂本竜馬の墓がある。ここはパスした。
高台寺を経て知恩院の入り口で戻り、八坂神社を見て、祇園を歩く。祇園とは八坂神社の別名だが、門前町が祇園と呼ばれるようになっている。南座前から鴨川を渡って、右に折れた路地が先斗町だ。
残念だった。五十数年前の面影はなかった。現代化され、瓦の庇が両側から低く突き出す小路ではなくなっていた。あの時は高校生だったから呑めなかった酒を飲もうと、好い店を探したが、気に入る店はなかった。無論、ちょっと見の旅で好い店などは簡単には見つからない。
鴨川を眺めつつ食べる店は値が張る。「かにかくに祇園恋し??時も、枕の下を水の流るる」。歌人吉井勇だったか、歌がかすかに甦って来た。「??時」は「祈る時」か「思う時」か、あるいは別の言葉だったか、定かでない。ある一軒で食べて、軽く呑んだ。
既に5時間近くほっつき歩いていた。くたびれて四条通でバスに乗り、京都駅に直行した。数分後に大阪から来た超特急に乗って東京に戻った。「のぞみ」などという電車は、ただ突っ走っているだけだ。時間を高く乗客に売りつけている。あれは旅ではなく、単なる大急ぎの移動にすぎない。飛行機の離陸直前の速度で、地上滑走をしている。早いが、心がくたびれる。
新鮮だったのは、大阪ではエスカレーターは右の列が乗ったまま動かない人、左側が急ぐ人。関東と逆だ。ところが京都は関東と同じ。大阪人の特質のようなものがあるのだろうか。もう一つ、これは耳に残るのだが、大阪弁と京都弁が関東標準語に押されているような感じを受けたこと。テレビの影響もあるだろう。両地方語の主権は弱まってしまったのか。