2016年5月20日金曜日

元スペイン駐在大使、林屋永吉さんが96歳で死去

 かつて外務省きってのスペイン語の使い手で、翻訳家でもあった元外交官、林屋永吉さん(96)が5月18日死去した。葬儀は24~25日、東京都文京区の護国寺で執り行われる。

 私が林屋さんを最初に知ったのは、メヒコ五輪のあった1968年ごろだった。五輪の前か後か記憶にないが、林屋さんは2度目のメヒコ市勤務で、日本大使館参事官兼日本文化センター所長だった。

 私は、日墨間の文化行事などの折、何度も林屋さんを取材、貴重な情報をいろいろいただいた。メヒコ市でのお付き合いは、少なくとも3年以上続いたと思う。自宅に招かれ、園子夫人の手料理を味わった。次は東京で何度かお会いし、麻布の洋館の自宅にも招かれた。

 その後、ボリビア駐在大使を経て、ペイン駐在大使になった。1982年、私はマドリードで林屋大使に再会、公邸で晩餐会を開いてもらたった。

 当時の私は南ア・ヨハネスブルク駐在だったが、亜英マルビーナス(フォークランド)戦争を4~6月ブエノスイアレスを拠点に出張取材。これが終わるとすぐにバルセローナに飛び、サッカーW杯スペイン大会を一カ月取材した。

 南ア-亜国ースペインを往来、南半球の初冬から真夏のイベリア半島への移動で、若かった私もグロッキーになった。マドリードでのW杯決勝戦終了後、私は大使を訪ねたのだった。

 時間は飛んで、90年代以降は、東京での外交行事、ラ米やスペインの大使館行事などで林屋夫妻にしばしば会っていた。晩年は、日西文化センターの仕事に力を注ぎ、何度も同センターのあるサラマンカに行っていた。

 大阪外語を卒業、外務省に入った林屋さんは、第2次大戦中、サラマンカ大学に派遣留学。45年拘留され、46年帰国した。スペインは、林屋さんの第2の祖国だった。

 マヤ文化の古典『ポポロブフ』を日本語に訳し、芭蕉の『奥の細道』をオクタビオ・パスとスペイン語に共訳した。

 数年前に転倒、杖を手にパーティーなどに参加していたが、高齢もあって体調が徐々に思わしくなくなっていた。メヒコ以来の共通の友人である伊藤昌輝元ベネスエラ駐在大使から、林屋さんが自伝執筆を構想していると聞き、出版されたら是非、書評を書かせてほしいとお伝えした。だが、それも叶わなくなった。

 スペイン語と深い知識を縦横に展開し、スペインやラ米を動きまわった優れた文化人の外交官が消えていった。