2011年12月31日土曜日

用語「中南米」の破綻

▼▼▼▼▼日本のメディアは、ラテンアメリカ・カリブ地域を「中南米」という言葉で表してきた。外務省がそう呼んでいるから、それに従ってきたのだ。この点で、メディアに主体性はない。

    「中南米」は極めて不的確な用語だ。厳密に言えば、北米のメキシコが欠け、カリブ海が除外されている。「中米」にメキシコとカリブ地域を含めてしまったところに最大の間違いがある。

    それに、「中米」は北米大陸の一部であり、南米大陸につながる回廊部分(地峡)にすぎない。スペインからの独立直後に地峡5カ国が「中米連邦」を短期間結成した歴史的経緯から、「中米」が定着した。その「中米」に緯度が合っているからといって、カリブ地域が含まれるはずがない。

    12月3日に「ラ米・カリブ諸国共同体(CELAC=セラック)」が発足した。日本のメディアは「ラテンアメリカ」を使わないため、これに「中南米」を当てた。ところが、それに「カリブ」を付け加え「中南米・カリブ」としたため、従来「中米」にカリブ地域を含めていた矛盾が完全に露呈してしまった。

    CELACは、アングロサクソンの牛耳る「アングロアメリカ」(米国とカナダ)と対峙する「ラテンアメリカ」という、米州を2分する構図を踏まえて結成されたところに意味があるのだ。「ラテンアメリカ」を「中南米」という曖昧で間違った用語に置き換えたのでは、意味がなくなってしまう。

    「ラテンアメリカ」が用語として長すぎるというなら、「ラ米」を使えばいいのだ。中国は長らく「拉美」という略語を用いている。この点に関して中国人は、地理的視座と言語表現において、日本人よりはるかに的確だと言わねばならない。

    外務省のラ米担当職員は、名刺の日本語面に「中南米」を使い、スペイン語やポルトガル語で書かれる裏面には、「ラテンアメリカ」を使っている。「中南米」が国際社会で通用しないことを誰よりもよく知っているからだ。

    日本のメディアよ、そろそろ「中南米」という用語に別れを告げてはどうか。こんな用語にしがみついているかぎり、日本人が地球的視座を得るのは一層困難になる。メディアが運動し、外務省に用語を変えさせるぐらいの気概がないと駄目だ。

    かつて外務省は、メキシコの制度的革命党(PRI=プリ)を「立憲革命党」と意図的に誤訳していた。党名が「メキシコ革命を1917年憲法下で制度的に継続実施する党」を意味することから、「制度的=インスティトゥシオナル」を「立憲=コンスティトゥシオナル」に勝手に置き換えてしまったのだ。

    これに対し、共同通信メキシコ通信局・支局が中心になって「制度的革命党」の正しい訳語を徹底的に広めた。今日「立憲」を使うメディアはまず見当たらない。

    私は1967年から「ラ米」ないし「拉米」を使ってきた。自分の積極的意思で「中南米」を記事に用いたことは一度もない。積極的意思で、もしくは無意識にこれを用いれば、<ラ米報道の素人>と見なされても仕方なくなってしまうからだ。

    私は大晦日が来るたびに、用語「中南米」の通夜になればいいと願ってきた。CELAC発足で、この用語の矛盾点がわかりやすくなってきたため、用語の寿命も縮むのではないかと期待する。

    ちなみに、「ラテンアメリカ」を安易に「ラテ」と略すのは、いただけない。「ラ米」とすべきだ。

(2011年12月31日 伊高浩昭執筆)

チリパタゴニーアで山火事

▼★▼チリパタゴニーアのトーレス・デ・パイネ(パイネ針峰群)国立公園で12月27日山火事が発生、セバスティアン・ピニェーラ大統領は30日、米豪亜3国政府に鎮火のための支援を要請した。

    この公園の面積は24万hr。大統領は延焼面積が8500hrに達した時点で、支援を要請した。その後、延焼面積は1万1000hrに達している。

    同公園は、この国随一の景勝の地。パイネ主峰(標高3050m)を中心に、針峰群が連なる。主峰は、隣接するアルゼンチンパタゴニーアのフィッツロイ岳(3405m)と比肩する。アンデス山脈が造る最も美しい地域である。

    一帯は夏の乾燥期にあり、強風が吹いて、火災が拡がった。雨が時折降るが、鎮火にはほとんど効力がないという。警察は、外国人観光客数人を特定し、<火の不注意>で取り調べた。

    ピニェーラ大統領は国際支援を仰ぐのに際し、パイネ国立公園を「チリと世界の自然資産」と強調し、大自然を守る意思を表明した。だが一方でパタゴニーアでの開発を進めており、大統領の言葉は矛盾している。先住民族マプーチェの生活権や聖地も脅かされている。

    今回の山火事を契機にチリ人が、乱開発や先住民族迫害の問題に新たな視座を開くことができれば、不幸中の幸いと言うべきだろう。

2011年12月30日金曜日

「選択」誌がCELAC特集記事を掲載

★☆★「3万人のための情報誌」と銘打つ月刊誌「選択」の2012年1月号(元日発行)に、12月3日発足したラ米・カリブ33カ国の「ラ米・カリブ諸国共同体(CELAC=セラック)」の2ページにわたる解説記事が掲載されている。

    「米国離れ」の視点から書かれており、「新共同体に中露の秋波」の小見出しと、「モンロー教義の死」、「中露の影響力拡大」の中見出しがついている。

    ご一読あれ。(筆者)

グアテマラ和平15年、今も殺戮の巷

▼▽▼▽▼グアテマラ和平協定が調印されてから12月29日で15周年。1960年に始まり36年続いた内戦は、25万人の死者を出した。その93%は軍・警察、その手先の準軍部隊など政府側の手にかかった犠牲者だ。ゲリラによるのは3%、判断がつかないのが4%。

    アルバロ・コロム大統領は、「内戦を招いた原因は依然存続している。平和に暮らすには不十分な状況だ」と述べ、和平時の合意事項のわずか6%しか達成されていない状況を指摘した。

    (来年)1月14日、就任する退役将軍オットー・ペレス=モリーナ次期大統領(60)は、内戦を戦った陸軍幹部で、殺戮に関与する立場にあった。極右で、和平協定調印式で署名した軍人の一人でもある。「達成されていない合意事項に重点的に取り組む」と語った。

    内戦の最大の犠牲者であるマヤ系先住民族は、人口の最大多数派でありながら、大多数が日常生活を貧困のなかに封じ込められている。先住民族の公務員への登用拡大という合意事項も守られていない。

    内戦は終わったが、巷では一日平均18人が殺されている。その6割方は、麻薬組織絡みの殺人だ。内戦中の殺人発生率とほとんど変わらない異常さだ。今年11月6日の大統領選挙決選投票で恐持てのペレス=モリーナが勝ったのは、治安強化を望む有権者が多いことにもよる。

    悪いことに、極右の元軍人が次期政権を担う公算が大きくなった決選直前ごろから当選後の
昨今にかけて、国内右翼勢力が、元ゲリラや知識人らを、内戦中の「人道犯罪関与」容疑で告訴する動きが目立っている。これを見かねた国連人権高等弁務官事務所は、「法制度の濫用は避けるべし」と警告した。

    マヤ人が人間として完全には認められていない社会ゆえ、2%の富裕層が耕作地の65%を握る異常な不平等社会ゆえ、コカイン生産地コロンビアとその消費地米国の中継地になったがゆえに、民主の夜明けは遠い。

2011年12月29日木曜日

米植民地プエルト・リコで国民投票実施へ

▼▽▼自治領という名前の米植民地プエルト・リコ(PR)は、カリブ海とメキシコ湾および大西洋を隔てるアンティージャス諸島のイスパニョーラ島の東にあり、地理的、歴史的にはれっきとしたラ米の一員だ。だが1898年以来、米国の植民地にされてきた。

     1952年に「自由連合州」として自治権を得た。対米併合主義の進歩主義新党(PNP)のルイス・フォルトゥーニョ知事は12月28日、総選挙と住民投票を来年11月6日に同時に実施すると発表した。住民投票は4回目で、PRの将来の在り方を決める。

     67年に実施された最初の住民投票では、現状維持(自治領)60%、米国への併合39%、独立0・6%、という結果が出た。93年の第2回投票では、自治領48%、併合46%、独立4・4%、だった。98年の第3回は、自治領0・1%、併合46・5%、独立2・5%、自由連合国0・3%、以上の4つの選択肢以外50・3%だった。単純化すれば、併合派を反対派が4p上回ったことになる。

     それから14年後の来年実施される第4回投票は、①PRの地位変更の是非②是の場合、2択(併合か独立か)に加え「現状維持」の3択ーの2段階で住民意思を問う。

     12月3日、「ラ米・カリブ諸国共同体(CELAC=セラック)」が発足したが、ニカラグアのダニエル・オルテガ大統領は「プエルト・リコの不在」を指摘し、将来のCELAC加盟の希望を表明した。だが、肝心のPR人の独立の意思は、住民投票で示されるかぎり極めて小さい。

アルゼンチンで問題の2法公布

▼▼▼▼▼アルゼンチン大統領クリスティーナ・フェルナンデス=デ・キルチネル(CFK)は12月28日、「反テロリスタ法」と「パルプ・新聞用紙法」を公布した。両法とも12月22日に国会で成立していた。

    <テロリスト>を取り締まるとする「反テロリスタ法」は、米国を筆頭とし亜国も加盟する政府間の「資金洗浄およびテロ組織の金融活動」を取り締まる機関「国際金融活動集団(GAFI)」=(英語で)「金融活動行動部隊(FAFT)」の規定に国内法を整合させるための大幅改定刑法の通称。

    「人民と国家にテロの恐怖と影響を及ぼした者に最高15年の禁錮刑」などの罰則がある。人権団体や市民団体は、「政府に反対する市民を<テロリスト>と捉えるなど、拡大解釈の恐れがあり、違憲だ」と反対しており、29日には、大統領政庁前の五月広場で反対運動が展開された。

    ペロニスタ政権党主流派キルチネリズモ(キルチネル路線)内にも亀裂が生じつつある。CFKの亡夫で前大統領のネストル・キルチネルの政権に始まるキルチネリズモの熱烈な支持団体である「五月広場の母たちの会」のエベ・デ・ボナフィニ会長さえも、五月広場での「反テロリスタ法」反対行動の場で、同法への反対を表明し、政府に見直しを呼び掛けた。

    同会長は、「私たちは、誰もが<テロリスタ>にされてしまった軍政時代の悪夢を経験している」と語った。反対する市民たちは、軍政下での国家テロの恐怖を忘れていない。

    数年前、自民党政権時代に日本の国会で審議された「共謀罪」取締法案に日本市民が抱いた危機感に通じるような意識を亜国市民は抱いている。つまり新法を弾圧法、悪法として捉えているのだ。

    CFKは前日、甲状腺癌にかかっていることと1月4日に手術を受けることを発表し、同情を買ったばかり。その驚きも冷めやらない間の新法公布だった。

    一方、「パルプ・新聞用紙法」は、新聞用紙の生産・販売・配布を「公益」と位置づけ、用紙配分の公平化を期すためとされる。だが、これまで用紙の多くを使ってきた大手新聞社は「反政府論調の封じ込めだ」と激しく反発している。

    亜国には、新聞用紙を生産する「パペル・プレンサ社(PP)」がある。その株は、最大発行部数を誇るクラリン紙を発行するクラリン社が49%、2番手のラ・ナシオン紙を出しているラ・ナシオン社が22・49%、合わせて71・49%を握っている。政府は27・47%を保有する。

    両紙以外の地方紙など計168紙は、15%割高でPPから買うか、輸入用紙を買うかしてきた。用紙需要の16%は、輸入されてきた。

    新法によりPP社は、最大生産能力で生産し、経済省が定める価格での販売を義務付けられる。また、生産能力を維持・拡大するため、3年ごとに用紙生産計画を策定し実施するのを義務付けられる。最大生産能力を発揮すれば、輸入は不要になるという。

    大手両紙をはじめメディアの間では、「反テロリスタ法」が、用紙配分をめぐる政府政策に従わないメディアの弾圧に応用されるのではないかと危惧する声も出ている。

    ラ・ナシオン紙は1870年創刊の老舗紙で、保守の立場を貫いてきた。1945年創刊のクラリン紙は体制派だが、CFKと数年前から対立してきた。両大手紙は少なくとも、用紙確保に際して、政府政策に従来よりも気配りしなければならなくなったと言えるだろう。

2011年12月28日水曜日

アルゼンチン大統領が甲状腺癌手術へ

▼▼▼アルゼンチン政府は12月27日、クリスティーナ・フェルナンデス=デ・キルチネル(CFK)大統領が1月4日、甲状腺右葉の癌腫突起の手術を受ける、と発表した。

    12月22日実施の健康診断で見つかったもので、病位転移はなく、リンパ節にも異常はない、という。大統領は1月24日まで療養し、25日に公務に復帰する。

    ブエノスアイレス市内にある私立アウストゥラル大学付属病院で、腫瘍学専門家のペドロ・サコ外科医が執刀する。

    大統領が公務に復帰するまでは、アマード・ブドゥー副大統領が代行する。CFKは10月23日の大統領選挙で得票率54%で圧勝し、12月10日、連続2期目の任期に入ったばかりだった。

    癌を患ったラ米の現職大統領は、ベネズエラのウーゴ・チャベス、パラグアイのフェルナンド・ルーゴ、ブラジルのジルマ・ルセフに次いで4人目。ルーゴとルセフは既に克服したとされる。ブラジルのルイス・ルーラ前大統領は喉頭癌の治療中。

    チャベス大統領は<癌経験者首脳会議>を2012年に開こうと提案している。

2011年12月27日火曜日

ブラジルの農地改革と土地占拠

★☆★ブラジルのジルマ・ルセフ大統領は12月26日、農地改革の一環として農場60か所を接収する法令に署名した。13州にまたがる計11万2800hrの土地は政府によって買収され、土地の無い農民2739家族に分配される。政府は、年間4万家族に土地を与える農地改革を進めている。

    この政策によって2001年以降、土地を配分された79万家族のうち13%は、その土地を不法転売したり放棄したりした。ルセフ政権は、不法転売を防止する手段を講じつつあるという。

    農地改革当局によると、今年1~8月に、計159件の土地占拠があった。

    ブラジルには「土地無き者の運動(MST)」がある。農村部から追い出され都市スラムに住まざるを得なくなった人々が、民政移管直後の1985年に結成した。「遊休地は農地改革の対象となる」との憲法規定を拠り所とし、遊休地を占拠し、住みついて農耕しつつ闘い、合法化を待つ。現在、運動で得られた土地で200万人が暮らしている。また占拠地で6万家族が合法化を待っている。

    居住地には必ず独自の学校が建てられ、社会主義、階級意識、革命思想などが教えられる。土地占拠運動の指導者も養成されている。またブラジル社会で何万人ものMST居住地出身の若者らが、広範な分野で活躍している。

    ブラジル政府はある意味で、MSTに刺激され助けられて、穏健な農地改革に着手できたと言える。

【2011年12月27日 伊高浩昭執筆】

2011年12月26日月曜日

エボ・モラレスがマチュピチュで休暇

★☆★ボリビア大統領エボ・モラレスは12月22日、ペルーのクスコでオヤンタ・ウマーラ大統領と、ボリビアの「海への出口」問題について会談した。その後、両大統領チーム間で室内サッカー対抗戦をした。

     エボはウマーラと別れた後は、息子と娘を伴ってのナビダー(クリスマス)休暇に入った。インカ帝国の首都クスコの遺跡を散策し、遠い祖先らの文明に思いを馳せた。

     24日は、アンデス山中のマチュピチュ遺跡を訪れ、感動をあらわにした。25日、遺跡の端にある急峻なウアイナピチュ岳(標高2667m)に、わずか22分で登頂し、地元のペルー人を驚かせた。通常、登るのに44分はかかるからだ。

     ボリビア大統領の政庁ケマード宮は、ラパス市内の標高3800mの地点にあり、高地人エボにとってウアイナピチュは<酸素たっぷりの小山>にすぎないのだ。

     大統領は酸素をたっぷり吸って26日、帰国した。

     エボは先年、石油・天然ガスを国有化した。今月は、ボリビア石油公社(ボリビア国庫油床=YPFB)の創設75周年。エボは、「今年の公社収入は22億5500万ドルだった。国有化をしていなければ、9億5200万ドルにすぎなかった」と述べ、国有化を自賛した。

2011年12月24日土曜日

出国規制は徐々に緩和と、カストロ議長表明

▼▼▼キューバのラウール・カストロ国家評議会議長は12月23日、人民権力全国会議(国会)で演説し、懸案のキューバ人の出国規制緩和について、「徐々に変えていく」と述べた。だが、詳細は明らかにしなかった。

     キューバ人は通常、出国する場合、外国からの招待状、出国許可書(通称「タルヘタ・ブランカ=白いカード」)、手続き費用が要る。キューバ人とりわけ若い世代は、規制緩和、手続きの簡素化を強く求めている。ラウール議長は8月1日、前国会で、緩和方針を打ち出し、期待を集めていた。

     だが今回、「制度変更の利益と不利益を総合的に評価しつつ、徐々に変更を進めていく」、「変更を急ぐ者には、キューバが、あらゆる機会を捉えて介入し陰謀しようとしている米政府がいることを忘れてはならないと指摘しておく」と述べただけだった。

     議長はまた、受刑囚2900人を近く赦免し釈放する、とも語った。なかには「国家の安全」を犯した受刑囚、つまり「政治囚」に該当する者も含まれている。

     これは、来年3月のローマ法王来訪に備えた措置。25カ国国籍の86人の外国人も釈放されるもようという。

             【続報】2900人は24~26日全員釈放された。反体制派によると、そのうち<政治囚>は5人だけだった。

2011年12月23日金曜日

ラティーナ誌がCELAC特集記事掲載

★☆★おなじみのラ米文化専門誌、月刊「LATINA」2012年1月号に、2011年12月3日発足した「ラテンアメリカ・カリブ諸国共同体」(CELAC=セラック)の特集記事(伊高執筆)が載った。

    「ボリーバルの<大なる祖国>に向け巨歩踏み出す」、「ラ米・カリブ諸国共同体=CELAC=が発足」という2本見出しの解説記事。米国がラ米支配の野心を明確にした1823年の「モンロー宣言」、シモン・ボリーバルの当時のラ米統合努力から説き起こし、20世紀後半の米国とラ米との闘いがCELAC誕生につながった経緯を詳述する。

    伊高は同誌に「ラ米乱反射」という記事を連載しているが、CELAC記事は、その連載71回目に当たる。CELACは、ラ米・カリブ33カ国が米国(およびカナダ)を除外して組織した、米州史上最も重要な広域機構。ぜひ参照されたい。

【LATINA社の電話は、03-5768-5588】

2011年12月22日木曜日

チリ法廷が先住民への催涙ガス使用を禁止

▼▼▼チリ南部のテムーコ市にある高裁は12月21日、カラビネロス(準軍警察)に対し、先住民マプーチェの抗議行動を制圧する際に催涙ガスを使用してはならない、という裁定を下した。

    11月2~4日、マプーチェ居住地の共同体をカラビネロス部隊が急襲し、催涙ガスを住居の中にまで投入し、多くの女性や子供が体調を著しく害した。この事件を受けて、マプーチェ組織が訴えていた。

    テムーコ高裁は、チリ憲法、児童権利条約、国際労働機関(ILO)規約169条(先住民族保護規定)に違反するとして、催涙ガス使用を禁止した。

    マプーチェは、占拠され奪われた先祖伝来の土地の奪回を求めて闘い続けており、約100人が刑務所で拘禁されてる。

2011年12月21日水曜日

米軍パナマ侵略22周年

▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼ブッシュ父親米政権がパナマに大規模軍事侵攻をし、数多くのパナマ人を殺害してから満22年が過ぎた。米軍侵攻22周年の12月20日、パナマでは犠牲者遺族らによる追悼行事や抗議行動が行なわれた。

    「12月20日死者遺族会」、「エル・チョリージョ殉教地区連絡会議」など14市民団体はこの日、声明を発表した。次のような内容だ。

一つ、22年前の米軍侵攻で数千人が死んだ。人民大衆層、民族主義者、チョリジェロス(パナマ市内エル・チョリージョ地区の住民)だった。みな戦って死んだ。パナマ人富裕層は一人も死ななかった。

一つ、犠牲者は、ノリエガ将軍のためでなく、祖国と自由のために戦って死んだ。

一つ、我々は爆撃され虐殺された。米軍は、反植民地・民族主義を破壊するため侵攻した。爆撃がもたらした悲惨さと、米国に従属する政府を毎日見ているが故に、22年前のこの日を毎日思い出している。

一つ、我々は、この日を「国喪の日」に制定するよう従来どおり要求する。学校教育で、この史実を正しく教えるよう要求する。独立した委員会を設け、死者・行方不明者を正確に特定し公表して、最終的に犠牲者全員について明らかにすることを要求する。

一つ、国家に、侵略を糾弾し、人道犯罪を犯した米軍が裁かれ罰せられるようにするのを要求する。さらに、米国に賠償させるようにすることを要求する。

 遺族らは、墓場に参り、エル・チョリージョ地区など、米軍侵攻の地を巡回した。

 米軍は、ステルス戦闘機を初めてパナマ侵攻で出撃実験し、後に湾岸戦争などで実戦使用した。また巨大爆弾も実験爆撃に用いたとされる。その爆弾を米軍は後に、アフガニスタンやイラクの戦争で使用したという。

 グアテマラ人ノーベル平和賞受賞者リゴベルタ・メンチューらの調査では、米軍侵攻で最大8000人のパナマ人が殺害された。

 マルティネリ・パナマ現政権は、22年前の侵攻に全く触れようとしない。

第42回メルコスール首脳会議

▼★▼★▼「南部共同市場」(メルコスール)首脳会議が、ウルグアイの首都モンテビデオで12月20日開かれた。同国およびアルゼンチン、ブラジル、パラグアイの加盟4カ国大統領と、加盟手続き中のベネズエラおよび、加盟申請したエクアドールの両国大統領も出席した。

    中心議題は、ベネズエラの加盟問題だった。新規加盟には、原加盟国の国会による批准が不可欠だが、同国のウーゴ・チャベス大統領を毛嫌いするパラグアイ野党コロラード党が上院で多数派を形成し、批准を阻み続けている。ベネズエラは06年に加盟申請し、3加盟国の批准は得ているが、パラグアイ国会野党に妨害されているため、加盟できないでいる。

    コロラード党は、かつてのストロエスネル長期独裁政権を支えた右翼・保守政党で、大地主、大企業など富裕層が執行部を握っている。

    首脳会議議長のホセ・ムヒーカ大統領(ウルグアイ)は、ベネズエラの早期加盟に道を開こうと「加盟条件の簡素化」を提案した。クリスティーナ・フェルナンデス亜国大統領は賛成した。

    だが、ブラジル高官が、簡素化を決めたところで、各加盟国の国会が承認しないと発効せず、批准と同じ問題が起きると指摘し、頓挫した。

   フェルナンド・ルーゴ大統領(パラグアイ)は、ベネズエラ加盟に賛意を表しながらも、自国の制度(国会批准)を尊重したいと、言わざるを得なかった。もしムヒーカ案に同調すれば、国会から弾劾され罷免される公算が大きくなるからだ。

   結局、首脳たちは、各国大統領が任命する「高級特別委員会」を設置し、解決策を練ることになった。チャベスは、「ある国の少数者が一国の加盟を阻止するなど前例がない」と不満をあらわにしながらも、「いずれは加盟する」と言うに留めた。

   一方、エクアドールのラファエル・コレア大統領は、正式に加盟申請をした。コレアは他の首脳たちとともに、加盟国が民主体制を護持すべきことを謳う「モンテビデオ議定書」に署名した。

   首脳会議は、アルゼンチン沖の英植民地フォークランド諸島(亜国名マルビーナス諸島)の旗を掲げた船舶のメルコスール域内の港への入港を禁止することを決めた。亜国は、同諸島の領有権を主張しており、1982年4~6月、当時の軍政が戦争を仕掛け、一時的に諸島を占領したが、英国に敗れた。

       首脳会議はまた、パレスティナ国家と自由貿易協定に調印した。

   首脳会議の半年交代の輪番制議長は、ムヒーカからフェルナンデスに移った。新任期はマルビーナス戦争30周年の時期と重なるため、フェルナンデスが諸島問題を際立たせることが予想される。諸島はウルグアイ、チリと航路を結んできたが、今後はチリだけとなる。

   首脳会議のさなか、亜国代表団の一員だったイバン・ヘイン経済省通商次官がホテルの自室で首つり遺体で発見され、大騒ぎになった。捜査と解剖の結果、ウルグアイ司法当局は、本人に自殺を図る理由はなかったとし、裸体だったこともあり、性的行為のさなかに事故死した可能性を指摘している。

   メルコスールがベネズエラの加盟を望むのは、同国の潤沢な原油と天然ガスなど資源が長期的に重要であることと、同国の港を通じてメルコスールがカリブ海に出口を確保することになるからだ。

         ベネズエラにとっては、加盟すれば<影響力>が南米の深奥部にまで及ぶことになる。また広域経済基盤としても重要だ。チャベスはALBA(米州ボリバリアーナ同盟)と、「ペトロカリーベ」の盟主だが、いずれも加盟国は経済的には弱小国ばかりで、ベネズエラの<持ち出し>で運営されている。伯亜両国が主導するメルコスールならば、<互いに認め合う仲>でやっていける。

   さらにチャベスは加盟によって、伯亜両国、とりわけBRICSを組む新興大国ブラジルと一層接近することになり、米国と対立するチャベスは強力な後ろ盾を得ることになる。
   またエクアドールが加盟すれば、地続きではないにせよ、太平洋に出口をもつことになる。

   南米太平洋岸のチリ、ペルー、コロンビアはメキシコとともに、アジア太平洋圏への通商進出を拡大させるための「太平洋同盟」を組んでいる。メルコスールはエクアドールを加盟国に加えることによって、新自由主義を採るこの「同盟」に地政学的な楔を打ち込むことになる。

(2011年12月21日 伊高浩昭執筆)

2011年12月20日火曜日

金正日総書記死去-ラ米の反応

▼▼▼▼▼朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の金正日総書記・国防委員長が12月17日死去した---と19日発表された。以下は、ラ米諸国の反応である。

    ベネズエラのウーゴ・チャベス大統領は19日、外務省声明を通じて、「ベネズエラの人民と国家を代表して、衷心より哀悼の意をささげる。繁栄と平和に向けて独自の未来を導く北朝鮮人民の能力を信頼する」と述べた。

          ニカラグアのダニエル・オルテガ大統領は19日、夫人のロサリオ・ムリージョ政府コミュニケーション・市民権理事会議長を通じて、「朝鮮兄弟人民に謹んで哀悼の意を表す。朝鮮人民が、全家族のために平和と繁栄を構築しようと進めている現在の過程が継続されるのを祈る」と述べ、社会主義過程継続への期待を表明した。両国は2007年に国交を樹立した。

         キューバ国家評議会は19日、死去した総書記のために20日から3日間、公式な喪に服すと発表した。22日までの72時間、国家施設のキューバ国旗は半旗となった。

   ラウール・カストロ国家評議会議長は22日、ハバナの北朝鮮大使館を訪れ、追悼帳に記帳し、同国大使に、キューバ共産党・政府・人民を代表し衷心より弔意を表す、と伝えた。ブルーノ・ロドリゲス外相も同行し、記帳した。

   当初はキューバの共産党機関紙グランマと労連機関紙トラバハドーレスは19日、総書記死去に関する事実関係だけを簡単に報じただけだった。玖朝両国は1960年8月29日、国交を樹立した。1986年、当時のフィデル・カストロ国家評議会議長が訪朝した。北朝鮮からは2010年11月、李英ほ(イ・ヨンホ、「ホ」は金偏に高)軍参謀総長が訪玖し、ラウール・カストロ議長と会談している。現在の両国関係は、保健、教育、スポーツ、農業、石油、生物工学などの協力が中心で、「良好」とされている。

        チリ共産党は19日、総書記の遺族に弔電を打った。これに対し、チリのロドリゴ・ヒンスペテル内相は、独裁政権に連帯するとは重大な無定見だ、と非難した。同党のウーゴ・グティエレス下院議員は、一人の人間の死を悼んでいるのに違和感を持たれるのがわからない、と反駁した。

        エクアドールは21日、レーニン・モレーノ副大統領が、金正恩氏に弔電を送った、と発表した。      

   一方、国連総会は、総書記死去発表後の19日、北朝鮮の人権状況を非難する決議案を賛成123、反対16、棄権51で可決した。キューバ、ベネズエラは反対、ニカラグア、エクアドールは棄権した。

   キューバの評論家ホルヘ・ゴメスは20日、「北朝鮮の継承」と題した論評を発表した。そのなかで、「北朝鮮の矛盾は、王国でなく共和国なのに、指導者の世襲が行なわれてきたことだ」と指摘している。

        またハバナからの報道によると、「キューバ人権・国民和解委員会」(非合法NGO)のエリサルド・サンチェス代表(著名な反体制派)は20日、「カストロ兄弟は北朝鮮の金一族の世襲のような誘惑にかられているようだが、キューバで世襲が実現する可能性はない」と述べた。

   キューバ政権は兄フィデルから弟ラウールに08年2月正式に引き継がれたが、キューバ政府は、兄弟は1953年のモンカダ兵営襲撃以来の同世代の革命の同志であり、政権継承は「世襲」ではない、との立場を貫いている。

   ラウールは59年の革命後一貫してフィデルを支えていた序列2位の実力者だった。第1副議長から議長への昇進は順当な人事、と内外で受け止められている。

2011年12月19日月曜日

皆既月食に思う

★☆★☆★☆★12月10日はアルゼンチン大統領クリスティーナ・フェルナンデス・デ・キルチネル(CFK)の2期目の就任式の日だった。そのさなか、夜の日本では、久々の皆既月食が観られた。

    この日夕、講座を終えた私は、ブラジルに武者修行に行く若い友人のための小さな送別宴を池袋界隈のヴィエトゥナム料理屋で開いた。それから1週間経って、その友人がサンパウロから「無事着きました」と知らせてきた。そして「皆既月食は観ましたか」と訊く。

    そこで急遽、この小文を書くことにした。私は23時過ぎから24時過ぎまで1時間にわたって夜空を仰ぎつづけた。月が闇に消え、薄赤く丸い球体がしばらくの間浮かび上がり、やがて月が戻ってくるまでを、首を何度もマッサージしながら観つづけた。

    月は消えている間も、巨大なオリオン座を下方に従えていた。人類が永遠に到達できない大星座が、不思議にも月が隠れている間中、その赤月よりも近く見えた。

    私は1970年の3月だったか、メキシコ・オアハカ州太平洋岸のプエルト・エスコンディードという漁村で、皆既日食を取材した。わずか3分間の天体劇だった。暗くなるにつれて、そよ風が吹き始めた。「ピンポール現象」と呼ばれるそうだが、木の葉の影がみな三日月のように、えぐれてそって見えた。恋人たちは、束の間の暗闇で接吻しつづけていた。

    日本から来ていた天文学者たちのチームは、「この3分間に酔ったら、すべてを失います。心を鬼にして観察に集中します」と言っていた。

    私は、アカプルコから海岸沿いを車で何時間も飛ばして漁村に着き、皆既日食を観終えるや、直ちにアカプルコに引き返し、東京に原稿を送った。当時、漁村や途中の村々に電話はなかったのだ。橋のない川を筏で渡る難所で難渋しながらも、なんとか記事を送ることができた。

    星座といえば、日本で観た最高の星座は、学生時代に尾瀬沼を歩いた日の夜の星座だった。流れ星が降りつづけた。だが、国外で観た最高の星座は、ボリビア・サンタクルス州ラ・イゲーラ村の丘で仰いだ夜空だった。アンデス山中の標高2000m余の寒村に電気はなかった。夜は闇そのもので、大空を360度埋め尽くした星座と月が競って輝き合い、<喧騒>さえ感じたほどだ。人生最高の星座だった。

    この無限の★の群れをチェ・ゲバラと部下たちも必ずや観たに違いない、と確信した。チェは、この村の小さな学校の棟の中で、1967年10月9日処刑されたのだった。

    皆既月食の話が脱線した。この小文のジャンル=ラベルは、書くきっかけがブラジルに去った友人だったから、「ブラジル」にする。

(2011年12月19日 伊高浩昭執筆)

バルセローナ・サントス二都物語

★☆★横浜でのサッカークラブ世界一決定戦(12月18日)をテレビ観戦した。バルセローナがサントスを4対0で奈落の底に突き落とした。バルサの勝利に意外性はない。だが、サントスに、「もしかしたら」を演じてほしい気もしていた。

    最大の見どころは、バルセローナの流麗なパス回しだった。去年の南アW杯大会で優勝したスペインチームが見せたあのサッカーだ。だがこのサントス戦での流麗さは、残酷なほどだった。

    バルセローナは、フランコ独裁時代「ピレネー山脈の南からアフリカは始まる」とスペインが馬鹿にされていたころ、地中海の文明の波が洗う、欧州に通じる入口だった。私が最初にこのカタルーニャの都を訪れたのは、独裁末期だった。その後、1982年のサッカーW杯スペイン大会、92年のバルセローナ五輪、スペイン内戦の傷跡取材などで何度も訪れた。

    サントスは、日本人ブラジル移住者の上陸港だった。その80周年祭を1988年に現地から報道した。昔も今もコーヒーの輸出港だが、今では鉱工業産品、食品などの輸出品の方が多い。クラブサントスには、あの王様ペレーがいた。(日本式に「ぺ」を強く「ペレ」と発音すると、ポルトガル語で「皮膚」の意味になる。ペレーと「レ」を強く発音してほしいものだ。) 全盛期のペレーにグアダラハーラ(メキシコ)でインタビューし、後年リオデジャネイロで再び取材した。

    試合を見ながら、私の脳裏ではサッカーと両市の思い出が錯綜していた。そして、「スポーツのわからない外信(国際報道)記者は駄目だ。国際情勢がわからない運動記者も駄目だ」と、先輩から教えられたことを思い出した。私は、外信記者だった。

    幸いにも、メキシコ五輪(68年)とバルセローナ五輪、サッカーW杯はメキシコ大会(70年)とスペイン大会を取材した。W杯コロンビア大会(86年)も取材することになっていたが、コロンビアが財政と治安の事情で開催地を返上し、メキシコに代わったことから取材し損なった。

    サッカーの大試合を観るたびに、ノスタルヒアにかられてしまう。人生の過去が深く、未来が浅いのがわかっているからだ。

2011年12月18日日曜日

駐日ペルー大使が熱弁

★☆★フアン・カプニャイ駐日ペルー大使(63)が12月17日午後、立教大学ラテンアメリカ研究所主催の講演会で、質疑応答を含め3時間にわたりペルーを説き、対日関係を語った。静かなたたずまいを保ちながらの熱弁だった。池袋キャンパス「マキムホール」の大教室は満員となった。

    「ペルー情勢と展望-21世紀の秘日関係」と題した講演は1時間20分に及び、ペルーの資源の豊かさ、高度経済成長、マクロ経済の安定、投資環境の良さ、広域貿易態勢の確立、ウマーラ現政権の社会政策など「現代ペルー」 をまず語った。過去20年間の市場開放政策による恐るべき経済と開発の拡大が、統計の数字とともに説明された。

    対日関係では、ペルーに日系人が20万人おり、日本にもペルー人が定住していることなどを挙げて、「秘日両国は太平洋によって隔てられているが、一つの大きな家族だ」と強調した。

    日本の考古学者たちがペルーで発掘を始めてから2008年で50周年を迎えたことに触れ、
その業績を讃えた。

    進行役の伊高(ラ米研「現代ラ米情勢」担当講師)との対談では、12月3日生まれたばかりの「ラ米・カリブ諸国共同体」(CELAC=セラック)について、リオグルー(GRIO=グリオ)やラ米・カリブ首脳会議(CALC=カルク)の延長線上にあると指摘。政治・人権・民主などの問題を話し合う協議機関ではあるが、経済政策が加盟国によって異なるため全球化(グロバリサシオン)問題は議題にならない、と明言した。

    ペルーとしては、チリ、コロンビア、メキシコと組んでいる「太平洋同盟」(アリアンサ・デル・パシフィコ)と、アジア太平洋圏に対する全球化や市場開放について共同戦略を練っていく方針であることを示唆した。

    CELACと、米州諸国機構(OEA=オエア、英語ではOAS=オウエイエス)との関係については、「CELACはOEAの代替機構にはならない」と確言した。また「ラ米・カリブ(LAC=ラック)にとってOEAは大国(米国)との唯一の対話機構として重要だ」と前置きし、「LACは、CELACで協議した議題をOEAに持ち込むことができる」と述べた。

    オバマ米政権は今年3月、「太平洋沿岸パートナーシップ協定」をラ米太平洋岸諸国に呼びかけた。この米国の政策と「太平洋同盟」との関係について、大使は、「北米自由貿易協定(TLCAN=テエレカン、英語ではNAFTA=ナフタ)、アジア太平洋経済協力会議(APEC)、対米2国間自由貿易協定(TLC=テエレセ)など対米協議の場は他にある」とし、「太平洋同盟」は加盟諸国が連携してAPEC地域に進出していくための機関であるとの認識を示した。

    大使は、このほか「太平洋孤(アルコ・デル・パシフィコ)」があり、これにはエクアドール、中米諸国も加盟している」と述べた。「太平洋孤」は環太平洋経済圏との経済交流強化のためのフォーラムで、「太平洋同盟」4カ国、エクアドール、中米6カ国の計11カ国が参加している。

    「高度経済成長でペルー人の認同(イデンティダー=アイデンティティー)が変容することはないか」との質問には、「ペルー人は先住民族、アジア人、欧州人、アフリカ人らが混ざり合った民族であり、その認同は変わらない」と強調し、「経済向上でむしろ誇りが増すだろう」と付言した。

    昨今のカハマルカ州内での金山開発をめぐる地元自治体・住民と政府との反目など、開発に伴う軋轢(あつれき)については、「こうした問題は話し合いによって克服でき、克服すれば、かえって基盤が賢固になっていく」と語った。

    会場を埋め尽くした受講者たちからは約50の質問が寄せられた。大使は一時間にわたって丁寧に答えたが、18時過ぎに時間切れとなった。大使と、通訳を務めた大使秘書の田中由子さんは大きな拍手に送られて、会場を後にした。カプニャイ大使は来年2月初め、任務を終えて帰国する予定。

2011年12月16日金曜日

冬のタンゴ

★☆★モンテビデオ生まれの「ラ・クンパルシータ」、ブエノスアイレス生まれの「カミニート」から、破調アストル・ピアソーラの「リベルタンゴ」まで18曲を並べて、冬、演奏する。だから「冬のタンゴ」だ。しゃれている。欧州(コンティネンタル)タンゴの「薔薇のタンゴ」や「夜のタンゴ」を連想させる。

     若い亜国人レオナルド・ブラボは、ギターの名手。バンドネオン早川純、ヴァイオリン喜多直毅、コントラバス田中伸司と2010年にクアルテートを組んだ。若い躍動的な演奏家ばかりで、疲れが見えない。12月16日夜、東池袋で聴いた。なかなか良かった。

     伝統的なタンゴの「4つの心」は、バンドネオン、ヴァイオリン、コントラバス、そしてピアノだ。だがブラボのクアルテートは、ピアノの地位をギターが占める。ここに味がある。昔、タンゴ王カルロス・ガルデルはしばしば、ギターの伴奏だけで歌っていた。その映像を思い出した。

             これが、セステート(6重奏)となると、オルケスタ・ティピカ(標準編成の楽団)の半分の規模になるから、迫力も増す。 ブラボのギターは言わばピアノ役で、主旋律を弾くから、ピアノが入ると、主導権争いが起きる。しかし、ブラボのギターと誰かのピアノが共演ないし競演するセステートを聴いてみたいものだ。

     テノールの中鉢聡(ちゅうばち・さとし)は「カミニート(小径)」、「エル・ディア・ケ・メ・キエラ(思いの届く日)」など4曲を歌った。カンツォーネ流だが、楽器の音量を上回る声量で歌うには、日本ではオペラ歌手の登場を願うのが手っ取り早い。伊達男姿で流し歌い、タンゴ歌手の雰囲気がよく出ていた。


     つのだたかし(リュート演奏家)が進行役を務め、ギターも弾いた。タンゴ好きの漫画家高井研一郎が幕間に登場した。

     今年のタンゴの生の聴き納めになりそうだ。いや、もう一回、機会があったはずだ。

2011年12月15日木曜日

フアン・カプニャイ駐日ペルー大使講演会

★☆★☆★既報のとおり、カプニャイ大使の講演と質疑応答の会合を12月17日(土)に催します。
立教大学ラテンアメリカ研究所主催で、同研究所の伊高浩昭担当「現代ラ米情勢」講座の本年最終講座を兼ねます。無料公開講座で、事前の申し込みは不要です。

  ▼場所   立教大学池袋キャンパス「マキムホール」M302教室
  ▼時間   17日1500~1800
  ▼内容   大使講演、司会伊高との対談、大使と聴衆との質疑応答
  ▼演題   ペルー情勢と展望--21世紀の秘日関係
  ▼資料   当日、会場入り口で配布
  ▼連絡先  ラ米研電話03-3985-2578

   カプニャイ大使は書記官、公使、大使として計3度、日本に駐在してきたペルー外務省きっての知日派です。国連、米州諸国機構(OEA・OAS)、アジア太平洋経済協力会議(APEC)など、国際機関での外交経験も豊かです。誕生間もない「ラ米・カリブ諸国共同体」(CELAC=セラック)の話も出るでしょう。

        ペルーの映像や「アンデス音楽」も流れます。

   どうぞ、お出かけください。

   2011年12月16日  伊高浩昭

2011年12月14日水曜日

CELACの源流はハイチに

☆★☆★☆12月3日カラカスで、ラ米・カリブ諸国共同体(CELAC=セラック)が創設されたが、その設立を決めた歴史的文書「カラカス宣言」 には、ハイチに関する一項が含まれている。重要であるうえ興味深いため、ここに紹介したい。

    「LAC(ラック=ラ米・カリブ)の解放者たちが200年以上前に辿った道は際立っているが、それは、トゥサン・ルヴェルチュールがLAC域内最初の独立国ハイチを1804年に誕生させるために切り開いた道である」

    「我々は同様に、アレクサンドル・ペチオン大統領が率いたハイチ共和国がシモン・ボリーバルに、今日LACとして知られる地域を独立させるため支援した史実を思い出す」

    「ペチオン大統領はかくして、LAC地域人民が連帯し統合するための基礎を築いた」

         ×                     ×                    ×

    ハイチは世界初の黒人独立国にしてLAC最初の独立国だが、「米州の最貧国」、「世界の最貧国の一つ」、「失敗国家」などと呼ばれて、さげすまれている。

    だが、カラカス宣言の文言は、ハイチが果たした歴史的役割を過不足なく指摘している。CELAC創設を主導したベネズエラ大統領ウーゴ・チャベスは、崇拝する自国の英雄ボリーバルを通じて自分自身が「間接的にハイチに世話になった」という捉え方さえしている。

    この点のチャベスの史観は的確だ。

    「カラカス宣言」採択の場にいたハイチのミシェル・マルテリ大統領は、自国建国の父たちを讃える一項に、さぞかし誇らしい気持になったことだろう。

 【カナダのモントリオールに住むハイチ人作家ダニー・ラフェリエールの『帰還の謎』(2009年)、『ハイチ地震日記』(2011年)の訳書が今年9月末に藤原書店から刊行された。両書とも面白い。女流のエドゥウッジ・ダンティカと併せて、広く読まれることを願いたい。】

(2011年12月14日 伊高浩昭執筆)

2011年12月13日火曜日

政治囚釈放をキューバに求める

▼▽▼ホンジュラスのオスカル=アンデレス・ロドリゲス=マドゥリアガ枢機卿は12月13日ローマで、記者団に対し、ローマ法王ベネディクト16世の来年のキューバ訪問前に、キューバ政府が政治囚を釈放するのが望ましい、との考えを示した。

     法王は12日、来年4月初めの聖週間の前にメキシコとキューバを訪問する、と正式に表明した。墨玖両国訪問は3月になると見られている。

     キューバの政治囚は2010年以降、約130人が釈放され、これが法王の来訪を促す結果となったが、さらに釈放を求めたわけだ。ロドリゲス=マドゥリアガ枢機卿は、将来の法王候補とも目される有力な人物で、法王の意向を代弁してるのは疑いない。

     キューバの政治囚は、50人前後とされるが、キューバ政府は「一般犯罪人」という捉え方をしているため、正確な人数はわからない。

     ラテンアメリカは、世界12億人のローマカトリック信者の40%がいる、最大の信者の塊である。法王にとり両国訪問は、07年のブラジルに次ぎ2度目のラ米訪問となる。

     故ヨハネ=パウロ2世前法王は1998年キューバを訪問し、フィデル・カストロ議長(当時)と歴史的な対話をした。来年の法王訪問は、2度目のキューバ訪問となる。

(2011年12月13日 伊高浩昭執筆)

オバマがアルゼンチンに債務返済を求める

▽▼▽アルゼンチン(亜国)のラ・ナシオン紙は12月12日、バラク・オバマ米大統領への書面インタビューの回答を掲載した。クリスティーナ・フェルナンデス亜政権が10日、2期目に入ったのを機に、このインタビューが行なわれた。

     オバマは亜国の対外累積債務の返済問題について、「亜国が(今世紀初めの債務返済停止以来、返済が滞っている)債務を返済すれば、外資導入に関心があるとの意思を世界に強く示すことになる。債権者への責任を果たすことは、亜米両国の利益になる」と述べた。

     さらに、G20首脳会議が開かれていた仏カンヌで11月4日、オバマの希望で開かれた米亜首脳会談で、「亜国が国際金融・投資界との関係を正常化することの重要性について話し合った。私は、亜国が未返済債務全額を返済するための具体策を講じるよう促した」と明らかにした。

     両国関係については、「フェルナンデス大統領の第2期政権下で強化されると思う。カンヌで、いかなる相違があっても両国関係は損なわれない、ということで一致した。亜国を将来訪問したい」と語った。

(2011年12月」13日 伊高浩昭執筆)

2011年12月12日月曜日

ノリエガ将軍、孤愁の帰国

▽▼▽▼▽パナマのかつての最高権力者マヌエル・ノリエガ元将軍(77)が12月11日、囚人として帰国した。1989年12月の米軍による大規模侵攻で政権をつぶされ、亡命したはずのバティカン大使館から90年1月追い出されて米軍につかまり、そのまま身柄をマイアミに護送されてからほぼ22年経つ。

    元将軍はこの日パリの刑務所を出てマドリードに護送され、そこからイベリア航空機でパナマ市郊外のトクメン空港に着いた。パナマ政府は、1983年に比国の政治家ベニグノ・アキーノ氏がマニラ空港で航空機から降りたとたんに銃撃され暗殺された事件を念頭に置いて、警備態勢を敷いたという。地元紙は、ノリエガが車椅子で空港の建物内を移動する姿をとらえた写真を掲載した。

   ノリエガは、空港からはヘリコプターでパナマ運河地帯の熱帯雨林に隣接する「エル・レナセール」刑務所に収監された。「レナセール」は「生まれ変わる」、「再生」を意味する。

    独房は面積12平方mで、窓が2つある。この国では、70歳を超える服役囚は自宅軟禁の恩恵にあずかることができるという決まりがある。法廷が今後、その判断をするという。

    高齢のノリエガは、歩行が困難なうえ、さまざまな病気を抱えているという。麻薬取引罪によりマイアミで禁錮20年の刑に服した後、資金洗浄罪で20か月仏刑務所にいたが、パリの法廷で、「遺恨も怨念もなく帰国したい」と、心情を再三吐露していた。

    だがパナマでは、政敵ウーゴ・スパダフォラ氏暗殺事件(1985年)など3件の重罪で、禁錮計60年という重刑を課せられる可能性がある。常識では20年だが、それでも全うすれば97歳になってしまう。

    元将軍は、パナマ運河返還の英雄、故オマール・トリホス将軍の下で力を蓄えつつ、同将軍がクーデターで実権を握った1968年から86年までCIAの重要な諜報員だった。トリホス将軍が81年にヘリコプターで飛行中、爆殺された事件の真相を知っているはずだ。

    米政府の握るパナマ、トリホス、中米、麻薬、ゲリラ、金融、運河などをめぐる情報を共有する立場にあった。ノリエガは言わば、米政府にとっては<知りすぎた男>だった。

    元将軍と、傀儡政権を樹立するため<民主化>したがっていたブッシュ父親政権の関係は険悪になり、ブッシュは、ベルリンの壁崩壊間もない89年12月軍事侵略し、ノリエガ体制を一挙に叩き潰した。

    グアテマラ人ノーベル平和賞受賞者リゴベルタ・メンチューらの調査では、米軍侵攻で低所得者居住地域チョリージョ地区の住民を中心に最高8000人のパナマ市民が空爆などで殺害されたとされる。

    別途裁かれるべきは、弱小国の主権を何とも思わない米軍による侵略、無差別殺傷、最高指導者の身柄奪取であろう。米空軍はステルス戦闘機をパナマで初めて<実戦実験>し、1991年の湾岸戦争でイラク攻撃に同機を使った。

    米国を罰する者がいないため、米国は好き勝手な振る舞いをする。ローマ法王庁も、米政府の圧力に屈して、逃げ込んだノリエガを引き渡してしまった。ノリエガは米軍によって<神>からも引き裂かれたのだった。

(2011年12月12日 伊高浩昭執筆)

 【1989年末の米軍パナマ侵攻やブッシュ父親大統領がなぜ暴挙に出たかなどは、月刊誌「LATINA」2010年2月号掲載の拙稿「忘却を強制され、依然わからぬ死者数」を参照されたい。】

2011年12月11日日曜日

ドキュメンタリー映画『ビーバ・メヒコ』

☆★☆★☆メキシコ南東端のチアパス州「ラカンドンの森」を拠点とする「サパティスタ民族解放軍(EZLN)」のマルコス副司令官は、2006年前半に同州からメキシコ北西端のバハカリフォリニア州ティフアーナ市の米国国境まで車列を組んで旅をし、地元民と対話しつつ遊説する「オトゥラ・カンパーニャ(もう一つの運動)」を展開した。

   その映像を基に09年、この映画ができた。監督は02年からメキシコに住みついているフランス人ニコラス・デフォセー。長さは120分。私は、このドキュメンタリー映画をきょう(12月11日)観た。

   冒頭に、ロサンジェルスの下町でかき氷を売るメキシコ人出稼ぎ労働者の男性が登場する。同様の立場の物売りは、警官に見つかり、商品をごみかごに捨てられ、小さな手押し車を押収される。

   場面は、チアパス州内のEZLN拠点に移る。大勢の支持者に見送られて、マルコス一行が出発する。キンタナロー州の世界的観光地カンクンでは、内外の資産家に海岸地帯の土地を買い占められ、生活権を脅かされている貧しい一家が登場する。一行は、ユカタン州のマヤ遺跡を経て、オアハカ州に移動する。

   風力発電の、あの巨大なプロペラが林立する光景を前に、農民が「あの装置を建設するのに使われた大量のセメントが地中を侵している。いつ自分の土地に汚染が拡がってくるのか、心配でならない」と訴える。

   ナヤリー州では、伝統的な漁港が観光港に改造される工事が進んでいる。豊かなマングローブが海岸に茂っているが、工事が進めば破壊されてしまうかもしれない。抗議闘争を続ける住民組織に、マルコスはチアパス州で作った玉蜀黍を贈る。

   コリーマ州の農民は、場違いな大型の観光ホテルが建って景観が破壊されたのを嘆き、観光客が大挙して訪れる事態を思い描き、生活の場が変遷を余儀なくされるのを憂える。

   ミチョアカン州では、マルコスは先住民に、労働者、農民、青年、教師らさまざまな人民との団結を訴える。老婆は、「地元の人でないのに支援してくれる。家族のような気がする」と、マルコスを讃える。

   ゲレロ州を訪ねてから、首都メキシコ市周辺のメキシコ州に行く。メキシコ国際空港に隣接する同州テスココの近郊には、サンサルバド-ル・アテンコ市がある。政府と州は、同市郊外の広大な農地に新国際空港を建設する準備をしていた。住民は団結して、反対闘争を続けている。

   闘争する男たちは、農作業に使うマチェテ(山刀)を高く掲げて、闘う決意を強く表す。

   マルコス一行はメキシコ市に到達し、目抜きのパセオ・デ・ラ・レフォルマ(レフォルマの散歩道)から、中心街の憲法広場(ソカロ)まで行進する。アテンコ住民も参加した。

   アラメーダ中央公園のベニート・フアレス廟前では、同性愛者や性転換者らとの集会が開かれ、マルコスはあらゆる差別への反対を唱える。彼らと一緒に、メルセーの生鮮食料品市場に移動し、働く人々と会合する。

   そんな時、テスココでは、花などを売る街頭労働者たちが警官隊に販売を阻止され、逮捕されてしまう。近隣のアテンコへの挑発だった。一帯に緊張が走る。逮捕者解放を求める激しい戦いが始まる。政府は、軍隊を投入して弾圧する。

   マルコスは旅程を中断してアテンコ支援に回り、道路封鎖を呼び掛ける。警官隊が出動し、激しく弾圧して、109人を逮捕する。マルコスはアテンコで抗議行進に参加する。

   場面は転じて、ティフアーナの国境の壁になる。マルコスは壁越しに米カルフォルニア州を見渡す。(その視点の彼方に、同胞が生活をかけて苦闘するロサンジェルスがあることを想像するのは容易だ。)

   映画はここで終わる。政府はその後、アテンコでの空港建設を断念した。

   マルコスが「もう一つの運動」を展開したのは、06年7月実施のメキシコ大統領選挙に向けて繰り広げられていた主要3党の大々的な選挙運動に、<真剣なパロディー>で対抗し、弱肉強食の新自由主義が猛威をふるう実態と既存政党・支配層の利己主義や堕落や暴くためだった。

   この選挙では不正が行われ、カルデロン現政権が生まれた。来年(12年)7月1日の次期大統領選挙では、06年に勝利を奪われたアンデレス=マヌエル・ロペス=オブラドール(AMLO=アムロ)が再び出馬し、政権に挑戦する。

   この映画の題名「ビーバ・メヒコ(メキシコ万歳)」は、セルゲイ・エイゼンステイン監督(1898~1948)の同名の映画を連想させる。エイゼンステインは、メキシコ革命13年後の1930年12月から32年1月までの1年余りメキシコに滞在し、膨大な映像をフィルムに収めた。そのほんの一部が1950年から79年にかけて「メキシコ万歳」として公開された。

   デフォセーにとっては、ドキュメンタリーが綴る生々しい現実こそが、今様の「メキシコ万歳」なのだろう。

(2011年12月11日 伊高浩昭執筆)

CFKアルゼンチン大統領2期目に入る

☆★☆アルゼンチンのクリスティーナ・フェルナンデス=デ・キルチネル大統領(CFK、58)が12月10日、連続2期目の任期(4年)に入った。

  国会下院での就任式では慣例を破り、娘のフロレンシアから大統領肩章を懸けてもらった。「神、祖国、そして彼に誓う」と宣誓した。「彼」とは、昨年10月急死した夫ネストル・キルチネル前大統領のことだ。これも異例の宣誓だった。

  就任演説でも、「喜びと人民の圧倒的支持はあっても、この日を迎えるのは容易ではなかった。何かが足りない、誰かがいない」と、夫であり前任者であり師であったキルチイネルを偲んだ。

  「彼の力で、人道犯罪無処罰を覆した。人権という世界共通の価値に関して今や指導的地位にあるこの国の大統領になって、誇りに思う」

  第1期政権が500万人の雇用を創出したとし、「建国200年で最大の経済成長期を迎えている」と強調した。対外累積債務の返済停止は「他国の問題だ」として、返済停止はしないとの立場を示唆した。

  「私は企業の大統領ではない。亜国人4000万人の大統領だ」ーここで最大の拍手がわいた。

  就任式には、ブラジル、ウルグアイ、パラグアイ、ボリビア、チリ、グアテマラ、ホンジュラスの7カ国の大統領が顔をそろえた。

  大統領はカサ・ロサーダ(大統領政庁)バルコニーから演説したが、政庁前の「五月広場」を埋め尽くした大群衆は、ペロン将軍、エバ・ペロン夫人、キルチネル前大統領、チェ・ゲバラら故人の肖像を掲げていた。人道犯罪の最大最悪の責任者ホルヘ・ビデラ受刑囚(元軍政大統領)の、吊り下げられた人形も登場した。

     政敵であるブエノスアイレス市長マウリシオ・マクリはこの日、就任式を無視するかのように、市内をサイクリングした。

  欧州経済危機の波が大西洋を渡ってアルゼンチンにも押し寄せつつある。2期目の政権運営は1に経済、2に経済、3に経済となる、と観る向きが多い。

(2011年12月11日 伊高浩昭執筆)

 【CFK政権の第1期~第2期移行期の情勢分析については、月刊誌『LATINA』2011年12月号掲載の拙稿「経済を政治に従属させた夫婦(めおと)政権」を参照されたい。】

2011年12月10日土曜日

次期キューバ議長は英語の使い手

☆★☆キューバのラウール・カストロ国家評議会議長(80)が、「そう遠くない将来に現れる次の議長は英語を話す」という趣旨の発言をしていたことが9日わかった。

     ラウールはTTでの第4回カリコム・キューバ首脳会議の場で語ったとされ、「私の年齢では無理だが、次の議長は英語を話さなければならない」とも述べたという。

     これらの発言は、次期議長が若い世代から選ばれる可能性を示唆している。

     対米・対カリブ関係をはじめ、国際社会でキューバの立場を訴えていくためには、最高指導者が英語を流暢に話すことが不可欠だ、との認識もうかがえる。

     ラウールは2008年2月、兄フィデルから議長の座を正式に引き継いだ。任期は、2013年までの5年だが、全うすればラウールは82歳になる。フィデルは80歳直前の06年7月、重病で倒れ、政権を事実上ラウールに任せていた。ラウールは既に5年余り実権を行使してきた。

     共産党や政府の重要な職位は、同一人物は1期5年、2期まで、とされている。ラウールは2018年まで議長を務めることができるが、そうなれば87歳に達してしまう。

     2013年の議長交代が、にわかに有力になってきた。

     「英語を流暢に話す」のが条件となったため、古参革命家群はまとめて淘汰される。ある意味でラウールは、老人支配一掃のための便利な条件を編み出した、と言える。

(2011年12月10日 伊高浩昭執筆)

2011年12月9日金曜日

週刊金曜日誌がCELAC解説記事掲載

★☆★「ラ米・カリブ諸国共同体」が満を持して発足

    という題名の記事が12月9日(金)発行の「週刊金曜日」誌に掲載されました。私が書いたものです。この題は、同誌編集部がつけました。ご参照いただければ幸甚です。

    2012年12月9日 伊高浩昭

カリコム・キューバ首脳会議

▽▼▽カリコム(カリブ共同体・共同市場、1973年発足)とキューバの第4回首脳会議が、トゥリニダード・トバゴ(TT)の首都ポートオブスペインで12月8日開かれた。

    会議は1日だけで、各種の域内協力強化、CELAC創設称賛、米国の対玖経済封鎖廃棄要求などを謳った「ポートオブスペイン宣言」を採択して終了した。

    会議ではTTをはじめとするカリブ諸国が、同諸国の発言権をもっと認めるようCELACに訴えた。キューバは2013年の第3回CELAC首脳会議の開催国であり、カリブ諸国はラウールが何らかの手を打つことを期待している。

    この首脳会議は満9年前の2002年12月8日、キューバと、バルバドス、ガイアナ、ジャマイカ、TTとの国交樹立30周年を記念して創設された。ハバナでの同年の第1回会議に続き、06年バルバドスで第2回、08年サンティアゴデクーバで第3回会議がそれぞれ開かれた。

    米政府は、会議を妨害した。財務省在外資産統制事務所(OFAC)は、首脳陣の宿舎で会議の会場に予定されていたホテル「トゥリニダードヒルトン」から、ラウール・カストロ議長以下のキューバ代表団を締め出し、会場としての使用もキューバが出席するため拒否した。

    この決定は何と、ラウールらが7日ホテルに到着した際、伝えられたいう。明らかないやがらせだ。他の首脳たちや代表団は、同ホテル宿泊が認められた。ラウールらはカポックという別のホテルに投宿した。TT政府は首脳会議会場を急遽、国立舞台芸術学校に移した。

    会議は、米政府がヒルトンホテル使用を禁止する基になった経済封鎖第3国条項を「TT主権侵害」として糾弾する特別声明を発表した。

2011年12月8日木曜日

コスタ・リカ大統領講演会

▽▼▽国賓として12月6日来日したコスタ・リカ(CR)のラウラ・チンチージャ大統領は8日午後、東京・青山の国連大学で、「平和と持続的開発ーコスタ・リカの経験」と題し、20分間講演した。その後、40分間、質疑応答に臨んだ。

    講演では、1948年の憲法で軍隊を廃止し、今日まで常備軍がないことを強調した。予算の軍費分は教育、保健など、人民の福利に回してきたと説明した。

    エネルギー問題については、電力の95%は水力をはじめとする再生可能エネルギーを使って発電しており、2015年には100%にすると述べた。火山が多く地熱発電もでき、太陽熱、風力、波力もたっぷりあると付言した。

    二酸化炭素を吸収する熱帯雨林の保護に努めており、この点では世界の優良5カ国に含まれている、と自賛した。続けて、日本は人口過密国なのに、国土の60%を森林として維持している、と称賛した。

    深刻なのは「人間絡みの問題だ」として、麻薬密売と組織犯罪を挙げた。

    「冬の日本に熱気を届けに来た」と、この初来日を形容し、講演を締めくくった。

    質疑応答では、麻薬問題に触れて、CRが世界最大の麻薬消費国・米国と、コカイン生産地域・南米アンデス諸国の中間の中米に位置することを挙げ、CRにも問題が及んでいることを認めた。だが、国際協力も得て、手遅れにならないよう対処すると語った。

    かつてCRは「中米のスイス」と呼ばれたが、この呼び方は今も適切かとの私の質問に対しては、「中米には内戦があり、さまざまな問題があったが、CRの平和は比較的保たれてきた」として、呼び方が必ずしも不適切ではないとの認識を示唆した。

    大統領は10日、京都から帰国の途に就く。

(2011年12月8日 伊高浩昭執筆)

             ×                 ×               ×

 【今日は、日本軍が真珠湾を攻撃した日米開戦70周年記念日。日本軍のアジア・太平洋地域侵略の延長線上で、行きつくところに行き着いた真珠湾急襲だった。その結果、日本各地の空爆、沖縄戦、広島・長崎への原爆投下を経て、9月、公式に敗戦に至った。日本は占領され、沖縄は27年間、米国の支配下に置かれた。沖縄は日本復帰後も、米国の軍事植民地になっている。CR大統領が、軍備廃止の話をしていた時、私の脳裏は脱線して、日米開戦日の記憶が遠くなったとの、ある種の感慨でいっぱいになっていた。】

2011年12月6日火曜日

「トゥーストラ機構」首脳会議

▼▽▼メキシコ、中米7カ国、ドミニカ共和国(RD)、コロンビアの10カ国で構成する「トゥーストラ対話・協和機構」(旧プエブラ・パナマ計画=PPP)の第8回首脳会議が12月5日、メキシコのユカタン州都メリダ市で開かれた。域外からチリとペルーが招待され、チリ大統領が出席した。

    この機構は、メソアメリカ(中部アメリカ=メキシコ南東部から中米地峡に至るマヤ文化圏とその周辺一帯の地域)の開発を目的に2001年発足したPPPを拡大させたもので、カリブ海のRDも加盟している。メキシコからは、ユカタン、チアパス、プエブラなど南東部9州が参加している。

    会議は、自動車道、電力・電機通信網、情報網、保健などを整備する「メソアメリカ統合・開発計画」の進捗状況を検証した。また、域内の出入国管理、税関、保健管理を統一基準で実施するための「国際物流のためのメソアメリカ方式」が発表された。

    サンサルバドールで11月22日調印された「メキシコ・中米自由貿易唯一条約」の重要性を謳う宣言も発表された。

    政治協議では、民主制度強化、域内治安強化、移民問題などが話し合われた。加盟国およびチリは、「組織犯罪と麻薬取引に関する共同宣言」を発表した。

          域内には、トゥーストラ機構の開発政策に危惧を抱く先住民族や農民が数多い。チアパス州の「サパティスタ民族解放軍(EZLN)」も、環境破壊と強者による搾取を必然的に招く開発主義に反対する立場からも、1994年元日に蜂起した。このような、機構の開発主義に反対する立場が首脳会議で取り上げられることはない。

(2011年12月6日 伊高浩昭執筆)

「太平洋同盟」首脳会議

★▽★▽メキシコのユカタン州都メリダ市で12月4日、第2回太平洋同盟首脳会議が開かれた。この同盟はことし4月28日リマでチリ、ペルー、コロンビア、メキシコの4カ国大統領が調印した「リマ宣言」で発足した。「親米・新自由主義経済路線」の同盟で、オバマ米政権は発足を歓迎した。

     同盟は、バラク・オバマ大統領が今年3月のブラジル、チリ、エル・サルバドール3国歴訪時に、チリで明確にした「太平洋岸パートナーシップ協定」構想に相呼応するものだ。

     ベネズエラのウーゴ・チャベス大統領が盟主のラ米左翼陣営の「米州ボリバリアーナ同盟(ALBA=アルバ)」や、ブラジルが盟主の中道左翼の「南部共同市場(メルコスール)」に対抗したいラ米新自由主義陣営の同盟だ。

     今首脳会議には、メキシコ、コロンビア、チリの3国大統領と、ペルー外相が出席した。ペルーのオヤンタ・ウマーラ大統領はカハマルカ州内の問題などで動きがとれず、カラカスでの首脳会議に次いで、メリダ会議も欠席した。パナマのリカルド・マルティネリ大統領がオブザーバー出席した。

     3首脳と外相は「メリダ宣言」に調印した。来年6月サンティアゴで開かれる第3回首脳会議で、同盟を「財・役務・資本・人の自由移動地域とする条約」に調印することなどが盛り込まれた。

     4カ国の合計人口は2億人。ラ米GDP総額の34%を占める。来年の経済成長率は4・6%と予測されている。

     カラカスで3日、「ラ米・カリブ諸国共同体(CELAC=セラック)」が創設されたが、そのなかにはALBAあり、メルコスールあり、太平洋同盟ありで、生まれたばかりの「共同体」にさまざまな色彩を与えている。

(2011年12月5日 伊高浩昭)

2011年12月5日月曜日

ペルーで非常事態発動(後に解除)

▼▽▼ペルーのオヤンタ・ウマーラ大統領は12月4日、北部のカハマルカ州内のカハマルカなど4地方に「安寧秩序が侵されたため憲政上の責任を果たす」として5日から60日間、非常事態を発動すると発表した。

    カハマルカなど4地方では、南米1の金生産企業ヤナコチャ社がコンガ金山から金と銅を採掘する「コンガ計画」を実施しようとしていた。

    これに反対する住民は「カハマルカ防衛戦線(FDC)」を結成し、11月23日から無期限の阻止活動を展開していた。住民は、水源である4か所の湖沼が採掘作業によって汚染され破壊されるとして、同計画に反対してきた。

    事態を重く見た政府は29日、サルモーン・レルネル首相を通じて、ヤナコチャ社に対し、計画を一時停止するよう要請した。同社も、これを受け入れた。首相は「愛国的決定だ」と強調し、「住民のための水源の安全性が確保されたら、会社は、それを維持する責任を担いつつ操業することができるようになる」と述べた。

    ヤナコチャ社には、ペルーのブエナベントゥーラ社、米国のニューモント、世銀の国際金融会社(IFC)が参加している。コンガ金山開発に48億ドルを投資し、19年間に金890万オンス(時価150億ドル)を採掘する計画だ。

    だが、計画そのものの廃棄を求める住民は、12月に入ってからも道路閉鎖、鉱山施設包囲など阻止活動を続けていた。

    ウマーラは、歴史的な「ラ米・カリブ諸国共同体(CELAC)」を3日創設した、カラカスでの第3回ラ米・カリブ首脳会議への出席を取りやめたが、その理由の一つが「コンガ計画」をめぐる不穏な状況だった。

    「住民との対話が行き詰った」ためとする非常事態発動は、住民意思を尊重しながらも、その住民を含む「貧困層の生活向上には、鉱山開発による国庫収入が欠かせない」との大統領の判断に基づく。

    7月28日に就任したウマーラだが、既にさまざまな難題に取り巻かれている。

(2011年12月5日 伊高浩昭執筆)

          政府は12月16日、非常事態を解除した。地元は13日、無期限の阻止行動を打ち切っており、これを受けた措置。政府と地元は19日、話し合いを再開する。

   この間、サロモーン・レルネル首相が10日、対話失敗の責任を取る形で辞任した。オスカル・バルデス新首相が11日就任し、地元と折衝していた。

(12月17日追記)

2011年12月4日日曜日

ラテンアメリカ・カリブ諸国共同体発足

★☆★★☆米州35カ国のうち米国とカナダの北米両国が入れないラ米・カリブ(LAC=ラック)地域33カ国がつくる「ラ米・カリブ諸国共同体(CELAC=セラーックと発音)」が12月3日発足した。

   前日からカラカスで開かれていた第3回LAC首脳会議は3日、「カラカス宣言」などを採択し、CELAC設立にこぎつけた。

   LACは史上初めて、米国の加盟できない一大機構を自らのものにした。その意義は大きい。

   CELACは、米国とカナダが入り、キューバが復帰を拒否している既存の米州諸国機構(OEA=オエア、英語ではOAS)と今後併存することになる。米国がLAC支配の道具としてきたOEAと、誕生したばかりのCELACがどのような関係になるのか、現時点では判然としない。

   第3回LAC首脳会議は、議決方法を全会一致か、多数決かを決めることができなかった。当面は全会一致の合意方式で進み、来年チリで開かれる第2回CELAC首脳会議以降に決定は委ねられた。

   第3回LAC首脳会議は「カラカス宣言」をもって、第1回CELAC首脳会議に移行した。CELAC設立時の首脳会議の議長を務めたベネズエラのウーゴ・チャベス大統領は、シモン・ボリーバルの「大なる共通の祖国」の理想を具現化する第一歩となるCELAC設立の大役を果たした。

   CELACの初代議長(輪番制)には、次回開催国チリのセバスティアン・ピニェーラ大統領が就任した。第3回CELAC首脳会議は2013年キューバで、第4回は14年コスタ・リカで開かれる。

   米国務省は3日までの時点で、CELACを「米州の数ある多国間組織の一つ」と見なすことで、CELACを矮小化する発言をしている。

(2011年12月4日 伊高浩昭執筆、続報あり)

2011年12月3日土曜日

CELAC創設へ首脳会議

★☆★☆★ベネズエラの首都カラカスで12月2日、第3回ラ米・カリブ首脳会議(CALC=カルク)が開かれた。会議は3日、「カラカス宣言」を採択して、「ラテンアメリカ・カリブ諸国共同体(CELAC=セラッーク)」を創設する。新機構には、米国とカナダのアングロサクソン系北米両国は入れない。

    ラ米・カリブ地域(LAC=ラック)とりわけラ米は独立200年期にあり、米国のLAC支配を宣言したモンロー宣言200周年(2023年)に向かう米国の<執念>と激しいせめぎ合いを続けている。その力学のなかから歴史的なCELACが生まれる。LACにとって、まさに画期的な出来事だ。

    この歴史的首脳会議にはLAC33カ国の全首脳が出席するはずだったが、ペルー、コスタ・リカ、エル・サルバドールの3カ国大統領は欠席し、代理を派遣した。米政府の分断工作が部分的に成功したと捉えることができる。

    開会演説をしたメキシコのフェリーペ・カルデロン大統領は、「CELACは新しい米州の種として生まれる。実りある永続的機関であれ」と述べた。

   今会議議長を務めるベネズエラのウーゴ・チャベス大統領は、「立場の違いを受け入れ尊重しつつ統合するのが重要だ。願わくは、北方諸政府(米加)がLACで起きていることを少しは注視せんことを」と述べたそして、CELAC設立過程で貢献のあった故ネストル・キルチネル前アルゼンチン大統領、フィデル・カストロ前キューバ議長、ルイス・ルーラ前ブラジル大統領を讃えた。

   第3回CELAC開催国に決まったキューバのラウール・カストロ議長は、「史上初めて<我らのアメリカ>の機構が生まれる」とホセ・マルティの思想を基に歴史的意義を強調した。また、グアンタナモ米海軍基地の存在をも念頭に置いて、「LAC域内から外国軍基地がいつの日か無くなることを」と訴えた。

   ニカラグアのダニエル・オルテガ大統領は、「プエルト・リコがここにいない」と、米自治領(植民地)にされて113年経つプエルト・リコの不在を指摘した。

(2011年12月3日 伊高浩昭執筆)

イエズス会士虐殺事件で引渡要求へ

▼▽▼スペインの法廷は12月2日、同国政府に、サルバドール人軍人15人の身柄引き渡しを要求するよう、要請した。

    エル・サルバドール(ES)内戦中の1989年11月16日、同国首都サンサルバドール市内にある中米大学(UCA=ウカ)で、イグナシオ・エジャクリーア学長らスペイン人イエズス会士5人が虐殺された事件の容疑者として。

    法廷は今年5月30日、同15人を含む容疑者20人を起訴した。15人のうち、事件当時の国防相ラファエル・ラリオス退役将軍ら13人の引渡しはES政府に対して、他の2人は居住地米国の政府に対して要求する。

    この事件では、サルバドール人会士1人、同女性従業員ら2人も殺されている。内戦中の最も凄惨な事件の一つとして記憶されている。

           ×                 ×                ×

    私は1990年代に入ってから、UCAの事件現場を訪ねた。軍によって数十人単位で虐殺された農民らの遺体が投げ込まれた<集団墓>跡や、考古学者らによる白骨遺体の発掘現場を連日取材していた時のことだった。UCAの現場でも他の殺害現場跡でも、ただ首(こうべ)を垂れるしかなかった。

(2011年12月2日 伊高浩昭執筆)

2011年12月1日木曜日

チリ銅会社めぐり<三井・三菱対決>

▼▽▼チリでは1970年代初期、アジェンデ社会主義政権が銅山を国有化した。だが、同政権を倒したピノチェー軍政は、「シカゴ学派」の新自由主義経済政策をほぼ全面的に受け入れて広範な民営化を進め、多くの銅山が民営に戻された。今日、同産業はアジェンデ時代に生まれた国営銅公社(CODELCO=コデルコ)系と民間企業系に分かれている。

    英アングロアメリカン社(AA)は1978年の民営化時に、銅山や精銅工場を買収し、子会社アングロアメリカン・スール社(AAS)に経営させてきた。だがコデルコはAASの資本を最高49%まで買収する権利を持つという「過去の取り決め」に則り、2012年1月にその買収を実行する段取りを決めていた。

    コデルコは買収資金の大きな部分として、今年10月半ば、三井物産から67億5000万ドルの融資を受ける契約を結んだ。コデルコはまた、三井物産を通じて年間銅3万トンを10年間売る契約も結んだ。

    この事実に驚いたAASは11月9日、資本の24・5%を54億ドルで三菱商事に売却した。これにより、コデルコは49%の残り半分(24・5%)しか買収できなくなった。そこで激怒した。

    事態は暗礁に乗り上げた。コデルコは11月30日、AASと三菱の契約を無効とする訴えを起こすのを前提として、 AASと三菱の契約に至る経緯を示す文書などの開陳を法廷に請求した。

    これに対し、AASの親会社AAは、コデルコの措置を「法を遵守する外国企業に対し権力を濫用しようとしている。法治国家に対する重大な攻撃だ」と非難した。

    三井、三菱両社はチリでは口をつぐんでいる。現地では、[AAS+三菱]と[コデルコ+三井]の闘いとして強い関心を集めている。

    新自由主義大賛成のピニェーラ政権だが、コデルコが国営企業であるため、コデルコ支持の立場を示している。

(2011年12月1日 伊高浩昭執筆)

           サンティアゴ高裁は12月21日、コデルコの訴えを認め、AAS社に三菱への株譲渡を禁止する裁定を下した。「再審なし」の裁定で、裁定内容は確定した。

2011年11月30日水曜日

喜納昌吉ら沖縄御三家<奇蹟の競演>

★☆★☆★沖縄民衆音楽界を率いてきた喜納昌吉(63)、知名定男(66)、照屋林賢(62)=アイウエオ順!=が12月1日、<歴史的競演>をする。相互にライバル意識が強く、「絶対に交わらない三ツ星(ミーチブシ)」と言われた3人だが、共通の友人でフォークシンガーの南こうせつの仲立ちで実現することになった。司会は南が務める。

   会場は、3人が育った沖縄市(旧コザ市)の沖縄市民小劇場で19:30から。

   「LIVEコザ 三線SAMURAI~島うた40年史」がコンサート名。(なぜ沖縄でサムライなのか、やや違和感がある。)

   私は10月初め那覇で昌吉に会った際、この合同コンサートの 話を聞いた。「信じられない」と言うと、「僕自身が信じられないさ。こうせつの熱意に折れざるをえなかった、としか言いようがない」と昌吉。

   宣伝ビラに刷り込む名前の順番とか、誰がトリになるかとか、打ち合わせが大変だったらしい。「とにかく、やってみないと、どんなコンサートになるのかわからないさ」

   新聞は「歴史的競演」、「奇蹟の競演」などと書いて、前景気を煽っている。

   私は1977~79年、3年近く通信社の那覇支局にいて、沖縄情勢を取材し報道した。昌吉とは当時からの友人。定男は「バイバイ沖縄」が大ヒットした時インタビューし、その後、ペルーのクスコ郊外でばったり出会ったことがある。照屋は、林賢よりも、父親の林助(故人、漫談家)の方をよく知っていた。

   ライブを聴けないのが残念だが、ビデオで必ず観る。3人のシンガー・ソングライターも年をとった。だから対立を棚上げし、融和のひと時を共有しようと同意し合ったのだろう。

(2011年11月30日 伊高浩昭執筆)

【沖縄の日本復帰(米国から日本への施政権返還)から間もない1970年代後半の状況や、若き日の喜納昌吉の活動については、拙著『沖縄アイデンティティー』(1986年、マルジュ社)を参照されたい。また沖縄の21世紀初頭までの状況については、拙著『双頭の沖縄』(2001年、現代企画室)をどうぞ】

2011年11月29日火曜日

ベネズエラが太平洋岸に<出口>

ーーーーーベネズエラ東部のオリノコ油田から、コロンビア太平洋岸のトゥマコ港まで送油管が建設されることが確定した。

    カラカスで11月28日、ベネズエラのウーゴ・チャベス、コロンビアのフアン・サントスの両大統領が会談し、協定に調印した。

    1999年2月政権に就いたチャベスは早くから構想を打ち出し、コロンビア政府とも基本的には合意していたが、同国のウリーベ前政権(親米・反チャベス)と冷戦状態に陥ったため、構想は棚上げされていた。

    この送油管が完成すれば、ベネズエラは中国に日量100万バレルの原油を輸出できるようになる。米国が依然影響力を維持しているパナマ運河を通過せずに、太平洋圏への原油輸出路を確立する戦略的意味は、ベネズエラにとって大きい。中国にもしかりだ。

   チャベスはサントスとの共同記者会見で、「中国や日本に原油を運ぶのに、南米南端やアフリカ南端をいちいち回っていたら大変だ」と述べた。
 
   パナマ運河を巨大タンカーが通行できない状態が長らく続いてきた。パナマ運河地帯では、2014年以降の完成を目指して、超大型船舶の通行が可能な第3水路の建設工事が進められている。これを横目にチャベスとサントスは送油管建設を決めたのだ。

   将来的な不安材料は、コロンビアのゲリラ組織「コロンビア革命軍(FARC=ファルク)」と「民族解放軍(ELN=エエレエネ)」が過去に、同国内の送油管を破壊してきたこと。特に活動拠点が中部から北部にまたがるELNは、送油管破壊を主要な戦術にしていた。

   コロンビア政府は、ゲリラの武力制圧を急いでいるが、ゲリラとの恒久的な和平がない限り、送油管建設と運営に不安がつきまとうことになる。

(2011年11月29日 伊高浩昭執筆)

2011年11月28日月曜日

カプニャイ駐日ペルー大使講演会

☆★☆★☆「過去・現在から未来へーーコンドルは飛翔する」

    ペルーのフアン・カプニャイ駐日大使が、ペルーの現代情勢や対日関係について講演する。

    立教大学ラ米研主催の公開講演企画で、12月17日(土)1500~1800、池袋キャンパスの「マキムホール」M302大教室で開かれる。

          演題は、「ペルー情勢と展望-21世紀の秘日関係」。

    講演会は、同ラ米研のラ米論Ⅱ「現代ラ米情勢」(伊高浩昭担当)の今年最終講座を兼ねる。
   
    講演に続いて、その内容を踏まえた対話(大使と伊高)、会場の受講生および一般聴衆との質疑応答が行なわれる。西語による大使の講演・発言には、逐次通訳が付く。

    入場無料で予約は不要。当日、関係資料を配布。

    ペルーやラ米に関心をもつ皆さんのご来場を歓迎する。

(2011年11月28日 伊高浩昭)

群なす無責任者が原発事故を招いた

▼▼▼NHKTV番組「シリーズ原発危機 安全神話 ~当事者が語る事故の真相~」を11月27日夜、観た。宮川徹志ディレクターらが制作した力作だ。

    3・11以後、東電福島原発事故の根本的原因が人災だった事実が盛んに指摘されてきた。それを政府、東電、科学者ら、原子力政策と東電原発の責任者・関係者150人に取材して検証したところに、この番組の価値がある。

    結論は、<安全神話>が責任者らの思考を停止させ、米スリーマイル島、ソ連チェルノブイリと大原発事故が2度も起きながら、対策を講じなかった、という実に無責任極まりない人々の、利益優先の愚かな判断が事故を招いたということだ。

    東電幹部らの「想定外」という無責任の代名詞のような言い分も、実は、想定を怠ったからだったことが証明された。番組は、倫理観を失ったかにみえる企業人に政府が従属していた事実を暴き出す。

    政府も東電も、原発周辺の住民をだまし続けて、事故に至った。「事故の際は住民を速やかに退避させるべし」という、手引書に盛り込まれるべき項目は、「盛り込めば事故が起こりうることを認めることになるから」と排除されたという。

    このように退廃した組織人たちが、日本に住む人々の安全を蹂躙していた。対策は最初から無視され、為されても後手後手に回った。だから原発が大津波を受けた時、為すすべもなかった。糾弾されていない官民にまたがる組織的無責任は、重罪と言うしかなく、厳罰に値しよう。

    その津波の危険性についても、「地震随伴事象」として、脇に追いやられていたという。スペイン語では海底地震を「マレモート」と呼ぶ。それは、津波とともに陸地をしばしば襲う。それが常識であり、「随伴」ではない。この点を指摘した人物が一人いたが、その声はかき消されたという。

    驚くべきは、3・11から8カ月以上たった今でも、現在の当事者たちの認識が甘く、危機意識に乏しいことだ。取材に応じた人々からも、謝罪はなく、「罪の意識」は感じられなかった。番組を観た視聴者の間で、怒りがさぞ渦巻いたことだろう。

    番組は、NHKを含むメディアにも責任があったことを認めている。この認識を深化させ、巨悪をさらに暴いてほしい。メディアの根幹は、<マスコミ>という、本来正しくなく品のない呼び方をされて平気な低次元の存在であってはならない。ジャーナリスムでなければならない。

    九州電力のやらせ事件と、それに絡んだとされる佐賀県知事の追及はどうなっているのか。メディアの無責任と怠慢は、現在も進行中だ。取材者・報道者は冷水を頭からかぶって、<マスコミスト>であるのを止め、ジャーナリストにならねばならない。

           「組織の犯罪」ないし「組織的犯罪」という巨悪は、ほとんどの場合、(本来権力のない平凡な人々の利権集合体である)権力を隠れ蓑にして、責任の所在を曖昧にし、結局は無処罰に終わってしまう。言い古された言葉だが、日本の民主は依然、<でも暗し>である。ジャーナリズムが眠り、<マスコミスト>が権力の一部に成り下がっている限り、夜明けは来ない。


(2011年11月28~29日 伊高浩昭執筆)

【このNHK番組を、先に当ブログに掲載した共同通信社編集委員室企画を踏まえて観ると、わかりやすい。また、この番組を観ると、共同通信社企画の内容が一層理解しやすくなる。】

2011年11月27日日曜日

建築家が取り組むラテンアメリカ

☆☆☆☆☆立教大学ラ米研主催の第42回「現代ラ米」公開講演会が11月26日夜、「ラ米の都市を歩くー文学と建築の視座から」をテーマに開かれた。講演者は、文学者の柳原孝敦・東外大准教授と、建築家の原広司・東大名誉教授。

    柳原氏は、「記憶の都市メキシコ」と題し、「現実のメキシコ市とは別にある記憶の都市メキシコ」について語った。憲法広場(ソカロ=中央広場)の一角、大統領政庁(国家宮殿)とメキシコ大聖堂(カテドラル・デ・メヒコ)の間で発掘されたアステカ時代の中央神殿や、旧グアダルーペ大寺院(バシリカ・デ・グアダルーペ)を取り上げて、歴史の重層性を説いた。

    <征服者>によって地中に葬られ抹殺されたはずの歴史が、ある時地表に現れて、破壊者が築いてきた歴史を暴き、白日の下に晒す。その残酷さを語って、興味深かった。


    原氏は、「<実験住宅・ラテンアメリカ>のこれまで」と題し、「建築家が忘れがちな貧者のための住宅という視点」で、2003年から5年余り続けた南米4都市での活動を語った。

    モンテビデオ、コルドバ、ポルトアレーグレ、ラパスの4都市で展開した「実験住宅」の建設実験は、ラ米の先住民族の山村の「離散型集落」から得た閃きを基にしている。

    先住民族の農民は必要なだけ共同作業をして相互に助け合うが、農作業の場合、休耕期になると、集団行動は終わる。人々は、半径50m程度の距離を置いて住んでいる。隣家の人々の姿がよく見え声が聞こえる範囲で分散し、点在するように居住している。

    これに対し、スペイン人が教会を中心に建設した街は、人々が密集して住んでいることから、「クラスター(集束)型」と呼ばれる。

    先住民が時に助け合い、時に離れ合うのは、「仲良くするが、それにも限度がある」、「個人間に違いがあり、それを認め合う」という、言わば「全体主義とは異なる思想」を示している。つまり「全体のなかの部分を認める」のだ。

    【脱線するが、キューバの制度は今、全体としての社会主義体制を維持しながらも、個人の経済活動の自由を徐々に認める方向に歩み出している。】

    「全体のなかの部分」では、互いに干渉を避け合う。このような「離散型集落」の「連帯・団結と、個々人の自由」という生き方を住居に取り込むのが、「実験住宅」だ。

    貧者が建てたい家を只に近い安価で自由に造る、というのが原氏の掲げる理想の旗だ。ラ米の都市周辺には必ずと言っていいほど、(ブラジルでファヴェーラと呼ばれるような)低所得者居住地域が拡がる。そんな地域で只で建てるべき住居が「実験住宅」なのだ。

    だが、一家族用3棟の住宅は、建設費が200~250万円かかる。実験段階から脱するのは難しい。(財政的に難しいだけではなく、建築法など制度上からも風土的因習面でも難しい。)

             ×                     ×                    ×

    講演会終了後に、原さんとじっくり話し合う機会を得た。私が、「実験住宅」は実用化の可能性がないとすれば一種のハプニングではないですか、と訊くと、「よく<ハコモノ(箱物)>という言葉を耳にするが、私が目指すのは<ハコ>という物の建設ではない。重要なのは、創り造る過程だ。その意味では、ハプニングです」と答えた。

    講演と会話から、私は、居住条件がいかに人間の思想形成に影響を及ぼしうるか、ということについて閃きを得た。「実験住宅」がもし日本で実現し拡がっていけば、まさに革命が起きる。だから実現しないのだろう。貧者のため、人間的であるため、という考え方は、今の世では反資本主義、アナーキーと受け止められがちだ。原さんは、そのような境で創造を続けている。

(2011年11月27日 伊高浩昭執筆) 

    追記:原氏は講演で、「実験住宅はコンクリート(有形的、具象的)でなく、ディスクリートです」と言った。「ディスクリート」の意味を私流に勝手に解釈すると、「絶やすこと=反建築」、転じて「エフィメラ=かげろう=短命」となる。だからハプニングなのだ。
    1970年代初め、ダビー・シケイロス制作の恒久的に保存される巨大壁画に反発していた彫刻家ホセルイス・クエバスは、メキシコ市内の繁華街で「ムラル・エフィメロ(はかない壁画)」というハプニングを演じた。壁画大の巨大な紙に絵を短時間で描き、完成した直後に破り捨てる、というものだ。私は原氏の話を聴きながら、クエバスの「はかない壁画」制作を取材していた時の情景を思い出した。
      
    【シケイロスとクエバスの関係やメキシコの壁画運動については、拙著『メヒコの芸術家たち』(1997年、現代企画室)を参照されたい。】

2011年11月26日土曜日

映画『アキラの恋人』

★☆★☆★キューバでドキュメンタリー映画『ラ・ノビア・デ・アキラ(アキラの恋人)』(56分)が完成し、11月12日ハバナで試写会が開かれた。折からの日本文化週間に合わせて上映されたもので、マリアム・ガルシア=アラン監督、元女優オブドゥリア・プラセンシア、西林万寿夫・日本大使らが出席した。

    1968年、初の、そして唯一の日玖合作映画『ラ・ノビア・デ・クーバ(キューバの恋人)』がキューバで制作された。今は亡き黒木和雄監督の作品だった。船乗りの日本人青年アキラがハバナの街で美しい娘マルシアを見初め、ハバナから東部のサンティアゴまで追いかけていくという物語だ。水も滴る美青年だった津川雅彦が主演、マルシアは女優未経験だったプラセンシアが演じた。

    この映画の制作から43年経ったが、キューバでは一度も公開されなかった。新作『アキラの恋人』では、黒木作品制作に至ったキューバ側の映画政策上の理由、合作だが黒木組が制作しキューバ側は支援するのが主だったという事情、両国映画人の出会いの意味、黒木作品の歴史的価値などが、生存している関係者たちによって縦横に語られている。

    当時、キューバで最も人気のあった日本映画は、勝新太郎主演の『座頭市』シリーズだった。私は、革命第1世代のアルマンド・ハルト氏が文化相だった時、同氏にインタビューした。ハルト文化相は、「キューバ人は、スーパーマンとか西部劇のガンマンとかハリウッドの英雄しか知らなかった。世界にはさまざまな英雄がいることを教え、視野を拡げるため、日本映画の英雄も紹介したのだ」と語った。

    あのころ日本人の男性はハバナの街で「イチー!」と、よく呼びかけられたものだ。『キューバの恋人』のカーニバルの場面にも、<座頭市>が登場する。黒澤明督・三船敏郎主演の一連の作品や、『木枯らし紋次郎』も人気があった。後に『おしん』が大ヒットする。

    興味深いのは、当時通訳を務めた長野県系キューバ人フランシスコ宮坂が、「あのころ日本からの漁業協力があって、漁船員がたくさん来ていた。だからアキラという船乗りの役柄が生まれた」と語っていることだ。当時、日本共産党系の漁業指導員らが漁船とともにキューバ近海で活動していた。また、日本の大手漁業会社も進出していた。

    キューバ側関係者はみな、『アキラの恋人』の制作を機に『キューバの恋人』を初めて観ることができた。プラセンシアは「観て恥ずかしかった」と語っている。「マサ(津川)は親切で、素人の私を、ゼスチャーを交えて、優しく励ましてくれた」と言う。

    ある関係者は、「キューバ革命が熱気を帯びていたころの映像はニュース映画ぐらいしかなく、『キューバの恋人』は極めて貴重な映像だ」と評価する。

    12月1~11日ハバナで第33回国際 「ラ米新映画」祭(通称ハバナ映画祭)が催される。『アキラの恋人』も上映されることになっている。

    日本では字幕が既に作成され、上映準備が進んでいる。私は日本側関係者の好意で試写版を観た。なかなか面白い。津川もインタビューに応じて思い出を語っている。

    まず『キューバの恋人』を観てから『アキラの恋人』を観る。楽しい2本立てになる。惜しむらくは、なぜ『キューバの恋人』が40数年間もお蔵入りしていたのか、その理由の究明がないことだ。

             ×                ×                ×

    私は1968年当時、『キューバの恋人』制作のため東京・ハバナ間を往来していた黒木監督と、主演の津川に中継地のメキシコ市で会い、取材した。その時のエピソードや、今年9月、東京・新宿でのラテンビート映画祭で『キューバの恋人』が再上映された際のトークショーに出演した津川の話などについては、月刊『LATINA』誌(2011年)9月号p70掲載の拙稿を参照いただきたい。

(2011年11月26日 伊高浩昭執筆)

2011年11月25日金曜日

3・11 文明を問う (6の6)=最終回=

ーーーーーー共同通信社編集委員室国際インタビュー企画18回連載記事紹介ーーーーーー

    第16回目は、ミャンマーの仏僧3人が登場する。この国を2008年5月2日、巨大な台風(サイクロン)が襲った。死者と遺体未発見者は14万人に達した。

    ウ・ブサニャ・サラ師(64)は、「50年前と比べ、人間と自然の質は低下した。物欲が深まり利己的になり、思いやりを忘れた。それが気候変動や、新たな疫病の流行を生んでいる。災害は人間が生み出す。考え方を変えなければならない時が来ている。このことを巨大な自然の力が気づかせてくれた」と警告する。

    「先進国は科学を過信し、おごってしまった。原発事故も、その結果だ」。「私たちは老いと死から逃れることはできず、科学もこれを止めることはできない。科学は万能でない」

    「人は、定められた以外の時に死ぬのは難しい。亡くした人、失ったもののことばかり考えて暮らすのでは意味がない。いつか来る死の時まで、課されたことを精一杯やり、歩んでいかねばならない」

    「苦しみは、過去と未来にばかり思いを置くことから生まれる。瞑想で現在の自分に集中し、苦しみを軽減できるようにする。苦痛も永遠ではない。自分を救うのは自分以外にない」

    (アジア人、特に日本人は我慢強さで知られているが)「我慢は、指導者が優れている場合は意味があるが、そうでない場合は良い結果をもたらさない」。「政府が<民主主義>と主張しているものが真の民主主義でなければ、変えるために行動することは必要だ」

    アシン・バラ・サミ師(45)も、「物質主義を発展させるのであれば、心と精神も鍛えなければならない。そうでなければ破滅に向かう」と、警鐘を鳴らす。

    ウ・パニャ・シリ師(36)は、08年の被災時、「僧侶というよりも人として共に歩みたかった。木の枝に引っかかっていた5歳の姪の遺体を見たが、個人的な悲しみに浸っている暇はなかった。おびただしい遺体に埋葬地が足りず、遺体の腕と腕を結び、川から海へと流した」と述懐する。

    「宗教は行動が伴ってこそ意味を持つ。私は僧侶という仕事で奉仕することで、自分自身を救い、心の平安を得ている」


    最後の発言者は、米国の上院議員、副大統領、駐日大使などを歴任したウォルター・モンデール氏(83)。1979年にスリーマイル島原発事故が起きた時、副大統領だった。「今となっては恥ずかしい。安全な原発だと思っていたが、違っていた。福島原発も安全だと思っていた。誰も想像していなかったが、原発の冷却装置が津波に対して脆弱だった」

    「米国は使用済み核燃料の問題で研究を重ねたが、いまだに処分方法が決まらない。問題解決は遠い」

    「日本以上に核兵器の危険性を知る国はない。今や原発事故も経験した。日本は、代替エネルギー開発分野で世界の先頭に立ってほしい」

    「米海兵隊の普天間航空基地のような問題の解決には、注意深く時間をかけて調和をつくりださねばならない。この問題は日米間の中心的な問題ではないし、あした解決しなければならないわけでもない」


    最終回(第18回)は、このインタビュー企画を統括した杉田弘毅編集委員がまとめている。「東日本大震災と東電福島原発事故は、世界の幅広い分野の識者にさまざまな思考を促した。インタビューからは、この大災害が現代文明に与えた衝撃が読み取れる」ーー。

            ×                  ×                ×

    共同通信社編集委員室のこの連載企画は、日本各地の読者の間で反響が大きかった。また学者、科学者ら専門家からの反応も強かったと聞く。要点だけでもと思い、転載させてもらった。

(2011年11月25日 伊高浩昭まとめ)

2011年11月24日木曜日

ラテンアメリカ(ラ米)乱反射

★☆★ラ米は、音楽、映画、舞踊、演劇、文学、建築、彫刻など芸術が実に豊かだ。日本には、音楽を中心に、その豊かなラ米文化を紹介する優れた月刊誌がある。言わずと知れた『LATINA(ラティーナ)』である。

    私は縁あって、2006年初めから毎月、この雑誌に「ラ米乱反射」を連載してきた。「乱反射=レフレクシオン・イレグラル」と名付けたのは、ラ米のあらゆる事象が乱れ飛び、衝突し、さまざまな方向に反射する、というような意味を込めてのことだ。

    第1回から第24回までは、単行本『ラ米取材帖』として、ラティーナ社から2010年5月に刊行された。

    いま、なぜ本稿を書くかと言えば、「乱反射」が、今月11月20日に発売された2011年12月号で70回に到達したからだ。一度も休載せず、毎回400字詰め原稿用紙16枚を書いてきた。

    第70回の主人口は、10月23日のアルゼンチン大統領選挙で圧勝し2選を果たした、クリスティーナ・フェルナンデス=デ・キルチネル大統領だ。

    「経済を政治に従属させた夫婦(めおと)政権」、「圧勝クリスティーナに暗雲迫る」という2本見出しを付けた。「夫婦政権」というのは、ご存じのとおり、昨年10月急死した夫ネストル・キルチネル前大統領と2人3脚で政権を運営していたからだ。

    私が1970年代初め、ブエノスアイレスでペロン復活期の政情を取材していたころ、夫妻は大学生だった。二人はペロン派青年部で知り合い、愛し合って結婚した。そして夫妻で政権に就いた。

    亜国(アルゼンチン)政治には、このようなロマンが時として伴い、開花する。

    『LATINA』の編集上のおはこは何と言ってもタンゴだが、この70回目の記事には、タンゴ街ボカの港に、ほんの少しだけ触れておいた。

(2011年11月24日 伊高浩昭執筆)

3・11 文明を問う (6の5)

ーーーーーーー共同通信社編集委員室国際インタビュー企画18回連載記事紹介ーーーーーーー

    13人目の登場人物は、米国人政治思想家フランシス・フクヤマ氏(58)。「東京電力と日本政府のお粗末な災害対策、事故発生後の対応のまずさ、原子力産業と政府の癒着が、実に悲惨な結果を招いた。規制当局が何ら監視機能を果たさず、業界の手先となり、その利益のために働いていたようなものではないか」

    「さまざまな利益集団が生まれて、強い影響力を持つようになり、自己の権益を守ろうと民主的政治制度を操る術を覚えた。このため、政治制度は身動きがとれなくなっている。その一例が、規制当局と癒着し、市民の安全を犠牲にしてまで自己利益を図ってきた日本の原子力業界だ」。「米国では、保険会社と医療業界がつるんで、本格的な医療保険改革を難しくしている。金融業界も強くなりすぎて、激しい富の集中と格差が生まれている」ーーー「これが、先進民主社会が直面している政治の自壊、という問題だ」

    「今の日本の制度や政治は、どこかがおかしくなっている。日本国家を組み立てている諸制度が自壊しはじめたのか」。「政治制度は、激変する環境に対応できないと、破綻する。権力や財の世襲を求める力が強まると、自壊する」

    「これまで優位だった欧米の思想・制度は、他地域の思想を取り込んだものとなっている」


    14人目は、アイルランド人の政治学者、ベネディクト・アンダーソン氏(75)。「被災地支援に駆けつける日本人に、良質で純粋なナショナリズムと、将来への希望を感じる」

          「一方、日本の官僚、東京電力の無責任さは犯罪的だ。首相を代えても問題は解決しなことを、日本人は知るべきだ」
    
         「日本人は菅直人氏ら政治家を非難するが、官僚や企業幹部の責任を追及すべきだ。首相や閣僚はたたかれて更迭されるが、問題の根である官僚や組織は居直るから解決しない。メディアの責任でもある」

    「ナショナリズムや愛国主義には二つの側面がある。法律や制度を守り、自分たちの仲間を助けよう、社会にとって良いことをしよう、責任をもって行動しようという良い面と、主に右翼政治家が煽る排外主義だ」。「もし日本に良質のナショナリズムがなかったら、今回の震災で人々はもっと利己的に行動し、悪事も働いたと思う」

    「良質なナショナリズムは子供、つまり将来を大事にする」


    15人目は、イタリア人政治哲学者アントニオ・ネグリ氏(78)。「東日本大震災は、20世紀後半からつくられてきた<原子力国家>が幻想だったことを証明した。国家は権力を永続きさせるため原発の絶対的安全性を保証しなければならず、結果的に原子力に国家体制を捧げることになる。原子力は、国家の形を変える一種の怪物になった」

    「第2次世界大戦では二つの恐ろしいことが起きた。ユダヤ人虐殺と、広島・長崎だ。この二つは、かつてはコインの表裏だった。この記憶をもう一度取り戻す必要がある。なぜなら、二つとも恐ろしい技術の力が行使されたものだからだ」

    「核廃棄物の問題を解決できない以上、歴史は脱原発のドイツの道を歩むと思う」

    「新自由主義は矛盾をはらんでいる。一方で社会と市場の自由化を促しながら、もう一方で国家を巨大化する。原子力国家も一例だ」

    「米国の覇権は深刻な危機にある。リーマンショック前後から、世界は米国の指令から独立し、多極的に動いている。かつて完全に米国に従属していたラ米も従来より独立し、中印両国もそれぞれ拠点になっている。米国の覇権の衰退に拍車がかかっている」

    「同じ敗戦国でもドイツは、欧州に依存することで米国からの独立性維持に努めたが、日本はそうしなかった。中国でなく米国との関係をずっと優先させてきたため、その代償をいま支払っている」

    「世界のシステムを民主化できなかったオバマ米大統領に失望した。それだけ軍事産業ロビーが完全に国家構造に入り込み、軍事産業から脱することは不可能になっている。原子力が巣食ったときと同じように、国家システムが硬直している」

    「市民ネットワークには、自治だけでなく、共同体を形成するという気持が大事だ。政府に介入されない独自の通信網を持つとともに、財産権など個人の権利を超越する必要がある」

(2011年11月23日 伊高浩昭まとめ)

スペイン総選挙の反響

               スペイン総選挙が11月20日実施され、マリアーノ・ラホーイ党首の率いる野党「国民党(PP=ペペ)」が過半数を上回る186議席を得て圧勝した。

     PPは、スペイン内戦を起こしたフランシスコ・フランコ将軍ら反乱軍の「国民戦線」の流れをくむ保守~右翼政党。ホセマリーア・アスナールが首相だったPP政権(1996~2004)以来ほぼ8年ぶりに政権に返り咲くことになった。
     
     南米ではアルゼンチン、ウルグアイ、チリ、ペルー、ボリビア、エクアドール、コロンビアなど、中米ではパナマ、コスタ・リカなど、カリブ海ではドミニカ共和国、ハイチなど、そして北米に位置するメキシコが、マリアーノ・ラホーイ次期首相を祝福した。

     スペインが重視する大国ブラジルは、公式声明を出していない。
    
     最も注目されるのは、アスナールPP政権が敵視した社会主義キューバだ。だが22日現在、反響は出ていない。フィデル・カストロ前議長は、極右のアスナールと犬猿の仲だった。

     アスナールは欧州連合(EU)を巻き込んで、カストロ体制に冷戦を仕掛けた。スペインやラ米諸国では、ラホーイ新政権とラウール・カストロ政権が早晩、緊張関係に陥るとの展望記事が出回っている。
     
     マイアミのキューバ系社会にある「キューバ系米国人財団(FNCA)」は、ラホーイ勝利で、スペインおよびEUのキューバへの圧力が強くなると、期待を表した。
    
     次に注目されるのは、ウーゴ・チャベス大統領が「ボリバリアーナ革命」を遂行しているベネズエラだ。外務省は、「チャベスが、スペイン人民に民主的行事(総選挙)の成功を祝福した」との声明を発表した。

     またニコラース・マドゥーロ外相は、「新政権とはイデオロギーの違いを超えて良好な関係を維持したい。我が国とポルトガル(右翼政権)との関係が模範となる」と述べた。
     
     ダニエル・オルテガ大統領が11月6日に再選されたばかりのニカラグアは、公式声明を出していない。だが「今日のニカラグア」誌が、「スペイン人民はPPを怖がらなくなった」と論評した。

     かつてスペインには、内戦に敗れた「人民戦線」派(スペイン共和国支持派)の間に、フランコファシズムの思想を引きずっていたPPへの恐怖心があった。今選挙でPPが議会の過半数を制したことは、有権者の多くに「過去への恐怖心」がなくなったか薄れたかを意味すると分析している。
     
     ラ米・カリブ33カ国は12月2~3日ベネズエラの首都カラカスで首脳会議を開き、米国・カナダの入れない「ラ米・カリブ諸国共同体(CELAC=セラック)」を創設する。来年はスペインのカディスで、第22回イベロアメリカ首脳会議が開かれ、ラホーイが議長を務めることになる。

     ラ米の団結があり、ラ米を歴史的に重視するスペイン外交がある。時代も、21世紀第2・10年期に入っている。ラホーイとしても、アスナールのような極右反共路線に簡単には乗れないはずだ。

(2011年11月23日 伊高浩昭執筆)

2011年11月21日月曜日

3・11 文明を問う (6の4)

ーーーーーー共同通信社編集委員室国際インタビュー企画18回連載記事紹介ーーーーーー

     10人目の登場人物は、米国人の「環境思想家」レスター・ブラウン氏(77)。「(福島原発事故であらためて現実問題になった)原子力のリスクは、現代文明が直面する多くのリスクのうちの一つでしかない。高騰続く穀物価格、増え続ける飢餓人口、国として体を成さない破綻国家増加という3つの傾向に注目している。地球の再生能力をはるかに上回る速度で天然資源を浪費することの上に成り立ってきた現代文明が、崩壊に向かい始めたことを示している」と、衝撃的な指摘をする。

     「持続可能でない水資源の利用、魚の乱獲、森林破壊など、地上のすべての資源で減少が目立つ。地球が吸収できない量の二酸化炭素を放出していることからも、今の経済は、いつか破裂するバブル経済、ねずみ講経済と言える」

     「人類はボートで川下りしながら、滝つぼに向かっているようなものだ。このままでは滝つぼに落ちる。一刻も早く、天然資源を浪費する文明から方向転換し、全速力で逆方向に漕ぎださねばならない。もしかしたら滝つぼはすぐそこにあり、手遅れかもしれないが」

     「21世紀の安全は軍事手段では確保できない。気候変動、穀物価格や食糧、水資源、人口増加などが安全を左右するからだ。この安全を脅かすものが何かを考えれば、新たな経済、新たな文明の在り方も見えてくるはずだ」

     「発展途上国の貧困を解消し、人口増加に歯止めをかけねばならない。原子力と化石燃料を早急に再生可能エネルギーと省エネで置き換えること。過剰な取水を規制すること」

     「引き返し可能な地点は、自然によって決められている。自分たちの文明が崩壊に向かっている事実に向き合うのは難しい。引き返しがまだ間に合うと確信する理由はないが、努力を放棄する理由もない」

     
     11人目は、韓国の詩人、鄭浩承(チョン・ホスン)さん(61)。東日本大地震の直後に、「日本よ、泣かないで」という詩を発表した。「被害者の涙が私の涙、私の隣人の涙のように感じられ、書こうと思った」

     「2004年のスマトラ沖地震の時は客観的な視点を持ったが、日本に対してはそうならなかった。なぜ自分が切迫感を感じたのか、深く考えてみたい」

     (大震災後の「日本は一つ」という雰囲気に新たなナショナリズムを感じないかとの質問には)「そうは考えない。軍国化に進むなら、それは退歩だ。日本は退歩するほど愚かではない」

     「韓国では、戦争、貧困、革命などを経て、他者への分かち合いよりは、自分を守る生存の方が大きかった。日本については戦後、戦争、分断、貧困がなく、富と安全と秩序を備えた暮らしをしていると考えられていた。しかし大震災を見て、人間の暮らしは同じで、絶望感も同じだという同質性、苦痛の同質性を感じた。だから韓国人は誰が言い出すというのではなく、自発的に日本を助けようという声を上げたのだ」


     12人目はインドの前大統領アブドル・カラム氏(79)。核兵器、ミサイル、宇宙開発に長年携わった科学者だ。「日本も含め世界の地震多発地域にある原発は直ちに耐震と津波対策を強化しなければならない。インドは04年のスマトラ沖地震で津波が押し寄せてきた経験を踏まえて、地震と津波に耐えられる原発を設計するようになった」

     「大事なことは、科学技術に不可能はないということを信じて努力すること。難問はいつでも生じるが、難問に主導権を握られるのではなく、科学者が主導権を握り、立ち向かわなければならない」

(2011年11月21日 伊高浩昭まとめ)

ルセフ大統領が署名

ーーーーーーブラジルのジルマ・ルセフ大統領は11月18日、「真実委員会」設置法と、公的情報接近法に署名した。両法は10月26日国会で成立していた。署名から180日後に発効する。
【本ブログ10月29日付「ようやく真実委員会」を参照されたい。】

    大統領は署名後、「我が国の歴史を汚した出来事が2度と再び繰り返されないために真実を知る必要がある」と述べた。また、南米南部軍政諸国間で、亡命していた政敵らを相互に逮捕し殺害した「コンドル作戦」の実態究明のため、アルゼンチンに協力を求めたいと述べた。

    さらに、「委員会には、制服組に報復する意図はない。若者たちに近過去の出来事を知らせるのが主な狙いだ」と強調した。「ブラジルを一層公平、平等、民主的な国にするために必要な、真実と記憶の構築をする」とも語った。

    大統領はまた、真実委員会が軍部や旧秘密警察の機密情報を調査できるようにするための「公的情報接近法」にも署名した。

    この調査が進展すれば、軍政が1979年にお手盛りで成立させ発効させた「恩赦法」を無効化することも可能と、人道犯罪被害者、遺族、人権団体などは期待している。

    ルセフ自身が、軍政時代にゲリラ活動をして逮捕され拷問されたが、性的暴行に遭った可能性があると指摘されている。

    1964年以降の軍政時代にわかっているだけで500人が殺された。拷問に遭った市民は数え切れないという。

    国連人権高等弁務官事務所は、ルセフの署名を歓迎し、礼讃した。

(2011年11月21日 伊高浩昭執筆) 


2011年11月17日木曜日

ノリエガ将軍22年ぶり帰国へ

ーーーーー1980年代のパナマで最高実力者だったマヌエル・ノリエガ退役将軍(77)がクリスマス前にパナマ市に戻ることが11月16日明らかになった。

       ノリエガ将軍はブッシュ米(父親)政権から敵視され、1989年12月、米軍の大規模な軍事侵攻で政権を追われ、パナマ市内のヴァティカン大使公邸に亡命したところを90年1月、米政府の圧力で引き出され、そのままマイアミに連行された。

       将軍は、コロンビアの麻薬組織「メデジンカルテル」と連携し巨額のコカイン密輸に関与したとして92年、禁錮40年の実刑判決を受けた。その後、30年、20年と減刑された。

       一方、フランスの法廷は、巨額の麻薬資金をパリで高級アパートを購入して洗浄したとして、将軍に禁錮7年の判決を下し、米国に身柄引き渡しを求めていた。

       将軍の身柄は2010年4月フランスに送られ、将軍はパリ郊外の刑務所に入れられた。だが今年9月、監視付きの保釈処分となった。パナマ政府は将軍の身柄引き渡しを要求しており、その審理がパリの法廷で始まっていた。焦点は、そこに移っていた。

       11月16日、米司法当局はパリの法廷に、将軍のパナマへの引き渡しに異議は唱えないと通告した。これによって最終的に、囚人としてではあるが将軍の帰国に道が開けた。

       23日には将軍のパナマ行きをめぐる法廷手続きが終わり、あとはパナマ・フランス間での身柄送還の準備だけとなった。パナマ政府は将軍の帰国に備え、厳戒態勢に入った。

       パナマには、72歳を超えた囚人は自宅軟禁処分にするという優遇措置がある。将軍は、該当する。だがパナマのリカルド・マルティネリ大統領は16日、滞在先のロンドンで、「家庭軟禁制度はあるが、収監されるだろう。しかし最終的には判事たちが決める」と述べた。

       パナマでは1985年に、ノリエガの政敵だったウーゴ・スパダフォラ(当時45)が暗殺され、ノリエガの関与が明らかになって、パナマの法廷は禁錮20年の実刑判決を下した。将軍は帰国すれば、この刑に服すことになるわけだ。
            ×                ×                ×

       1980年代からのノリエガをめぐる事件の背後の闇は深い。いずれ続報を書きたい。

(2011年11月17~24日 伊高浩昭)

2011年11月16日水曜日

元大統領の身柄引渡しへ

ーーーーグアテマラのアルバロ・コロム大統領は11月15日、アルフォンソ・ポルティージョ元大統領(60)の身柄を米司法当局に引き渡すのを許可した。一国の大統領経験者の身柄が他国に引き渡されるのは、極めて稀なことだ。
  
      ポルティージョ(2000~04年政権担当)は、台湾からの援助金250万ドル、グアテマラ国防省資金390万ドルなどを横領し米国の銀行を使って洗浄した容疑で、ニューヨーク検察から身柄引き渡し要求がなされていた。

      ポルティージョは大統領任期が終わった04年の2月、逮捕を逃れるためエル・サルバドール経由でメキシコに逃亡した。だが08年逮捕され、グアテマラに送還された。しかし12万5000ドルの保釈金を支払って仮釈放処分となった。

      ところが10年初め米当局の要請で逮捕状が出ると、カリブ海岸から海路、隣国ベリーズに逃走を謀った。だが北部海岸で逮捕された。政府も、総額1500万ドルの公金横領罪で訴えていたが、法廷は今年5月26日、ポルティージョの「無罪」の主張を認めて、無罪を言い渡した。

      典型的なインプニダー(無処罰)だった。

      だが最高裁は3ヶ月後の8月26日、米当局からの身柄引き渡し要求を受け入れ、コロム大統領に最終判断を求めた。コロムは、判断は次期大統領に任せるとして、引渡命令書への署名を避けていた。

      11月6日、大統領選挙決選投票で、オットー・ペレス=モリーナが当選した。次期大統領に決まったペレスは、ポルティージョの身柄引き渡しに賛成した。これによりコロムは署名に踏み切った。

      引渡決定はある意味で<英断>かもしれないが、もとはと言えば、グアテマラの法治性が体をなしておらず、無処罰がまかり通ってきたためだ。法治能力に欠けるため、国家としての恥を忍んで、厄介者を引き渡さざるを得なくなったわけだ。
              ×           ×             ×
      私はポルティージョが大統領として来日した折、あるパーティーで会話した。その後、彼の施政4年間に公金5億ドルが横領された、との数字も出ている。ポルティージョとの束の間の時間も、後味の悪いものになった。

(2011年11月16日 伊高浩昭)

3・11 文明を問う (6の3)

ーーーーーー共同通信社編集委員室インタビュー企画18回連載記事紹介ーーーーーー

    7人目の発言者は、タイ人映画監督アピチャッポン・ウィーラセタクン氏(41)。2004年、「トロピカル・マラディ」でカンヌ国際映画祭審査員賞を受賞した。

    「この悲劇(東日本大地震)を通じて自然は、非常に重要な信号を世界中の人々に送った。<母なる自然>は人々を温かく抱擁する理想的な母でありながら、時には怒り、破壊する」

    「インターネットやテレビの映像で、世界中の人々が瞬時にして自然の破壊力を知った。世界中から日本への支援が送られたのも、自然が触媒になり人々を結びつけたからだろう」

    カンヌでの受賞時、「世の中が西欧的、ハリウッド的に染まるなか、物の見方がまるで違う世界もあるのだ、ということを教えてくれた」と評された。

    08年のリーマンショックについては、「起こるべくして起きた。格差や不平等を放置してきたからだ。人を最優先する思想が必要だ」

    「経済発展を早期に達成したが、非常に大きな人権問題を抱えている中国のシステムは、新たな発展モデルとしては機能しない。人権という自然な価値を求める人々の力がいつか示され、中国も変わらざるを得なくなるだろう」

    「従順さのレベルが日本では非常に高い。だが震災後、政府に怒りをぶつけられないことに居心地の悪さを感じている日本人がたくさんいることがわかった。いつもきちんと列に並び、豊かな文化をもつ人たちがなぜ窒息しそうだと感じるのか、理解できない。従順だった社会が深いところで変わっていく様子を撮ってみたい」


    8番手は、米国人作家レベッカ・ソルニットさん(50)。世界の被災地を訪れ、市民が連帯や共助の素晴らしさに気づき、無能な政府を倒すことさえある。そのような状況を取材し書いてきた。

    「関東大震災時に朝鮮半島出身者が殺害された。そんなパニックは、慌てた警官や行政官が起こすのだ」

    「市民は、復興は自分たちでやった方がよいと立ち上がる。政権や政権党がいかに機能しないかが暴かれ、市民は自信をもつ。一方、政治エリートは失った行政権限を取り戻そうと戒厳令を敷き、市民を再び管理下に置こうとする。メディアもエリートの一員として現状維持に力を貸す」

    「(大災害を経験した)日本では目覚ましい変化がいずれ起きるだろう。どんなものになるのか想像できないが、世界は今、日本に注目している」


    9人目は、台湾南東部の離島・蘭嶼に住む先住民族タオ人の漁民作家シャマン・ラポガン氏(53)。自給自足の暮らしをしながら、書きつづける。

    「若者はモーターボートに乗り、夜の海を怖がる。海と闘いつつも愛するという海との親密な関係からは程遠い」

    「海は自然の冷蔵庫だ。中には魚がいて、腐ることがない。われわれは海と友だちになり、必要なものをもらう。すべての国が底引き網漁をすれば、魚はいなくなってしまう」

    「年とともに体力も衰えてきたが、やっぱり潜りたい。海は魚がいて美しく、豊かな情感や知識をくれるからだ」

    台湾では3つの原発・計6基が稼働している。日本の援助で第4原発の建設も進んでいる。2つの既存の原発は台北から20キロ圏内にあり、事故の際、速やかに避難できるかどうかが問題になる。

   故郷の蘭嶼には、核廃棄物貯蔵所がある。「福島原発には1987年に行ったことがある。台湾電力がタオ人を視察に招待した。蘭嶼の貯蔵所は安全だ、と宣伝するためだった」

   「海の汚染が心配だ。台湾政府はタオ人をだまして核廃棄物を蘭嶼に置いた。貯蔵所移転のに向けて努力している。だが島民の危機感はとても弱い」

(2011年11月16日 伊高浩昭まとめ)

映画『汽車はふたたび故郷へ』

★☆★☆★グルジア人で、1979年以来フランスに住むオタール・イオセリアーニ監督(1934年生まれ)の2010年の作品。原題「シャントゥラパ」。仏グルジア合作。126分。字幕翻訳・寺尾次郎。

    来年2月18日(土)、岩波ホールをはじめ、全国の映画館で順次公開される。(私は11月15日、東銀座での試写会で観た。) 

    原題を、冊子に登場する評者たちは「歌えない人」、「社会の枠組みのなかでうまく生きていけない人」、「役立たず」、「跳ねっ返り」、「屈しない人」などと訳している。監督自身は、冊子に載っているインタビューのなかで、「役立たず」、「除外された人」の意味だと説明している。実存的アウトサイダーを指しているのは疑いない。

    2時間を超える映画だが、長さを感じさせない。作品に吸い込まれてしまうからだ。旧ソ連の小さな構成国グルジア(現在は独立国)のひなびた光景、美しい和声の歌、老人の群、世代間の融合と隔たり、弾圧、無理解、酒・たばこ、絶望と希望などが、画面の印象として残る。

    愛の存在の奥ゆかしい示唆はあっても、あからさまな愛の表現は一切ない。総じて、重たさのない重厚な作品だ。登場人物たちは、感情は豊かだが感傷には乏しい、気取らないハードボイルドばかりだ。

    邦題が示すように、主人口である若い才能ある映画監督ニコラスは、祖国グルジアで弾圧され、フランスに亡命させられて、古びた列車でパリに行く。そして映画を作る。だが作品は一般受けしない。監督は、風変わりな若者と見なされる。祖国では弾圧、亡命地では無理解に遭った。

    そこで再び、故郷に帰る。だがソ連解体後で、祖国は高層アパート群の建設まっただ中、すっかり世変りしていた。

    ニコラスはパリに出る以前、グルジアでソ連時代の秘密警察KGBに拷問される。パリでは映画人たちから「KGBって何だ?」と、皮肉っぽく問いかけられる。ニコラスは、その場を離れてしまう。

    ここに、東西冷戦中の「鉄のカーテン」を挟んだ「無理解」が描かれる。だがイオセリアーニは勧善懲悪を用いない。西側にとっては<絶対悪>の一つだったKGBも、強者の犬でありながら、運命に翻弄された人民だった、との解釈があるからだろう。

    厚く危険な「鉄のカーテン」を、ニコラスの放つ伝書鳩はいとも簡単に超越してしまう。鳩は、「カーテン」の両側には、体制こそ異なるが、人間性はあまり変わらない人々がいるのを知っている。ニコラスもイオセリアーニも、鳩がひとっ飛びで得る知識を、長い時間をかけて修得したのだ。

    映画には、カリブ海諸島の黒人系混血娘を思わせる<人魚>が2度登場する。1度目には水面に笑顔を現し、2度目はクライマックスで、ニコラスの手を取り水中を泳ぎ去っていく姿がしばし描かれる。

    再会した家族と故郷の田園にピクニックをしにいったニコラスは、鱒のような川魚を釣っている最中に、かの不思議な人魚によって水中に引きずり込まれるのだ。

    そのまま人魚に誘(いざな)われて、グルジアでもなく、パリなど西側でもない、異郷に向かって消えていく。弾圧も無理解もなく、作品が正当に評価される別天地に向かって去っていったのだろうか。

   あるいは、イオセリアーニは、若き日の自分自身をある程度投影させたニコラスに、自分の半生よりも、ずっと素晴らしい人生を送り、もっと優れた映画を創ってほしいと、願望を込めて人魚を登場させたのではないか。

   否、(映画という価値を超えた領域に目をやって)、映画監督にならなければ、どんな人生を歩んでいたのだろうかと、人生の「未知の選択肢」を思い描いたのではなかったか。

(2011年11月16日 伊高浩昭)

2011年11月15日火曜日

核戦争の危機を警告

ベネズエラのウーゴ・チャベス大統領は11月13日、支持者を前に演説し、「中東危機は深まり、世界人民にとって脅威となっている。米国とNATOは、カダフィ殺害に次いで今や、アサド・シリア政権への攻勢を強めている。欧米はシリアに破壊活動分子を送り込んで、暴動・流血・殺害を拡大させている」と、欧米を強く非難した。

        同大統領は14日には、ラジオ・テレビの全国中継放送を通じて、次のように指摘し、国際社会に注意を喚起した。

        一つ、米国は、欧州およびイスラエルと共謀して、イランとの紛争を起こそうとしている。この瞬間にも、中東に核戦争の危機が迫っている。

        一つ、バラク・オバマ(米大統領)は、イラクとアフガニスタンでの戦争を終わらせると公約していたが、新たな戦争を起こして公約を破れば、自らを敵に回すことになる。

(2011年11月15日 伊高浩昭 )

米・イスラエル・NATOを非難

キューバのフィデル・カストロ前国家評議会議長(85)は11月13日、新聞コラム「省察」で、欧米イスラエルの対イラン圧力で緊迫化している中東危機について論評し、戦争勃発の危険性を警告した。

       一つ、イランが侵略されれば、同国の戦闘能力、人口の大きさ、国土の広さから、血みどろの戦いが起きるだろう。それはイスラエルが、1981年、2007年にそれぞれイラクとシリアの原子炉を爆撃して破壊した時の冒険主義とは比較にならない甚大さを伴うはずだ。

       一つ、イスラエルは核保有国であることを認めないが、200~500発を保有していると見なされている。核を保有しているからこそイスラエルは、帝国主義と植民地主義の道具としての役割を中東で果たすことが可能になっている。

       一つ、今、懸っているのは、中東の人々が自由で平和に生きる正当な権利であって、イスラエル人のそれではない。

       一つ、国連と国際原子力機関(IAEA)は、イスラエルが米国とNATOの支援を得て冒険した事実を知っている。イスラエルが今またイランを攻撃しようと意図しても、不思議はない。

       一つ、いかなる国も核兵器を保有してはならない。原子力は平和利用だけに供されねばならない。この精神がなければ、人類は容赦なく自滅に追い込まれるだろう。

(2011年11月15日 伊高浩昭)

2011年11月14日月曜日

書評『百年の孤独を歩く』

スペイン語文学者で翻訳家の田村さと子(1947年生まれ)が、1985年に知己になって以来、親交を保ってきたコロンビア人ノーベル文学賞作家ガブリエル・ガルシア=マルケス(GGM)の代表作『シエン・アニョス・デ・ソレダー(邦題「百年の孤独」、本来は「孤独の百年」)』の物語の舞台を訪れる文学探訪記。2011年4月、河出書房新社から出た。2400円。

      GGM好きには堪えられない<旅日記>であり、とりわけGGM夫妻、親族らから友人として扱われてきた著者をうらやましがる向きもあるだろう。

      カリブ海に突き出したグアヒーラ半島にワユー民族を訪ねるくだりは、とくに興味深い。ワユー社会ではいざこざが起きると、仲介者が双方の話を聞き、過去の対立の歴史などを話して聞かせ、いざこざを解決する。その仲介者を「多弁家」と紹介しているが、ここは「語り部(アブラドール)」とするのがいいだろう。マリオ・バルガス=ジョサ(MVLL)の『密林の語り部(エル・アブラドール)』と同じような立場の賢者なのだ。

     著者は後書きで、GGM夫妻に親しくしてもらっているがゆえに、GGMや夫人の私生活面にはできるだけ触れないことにしている、と書いている。当然の配慮だろう。本書にGGMの挨拶文や推薦文の類がないのが好ましい。

     だが著者は、「私は自分を唯美主義者だと思っている。それは、表現が美的になるよう心を砕くことを意味する。文体を模索してさんざん苦しむ」など、GGMに貴重な発言をさせている。

     著者は、コロンビア行脚の行く先々で、左翼ゲリラ、極右準軍部隊(パラミリタレス)、麻薬組織、軍・警察部隊が入り乱れて戦う状況に遭遇し、そのことを記している。ならば、GGMに、そのような状況について一言語らせればよかった。この点は惜しまれる。

     GGMが南米人であるよりもカリブ人であるという、日本人には気づきにくいイデンティダー(認同、アイデンティティー)を、作品や風土から指摘し、強調しているが、完全に的を射ている。

     難点を指摘すれば、『百年の孤独』に登場するアウレリアーノ・ブエンディーアの名前が「アウレリャノ」となっていることだ。そのように耳に聞こえて訳した者がいるとして、それに倣ったのかもしれないが、正確さが必要だ。

     GGMを「マルケス」している箇所が多いが、「ガルシア=マルケス」とするのが正しい。バルガス=ジョサの場合も「ジョサ(ないしリョサ)」とすれば不完全だ。もし「マルケス」を使うならば、「父方姓ガルシアまで書くと長すぎるから、便宜上、母方姓マルケスだけを書く」などの注意書きを添えるのが、読者にとっては親切だろう。

     そうしないと日本人読者いつまでも中途半端な理解しかできなくなる。

     また、本書の冒頭でGGMの愛称を「ガボ」と書きながら、「ガブリエル」という肝心の名前は、かなり後の方になるまで書いていない。「ガボ」が「ガブリエル」の愛称であるのが、スペイン語の知識のない読者にはわかりにくいはずだ。

     しかし、GGM好き、ラ米好きならば、こんな短評は脇に置いて、本書を読むのが先決だろう。

(2011年11月14日 伊高浩昭)

3・11 文明を問う (6の2)

----共同通信社編集委員室インタビュー企画18回連載記事紹介ーーーー

     4人目の登場人物は、ことし6月下旬、4度目の来日を果たしたノーベル文学賞作家マリオ・バルガス=ジョサ氏(75)。ペルー人で、スペイン国籍ももつ。

    「東日本大震災は、世界が注目する大惨事だ。作家は常に自分の時代に立ち向かわなければならない。文学は人間を目覚めさせ、常に正義と進歩を目指す。作家は文学を通じて行動する」

    (福島事故を契機に近代化を反省すべきかと訊かれて)「近代化に背を向けるべきではないが、進歩には危険性もある。物質主義は感情、感受性、個人精神を破壊し、専門外の人間との対話を奪い、非人間的な社会をつくる。物質的進展と豊かな精神性を調和させなければならない」

    「近代化は小さな文化を消しがちだが、小さな文化は全球(グローバル)化に対する重視すべきもう一つの原則を示す。それは震災で問われている自然との関わり方、自然への畏敬を教えてくれる。伝統文化は近代化の障害ではなく、われわれ人類の財産なのだ」

    「原発は、自然に挑戦するリスクが大きく、文明が破壊される恐れがある。このエネルギー源を拒否し、リスクのないものを世界は協力して創るべきだ。文学、ジャーナリズムは議論を起こそう。福島の教訓を世界はないがしろにしてはならない」

    「これからは文学、美術、音楽など、人間の在り方を示すものが役割を果たす。日本は、物質主義でない市民文明を創る今後の闘いでも模範となってほしい」

[MVLL(マリオ・バルガス=ジョサ)来日時の伊高執筆記事は、月刊『ラティーナ』誌2011年9月号および、『週刊金曜日』誌10月7日号を参照されたい。]


    5番手は、「平和研究の父」と呼ばれるノルウェー人政治学者ヨハン・ガルトゥング氏(80)。
    
    「日本の原発の多くは海浜にある。科学者たちは、地震や津波への警戒を政府や電力会社になぜ警告しなかったのか。この点に怒りを覚えた」

    「日本は、クリーンエネルギーに転換できる地熱、地中の熱水が豊富だ」

    「原発からの転換には莫大な初期投資が要る。21世紀の終わりには実現できるのではないか。エネルギーの歴史を考えたとき、福島は世界の象徴になる」

    「広島・長崎の原爆は米国が投下した。では、福島原発事故は誰の責任か。日本は、それを考えるべき重大な機会にある」

    「日本は米国の要求に対して常に抵抗しない。日本は、対米同盟関係から本当の意味での独立を果たさなければならない」

    「現代は全球主義(グロ-バリズム)でなく、地域主義の時代だ。欧州連合、アフリカ連合、東南アジア諸国連合などが機能している。日本は米国との良好な関係を維持しつつ、東アジアでの非軍事共同体の結成を目指すべきだ」[感想ならぬ一言:そして南米諸国連合(ウナスール)も機能している。]

    「原爆の被害者であり、(植民地支配の)加害者でもある事実を受け止めて行動する指導者が日本には必要だ。(南京大虐殺などをめぐる)議論があろうが、悪いことをしたという自覚が前提になければならない。加害者には、行為に及んだ理由を伝える権利がある。被害者には、それに反論する権利がある」


    6人目は、ノーベル平和賞受賞者でケニア人のワンガリ・マータイさん(71)。環境保護政策の指導者だった。

    「われわれは自然の力に対して謙虚になるべきだ。人類は自然の最上に位置していると思いがちだが、自然の力はわれわれを簡単に打ちのめす」

    「技術や能力のない途上国が原発を導入すれば、自国民だけでなく人類を危険にさらす。原発には<発展ぶり>を誇示したがる政治家の自尊心を満たす魔力がある。こうした力に寄り掛かる人々を止めよう」

    「アフリカには水力発電に適した大河がたくさんある。コンゴ川が活用されれば、アフリカ全土を賄うエネルギーを得ることができる」

    「人類は(大自然の破壊、気候変動などを)警告されながら何もしてこなかった。すぐ忘れてしまう。だが忘れることは、ある面ではいいことかもしれない。人類は忘れなければ立ち上がることができいないのかもしれない」

[感想:マータイさんは、このインタビュ-記事が紙面に載っていた時期の2011年9月26日、癌で死去した。日本人の「もったいない」の思想を国際社会に広めようと努めた賢者だった。「もったいない主義」も、MVLLの言う「小さな文化」である。]

(2011年11月14日 伊高浩昭まとめ)

2011年11月13日日曜日

3・11 文明を問う(6の1)

共同通信社編集委員室の杉田弘毅記者ら編集委員グループは、東日本大地震・東電福島第1原発大事故を受けて、「3・11 文明を問う」というインタビュー特集記事の執筆を企画し、6月から10月にかけ18回続きとして、全国の加盟新聞社に配信した。世界のさまざまな知識人が登場する。発言は極めて興味深い。今日から6回にわけて、内容を紹介する。
              ×               ×                ×
     最初の登場人物は、ゲアハルト・シュレーダ前ドイツ首相(67)。2002年に、原発を2020年代までに全廃する脱原発法を成立させた。同氏は語る。

     「チェルノブイリ事故が起きた1986年の8月の社民党大会で、原子力に代わる新技術の導入と、大手電力会社の合意を条件に脱原発を図ることを決議した。電力会社の反対はすごかった。同意しなければ法的に強制する、と通告した。だが合意獲得が好ましかったため、原発停止までの猶予期間を容認した」[感想:これぞ政治家というものだろう。]

     「欧州連合や日本は、エネルギー需要を満たすため<3つの音>を重ねて和音をつくる必要がある。1つは風力、太陽光、バイオマスなどの再生エネルギー。二つは省エネ。三つは、脱原発までの過渡期の技術として、気候変動への影響が少ない天然ガスなどを利用すること。日独は技術先進国として省エネの先導役となるべきだ」

     「再生エネルギーの発展が期待できるため、中長期的に見れば脱原発は経済的だ。短期的には電力料金の上昇が考えられるが、省エネでこれを抑制できる」

     「原発のない世界は可能かという質問自体が、2050年には笑われてしまうはずだ。サハラ砂漠からの送電計画などは当たり前になる」

     ドイツの企業連合は、サハラ砂漠などに、鏡で集めた太陽熱で蒸気を発生させる太陽熱発電所網を張り巡らせ、欧州に送電して、2050年までに欧州の電力需要の15%を賄う計画を打ち出している。

     2人目の登場人物は、ブラジルのルーラ前政権で環境相を務めたマリーナ・シルヴァ氏(53)。東日本大地震発生を知って真っ先に浮かんだのは、「賢人は他者から学ぶ。自分の失敗からさえ学べない者は愚かすぎる」ということだったという。[感想:まさに日本人が批判されている。]

     「政府は原発についてすべてを開示し、原発が与える地球全体への影響を考えつつ、国民と議論しなければならない。透明性がなければ、震災の教訓を生かせない」  

     「ブラジルでは30年以上も前に砂糖黍をアルコール化する計画を始め、代替エネルギーを開発した。現在、エネルギーの45%が再生可能だ。日本も国を挙げて再生可能で安全なエネルギー開発に投資すべきだ」

     「ブラジルの研究では、風力は原発より約2割安いコストで同じ量のエネルギーをつくることができる。水力と太陽光の可能性を秘めるブラジルに原発は不要だ」

     アマゾニーア(アマゾン川流域)の密林に育ったシルヴァは、限界が見える「北」の先進国の開発モデルでない「新しいモデル」を模索している。「人類は今、文明の岐路に立つ。判断を誤れば自滅する。前例のない転換点だ」

     3人目の発言者は、ゴルバチョフ・ソ連政権で外相を務め、ソ連消滅後にグルジア大統領も務めたエドゥアルド・シェワルナゼ氏(83)。「(チェルノブイリ事故のような)国家的危機の際の政治指導者の責任は、国民に真実のみを語ることだ」。回想録で「あの時、真実を求める戦いに負けた」と、強い自責の念を告白している。 [感想:日本の指導者は東電に丸め込まれた、という印象が強い。]

     「チェルノブイリ事故はソ連崩壊の直接の原因ではなかったが、一つの要因ではあった。ペレストロイカ(改革)の真価が問われる最初の試練だった。ゴルバチョフは事故を、グラスノスチ(情報公開)の推進に使った」

     だが、「人類は原子力に勝るものをまだ見出していない」として、今は原発の安全性向上が重要という立場をとる。

     大事故発生時に情報を公開できるかどうかは、政府の力量次第だ。「国民に真実のみを語ることだ」という氏の指摘は、福島事故で情報隠しを批判される日本政府にとって思い意味を持つ。

(2011年11月13日 伊高浩昭まとめ)

2011年11月12日土曜日

学生が政府に勝利

          
    
     コロンビアのサントス政権は、財政破綻に直面している国公立大学の民営化を促進し、産学協同の一層の強化を促す「上級教育法案」を10月3日国会に提出していた。

    だが、大学生を中心とする全国的な抗議行動に遭い、法案を11月11日撤回した。

    大学生、その予備軍(中等学校生=高校生)、教職員、父兄、労組は、「知識の商業化」を方向づける法案に反対し、10月から全国で抗議行動を7度展開、うち3回は大規模動員だった。

    学生は「全国学生拡大会議(MANE=マネ)」を組織し、10月12日ストライキに突入した。

    11月10日には、首都ボゴタの15~20万人をはじめ、全国で200万人の動員に成功した。
これを予知したフアン・サントス大統領は前日の9日、学生側がストを止めれば法案を撤回する、と約束したが、撤回して「誠意」を示した。

    MANEは12~13両日、ストを解除するか否かを議論した。その結果、①政府は法案撤回手続きを完遂する②政府は白紙状態に戻って学生と上級教育改革案について話し合う③政府は抗議行動の自由を保障するーの3点をスト解除の条件として政府に提示した。

    結局、16日、法案撤回手続きが終了したのを受けて、ストを解除した。

    大学授業料は学生負担は増えつづけている。私学の場合、学生の負担は年間1万ドルに及ぶ。教育予算は伸びず、大学の負債は増え続け、学生の苦境は深刻化した。

    最低賃金は月額300ドル。親たちの多くは学資を払えない。中等学校生の37%しか大学に進学できず、うち45%しか卒業できない。

    学生の多くは、アルバイトをしつつ、「学生融資」を受けざるを得ない。進学者の過半数が、融資の返済で行き詰まり、単位も取得できず、大学を去っていく。

    法案は、大学が社会変革の基盤になるのを妨げ、少数富裕層を頂点とする伝統的支配階層の天下を維持するのに都合のいい学生をつくるのを狙いとしている。そう大学人は批判していた。

    MANEは、全国での大動員は、富裕層・支配層の意見を伝えるのに忙しいマスメディアが当てにできないためでもあると、はっきり語っている。メディアの社会的責任も問われている。

    大統領は法案を撤回した。新自由主義教育の荒廃が拡がるコロンビアで、学生たちは<革命的な>勝利を記録した。

    チリの学生も4月から、政府の新自由主義教育政策を変えさせようと闘ってきた。だが、ピノチェー軍政以来、新自由主義が広く深く浸透しているチリである。政府は譲歩しない。スペインの学生も同様の闘いを続けている。

(2011年11月12~17日 伊高浩昭)

2011年11月11日金曜日

法王がキューバ訪問へ

          
           バティカンは11月10日、法王ベネディクト16世が来年キューバを訪問する、と発表した。

    キューバの守護神「聖母カリダー・デ・コブレ」出現400周年に合わせての訪問。訪問時期は明らかにされていないが、3月後半の可能性があるという。

    キューバでは、400周年祭に向けて、8月8日から12月30日まで、聖母像の全国行脚が行なわれている。

    前法王・故ヨハネパウロ2世は1998年1月、法王として初めてキューバを訪問し、フィデル・カストロ国家評議会議長(当時)と対話した。法王は、「世界がキューバに開き、キューバも世界に開くべきだ」と働きかけた。

    フィデルには、ソ連圏崩壊で共産主義への信頼もついえてキューバ人の心に生じた空洞を、革命前から存続していたカトリック信仰で埋めようと、法王を招いた。

    同時に、東西冷戦後の時代にキューバが生きる道は、国際社会と広く関わる以外にないとの認識から、法王の影響力を期待した。

    一方、法王には、フィデルの<全球的社会正義>に耳を傾けることによって、猛威を振るっていた弱肉強食の新自由主義の<不正義>を国際社会に訴える思惑があった。 

    2008年に就任したラウール・カストロ議長は、カトリック教会との対話を推進し、フィデル時代に捕えられていた反体制派(もしくは反革命派)の囚人たちを釈放した。

    ハバナ大司教ハイメ・オルテガ枢機卿は最近、「囚人釈放は終わった」と述べ、法王来訪の可能性を示唆していた。

    反体制派は、来訪する法王に「キューバの民主化」促進を直訴しようと準備を始めた。

    法王は、キューバ訪問時に、メキシコも訪れる。現法王のラ米訪問は、07年のブラジル訪問に次いで2度目。コロンビア・カリブ海岸のカルタヘーナ市に立ち寄る可能性もあるという。 

(2011年11月11日 伊高浩昭)

2011年11月10日木曜日

アンデス諸国共同体首脳会議

       
              アンデス諸国共同体(CAN=カン)に加盟するボリビア、エクアドール、ペルー、コロンビアの4カ国大統領が11月8日、コロンビアの首都ボゴタで首脳会議を開いた。

   エクアドールのラファエル・コレア大統領が、コロンビアとの貿易の著しい不均衡を理由にCAN脱退の可能性をほのめかしたため、急遽開かれた。

   コレアによると、今年1~8月のコロンビアへの輸出は6億6600万ドル、同国からの輸入は14億5700万ドルだった。

   会議の議長を務めたコロンビアのフアン・サントス大統領が、事前協議で不均衡是正を約束したため、会議は穏便に進んだ。コレアは、満足の意を表した。

   CANの公式首脳会議は、08年から開かれていなかった。4首脳は、今後年1回開くことで合意した。また、CANと南部共同市場(メルコスール)との関係強化を図ることを決めた。

   ボリビアのエボ・モラレス大統領は、「コロンビアの前政権の下では訪問できなかったが、サントス大統領になって信頼関係を築くことができた」と表明した。

   ペルーのオヤンタ・ウマーラ大統領は、記者団から、コロンビア軍によるFARC最高指導者アルフォンソ・カノの掃討について意見を求められ、「コロンビアの内政問題だ」と返答を避けた。

   CANは1969年、「アンデス条約(機構)」として6カ国で発足した。だがチリがピノチェー軍政時代に脱退し、ウーゴ・チャベス大統領のベネズエラも06年、ペルーとコロンビアの対米自由貿易協定交渉開始を嫌って、脱退した。

   4カ国の合計人口は9700万人。2010年の域内貿易は78億ドル。今年は90億ドルに達する見込み。ボリビアとエクアドールは、チャベスが盟主の「米州ボリバリアーナ同盟(ALBA=アルバ)」に加盟している。

(2011年11月10日 伊高浩昭)

2011年11月9日水曜日

キューバ革命軍相決まる

ラウール・カストロ国家評議会議長(上級大将、初代革命軍相)は11月8日、第3代革命軍相(国防相)に、これまで第1副革命軍相だったレオポルド・シントゥラ=フリーアス大将(70)を任命した。9月3日に第2代革命軍相フリオ・カサス大将が心臓発作で死去して以来、空席だった。

   革命軍相は、カストロ体制にとって国防だけでなく、内相と並ぶ治安の要。それだけに2カ月に及ぶ空白期間が、「権力闘争の存在」など、憶測を呼んでいた。後任第一候補である第1副相の地位にあったシントゥラだが、「ラウールよりもフィデルに近い」と見なされてきた。

   だが11月5日、サンティアゴ市郊外の東部第二戦線霊廟で、カサスの納骨式が行なわれたことから、シントゥラの任命は間近と見られていた。革命戦争中、第二戦線はラウールが指揮した拠点で、カサスは側近だった。この霊廟には、ラウールと親友だったスペインの舞踊家アントニオ・ガデスも眠っている。

   シントゥラは1957年、マエストラ山脈でゲリラ戦を指揮していたフィデル・カストロの元に16歳で馳せ参じ、少尉として59年1月のハバナ入城を果たした。キューバ軍事学校を卒業し、モスクワに留学した。

   エティオピア戦争(78年)では戦車部隊を指揮した。南アフリカ軍相手のアンゴラ戦争では、最前線で戦闘部隊を率いた。89年処刑されたオチョア将軍の後任として西部軍団司令官。91年から共産党政治局員。98年「キューバ共和国英雄勲章」を受賞。08年10月から第1副相を務めていた。革命戦争以来の「歴戦の兵(つわもの)」である。

   一方、後任の第1副相には、アルバロ・ロペス=ミエラ大将(68)が就任した。従来からの総参謀本部長を兼任する。やはりエティオピアやアンゴラで戦い、共和国英雄。政治局員。

        ロペス=ミエラ大将は、ラウールの子飼いと見なされている。実働部隊を取り仕切る総参謀本部長を兼務することは、遠くない将来、本命として革命軍相に納まる可能性を示唆する。 
(2011年11月9~14日 伊高浩昭)

米国と関係正常化で合意

   ボリビアと米国は11月7日ワシントンで、関係正常化のための「相互尊重・協力に基づく両国関係の枠組み合意」に調印した。

   両国関係はボリビアで2008年9月、反政府農民暴動が起きた際、エボ・モラレス大統領が「背後に米大使の陰謀があった」として、当時の米大使を追放し、極度に悪化した。モラレスはさらに、米DEA(デア=麻薬捜査局)代表らを「陰謀加担」で追放し、DEAとの関係を絶った。

   これに対し、当時のブッシュ米政権はボリビア大使を追放し、アンデス諸国向けの特恵関税制度のボリビアへの適用を停止した。

   以来、両国関係は、臨時代理大使級に格下げされたままになってきた。

   米国に09年オバマ政権が登場すると、交渉機運が生じ、両国は関係正常化の交渉に入った。

   調印された「合意」は、大使早期着任、麻薬取締協力、通商促進、人間・経済・社会・文化の持続可能な開発、などを謳っている。両国合同委員会を新設するが、同委が「合意」の実施を保障・検証することになるという。

   モラレスは8日、訪問先のコロンビアの首都ボゴタで記者団の質問に答えて、「前の米大使は内政干渉をした。米国はボリビアに対し歴史的に初めて、ボリビアの主権と憲法を尊重すると約束した。相互尊重の合意が成り、ボリビアが従属する関係は終わった」と述べた。

   米国務省は、「合意を基に、関係の全面的正常化を図りたい」と表明した。この「全面的」の言葉に、DEAボリビア事務所を再開させたい思惑が含まれているのは疑いない。

   これについてモラレスは、「DEAはかつてボリビアで警察と軍を指揮していた。私も、その犠牲者だった。だが、そのようなことも終わった」と述べ、「DEAが戻ってくることはない」と言明した。

   DEAはかつてコチャバンバ郊外に、麻薬栽培地とコカイン製造工場の摘発を主目的とするボリビア警察特別機動部隊の基地を置いていた。そのころモラレスは、コカ葉栽培農民労連の代表だったが、多くの栽培農が警察機動部隊により殺され傷つけられた。モラレスも常に監視されていた。「犠牲者だった」との発言は、一連の迫害を指す。

   ラパスで留守を預かっていたアルバロ・ガルシア副大統領も8日の記者会見で、「DEAは不要であり、戻ってこない。ボリビア軍と諜報機関が麻薬取締の役割を十分に果たしている」と語った。政府は09~2011年に、コカ葉不法栽培地2万5000hrを摘発した、と明らかにしている。
       ×                   ×                  ×
   私は1990年代半ば、コチャバンバのモラレスの事務所で彼にインタビューし、労連の案内で、コカ葉栽培の中心地チャパレ地区を取材した。その翌日、警察機動部隊の軍用ヘリコプターに乗り、同部隊が地上と上空から栽培農を弾圧する光景を機内から取材し、かつ見守った。

   地上では機動部隊が栽培農に向けて水平発砲し、ヘリコプターは栽培農に対し催涙ガスを執拗に投下していた。栽培農が手にしていた武器は、マチェテ(山刀)、鍬、棍棒などだった。

   翌日、ラパスの新聞には、この弾圧で数人が死亡し、負傷者も出た、と書かれていた。

   私は、機動部隊の共犯者だったかのような気持になり、取材記者の<業(ごう)の深さ>に、鬱鬱としたものだ。ボリビアは取材の思い出の多い国だが、悔恨を伴って真っ先に思い出されるのは、あのヘリコプター取材をした苦々しい一日の情景だ。

(2011年11月9日 伊高浩昭)   

2011年11月8日火曜日

書評『チェ・ゲバラ-最後の真実』

   ブラジル在住のボリビア人医師にしてジャーナリストのレヒナルド・ウスタリス=アルセ(1940年生まれ)が40年の調査取材を積み重ねて書き下ろした労作。原題は『チェ・ゲバーラ 生と死および神話の復活』(2008年)。服部・石川共訳。2011年7月、ランダムハウスジャパン刊、2200円。

   この本の最大の価値は、チェのゲリラ部隊がボリビア軍と戦闘し殲滅されたアンデス前衛山脈の渓谷地帯ニャンカウアスー地域について、「チェは、同地域でゲリラを訓練した後、同地域を兵站(補給基地)として維持し、200km北方の別の地域で戦闘するつもりだった」との証言を得た点にある。

   証言者は、チェの側近中の側近だったキューバ人ゲリラ、ハリー・ビジェガス(暗号名ポンボ、後にキューバ革命軍少将)ら、実際にボリビア遠征に参加した側近たちである。だが「200km北方の地域」がどこなのか明記されておらず、この点が画竜点睛を欠く。実に惜しい。

   捕虜になった翌日、チェは殺害され、両手は切断されホルマリン漬けにされた。指紋照合のためと、米政府の諜報・謀略機関CIAから要請されて、ボリビア軍政が医師に切断を命じたのだ。

   CIAはチェの頭部も切り取るよう要請したが、医師は「キリスト者として受け入れられない」と拒否し、代わりにデスマスクをとることにした。ところが型をとる材料がなかったため、急遽、蝋燭を買い集め、これを鍋で煮て獣脂を採り、これを固めてデスマスクをとった。

   チェの祖国アルゼンチンの登録所に残されていた指紋と照合して、チェであることが確認され、両手は不要になった。これを当時のボリビア内相アントニオ・アルゲダスが、デスマスクとともに保管することにした。

   このエピソードを掘り起こした点も価値がある。

   ここから先は私が書こう。チェの両手は内相を通じてキューバに渡された。チェ没後30年の1997年、チェの両手のない遺骨が地中から掘り出され、キューバに帰還した。その遺骨は両手の骨と再会し、一つの箱に入れられ、キューバ・サンタクララ市のチェの霊廟に納められた。デスマスクについて言えば、CIAはデスマスクは特に必要としていなかったはずだ。狙いは別のところにあったと思われるが、説明が長くなるので、敢えて触れない。

  本書の難点は、チェがボリビア遠征前の1966年のある日、友人に別れる際、「アスタ・ラ・ビクトリア、シエンプレ(勝利の日まで、常に)」と言った、と書かれているところだ。

  この言葉は、チェの「別れの手紙」の末尾に登場したのが最初だが、実はチェ自身が書いた言葉ではなく、フィデル・カストロが、手紙の最後の数行の文章を書き換えて作った言葉だった。

  この経緯については、イグナシオ・ラモネ著『フィデル・カストロ みずから語る革命家人生』(伊高浩昭訳、2011年、岩波書店)下巻の「解説」を参照してほしい。

  チェが、自分で作った革命標語でないものを他人に言うとは思えない。それどころか、知識人だったチェには、そんな標語などを口にすることを軽蔑する傾向すらあった。
 
 私は、「チェは絶対に言わなかったはずだ」と断定的に言うことはできない。その場に居合わせなかったからだ。だが、本書のこの個所が引っ掛かってならない。

(2011年11月8日 伊高浩昭)

2011年11月7日月曜日

<違憲性>粉砕した貧者の論理

   近隣のグアテマラは11月6日の決選投票で、過去の殺戮の亡霊のような退役将軍を次期大統領に選んだが、ニカラグアは同じ日の大統領選挙で「復活した過去の革命」の強化・定着を選んだ。

   現職のダニエル・オルテガ大統領は、開票率85・80%で、得票率62・65%(132万票)に達し、2位のファビオ・ガデア候補(独立自由党)の30・96%(65万票)に大きく水をあけた。この段階で選管は、オルテガ勝利を認定した。

   オルテガは、父子3代・43年間のソモサ家独裁を1979年7月に倒したサンディニスタ革命の立役者の一人だった。ゲリラ組織「サンディニスタ民族解放戦線(FSLN=エフェエセエレエネ)」は政党化し、1984年の大統領選挙でオルテガが当選し、90年まで政権にあった。

   この80年代は、反共帝国主義に凝り固まったレーガン米政権に内戦を仕掛けられ、ニカラグアは戦火の巷となった。レーガンは、ホンジュラスで反革命(コントラ)ゲリラ部隊を組織し、ニカラグアに送り込んで、建設過程に入っていた革命を破壊した。

   因みにレーガンは1983年には、カリブ海のグレナダに、キューバに接近しすぎたとの理由で軍事侵略し、政権を倒した。
 
   1990年以降、チャモロ、アレマン、ボラーニョと、3代の親米・新自由主義政権が続き、革命の成果は殺ぎ落とされ、貧富格差が拡大した。貧しい多数派は、2006年11月の大統領選挙で、「復活したオルテガ」を勝利させた。

   だが、オルテガにとって決して楽勝ではなく、選挙前に、カトリック教会など保守派との妥協を強いられた。私は2010年9月、現地でオルテガにインタビューしたが、90年の第1期政権末期のオルテガと随分と雰囲気が変わっていた。年もとり(今月11日で66歳)、人間もまろやかに、かつ狡猾になっていた。 

   大群衆を前に演説し、「今のニカラグアは、<キリスト教、社会主義、連帯>、この三つが柱だ!」と強調した。大統領選挙出馬について問題点を含めて訊くと、「すべては有権者人民が決める」と答えるだけだった。

   オルテガの横には、ニカラグア・カトリックの総元締め、マナグア大司教のミゲル・オバンド枢機卿の姿があった。20世紀の遺物が並んでいるような印象をもった。

   1990年の大統領選挙時、反サンディニスタ派は、毎週のようにマナグア市内の日本大使公邸で戦略会議を開いていた。日本政府は、「情報収集だった」と言い訳するだろうが、明らかに内政干渉をしていた。オバンドは、この会合の常連だった。チャモロや、米大使館員も参加していた。 

   オバンドに、かつての宿敵オルテガとの<蜜月状態>について訊くと、「政府はとてもよくやっている。これでいいのだ」と言った。平和共存は、利害関係の一致を物語る。

   しかしオルテガは、戦略に長けた百戦錬磨のつわものになっていた。「ボリバリアーナ革命」を遂行するベネズエラのウーゴ・チャベス大統領から巨額の援助を取り付け、これを<真水>として、貧困大衆に注ぎ込んだ。広い底辺層はオルテガを熱狂的に支持した。オルテガは、その底辺層をFSLNの下部組織とした。

  いわば、ボリバリアーナ革命が、傷だらけになっていたサンディニスタ革命を救ったのだ。無料の保健、教育など、かつての革命の成果が復活した。重要なのは、FSLN指導部に、新自由主義をできるかぎり修正して、社会正義を広めようという意思があることだ。

  野党は、新自由主義・親米主義程度しか頭になく、対抗イデオロギーを打ち出せない。候補を一本化できず、強くなったオルテガには到底及ばなくなっている。

  オルテガの泣き所は、憲法が「同一人物の大統領就任は2期まで」、「連続2期は不可」と規定していること。ソモサ長期独裁を教訓とした規定である。

   オルテガの出馬は、「3期目」を狙うものであり、「連続2期目」規定への挑戦だった。

   だがオルテガは自派で最高裁を固め、「この憲法規定は適用されない」という奇妙な判断を昨年までに勝ち取り、出馬した。野党は、今選挙戦で「違憲」、「非合法」などと攻撃した。

   しかし貧困大衆は、オルテガに圧勝を贈って、「憲政の論理」を押しつぶした。

   欧州連合の選挙監視団は、オルテガ勝利を認めながらも、「選管は政府からの独立性が薄く、透明性に問題があった」、「監視団の行動が十分に認められない場合があった」という趣旨の批判をし、政府に改善を求めた。
   オルテガは、次期任期の終わりには71歳を越える。サンディニスタの人民大衆も若返りが進んでいる。引退し、後継者に政権を譲る覚悟で、新たな船出を図るべきだろう。

(2011年11月7日 伊高浩昭) 
   
   

グアテマラ「最悪の選択」  

   グアテマラで11月6日、大統領選挙の決選投票が実施され、開票率96%の段階で、オットー・ペレス=モリーナ候補(61)が得票率55%弱で、当選者と認定された。

   9月11日実施の第1回投票での上位2人が決選に臨んだが、2位だったマヌエル・バルディソーン候補(41)は45%強で、「2位の壁」を越えられなかった。

   新大統領は来年(2012年)1月14日就任する。任期は4年。

   当選したペレスは陸軍の退役将軍。内戦(1960~96年)中、最悪の殺戮が行なわれたとされるリオス=モント軍政時代、陸軍の第一線にあり、先住民族ら市民殺害が最も多かったキチェー県で部隊を指揮した。1998年のフアンホセ・ヘラルディ司教暗殺事件の黒幕と目されている。

   このような<血塗られた>人物が政権に就くことになるとは、あたかもグアテマラの歴史が過去に向かって逆流しているかのような錯覚を抱かされる。ペレスは伝統的支配階層の利益を守りつつ、事あるごとに軍・警察を使って強権を発動するだろう。

   敗れたバルディソーンは弁護士で、ペテーン県を中心に勢力を張る成金資産家。麻薬資金を動かしているとの疑いがもたれている。凶悪犯には死刑で臨むと公約していた。

   決選に進出した両候補とも、イデオロギーは極右~右翼で、いずれも有産層の利益を代表する。このため識者から、「悪か次悪」でなく「最悪か悪の選択」と皮肉られてきた。 

   マヤ民族で1992年のノーベル平和賞受賞者リゴベルタ・メンチューは、前回に次ぎ2度目の大統領選挙に挑戦したが、得票率が3・26%(候補10人中6位)で、前回同様に振るわなかった。

   長年にわたる少数派白人とラディーノ(混血)による支配下で、人口の絶対的多数派であるマヤ系先住民族は、方言ごとに別々の民族集団であるかのように教え込まれ、分断され統治されてきた歴史の催眠術からいまだに覚めていない。マヤ人の多くが決選で<両悪>のいずれかに笑顔で投票したのだ。

   たしかにマヤ民族も若返っている。意図的ともいえる歴史教育での<内戦隠し>で、軍の残虐性を知らない若い有権者が多いのも事実だ。ペレスを支持した多くの貧しい若者の過去は<白紙>なのだ。

   疫病化している大土地所有制度、貧富格差、麻薬犯罪、人権蹂躙。。。貧しい多数派のグアテマラ人は、内戦が終わって15年を経ても、依然、悲惨さや困窮状態から抜け出せない。

  それでも、新政権が何らかの社会政策を打ち出すかどうかを見守りたい。困窮者のために、ペレスが過去の汚名をすすぐため<大化け>するのを祈りたい。

(2011年11月7日 伊高浩昭)
      

2011年11月6日日曜日

チェ・ゲバラと歩んだ人生

   チェ・ゲバラの最初の夫人イルダ・ガデア(1921~74)が書いた『ミ・ビーダ・コン・エル・チェ』の日本語訳『チェ・ゲバラと歩んだ人生』がついに出た。中央公論新社からで、訳者は新進気鋭の松枝愛(まつえだ・めぐみ)だ。

  イルダは死の2年前1972年に、『チェ・ゲバーラ  アニョス・デシシーボス(チェ・ゲバラの決定的な歳月)』を刊行したが、絶版となった。だが2006年ボリビアで復刻版が出版され、それを訳したのが『チェ・ゲバラと歩んだ人生』である。

  この本には、これまで日本ではほとんど知られていなかった、チェのグアテマラ時代とメキシコ時代の生き方が細かく記されている。恋人・妻だった左翼活動家イルダでなければ書けなかった本だ。

  アルゼンチン人青年医師エルネスト・ゲバラは、グアテマラでイルダと出会い、1954年の流血のグアテマラ政変を身近に経験して、革命家への道に入った。メキシコ市ではカストロ兄弟に会い、キューバ革命に参加することになる。まさに「決定的な歳月」だった。

     イルダの実弟リカルド・ガデアが、姉や、姉が属した「アメリカ革命人民同盟(APRA=アプラ)」について書いた巻末の文章は貴重だ。また、イルダ縁の地を訪れリカルドに会ってまとめた「訳者後書き」も読みごたえがある。

  松枝は前訳書『革命の侍』(2009年、長崎出版)のときもそうだったが、物語が展開する土地を歩き、著者らに会って翻訳し、「後書き」を書く。訳者の意気込みが感じられる。

  チェに関する本は数多いが、これは特に面白い。だが、これ以上、内容に触れるのは控えよう。みなさんに読んでほしいからだ。(因みに、巻末の「解説」は不肖・私が書いている。)

  チェの女性観もうかがわれ、この点でも興味深い。

(2011年11月6日 伊高浩昭)
   

2011年11月5日土曜日

FARC最高指導者戦死

現在も活動しているラ米で最も古いゲリラ組織「コロンビア革命軍(FARC=ファルク)」のアルフォンソ・カノ最高司令官(63)が11月4日戦死した。

  コロンビアのフアン・ピンソーン国防相は5日の記者会見で、同国南西部のカウカ州スアレス市外れのアンデス山岳地帯チリアデロ(標高2100m)で4日、国軍・警察連合部隊とFARCの10時間に及ぶ戦闘のさなか、カノは空爆を受けて負傷した後、戦闘で死亡した、と発表した。

  政府は数ヶ月前からFARC最高指導部に包囲作戦を仕掛け、カノを何度か追い詰めていた。政府は、「対FARC戦史上、最大の成果」と自賛している。米軍仕込みの電子諜報技術と、FARC内部の通報者によって得られた情報がカノ殺害につながったという。

  カノの本名は、ギジェルモ・レオン=サエンス。1948年首都ボゴタに生まれ、国立コロンビア大学で法学と人類学を学んだ。だが修了せず、コロンビア共産党(PCC)の青年部で活動し、理論家として名を馳せた。ソ連に数年滞在し、指導者として教育を受けたとされる。FARCはPCCの武闘部門として1964年に発足したが、カノは80年にFARCに入り、武闘を開始する。

  当時のFARCは、「伝説の司令官」マヌエル・マルランダ最高司令官の指揮下にあったが、カノは
最高指導部に早々と抜擢された。

  1991年8月、日本人2人(東芝技術者)がアンティオキア州内でFARCに拉致される事件が起きた。その際、身代金交渉で指揮を執ったのもカノだった。日本人2人は、身代金受け渡しがすんだ同年12月、州都メデジンで解放された。

  マルランダは2008年3月病死し、カノが第2代最高司令官に就任する。当時のウリーベ政権は、米軍の広範な協力を得てFARCを弱体化させ、後継のサントス現政権も指導部掃討作戦に力を入れていた。

  カノの死はFARCにとって痛撃だが、これによってFARCが和平交渉と武装解除の方向に簡単に進むと見る者はいない。それでもフアン・サントス大統領はFARCに、「戦いつづけても死か刑務所入りしかない」として、投降し武装解除に応じるよう呼び掛けた。

  サントスはウリーベ前政権で国防相を務め、FARC掃討戦に通じている。カウカ州都ポパヤンに飛び、カノの遺体を確認した。カノは濃い髭面で知られていたが、遺体に髭はなかった。顔から人物を特定されるのを警戒して、死の3日前に髭を剃っていたという。

  FARC書記局(7人)は5日、「コロンビアの平和は武装解除では成らず、武装蜂起を招いている根本的原因をなくすことによってのみ可能だ」として、武闘継続を表明した。

    注目点は、残存する最高指導部のうちの誰がカノの後任に納まるかだった。FARCは11月5日、
ティメレオーン・ヒメネス(52)、暗号ティモチェンコ、本名ロドリーゴ・ロンドーニョ=エチェベリを最高指導者に選び、同月15日発表した。有力視されていたイバン・マルケスは、序列2位になった。

  ティモチェンコは、ソ連に留学。1982年FARC入り。90年からFARC書記局員を務めていた。

(2011年11月5~16日 伊高浩昭)

2011年11月4日金曜日

俳句とジャーナリズム

   「散文的な人間」という言い方がある。「平凡で、つまらぬ奴」といった意味だ。私は半世紀近く、ジャーナリズムという散文の味気ない方のジャンルを飯のタネにしてきたことから、「散文的な人間」と受け止められても仕方ないと思っている。

   NHKの衛星TVは、昨年までか、今年3月までか、毎週土曜日朝、松山から「俳句王国」という50分の番組を流していた。私は、少しでも「韻文的」になれればと、よく観ていた。主宰のなかに、鷹羽狩行(たかは・しゅぎょう)という、いつも和服姿で登場する風格のある著名な俳人がいた。(もちろん、いまも活躍している人だが。)

  この主宰の批判や指導には、深みと趣があった。何年か前、ある会合で、この人物を見かけた。
私は臆面もなく、自己紹介をして話しかけた。つまり、質問をしたのだ。

  「先生、俳人の立場から、俳句と短歌の違いをどう捉えておられますか」

  俳人は、少し考えてから答えた。
「われわれからすると、5・7・5で十分です。あとの7・7があると、詩が説明的、散文的になってしまうかもしれませんね」

  恐れ入った。<世界最短の詩>の達人は、俳句と短歌の境に、韻文と散文の境を見ていたのだ。私はその後、先生の言葉を教訓として、表現には気をつけるようにしてきたが、長い散文の記事を書きつづけているため、教訓は精神としてしか生かせない。だが、あの言葉は、私の脳裡でいつも輝いている。

  今年1~4月、ピースボートで船上講師として世界周遊航海をした折、船上で俳人に出会った。「山河」同人の、高野公一さんである。私は、高野さんに相談して「船上俳句会」を開こうと企画した。だが、いくつかの理由で実現しなかった。

  船を下りて半年近く経ったころ、高野さんから『アンダンテ』という新しい句集が送られてきた。そのなかに織り込まれている作品の数々のなかから4句を紹介したい。(いずれも高野さんの作品である。)

  地球から零(こぼ)れていくか冬の蠅

  かくまでに小さき地球や卯浪立つ

  夏の月あかるすぎても拒まぬ手

  羊水の中の寝返り春を航(ゆ)き

(2011年11月4日 伊高浩昭)

大統領予備選挙候補決まる

   ベネズエラ次期大統領選挙は、2012年10月7日実施される。次期大統領の任期は2013~19年の6年間。1999年2月に就任して以来、再選を繰り返してきた現職のウーゴ・チャベス大統領は、施政連続20年を目指して出馬する。

   一方、14年ぶりの政権奪回を狙う野党勢力は、野党候補が乱立しては勝てないと、統一候補を指名することにしている。野党連合「民主連合会議(MUD)」は来年2月12日、予備選挙(統一候補を決める指名選挙)を実施するが、11月3日公示され、候補者が明らかになった。

   候補は、エンリケ・カプリレス(ミランダ州知事)、パブロ・ペレス(スリア州知事)、レオポルド・ロペス(元カラカス首都圏区長)ら、男性5人、女性1人の計6人だ。

   これに対し、現職として利益誘導政策などで有利な戦いを進めているチャベスは、政権党「ベネズエラ統一社会党(PSUV=ペエセウベ)」を総動員し、全国で集票作戦を展開中。「得票1000万票」(得票率70%)を目指している。

   野党予備選候補6人が決まった3日、余裕のチャベスは、選挙綱領として「2013~19年・国家社会主義計画」の概要を明らかにした。「ベネズエラ人民を資本主義文化から解放する教育」を重点政策として掲げている。

   今年6月、キューバのハバナで「野球のボール大の骨盤肉腫」の除去手術を受け、癌であることを告白したチャベスだが、同情が支持率を押し上げている。

(2011年11月4日 伊高浩昭)

2011年11月3日木曜日

ルーラ前ブラジル大統領が癌

   ブラジルの前大統領ルイス=イナシオ・ルーラ=ダシルヴァ氏(66)は10月29日、喉頭癌にかかっていることを明らかにした。サンパウロのシリア・レバノン病院に31日入院し、化学治療を受け、11月1日退院した。医師団は、経過は良好と発表した。

   ルーラは、施政8年間の政策が国内外で高く評価されており、「癌との闘い」の報道は国際社会にも衝撃を与えた。

        ジルマ・ルセフ現ブラジル大統領はルーラを見舞ったが、ルセフ自身もルーラ政権の官房長官だった2009年、リンパ腺癌を同じ病院で克服している。

   南米では、パラグアイのフェルナンド・ルーゴ大統領がそけい部リンパ腺癌にかかり、昨年、サンパウロの同病院で治療している。

   また、ベネズエラのウーゴ・チャベス大統領も今年6月、癌(骨盤肉腫)を除去したと公表し、キューバの首都ハバナで定期的に治療と検査を受けてきた。チャベスはその後、「癌との闘いで勝利した」と宣言し、来年10月の大統領選挙出馬を目指している。

   キューバのフィデル・カストロ前国家評議会議長は2006年7月、腸内出血で緊急手術を受けたが、その際、「大腸(結腸、直腸)癌」説が流れた。キューバ政府は「国家機密」として、カストロ氏の病気について言及を避けてきた。

(2011年11月3日 伊高浩昭)

2011年11月2日水曜日

伝説の女性闘士死去

   アルゼンチン共産党(PCA)の名誉党首ファニー・エデルマン(100歳)が11月1日、ブエノスアイレスで自然死し、長い闘争の人生に終止符を打った。

   ファニーは1911年2月27日、コルドバ州内のロシア人移民の家に生まれた。19歳だった30年、イリゴジェン民主政権が軍事クーデターで倒されると、政治闘争に身を投じた。音楽教師として働きながら、34年PCAに入党して政治囚救済運動を展開し、国際赤十字でも活動した。

   スペイン内戦が勃発した36年、建設労組幹部ベルナルド・エデルマンと結婚。翌37年9月、第3インターナショナル(コミンテルン)の動員命令を受けて、夫妻でスペイン内戦に国際義勇兵部隊の戦士として参戦し、バレンシア一帯で戦った。

   38年5月、「国際的な女性闘士」の名声をもって帰国した。47年ペロン政権下で、アルゼンチン女性連盟を創設。59年、革命直後のキューバに行き、女性運動の指導者ビルマ・エスピン(故人、ラウール・カストロ議長の妻)と会う。72年には国際民主女性連盟の議長に就任した。

   キューバ革命、アジェンデ・チリ社会主義政権、ニカラグア・サンディニスタ革命などの支援活動を続けた。78年にはアルゼンチン軍政の人権蹂躙状況をジュネーブの国連人権委員会で告発し、軍政糾弾を呼び掛けた。

   満百歳に達して間もないことし3月、キューバ政府から「ホセ・マルティ勲章」を授与された。

          ×                ×                  ×

   ジョージ・オーウェルの『カタルーニャ讃歌』の影響が強いが、私の世代のジャーナリストには、
スペイン内戦を反ファシズムの側で戦った人々への愛着と敬意がある。ファニーを鍛えたのも、この内戦だった。


(2011年11月2日 伊高浩昭)

2011年11月1日火曜日

悪名高い諜報機関解体

   コロンビアのフアン・サントス大統領は10月31日、大統領直属の諜報・謀略機関「公安庁(DAS=ダス)」を廃止する政令に署名、発令した。この日はDAS設立58周年記念日であり、その日に合わせた秘密警察の解体だった。

  DASは、要人暗殺、市民殺害、麻薬組織との連携、電話盗聴など膨大な数の違法事件に関与し、元DAS長官の何人かは逮捕されたり、有罪判決を受けたりしている。とくにウリーベ前政権下で、DASと極右準軍部隊(パラミリタレス)との連携による殺害事件や、DASによる組織的な政治家らへの電話盗聴・傍受事件が頻繁に行なわれていた事実が発覚した。世論の厳しい突き上げもあって、DAS解体は時間の問題となっていた。

  新たに諜報任務を担うのは、大統領直属の文民機関「国家情報局(ANI=アニ)」で、アルバロ・エチャンディーア退役提督が初代長官に就任する。

  DASの職員約6000人は、検察庁、外務省、内務省、国家警察に編入される。一部の<優秀な者>はANIに入るものとみられている。この人事異動は年末までに終了する。
        ×                 ×                 ×
  私は1980年代後半から90年初めにかけて、<麻薬戦争>期のコロンビアを重点的に取材した。その折、当時のDAS長官にインタビューし、大統領候補ルイス・ガラン暗殺事件をはじめ重要事件について訊いた。後年その長官が、ガラン事件などさまざまな政治的謀略事件に関与していた事実が明るみに出て、愕然とした。不明ゆえに仕方ないことではあったが、悔恨の念にかられたものだ。

【私の<麻薬戦争>期のコロンビア取材ついては、拙著『コロンビア内戦ーーゲリラと麻薬と殺戮と』(2003年、論創社)を参照されたい。】

(2011年11月1日 伊高浩昭)
 

ボゴタ市長選で左翼当選

   コロンビアで10月30日、32州知事、1102市長、および州会・市会議員を選ぶ統一地方選挙が実施された。この国では、大統領に次ぐ重要な地位は首都ボゴタの市長と見なされており、同市長選に最大の関心が集まったが、かつてのゲリラ組織「4月19日運動(M19)」のゲリラだったグスタボ・ペトロ(51)が得票率32%強(72万票)で当選した。

  M19は1990年、政府との和平交渉の結果、武装解除し政党となって、91年の制憲議会選挙に参加した。ペトロは、M19の流れを組む野党「代替民主軸(PDA)」の上院議員を経て昨年の大統領選挙に出馬したが、フアン・サントス現大統領に遠く及ばず敗北した。

  ボゴタ(現)市長はPDAのサムエル・モレーノだったが、公金横領罪で逮捕され、PDAは後継候補選びで大混乱していた。ペトロはPDAと袂を分かち、「プログレシスタス(進歩主義者)」という政治運動を興し、今選挙に臨んだ。

  これに対し、将来の政権復帰を狙うアルバロ・ウリーベ前大統領は、緑の党(PV)から出馬した元ボゴタ市長エンリケ・ペニャローサ候補を、自党「国民連合社会党(PSUN)=通称U(ウリーベ)党)」を大動員して支援した。だが得票率25%弱(56万票)で2位に甘んじ、敗北した。

  ウリーベは、米国のブッシュ前政権の<対テロ戦争>と連動して、米軍から訓練、兵器、諜報の支援を受けつつ国内で、極右準軍部隊(パラミリタレス)と組んで<国家テロ>戦術を展開した。ゲリラ組織「コロンビア革命軍(FARC=ファルク)」の弱体化という政府目的達成に邁進したが、おびただしい人権蹂躙事件を起こした。

  このウリーベは昨年の大統領選挙で3選を狙い、そのために改憲しようと試みた。だが(機密情報によると)、オバマ現米政権から内々の警告を受けて断念した。そこで今選挙でボゴタ市長および、出身地メデジン州の知事と州都メデジンの市長に子飼いを据え、それを足場に影響力の温存を図ろうとした。しかし、これら3つの選挙でことごとく敗れ、思惑は見事につぶされた。

  ペトロの当選は、ウリーベ式の富裕層のための右翼強権主義の政治手法がコロンビアでも時代遅れになりつつあることを明確に示した。

  ペトロは2012年元日に就任するが、市会45議員中、与党議員は8人程度であり、4年の任期を乗り切るのは楽ではない。他党との妥協による連携が不可欠になる。

(2011年11月1日 伊高浩昭)

  
  

2011年10月31日月曜日

第16回汎米競技大会閉会

   メキシコのグアダラハーラ市で10月14日開会した第16回フエゴス・パナメリカーノス(汎米競技大会)は30日閉会した。汎米スポーツ機構(ODEPA=オデパ)加盟35カ国・7地域が参加した。

   注目のメダル獲得競争は、米国が圧倒的な数で、1位を維持した。米国から半世紀余り敵国扱いされてきたカリブ海最大の島国キューバ(玖)は、金メダル数でブラジル(伯)を凌いだが、メダル獲得総数ではブラジルに後れをとった。2016年にリオデジャネイロ五輪を開催するブラジルは、選手育成の成果を挙げた。開催国メキシコ(墨)も奮闘し、4位に着けた。

   上位6カ国のメダル獲得数は次の通り。

        金     銀     銅     計
米国     92    79     65    236
玖国     58    35     43    136
伯国     48    35     58    141
墨国     42    41     50    133
加国     30    40     49    119
コロンビア    24    25     35    84

以下、アルゼンチン(亜)、ベネズエラ、ドミニカ共和国(RD)、エクアドールと続く。

   次の第17回大会は2015年7月、カナダ(加)のトロントで開催される。

(2011年10月31日 伊高浩昭)     

 

2011年10月30日日曜日

第21回イベロアメリカ首脳会議

  イベロアメリカ(イベリア半島系=スペイン・ポルトガル系=米州)の19カ国と、イベリア半島3カ国(スペイン、ポルトガル、アンドーラ)の計22カ国の首脳が毎年1度集うイベロアメリカ首脳会議の第21回会議が10月28~29日、パラグアイの首都アスンシオンで開かれた。
  
  加盟国の半数の11カ国の首脳が欠席し、会議史上最悪の<首脳欠席数>となった。だが、議論にかなり本音が出て、スペインのホセルイス・ロドリゲス=サパテロ首相は「いつになく実りある議論だった。世界経済の危機が議論に拍車をかけた」と評価した。

  会議は、「国(政府・諸機関)は、社会正義を伴う持続可能な開発を促進する機関としての役割を担う」と、「国家の復権」を強調する「アスンシオン宣言」を採択して閉会した。

  首脳陣のなかで脚光を最も浴びたのは、エクアドールのラファエル・コレア大統領だった。会議に出席していた世界銀行ラ米担当責任者が発言しようとしたところ、緊急発言し、「世銀はラ米と世界に新自由主義を押し付けた責任を謝罪すべきだ。世銀代表がなぜ首脳会議の場にいるのだ。私は世銀代表が発言する間、席を外す」と言い、退場した。

  コレアは、自分の発言の番になると、「歴史的にブルジョア国家であるラ米諸国を人民国家に変えなければならない。ラ米が発展するには、国際機関がラ米に押し付ける新植民地主義に打ち勝たねばならない」と強調した。ボリビアのエボ・モラレス大統領はコレアを支援し、「国際通貨基金(IMF)と世銀はラ米に賠償すべきだ」と訴えた。

  会議の頭上には、08年の米経済危機から昨今の欧州経済危機に至る国際経済の深刻な危機が暗雲となって立ち込めていた。主として一次産品の好況で経済が活況を呈してきたラ米だが、突如として輸出減少と価格低落による危機に陥る可能性があるからだ。

  来年の第22回会議は、スペインのカディスで開かれる。再来年の第23回会議は、パナマ開催が決まった。ラテンアメリカ(ラ米)にありながらフランコアメリカ(フランス系米州)であるため加盟できないハイチは、外相がオブザーバー出席し、正式加盟を申請した。

(2011年10月30日 伊高浩昭) 

  
    

2011年10月29日土曜日

ようやく真実委員会

     ブラジル国会は10月26日、過去の人道犯罪を究明するための「真実委員会」の設置、および機密文書公開を定めた法案を可決した。ジルマ・ルセフ大統領の署名から180日後に発効する。

  軍部は米政府と謀って1964年、ジョアン・ゴラール大統領の民主政権をクーデターで倒し、政権を掌握した。85年に民政が復活するまで21年も支配した。その間、ブラジル軍政は米政府と連携しつつ、トーレス・ボリビア政権打倒、ウルグアイ政変、アジェンデ・チリ政権打倒などに加担し、アルゼンチンに亡命していたゴラール氏を暗殺した。国内では多くの市民を拉致、拷問、殺害した。

  歴代の民主政権は、軍部の存在があまりにも大きくなり、国の利権構造の大きな部分として深く根付いてしまっていたため、恐持てする軍部に敢えて逆らおうとせず、軍政時代の人道犯罪の究明作業ははかどらなかった。それが動き出したのは、21世紀になってからのルーラ政権下でのことである。

  成立した新法は、この国にとっては<歴史的>であり、価値なしとはしないが、極めて<臆病>な内容だ。人道犯罪調査の対象期間は、軍部がジェツリオ・ヴァルガス大統領を倒して勢力を張っていた1946年から現行憲法が制定された88年までと、実に42年に及ぶ。これでは「長期軍政21年」がぼけてしまう。

  公開対象の機密文書も公開までの期限が5年、15年、50年と3種類ある。酒ではないが,<50年物>は超重要機密なのだ。50年後には、軍政の犯罪者はすべてこの世から消え去っている!

  新法は、軍部や警察などの犯罪者を断罪できない。軍政が1979年に制定した「恩赦法」が依然有効なためとされる。ウルグアイ国会がしたように、この「恩赦法」の効力を殺がないかぎり、犯罪者を裁くことはできないわけだ。

  真実委員会は7人で構成され、調査開始から2年後に結果を公表する。人道犯罪の被害者や遺族の団体は、委員に軍・警察関係者を加えてはならないと主張している。また、判明した犯罪者は裁くべきだと訴えている。新法に反対する軍部や保守派には「報復主義だ」との声がある。

  ブラジル、ウルグアイ、アルゼンチン、チリの「コノ・スール」(南の円錐=南米深南部)の4カ国では、いずれも軍政下で人権が蹂躙された。その断罪が最も進んでいるのは、軍政大統領を終身刑に追い込んだアルゼンチン。次いで、ピノチェー将軍にあの世に逃げ込まれたが断罪が進むチリ。続いて、このほど人道犯罪時効を無効としたウルグアイ。ブラジルは人道犯罪糾弾では最後進国だ。

  だが、ブラジルがやっとここまで来た、と捉えることもできる。この国は今、南米・ラ米の経済大国から世界の経済大国へと徐々に進んでいる。過去の人道犯罪の責任をごまかしたまま進めば、将来、似たようなことが起きたり、問題が再浮上したりするだろう。

  ブラジル人の奮起を期待するしかない。

(2011年10月29日 伊高浩昭)  

2011年10月28日金曜日

カストロ2世が講演

   「キューバ革命の指導者」フィデル・カストロ前国家評議会議長の長男フィデル・カストロ=ディアスバラルト氏(62)=通称フィデリート=が10月28日夜、東京・九段のホテル「グランドパレス」で開かれた「21世紀の知識と新技術の革命」と題する講演会で30分講演した。

  同氏は、モスクワに学んだ数理物理学博士で、東西冷戦中、キューバ原子力委員会の委員長を務め、ソ連製原子炉を用いるフラグア原子力発電所(シエンフエゴス市郊外)の建設に尽力した。だが1986年のチェルノブイリ原発事故や91年のソ連消滅を経て、フラグア原発建設は打ち切りを余儀なくされた。その後、フィデリート博士は、国家評議会議長(元首、首相、革命軍最高司令官)の科学顧問に就任した。現在の議長は、フィデルの実弟ラウール・カストロ氏である。

  この夜の講演では、世界人口70億の7分の1に当たる10億人が飢餓状態にあると前置きし、食糧を全人口に行き渡らせるためには、環境に配慮した新しい科学技術が必要になる、と強調した。

  人口が増えればエネルギー消費も増える。今日の世界のエネルギー源の80%は石油、天然ガス、石炭などの化石燃料であり、原子力は6%に過ぎない、とフィデリートは指摘した。

  転じて東京電力福島第一原発の深刻な放射能漏れ大事故に触れて、安全に万全を期すことが大事であると同時に、原発を存続させるか否かの判断をする際には、最大多数の人民が意思決定に関わるべきだと訴えた。

  日本には、原発政策決定のような超重要な意思決定をする場合、国民投票をする規定や習慣がない。民主制度が遅れているわけだが、フィデリートの発言は、その弱点を期せずして突いたように受け止められた。

  むろん「人民参加型民主制」の社会主義キューバと、「資本制民主主義」の日本とは、意思決定過程は大きく異なる。日本と同じ体制の国々では、しばしば国民投票が実施される。だが日本にはそれがない。この点を、体制の異なる国から来たフィデリートは、「期せずして」突いたと、私は思うわけだ。

  博士はまた、今後の世界を人類の幸福のために発展させるには、時代にふさわしい知恵と倫理を拡げていくのが不可欠だ、と述べた。
 
  フィデリ-トは今回の来日では、東京のほか神戸と沖縄を訪れた。

               ×            ×            ×

  私は10年ぶりにフィデリートに会った。10年前のある日、東京のキューバ大使公邸に早朝突然招かれ、朝食会に出席したところ、何とそこにフィデリートがいた。その時、長いインタビューをした。以来久々の再会だったが、「あれから10年も経ったのか」とフィデリートは感慨深げだった。

  フィデリートの風貌と声は、父親に似てきた。スペイン語がクバニズモ(キューバ独特のもの)であるがための類似性は当然あるが、息子は年をとると父親に似てくる。これが、フィデリートにも出てきたのだろう。

(2011年10月28日 伊高浩昭)
     

人道犯罪に時効なし

  ウルグアイ国会下院は10月27日未明、人権犯罪の時効を否定する法案を可決した。法案は既に25日に上院を通過しており、成立した。ホセ・ムヒーカ大統領が28日署名し、発効した。

  この国では1973年から85年まで軍事政権が支配した。その間、ウルグアイ人約200人が軍政によって殺され、多くの市民が拷問された。だが民政移管後の86年、「国家制裁権失効法」が制定され、軍政の犯罪は裁けなくなった。同法の存否は89年と2009年の2度、国民投票にかけられたが、いずれも僅差で存続派が勝ち、今日まで法が生きてきた。

  「失効法」を失効させようという動きは、タバレー・バスケス前政権下で新たに始まった。左翼諸党・政治運動が組織する「拡大戦線(FP=フレンテ・アンプリオ)」が初めて政権党になったからだ。

  FA2代目政権のムヒーカ大統領は、軍政時代に投獄され迫害された経験をもつ。国民投票での勝利が難しいのなら、政権党FAが上下両院で多数派となっている間に「失効法」を葬り去ろう、と努めてきた。

  ところが最高裁は今年5月、「今年11月1日をもって軍政下の犯罪は時効となる」との判断を下した。「失効法」を失効させるための新法の制定は、時間との闘いになった。期限ぎりぎりで成立したわけだ。

  新法には、「国家は、1973~85年の軍政時代の国家テロリズムによる犯罪を断罪できる。国際的に規定されている人道犯罪を裁くのに時効はない」と明記されている。

  軍・警察、保守・右翼、野党などは新法審議過程で猛反対した。国軍参謀長のホセ・ボニージャ将軍は、「11月1日以降ならば、人権犯罪に関する証言が出てくるだろうが、新法が成立すれば、証言は出にくくなる」と口にし、国防相から警告を受けていた。

  先の判断を示した最高裁も、新法に不満なようだ。だが米州人権裁判所は「失効法」の効力を認めておらず、この判断にムヒーカ政権も励まされてきた。
         ×             ×              ×
  私は、都市ゲリラ「トゥパマロス」が軍・警察に戦いを挑んでいた1970年代前半のウルグアイを取材し、85年の「失効法」成立時や89年の国民投票時にも現地で取材した。
                                   
  80年代後半の取材時に首都モンテビデオで、娘を軍政に拉致され殺されるという悲惨な運命に翻弄されていた女性に会った。自宅でインタビューしたのだが、私に、こう言った。

  「あの日の朝、娘は元気よく出て行った。そのまま帰ってきていないから、必ず、ある日の夕方、ただいまって帰ってくるわ」。そして笑顔を見せた。その笑顔は空洞だった。切なかった。

  国民投票の取材中にウルグアイ人のラジオ記者から、「遠い日本のメディアが、なぜ私たちの国の政治状況に関心をもつのか」と訊かれた。私は「民主主義に距離はない。だからです」と答えた。彼は、私とのやり取りを全国にそのまま流した。

  ウルグアイの正式な国名は「ウルグアイ東方共和国=ラ・レプーブリカ・オリエンタル・デ・ウルグアイ」という。大河ラ・プラタの東側に位置するからだ。そのラジオ記者は、「あなたは東洋人、私は東方人。同じオリエンタレスです」と言い、私の手を強く握った。

  ウルグアイの状況は歴史的に、大河の西側のアルゼンチンと良くも悪くも呼応してきた。向こう岸のアルゼンチンの法廷が軍政時代にESMAで起きた人道犯罪を断罪するや、こちら側では「失効法」の対抗法が成立した。今度は見事に呼応した。

(2011年10月28日 伊高浩昭)

2011年10月27日木曜日

人道犯罪で終身刑

  アルゼンチン連邦法廷は10月26日、軍政時代(1976~83)に市民拉致・拷問・殺害に関与した軍人ら12人に終身刑を言い渡した。首都ブエノスアイレス市内にある(旧)海軍機械学校(ESMA=エスマ)で起きた人道犯罪のうちの86件に関わった被告18人に対する判決で、他の2人に禁錮25年、22年と18年が各1人、別の2人は無罪だった。
  
  ESMAで「消された」市民には、軍政と闘ったジャーナリスト、ロドルフォ・ワルシュ、「五月広場の母たちの会」のアスセーナ・ビジャフロールら創設者3人、フランス人尼僧2人も含まれている。犠牲者の多くはヘリコプターや輸送機に乗せられ、ラ・プラタ川に突き落とされた。

  終身刑を言い渡された者のなかで国際的に最も名の知られた元海軍中佐アルフレド・アスティースは、ナチスのヨーゼフ・メンゲレになぞらえて「死の天使(エル・アンヘル・デ・ラ・ムエルテ)」と呼ばれていた。メンゲレは1979年、逃亡先のブラジル・サンパウロ州で海水浴中に心臓発作で死亡している。

  この「ESMA裁判」は09年12月に始まり、今月14日結審した。公判で証人250人が証言した。

  軍政時代の人道犯罪を断罪する機会は、1983年の民政移管によって訪れた。だが、軍部の圧力に耐えきれなかったアルフォンシン政権と、軍部を味方につけようと努めたメネム政権の下で「無処罰」化が進んだ。しかし、キルチネル前政権下で「免罪」や「恩赦」が無効とされ、裁判が加速されてきた。キルチネル夫人クリスティーナ・フェルナンデス(現職大統領)が今月23日の大統領選挙で圧勝し再選を果たした要因には、夫婦2代の政権下で進展した人道犯罪裁判への支持が含まれている。

  ネストル・キルチネル前大統領は昨年10月27日、心臓発作で急死した。1周忌の27日(昨日)、出身地パタゴニアはリオガジェゴの墓地に廟が完成し、フェルナンデス大統領ら遺族が法事を執り行なった。また同市内でキルチネル像の除幕式が行なわれた。

(2011年10月28日 伊高浩昭)  

2011年10月26日水曜日

中村とうようの思い出

  音楽評論家の中村とうよう(本名・東洋)が今年7月21日、自殺した。79歳の覚悟の死だった。衝撃だった。私はとうようさんの友人ではなく、かすかな知人にすぎない。だが、初対面が印象深かったため、いつも私の心のどこかに生きていて、ときどき思い出す人物だった。

  私は1972年初め、キューバを取材旅行した。私とキューバ外務省の監視役の職員と、同じく運転手の3人組の旅だった。監視も、ハバナを離れて2、3日すると仲間のように打ち解けてしまい、ないに等しくなった。運転手は、当時キューバではやっていたトム・ジョーンズの「ディライラ」を繰り返し口ずさみながら運転していた。「マイ、マイ、マイ、ディライラー」と歌うところを、彼は「アイ、ヤイ、ヤイ、ディライラー」と歌っていた。砂糖黍畑のなかを、車はのんびりと走っていた。

  当時カストロ政権は、国際連帯強化とサフラ(砂糖黍収穫)の労働力増強のため国際社会にサフラ参加を呼び掛けており、各国からブリガーダ(砂糖黍刈り隊)がやってきていた。キューバ島中部では、「日玖文化交流研究所」の山本満喜子所長率いる日本隊が働いていた。その野営地訪問を取材日程に組み込んで、現地を訪れた。

  早速、「連帯のため」として私もマチェテ(山刀)、皮手袋、長靴を渡されて、幅2~3メートル、奥行き30メートルぐらいの帯状の土地を割り当てられた。そこに密生する丈の高い砂糖黍を刈り取るのだ。右利きの私は、左手で数本を根元で握り、右手の山刀を高く振り上げ、力を込めて振り下ろし、根元を刈る。たいへんな重労働だ。私の両手はすぐに豆だらけになり、それがつぶれて血だらけになった。

  だが義務は果たさなけらばならない。どれくらい時間がかかったか記憶にないが、前方に光が見え、あと少し刈れば、お終いになるところまでたどり着いた。そして刈り終えると、前方の光のなかから、一人の男が現れた。私と同じ幅と長さの部分を、私の方に向かって刈り進んでいたのだ。

  「コモ・エスタ・ウステー? たいへんな仕事ですね」と話しかけた。すると、相手は首をかしげた。もしやと思い、日本語で話しかけた。すると、返事が返ってきた。それが、40歳のとうようさんだった。精悍な顔は赤銅色に焼けていた。その風貌から、私はキューバ人と勘違いしたのだ。

  後で知ったことだが、とうようさんは、3年前の1969年東京で『ニューミュージック・マガジン』を創刊し、新進気鋭の評論家として鳴らしていた。私は乞われてキューバ情勢を話し、とうようさんからは音楽の話を聴いた。その夜は野営地に泊めてもらい、翌日、次の目的地に向かったのだが、別れ際に「なぜ、筆名を平仮名にしたんですか」と訊いてみた。「戦中派の僕は、大東亜共栄圏とか八紘一宇とか軍国主義のあの時代が大嫌いで、そのため東洋という漢字が気に食わず、平仮名にした」とのことだった。予想どりの答だった。しないでもいい質問だった。

  話は飛ぶ。私は1984年に南アフリカのヨハネスブルク駐在の仕事を終えて東京に戻ったが、ある日、とうようさんから電話がかかってきた。南アのアパルトヘイト状況の原稿を書いてほしいとのことだった。一瞬、ラ米の原稿かと思い、意外だったが、アフリカ音楽にも熱を入れていたとうようさんだから、当然の注文ではあった。再会したとうようさんは、キューバで会ったときと同じように寡黙で、ときおり微笑を浮かべいた。

  私は、とうようさんの雑誌のコラム「とうようズトーク」が好きだった。閃きとエスプリに富み、学ぶところが多かった。とうようさんは、2011年9月号掲載のコラムを辞世の挨拶文として死んでいった。

(2011年10月26日 伊高浩昭)

【本田健治執筆「中村とうようさんを偲んで」(月刊誌『ラティーナ』2011年9月号)参照】

20回連続で経済封鎖撤廃決議

   国連総会は10月25日、米政府によるキューバへの「経済・貿易・金融封鎖」の撤廃決議を、賛成186、反対2(米、イスラエル)、棄権3(ミクロネシア、マーシャル諸島、パラオ)で可決した。1992年以来、連続20回の可決となった。棄権した南太平洋の3国は、いずれも米国に防衛を依存している、米国との「自由連合国」で、米政府の意向に背きにくい。

   この決議には拘束力がない。このため米国が決議に従うことはない。米代表は、「封鎖は米玖間の2国間問題であり、国連総会決議にはなじまない」とうそぶいた。経済封鎖が、日本を含む第3国に深刻な影響を及ぼしており、「2国間問題」という主張は欺瞞そのものだ。

   キューバのブルーノ・ロドリゲス外相は投票に先立ち、ケネディ米政権時代の1962年2月7日以来の経済封鎖による損害は累計総額9750億ドルに及ぶ、と明らかにした。経済封鎖は、キューバ革命のあった1959年からアイゼンハワー米政権によって徐々に発動されていた。このため「損害額」は実際には、もっと多いはずだ。

  駐日キューバ大使ホセ・フェルナンデス=デ・コシーオ氏は10月6日、経済封鎖問題について在京大使館で記者会見した。その折、「封鎖の第3国規制によって日本の主権も侵害されている。たとえば日本企業がステンレススティールを米国に輸出する場合、日本側はキューバ産ニッケルを使用していないことを証明するため、使用したニッケルの原産地証明を提出しなければならない」と指摘した。

  経済封鎖を担当している米財務省はこのところ、日本の銀行に対し、日本企業がキューバに輸入代金を支払う際に発行するLC(信用状)を発行しないよう圧力をかけている。企業はLCを欧州の銀行に送り、ユーロでキューバに代金を支払ってきたが、米財務省は、日本の銀行に対し、LCを発行する場合、そのLCをいったん米国の銀行に渡し、そこから欧州の銀行に回すよう強制しているという。ひどい干渉だ。この圧力は、英蘭独などの銀行にもかけられている。

  ある日本の大手商社がキューバに小型発電機を輸出しようとした際、日本の経産省から横やりが入り、輸出を断念したこともある。米財務省の思惑を経産省が先取りして警告したわけだが、この商談は結局、韓国の現代(ヒョンデ)に持っていかれた。

  日本も国連総会で封鎖解除に賛成してきたが、第3国規制に反逆できないのが実情だ。なお採決にはリビアとスウェーデンが不参加(欠席)、新生・南スーダンは参加した。


(2011年10月26日 伊高浩昭)

2011年10月24日月曜日

アルゼンチン大統領選挙

   アルゼンチンで10月23日大統領選挙が実施され、現職のクリスティーナ・フェルナンデス=デ・キルチネル(CFK、故ネストル・キルチネル前大統領夫人)が得票率54・11%で当選した。2位の社民主義者エルメス・ビネル候補(16・80%)に37ポイント差をつけての圧勝だった。

   勝因としては、人気の高かった前大統領の急死(昨年10月27日)を悼む人々が夫人を支援したことや、夫人が夫に支援されて、民営化されていた国民年金を国営に戻したり、労組交渉権を復活させるなど、国民生活に密接に関わる分野で新自由主義政策を覆す政策を推進したことへの高い評価などが挙げられる。

       また、亡夫の遺志を継いで、軍政時代(1976~83年)に犯された人道犯罪の責任者を法廷で裁き続けていることも、人民大衆の支持を集める重要な要因となった。

  CFKは、ペロン主義政党「正義党(PJ)」の左翼。ペロン主義政界で夫とともに、1990年代に新自由主義を強引に押し進めたカルロス・メネム大統領(ペロン主義右翼)の対極にあった。CFKの新任期は12月10日から4年間。同時に実施された国会議員選挙で、政権党は下院で多数派となり、上院でも議席を増やした。また改選9州知事選でも8州を制した。

(2011年10月25日1230更新 伊高浩昭)

【今回の大統領選挙結果およびアルゼンチン情勢については、月刊誌『ラティーナ』12月号(11月20日刊行)の「ラ米乱反射」などで分析します。】

   

2011年10月23日日曜日

スペインの季節

  スペイン北部バスク州の独立派政治・武闘組織「バスク国と自由(ETA=エウスカディ・タ・アスカタスナ)」が10月20日、「武闘恒久放棄宣言」をした。11月20日に控える総選挙のちょうど1か月前という日付を計算しての宣言がいかにも<政治的>で、気になる。総選挙で劣勢が伝えられるサパテロ政権の政権党スペイン労働社会党(PSOE=ペソエ)は、同宣言が自党に有利に作用することを明らかに期待しているように見受けられる。だが宣言に意味がないわけではない。

  バスク州の主要都市の一つサンセバスティアンで10月17日、コフィ・アナン前国連事務総長、ゲリー・アダムス氏(北アイルランドの政治家)ら国際的な政治畑の人々も出席して「サンセバスティアン国際平和会議」が開かれ、ETA(エタ)に武闘放棄を呼び掛けた。その3日後にETAが宣言に踏み切ったわけだ。

  1年ちょっとさかのぼる2010年9月25日、バスク州の主要な政治家らがゲルニーカに集って、「ゲルニカ合意(アクエルド・デ・ゲルニーカ)」 を結んだ。ETAに武闘恒久放棄を呼び掛け、スペイン政府には獄中にいるETA要員の身柄をバスク州内の刑務所に移すよう要求した。その延長線上に「サンセバスティアン会議」があった。

  ETAの宣言を受けて10月22日土曜日、数万人の市民がバスク州中心都市ビルバオの中心街をデモ行進した。先頭には「解決が必要だ」とバスク語で書かれた巨大な横断幕が掲げられていた。デモ隊代表は、次のような要求を盛り込んだ声明を発表した。

  一つ、スペイン、フランス両国政府にETAとの対話を求める。
  一つ、武闘は終わっても、政治闘争は終わらない。
  一つ、囚人(ETA要員)の人権を尊重せよ。
  一つ、政府は、北アイルランド和平を達成した英国政府のような対応をすべきだ。
  一つ、来年1月7日、デモ行進をしよう。

  私はフランコ時代末期、フランス南部でETA若手幹部とインタビューしたことがある。当時のETAは、フランコ独裁体制への抵抗者と見なされ、広範な支持と共感を得ていた。だからこそ、私のような外国人記者に会見取材が可能だった。90年代にはバスク州の主要な政治家やETA公然部門と見られていた政党の指導者とインタビューした。

  エスパーニャ(スペイン)とイスパノアメリカ(スペイン系米州)の歴史は長らく表裏一体だった。現代でも、切っても切れない関係にある。ラ米学徒はイベリア半島情勢を常に観察していなければならない。ETAの恒久武闘放棄宣言は、ラ米学徒にとっても印象深い。希望が恒久化するのを祈りたい。 

(2011年10月23日 伊高浩昭) 【私のバスク取材については、拙著『ボスニアからスペインへー戦(いくさ)の傷跡をたどる』(2004年、論創社)を参照されたい。】  

米州新聞協会

  米州(ラス・アメリカス=南北両米大陸およびカリブ海地域)には、米州新聞協会(SIP=シップ)がある。新聞経営者と編集主幹らの組織である。東西冷戦時代には、米政府の意向に沿って、反共主義で凝り固まっていた。冷戦が終わって20年余り、反・新自由主義や反米・嫌米の国々のメディア政策への批判ないし非難が目立っている。

  SIPの第67回総会が10月18~19日、ペルーの首都リマで開かれた。会長が、グアテマラ紙「21世紀」の編集幹部ゴンサロ・マロキンから、ワシントンポスト編集幹部ミルトン・コールマンに移った。伝えられるところによると、マロキンは開会演説で、ベネズエラ、アルゼンチン、ニカラグア、エクアドールの名前を挙げて「自由の約束を裏切った」と非難し、「当面の報道の自由の敵は、組織犯罪と専横政権だ」と指摘した。

  新会長コールマンも、「ベネズエラ、エクアドール、ホンジュラス、アルゼンチン、ボリビアなどで言論の自由が挑戦を受けている」と、就任演説で語ったと伝えられる。総会決議には、「エクアドールでは言論の自由が失われつつある。チャベス・ベネズエラ政権は専横政権だ。アルゼンチン政府のメディア介入が目立っている」などの文言が盛り込まれたという。

  言論の自由は基本的人権としては不変だが、時代や政治体制の変化に影響される。武力革命でカストロ兄弟政権の生まれた社会主義キューバを除いては、SIPの新旧会長が国名を挙げた国々の政権は普通の選挙で選ばれている。「米州ボリバリアーナ同盟(ALBA=アルバ)」を構成するベネズエラ、ボリビア、ニカラグア、エクアドールなどラ米左翼諸国では、「現代風の人民民主主義」とも言うべき「人民参加型民主主義」が支配的だ。それが、強力な指導者の下で、貧しい多数派の意思として表明されている。

  東西冷戦は終わったが、欧米型民主制度とくに米国式のそれに忠実なSIPは今や、人民参加型民主主義体制に対し、新たな冷戦を挑んでいるかに見える。米国務省の干渉政策と酷似している。「新聞経団連」の性格の強いSIPであるからには、当然の傾向と言えるかもしれない。

  敢えて付記すれば、欧米型民主制のラ米諸国の記者たちの多くは、SIPの主張にほとんど無関心なのだ。ラ米の多数派である貧困層にとって重要極まりない「社会正義」や「変革(富の公平な分配)」などの価値をめぐる欺瞞が、ALBA諸国よりも欧米型民主制諸国に強く深いことに気づいているからではないか。

  SIPの次回総会は、サンパウロで開かれる。

(2011年10月23日 伊高浩昭)
  

  

2011年10月21日金曜日

かくも遠く遅き謝罪

  1954年6月27日、グアテマラのハコボ・アルベンス大統領の改革政権は、米政府の陰謀による軍事侵攻で倒された。時は、1944年10月20日の「グアテマラの春」と呼ばれた民主化の始まりからほぼ10年経っていたが、2代の政権による改革政策は流血の侵攻で消え去ってしまった。
  改革の柱は、スペイン植民地時代に始まる大土地所有制を廃止し、本来の土地所有者であるマヤ民族をはじめとする貧しい農民たちに配分するための農地改革だった。米国の国策会社ユナイテッドフルーツ社(UFC)は最大の地主だったが、土地を接収されて怒った。
  当時はアイゼンハワー米政権時代だったが、UFCは密接な利害関係を持っていたジョン・ダレス国務長官に働きかけ、政変を画策する。ダレスはCIAに命じ、CIAは堕落したグアテマラ軍人らを隣国ホンジュラスに集め、軍事訓練を施してグアテマラに侵攻させた。
  侵攻軍は米軍機の空爆に支援されて攻勢をかけた。アルベンス政権はもろくも崩れ、多くの支持者が殺されていった。生き残った改革派の軍人や市民はゲリラとなった。1959年元日キューバ革命が成功するとゲリラは勢いづき、60年、親米右翼政権の打倒を目指してゲリラ戦に入った。 
  この内戦は1996年まで36年も続き、米政府の支援を受けた軍・警察が攻勢を維持した。25万人が命を落としたが、その多くは、軍・警察の殺戮作戦による犠牲者だった。
  アルベンスは政変後メキシコに亡命し、1971年失意のうちに死んでいった。生存している遺族は息子ハコボ・アルベンス=ビラノーバと、孫、曾孫たちだ。

           ×                ×               ×

  「グアテマラの春」開始からちょうど67年経った2011年10月20日(「1944年革命の日」)、グアテマラ市の大統領政庁で重要な儀式が執り行なわれた。
  アルバロ・コロム現大統領が遺族を招いて、あの政変について公式に謝罪したのだ。コロムは次のように述べた。

  「私は国家元首、共和国大統領、国軍最高司令官として、1954年6月27日に起きた一大犯罪について謝罪したい。あれは、アルベンス大統領夫妻と家族への犯罪であると同時に、グアテマラにとって歴史的犯罪だった。あの日グアテマラは変わってしまい、いまだに回復していない」
  「グアテマラの悪人たちとCIAが犯したグアテマラ社会への犯罪だった。民主の春を受け継いだ(アルベンス)政権への侵略だった」
  「悲劇は1954年に起きたが、グアテマラ人民は36年間の内戦で25万人が死ぬという代償を払った」

  あまりにも遠く遅い謝罪だった。だが歴史的謝罪だった。

  コロムは来年1月14日、政権を後任に渡す。9月11日の大統領選挙で過半数得票に達しなかった上位2人が11月6日の決選投票に臨む。悪名高い極右の元将軍オットー・ペレス=モリーナと、成金実業家で右翼のマヌエル・バルディソーンだが、このどちらからも政変の謝罪など到底望めそうもない。コロムは、政権の末期に歴史的使命を果たしたのだ。

  思い出すのは、1999年3月グアテマラを訪れた当時の米大統領ビル・クリントンが、米大統領として初めてグアテマラへの犯罪的干渉を謝罪したことだ。クリントンは以下のように述べた。

  「米国がグアテマラ内戦中に、報告されているような弾圧に関与し、軍や諜報機関を支援したのは誤りだった。このことを私が明言するのが重要だと確信する」

  クリントンは内戦中の米政府の関与について謝った。だが、内戦の契機となった1954年の政変については謝らなかった。コロムは、おそらくそのことを念頭に置きつつ、米国の分まで謝ったのではなかったか。(2011年10月21日 伊高浩昭)