2012年5月31日木曜日

キューバで半世紀ぶり、電話帳に民間広告

☆★☆キューバ国営の電気通信会社(ETECSA=エテクサ)の電話帳に自営業者の広告が載ることになった。<民間広告主>の広告が電話帳に掲載されるのは半世紀ぶり。同社が5月30日、記者会見し明らかにした。

★昨年末現在、自営業者は34万人で、年末に広告を13日間募集したところ、約500人が契約を結んだ。極めて少ないが、半世紀ぶりの<初体験>で、戸惑いが大きいのが原因と、同社は観ている。

☆固定電話は全国に約100万台あり、そのうちハバナには25万5000台がある。電話帳も同じ数あり、ハバナでは広告料は1020CUC(クック=兌換ペソ、約1000ドル)になるという。

★2013年度版の電話帳への広告募集は6月半ばから10月半ばにかけて行なわれる。エテクサは、来年版の民間広告は大きく増える、と期待している。

☆ラウール・カストロ議長の政府は、社会主義経済体制の活性化のため、慎重ながら一部に市場原理を導入しつつあり、広告もその一環。

演劇「シズウェは死んだ」を観る

☆★☆★☆アパルトヘイト(人種隔離)体制時代の南アフリカ共和国では、信じがたいほどひどいアフリカ人差別が制度化されていた。その実態のひとかけらを描いた演劇「シズウェは死んだ」を5月29日、赤坂のレッド・シアターで観た。

★製作を担当した渡辺江美さんが率いる地人会新社の記念すべき第1回公演として演じられた。5月10日が初日で、31日が千秋楽。最終公演の3回前の芝居を観たのだが、台詞や仕草が板についていて、観やすかった。

☆南ア人アソル・フガードの原作で、ジョン・カニとウィンストン・ヌッショナが1972年に南アで初めて演じた。日本では87年に木村光一演出により、「こんな話」として地人会(当時)が公演したのが最初だ。この種の演劇を<陳述劇>と呼ぶそうだが、今、演じているのは川野太郎と嵐芳三郎だ。

★少数白人支配時代の南アでは、絶対的多数派のアフリカ人を、地図上の<しみ>のような国内10カ所の種族別居住地域(ホームランド)の<国民>とし、<白い南ア>から黒人を皆無にしてしまおうという、途方もないファシズム政策が本気で考えられていた。アフリカ系は「パス」という、戸籍、住民票、就職歴などを兼ねたパスポート型の重要書類の常時携行を義務づけられていた。

☆この芝居の物語は、シスカイという「独立したホームランド」への<帰国>を迫られているシズウェという老人が、ブンツゥという男の機転で窮地を脱するという、パス法絡みの話だ。

★シスカイは81年12月4日、南アから<独立>させられた。その数日前、私は駐在していたヨハネスブルクからイーストロンドンに飛び、そこから陸路キングウィリアムズタウンに移動して、<独立式典>を取材した。芝居の舞台は、イーストロンドンの西南西にあるポートエリザベスである。

☆フガードは、シスカイ<独立>を受けて、原作をわずかに書き直したのだろう。芝居を観ていた間中、3年余り費やした30年前の南ア取材時代が重く、かつ懐かしく、私にのしかかっていた。

★素晴らしい演劇だった。地人会新社の第2回公演は、来年4月の「根っこ」だ。これも観応えのある作品になるに違いない。(問い合わせは同社、03-3354-8361)

【参考文献】伊高浩昭著『2010年の南アフリカ』(2010年、長崎出版)、伊高浩昭著『南アフリカの内側-崩れゆくアパルトヘイト』(1985年、サイマル出版会)。

2012年5月30日水曜日

イランがニカラグアへの債権を放棄

▽▼▽イランのアリ・サイドルー副大統領(国際問題担当)は5月29日マナグアでダニエル・オルテガ大統領と会談し、1億4600万ドルの債権を放棄する、と述べた。両国経済関係の拡大強化を図るため、という。

▼同副大統領は、テヘランで8月30~31両日開催される第16回非同盟諸国首脳会議への大統領の出席を要請した。オルテガは、これを受け入れた。

▽サイドルーは、ニカラグア訪問に先立ち、キューバを訪れた。

2012年5月28日月曜日

6月5日に「金星通過」-コロンビア天文台が発表

☆★☆コロンビア国立大学天文台は5月25日、地球・金星・太陽が一直線に並ぶ「太陽面の金星通過」が6月5日あり、コロンビアでは一部地域で観測可能と発表した。日本、フィリピン、豪州などでは十分に観測できるとしている。

★日本時間1900過ぎから6時間余り観測可能、という。この「金星通過」は前回が04年6月8日で、次の次は何と2117年12月11日になるという。

立教大学で「キューバの恋人」上映会

☆★☆立教大学ラテンアメリカ研究所主催で5月26日、日玖合作映画「キューバの恋人」の上映会が催された。大教室がほぼ埋まる盛況だった。

★故黒木和雄監督の作品で、キューバ革命10年目の1968年にキューバで撮影され、69年に完成し日本で公開された。若き日の津川雅彦が演じる「休暇中の船乗り」が主役だ。

☆何も知らない日本人青年に、一時的に恋人になった革命の申し子が、キューバ革命のゆかりの地や出来事を案内する教育的内容だ。だがフィデル・カストロ首相兼革命軍最高司令官(当時)の演説、チェ・ゲバラの生前の演説と自発労働の姿を含め、さまざまな興味深い場面が次々に紹介される。物語の進行とは別に、44年前のキューバ社会を象徴的に記録した貴重な映像でもある。

★なかでも日本人に新鮮なのは、「米国ないし、その手先による軍事侵攻」に備えて日々訓練する民兵たちの姿だろう。実は「恋人」は、筋金入りの民兵だった。船乗りの青年は「キューバ革命の化身」に恋をして、別れなければならない運命に陥ったのだ。

☆6月9日には、この映画の続編「アキラの恋人」が上映される。立教大学池袋キャンパス14号館D301号教室で、1700~2000。入場無料・予約不要・先着200余人。上映後には、この映画が製作された背景の説明、対談、質疑応答が行なわれる。

2012年5月25日金曜日

映画「ムシュー・ラザール」を観る

☆★☆フィリップ・ファラルドー監督の2011年作品(カナダ映画)「ムシュー・ラザール」を5月21日、試写会で観た。モントリオールの小学校が舞台。女性教師の自殺を受けてアルジェリア出身移民の男性が後任に収まる。この教師を中心に児童、校長をはじめとする教員たち、保護者がさまざまなドラマを繰り広げる。「善意」と規則の衝突、移民問題など重厚なテーマが軸。

★雑誌に映画評を書くため、これだけに留めておきたい。7月に公開される。極めて人間的で、出来のいい映画だ。多くの人に見てほしい。

2012年5月23日水曜日

ドミニカ共和国大統領選挙で政権党勝つ

▼▽▼レプーブリカ・ドミニカーナ(RD=ドミニカ共和国)で5月20日大統領選挙が実施された。21日結果が判明、政権党ドミニカーナ解放党(PLD)のダニーロ・メディーナ氏(60)=経済専門家=が得票率51%(226万票)で当選した。対立候補の野党ドミニカーノ革命党(PRD)のイポリト・メヒーア元大統領(71)は、47%(207万票で)及ばなかった。他に候補者4人が出馬した。

▽棄権率は30%だった。新大統領は8月16日就任する。任期は4年。副大統領には、レオネル・フェルナンデス現大統領のマルガリータ・セデーニョ夫人が就任する。既に3期務めてきた同大統領は、4年後の出馬に布石していると見られている。

▼メヒーアは22日、選挙結果を認めながらも、政権党によるPRD支持者買収、PRD幹部逮捕、政府によるマスメディア操作、大統領の干渉などの不正があった、と批判した。

▽PLD現政権は、米国・中米・RD自由貿易協定(CAFTA・RD=カフタ・エレデ=)加盟、
2010年1月大震災に見舞われた隣国ハイチ支援などで存在感を示し、選挙前から「やや優勢」と伝えられていた。その「優勢」報道をメヒーアは、「政府による操作」と見ているわけだ。

▼今年ラ米では、7月1日メキシコ、10月7日ベネズエラと、重要な二つの大統領選挙が実施される。

2012年5月22日火曜日

ガルシア=マルケスがC・フエンテスの思い出綴る

☆★☆メキシコ在住のコロンビア人作家ガブリエル・ガルシア=マルケス(GGM)と、5月15日死去したメキシコ人作家カルロス・フエンテス(CF)は親交があった。GGMはメキシコのラ・ホルナーダ紙に1988年6月26日、フエンテスとの交友について随筆風の記事を書いたが、同紙はフエンテスの死に際し19日、その記事を再録した。GGMは敢えて新しい記事を書かずに、再録を希望したのだろう。以下は、その記事の要旨である。

★私とCFとの付き合いは1961年8月メキシコ市で始まった。その2か月前に私は、発表する当てのない小説と映画制作の構想を抱いてメキシコにやって来ていた。「ヌエバ・シネ(新しい映画)」作りに熱意を抱く作家たちが集まるコルドバ街の「ドラキュラ城」で、私たちは出会った。

☆当時の私は、CFの『ラ・レヒオン・マス・トランスパレンテ(最も透明なる地域)』(邦題「澄みわたる大地」)を読んでいた。驚いたことに、私がボゴタで書いていた初期の小説2作を彼が読んでいたことだ。ほとんど知られていなかった作品を彼が本当に読んでいたのを知ったのだが、このことが私たちの友情を長らくつなぎとめる基盤となった。

★1968年12月のこと、私たちはプラハで摂氏120度のサウナに入り、チェコ人から政情を聴かされていた(同年8月「プラハの春」がソ連軍に蹂躙された)。ところがサウナを出る際、冷水シャワーが出ないのを知った。私たちはモルダヴァ川の氷を割って川水に浸かった。死ぬかもしれなかった(GGM一流の幻想的リアリズモか)。

☆だが、そのような思い出よりも記憶に残るのは、CFが無名の作家志望者から送られてくる原稿を読んでは、出版社にかけ合っていたことだ。人は誰でも人類全体のために責任を負う、ということを彼は知っていたのだ。それがCF文学に込められた哲学だった、と思う。

★CFは、作家だけが住む理想的な地球を思い描いていたようだ。「それは既にあるさ、地獄だよ」と私が冗談で言うと、彼は冗談とは受け止めなかった。それほどまでに彼の文学救世主的運命は留まるところをしらなかった。だから彼は、二重の意味でいい作家なのだ。

2012年5月19日土曜日

月刊誌『LATINA』創刊60周年、通算700号!

☆★☆★☆月刊誌「LATINA」が5月、前身の「中南米音楽」創刊から数えて60周年、通算700号に達した。18日刊行された記念特集号の表紙には楽譜、ト音記号、ポルトガル語などがデザインされていて、いかにもこの雑誌らしく洒落ている。定価は600円、時とともに値打ちが増すだろう。

★特集記事は、過去60年間のラテンを中心とする世界の音楽についての座談会、来日したアルティスタの写真で60年を振り返るラ米音楽史、日本でラテン音楽を作ってきた人物60人、印象深かったラテン音楽コンサート、世界音楽名盤700選など、好記事が満載されている。

☆「ラ米乱反射」を連載して76回目になった筆者(伊高浩昭)は、1952年4月のボリビア革命以後60年間のラ米情勢を綴った。これも記念特集の一環だ。いつもより2p多い6pになった。

★「印象深いコンサート」では、往年の日本人タンゴ女王・藤沢嵐子が登場する。ペロン大統領の前で、「ママ、恋人が欲しいの」を歌って本場アルゼンチンで大評判になった名歌手だ。まさに嵐のように、タンゴ旋風が巻き起こった。70年代初めのブエノスアイレスで筆者は、地元民からよく、「ランコは元気か」と訊かれたものだ。

☆アルゼンチン大統領の専用機の名前は「タンゴ#1(ヌメロ・ウノ)」。このほどアンゴラを公式訪問したクリスティーナ・フェルナンデス=デ・キルチネル大統領は、タンゴダンサー2組を随行団に加え、アンゴラのジョゼ・ドサントス大統領の前でタンゴの踊りを披露した。

★ラテンをはじめ世界の音楽情報を伝える「LATINA」だが、十八番中の十八番は亜国のタンゴだ。この特集号を手にしただけで、タンゴの音色が聞こえてくる。

2012年5月18日金曜日

誰がビクトル・ハラを殺したか?

▼▽▼チリの著名なカンタウトール(シンガー・ソングライター)ビクトル・ハラをピノチェークーデター時に殺害したのは誰かー。チリのテレビ放送チレビシオンは5月16日、報道番組「焦点」でこの問題を取り上げ、容疑者と目される人物を取材し、映像とともに報じた。

▽その人物は、米フロリダ州に住む自動車販売業者の、ペドロ・バリエントス元チリ陸軍中尉。番組取材班は、2009年にハラ殺害者の一人として収監された元徴兵新兵ホセ・パレデスの、「私がハラを撃った時には、ある士官が至近距離から撃ったことによりハラは既に死んでいた」との証言に基づき、元士官を取材することにした。

▼パレデスは、今回の番組にも登場し、「バリエントスは国立競技場でハラの名を呼んだところ無視されて激怒し、ハラを撃った」と語っている。ハラは1973年9月11日の軍事クーデター直後に首都の技術大学(現サンティアゴ大学)キャンパスで逮捕され、政治囚臨時収容所にされていた競技場に連行された。ギターを弾けないようにと両手を痛めつけられるなど拷問され、9月16日殺害された。

▽バリエントスは当時、競技場を管轄していた陸軍連隊に所属し、新兵パレデスはその護衛官だったという。

▼取材班はフロリダ州でバリエントスに直撃インタビューしたが、バリエントスは「私は当時、競技場にいなかった。ハラを殺していない」と否定した。チリ司法当局はバリエントスに召喚命令を出し、2010年にはFBIにバリエントスへの尋問を要請した。今月初めにFBIは尋問したという。

▽取材班が「召喚に応じるか」と問うたところ、バリエントスは「応じたくない」と答えた。

▼チリ司法当局は09年6月、首都の一般墓地の墓からハラの遺体を取り出した。解剖したところ、銃弾44発を受けていたことがわかった。士官数人とパレデスが殺害の容疑者とされた。

▽ハラは、キューバ革命後にラ米で生まれ拡がった「ヌエバ・カンシオン(新しい歌)」の旗頭で、ラ米や欧州で絶大な人気を誇っていた。1970年のサルバドール・アジェンデ大統領の当選に貢献した。詩人パブロ・ネルーダと同じ共産党員で、ネルーダのノーベル文学賞受賞祝賀大集会が競技場で催された際、司会を務めた。1990年の民主化後、競技場にはハラの名前がかぶせられた。

2012年5月17日木曜日

キューバ映画上映会

☆★☆5月26日(土)1700~2000、立教大学池袋キャンパス14号館D301大教室で、故黒木和雄監督1969年作品、津川雅彦・オブドゥリア・プラセンシア主演、日玖合作『キューバの恋人』の上映会と、背景についての伊高浩昭による講演があります。入場無料、予約不要先着順です。上映に先立ち、寺島佐知子が映画紹介をします。

★次いで6月9日(土)1700~2000、同じ場所で、マリアン・ガルシーア監督2011年作品、キューバ映画『アキラの恋人』の上映会、寺島の映画紹介、伊高と寺島の対談があります。これも先着順、無料です。

☆問い合わせは、立教大学ラテンアメリカ研究所 late-ken@grp.rikkyo.ne.jp です。

2012年5月16日水曜日

作家カルロス・フエンテス死去

▼▽▼メキシコの作家カルロス・フエンテス(83)が5月15日、メキシコ市内の病院で死去した。死因は、潰瘍破裂による大量出血という。自宅で通夜、16日には中心街の国立文化殿堂で告別式が行なわれた。フェリーペ・カルデロン大統領夫妻、文化人ら多数が参列した。火葬された後、遺骨はパリのモンパルナス墓地の家族の墓に納められる。

▽フエンテスは『ラ・レヒオン・マス・トランスパレンテ』(1958年、邦題「澄みわたる大地」=寺尾隆吉訳、2012年、現代企画室)で世に出た。キューバ革命(59年元日)後の60年代に始まった「ラ米新文学」の先駆けであり、旗頭の一人だった。『アルテミオ・クルスの死』(62年)もベストセラーになった。

▼ロムロ・ガジェゴス賞(77年)、メキシコ文学賞(84年)、スペインのセルバンテス賞(87年)、スペイン皇太子文学賞(94年)などを受賞した。ノーベル文学賞の候補でもあった。

▽私は68年のメキシコ五輪大会直前まで、メキシコ人学生らが、当時の封建的なPRI(制度的革命党)体制に反逆した一大運動を取材する過程で、フエンテスの邸宅で連日のように開かれていた知識人、学生指導者、ジャーナリストらの会合でフエンテスを取材した。インド駐在大使だったオクタビオ・パスが会合に参加したこともあった。当時39歳だったフエンテスは、長髪、長もみあげ、メキシカンブーツ姿の精悍な知識人だった。

▼当時、私はメキシコ国立自治大学(UNAM=ウナム)哲学文学部の聴講生でもあり、『澄みわたる大地』を原語で読んでいた。最初が特に難解で、辞書を引きっぱなしだった。1ページ進むのに何日もかかった。「フエンテスの頭の中はどうなっているのか」と、恨めしく思ったものだ。

▽それがいま、日本語で読めるようになった。私は『澄みわたる大地』日本語版を、書評を書くために読んでいる最中に、フエンテスの死を知った。かすかに因縁を感じる。

マヤ民族活動家ロサリーナ会見記

☆★☆グアテマラのマヤ民族の活動家ロサリーナ・トゥユクさんと5月15日、新宿でインタビューした。ある平和賞を受賞するための来日で、17日には帰国の途に就く。

★内戦中の1988年に「グアテマラ・ビウダ全国連絡会議」(CONAVIGUA=コナビグア)というNGOが生まれた。「ビウダ」とは、この場合、内戦で夫を殺された女性<未亡人>を意味する。

☆ロサリーナは最高幹部の一人で、96~2000年には国会議員も務めた。現在は、コナビグアの経理を担当する幹部である。過去に多田謡子反権力人権賞を受賞している。

★インタビュー記事は、月刊「LATINA」7月号に掲載する。

沖縄<施政権返還>40周年

▼▽▼日本が明治維新後、強引に日本領とした琉球(沖縄)は、太平洋戦争敗戦の1945年、米軍に占領され、施政権は日本から米国に移った。それが27年後の72年5月15日、日本に返還された。<沖縄の日本復帰>である。政府は事実関係を矮小化して<本土復帰>という不正確な用語をはやらせ、多くのマスメディアがこの言葉を用いた。施政権は沖縄と本土の間の問題ではなく、日米間の問題だった。日本から奪われ日本に還ったのであり、<日本復帰>が正しい。その施政権が日本に返還された日から40年が過ぎた。

★私は77年初めから79年末まで3年近く通信社の那覇支局員として、復帰から5~7年の沖縄情勢を取材し報道した。政府は軍事植民地状態を維持するため、沖縄経済を自立させない経済援助を続け、思想と制度の面では沖縄の日本化を推進していた。沖縄の<同化>に躍起となっていたのだ。

☆ウチナーンチュの記者たちから<ヤマトンチュ>とけなされ、毎夜、酒場で喧嘩や論争を吹っ掛けられた。そうするうちに理解し合って、多くの友人ができ、友情は今日まで続いている。

★この40年間、知事選は革新4勝、保守7勝。知事在職期間は革新14年、保守26年である。現在の保守・仲井真知事になってから、保守知事でありながら、米海兵隊普天間航空基地の辺野古移転に反対を表明するようになった。それまでの20年余りの保守県政は、対米従属主義の自民党政権と歩調を合わせて米軍基地の存在をやむなしとしていた。

☆いまや沖縄の生活は相当に豊かである。特に第三世界諸国の状況と比べるのが無意味なほど発展している。その発展の過程で、有権者の過半数が保守の知事をより多く選んできた。現在の知事が普天間問題で政府に<異議>を唱えたのは、沖縄の県民生活の向上と無縁ではないだろう。

★沖縄経済は依然自立していない。だが生活はかなり豊かになった。いまこそ政治面で主張すべきだという次元に達したのではないだろうか。政府の長年の分断統治策は効力を失いつつある。保革が本気で一致して声を大にすれば、軍事基地は動かざるを得なくなるだろう。

☆<心あるヤマトンチュ>は、政府と沖縄保守県民・政界の、軍事基地維持における<共犯性>に長らく疑念を抱き、心を痛めていた。この<共犯性>は、沖縄保守の変化によって薄れてきた。

★現実問題として日本は、海軍増強などによる軍事圧力と尖閣諸島領有権問題で中国から揺さぶられている。沖縄は、その最前線にある。中国には人口圧力もある。「沖縄・日本」対「中国」という、<一衣帯水の宿命>である。だが<宿命>も長期的には変化しうる。

☆現時点で考えられる打開策は、沖・日がじっくり話し合い、その結果を踏まえて日米が協議を重ね、沖縄から米国の海兵隊および陸軍の基地をなくしていくことだろう。そのためには、沖縄と本土の世論が一致しなければならない。米海空両軍の基地の扱いは、将来の課題となる。日米協議では、政府間だけに限らず、有権者の代表である国会議員同士の協議が不可欠だ。

★沖縄における自衛隊基地の在り方も当然、関連付けて協議されなければならない。

☆復帰40周年に際して、沖縄について書いた。上記の矮小化に関連してもう一例挙げれば、日米安保条約に付随する「在日米軍地位協定」を、政府は「日米地位協定」と訳し、メディアもこれに追随している。この協定は「日米」ではなく、「在日米軍」の地位に関するものだが、政府訳では意味が極めて曖昧になる。軍事植民地状態にある政府官僚の卑屈さの顕れとも言えようか。 沖縄のメディアまでが「日米。。。」とやっているが、なぜだろうか。

【『沖縄アイデンティティー』(1986年、マルジュ社)、『双頭の沖縄』(2001年、現代企画室)、『沖縄-孤高への招待』(02年、海風書房)=いずれも拙著=参照】

2012年5月14日月曜日

ペルー大統領の日韓歴訪終わる

☆★☆ペルーのオヤンタ・ウマーラ大統領は5月8~12日、日韓両国を公式訪問した。ウマーラは13日、国内に向けて「我が国は日韓両国で高く評価されている。ペルーを一層偉大な国するため努力する」とのメンサヘ(メッセージ)を発した。

★大統領は給油のため7日立ち寄ったパリの空港から、フランソワ・オランド仏次期大統領と電話で会談し、ペルーを訪問するよう招待した。

☆東京に到着した8日、帝国ホテルでの第10回日秘企業理事会会合に出席し、「太平洋の反対側にある最良の投資先はペルーだ。制度を強化し、腐敗を退治し、環境に配慮し、人民の社会参加を促進した結果だ」と強調した。

★9日の日秘首脳会談で野田首相は、2500万ドルの借款供与を伝えた。この資金は、リマ市内の上下水道整備、環境配慮型公共交通システム導入、固形廃棄物処理システム導入、アマソニーア観光開発などに向けられる。大統領は謝意を表明し、首相をペルー訪問に招待した。

☆双方は、エネルギー、環境、技術面での協力で一致した。APEC、アジア・ラ米協力フォーラムでの関係強化でも合意した。

★ウマーラは、衆議院を視察し、皇居での昼食会に臨んだ。

☆10日ソウルでの秘韓首脳会談では、政治協議強化と経済協力強化で一致した。経済協力は生物工学、海洋科学、エネルギー、石油化学など。このほか、軍事協力も話し合われた。

【日本のメディアは、発展途上諸国の首脳来訪をほとんど報じない。メディアの一方的かつ習慣的判断で、米中など一部諸国首脳の来訪ニュースに集中し、途上国首脳の来訪を無視ないし軽視する。しかし、今回供与が決まった借款2500万ドルの出所は、我々が支払う税金が財源だ。払税者として有権者として、首脳来訪の詳細な情報を知らねばならない。メディアは単純な思い込みによる偏狭な視座を離れて、取材眼を多角的に改めなければならない。そうでないと、メディアの劣化は留まるところをしらなくなる。】

2012年5月13日日曜日

キューバ映画「ハバナ・ステイション」を観る

▽▼▽東京セルバンテス文化センターでの「キューバ映画上映会」最終日の5月12日夜、イアーン・パドロン監督の2011年作品「ハバナ・ステイション」(95分)を観た。この題名は、物語の中心的な小道具「プレイステイション」とかけてある。

▼小中学生は制服を着て、革命体制に忠誠を誓い、「チェ(ゲバラ)のようになりたい」と叫ぶ点で、皆同じだ。だが制服を脱げば、さまざまな表情が浮かび上がる。ハバナの閑静な住宅街に住む富裕な家庭の少年と、ハバナの下町に住み、父親が殺人罪で服役中の貧しい家庭の少年が、生活格差という<障害>を超えて理解し合い、友情を結ぶという物語だ。

▽1991年のソ連消滅後、経済危機に陥ったキューバは、限定的に自営業を認めるなど市場経済メカニズムを導入した。2011年4月の第6回共産党大会は、公式に市場システム導入を決めた。国外に親戚縁者を持つ者は外貨で送金を受けるし、国外で仕事する者は外貨収入を得られる。外貨、それは具体的には米ドルだが、これを持つ者は豊かになれる。持てない者は、悪戦苦闘の毎日だ。

▼キューバ社会は変わりつつあり、物質主義が色濃くなりつつある。この映画では、さまざまな場面の背景に、革命を象徴する革命広場のホセ・マルティ像、マルティ記念館の塔が映し出される。革命体制の大枠のなかで進行する経済格差は仕方がない、というメンサヘ(メッセージ)が、まず伝わってくる。

▽子供同士が友情を結ぶのは、「皆、同じキューバ人だ」というメンサヘである。制服の下にある格差は、子供の目にもはっきりと映り、もはや隠せない。学校教育上、そして社会教育上、子供たちにも格差の存在を理解させねばならなくなっているのだ。そして、格差は絶対的なものではなく、人間としては皆同じであり、努力する者は誰でも社会上昇の機会を得られる、という一つ先のメンサヘも発している。

▼「共産主義社会の平等性」という神話が崩壊したキューバ社会は、革命で曲がりなりにも達成された平等性という「同化」から今、反対の<異化>に向かいつつある。それは理解し認めなければならないものになった。監督は、そのことを社会に伝えるため子供たちに演じさせた。

▽楽観的である。その楽観性が、キューバの実社会の格差問題の複雑さと、ある種の悲観性をあぶり出す。キューバの知識人は、楽観と悲観を闘わせており、悲観の方向に陥らないよう必死なのだ。そこから生み出されたのが、このような作品なのだ。観るべき映画には違いない。

▼刑務所内の父親が息子のために作った大凧は、<不良グループ>の少年に奪われてしまう。だが奪われた少年は、闘って取り返す。一種の<勧善懲悪>主義があり、汚職など不正のはびこるキューバ社会に教訓を与えようとしている。こうした見どころもちりばめられている。

2012年5月11日金曜日

キューバ映画「カサ・ビエハ」を観る

☆★☆東京セルバンテス文化センターで5月10~12日、「キューバ映画上映会」が開かれている。初日10日夜、レステル・ハムレット監督の2010年作品「カサ・ビエハ(古い家)」(95分)が上映された。主人公はバルセローナに住みついて14年、父親が危篤のためキューバに帰ってきたエステバン。彼にとって、生まれ育ち、老父母が住む昔ながらの家は、自分が捨てた、革命体制の硬直した<古い祖国>を象徴する。

★テーマは革命、教条主義、隣人愛、集団主義、家族、対米移住希望などだが、最後に同性愛問題が大きく浮かび上がる。ラ米だけでなく世界中が依然マチズモ優位で、キューバも例外ではない。とくに武力革命で独裁を倒したカストロ兄弟体制下では、男にとってマチョであることが誇りであり<義務>だった。同性愛者への差別と懲罰的強制労働は、革命後、制度化された時期があった。

☆エステバンが帰国してすぐに老父は死ぬ。葬儀を機に、家族とエステバンの間の隔たりが明確になる。マチョマチョした兄ディエゴは、言い争いが昂じて、不和の根底に、エステバンが同性愛者という事実があるのを指摘する。その瞬間を境に、言い争いは静まっていき、理解と融和が始まるる。だが、エステバンは荷物をまとめてキューバを離れていく。

★上映後、ハムレット監督と観衆の間で30分間、質疑応答が行なわれた。監督自身、同性愛者で、質問者の一人の日本人も同性愛者だった。監督は90年代初期の、同性愛問題を取り上げた映画「苺とチョコレート」の延長線上に「カサ・ビエハ」があると位置付けた。愛と性は人間が生きるうえで最も重要なテーマだが、人間らしい生き方を至上の価値と考えるキューバ人にとっては、とりわけ重要なテーマだ。だから同性愛問題が先鋭化する。考えさせられる映画である。

☆最後には、「マドリーやパリを観たが、幸福だとは感じられなかった。やはりキューバに帰って考えてみたい」というような歌詞の曲が流れる。これは、スペインを居住地に選んだエステバンや、これから国外に移住しようとしているキューバ人へのメッセージだ。「いかにみすぼらしくとも、故郷に勝る土地はない」ということを訴えている。この「祖国帰還」を讃えるような呼びかけは、90年代からのキューバ映画によく見られる傾向だ。


☆自身が同性愛者である監督は、これまで制作した3本の作品のうちの2本で同性愛問題を取り上げた。

2012年5月10日木曜日

『田中英光評伝』を読む

★☆★高校生のころ『オリンポスの果実』を読んだ。1932年のロサンジェルス五輪に出場する日本選手団の一員である主人公のボート選手が、太平洋を渡る船内で女性に恋心を抱く。作者である田中英光(1913~49自殺)は、日本軍が対中侵略を開始したころの五輪時のエピソードを38年に書き始め、対米開戦前の40年に発表した。それを20年近く経ったころ、私は読んだのだ。

☆時代離れした、淡く、何か懐かしいような、そして杏のように甘酸っぱい思いがした。

★私は、著者であるこの作家に関心を持った。だが、大学生になり、ジャーナリズムの方向に邁進しだし、読書傾向も変化して、この作家の他の作品を読む機会はなかった。しかし、『オリンポスの果実』と、その読後感を忘れることはなかった。

☆南雲智が書いたこの評伝は、論創社から2006年に出て、同社の社長から1冊贈られた。それは自宅の本棚のどこかに眠ることになった。昨年3月の大地震と、その後の大きな余震で、本棚の本は多くが崩れ落ち、瓦礫のようにあちこちにたまっていて、いまだに片付いていない。必要な本を探すのも困難で、蔵書にあるのを知りながら、図書館から借りている始末だ。

★昨夜、連日読んでいるラ米関係の本に疲れて、何か別の種類の本が読みたくなった。何気なく<瓦礫>の隅に目をやると、赤い文字が目を射た。それが、この評伝だった。「ああ、田中英光か」と思い、『オリンポスの果実』を思い出しつつ、読み始めた。そして読み終えた。

☆田中英光という人物は、当時の日本人としては超大柄ながら、器用に振る舞える生活者で、戦時中は日本の体制の宣伝に一役買った。坂口安吾、太宰治、織田作之助らとともに「無頼派」として括られているが、実際に無頼派であったのは晩年の短い一時期にすぎない。---南雲は、そのように分析し、書き綴っている。

★ソウルが「京城」と呼ばれていた植民地時代、企業駐在員として8年間駐在した田中英光の言動が興味深い。そんな側面ならぬ大きな<正面>がこの作家にはあったのかと、新鮮だった。

☆夜半、評伝を読了したとき、この作家は、最大の作品『オリンポスの果実』とともに過去に沈んだ。

2012年5月7日月曜日

チャベス大統領がオランド氏を祝福

☆★☆ベネズエラのウーゴ・チャベス大統領は5月6日、同日のフランス大統領選挙決選で当選したフランソワ・オランド氏をトゥイッターを通じて祝福した。1981年のフランソワ・ミッテラン氏当選以来の快挙だと指摘している。チャベスは、放射線治療のためハバナ滞在中。

★チャベスは10月7日の大統領選挙で、右翼のエンリケ・カプリレス候補と一騎討ちの勝負に臨むが、フランスでの左翼勝利はチャベスに有利に作用する。6日現在の支持率はチャベス57%、カプリレス25%、他は未定。

☆チャベスは昨年、ニコラー・サルコジ仏大統領が音頭をとってNATO軍のリビア攻撃が開始され、最終的にカダフィ大佐が殺害されたことから、サルコジを激しく非難していた。


★一方、ブラジルのジルマ・ルセフ大統領はオランドに祝電を打った。エクアドールのフェルナンド・コルデーロ国会議長はトゥイッターで祝福した。

2012年5月3日木曜日

ニカラグアでボルヘ司令官の国葬

★☆★ニカラグアで5月2日、トマース・ボルヘ司令官(4月30日死去)の国葬が挙行された。政府は急遽メイデー行事を中止し、死去の日から3日間を国喪とした。その間、遺体は首都マナグアの国立文化殿堂に安置され、多数の一般人民が弔問した。棺は2日、市内の「ヨハネパウロ2世・信仰広場」に移され、告別式が行なわれた。

☆同志だったダニエル・オルテガ大統領は、弔辞で「トマースは、サンディニスタ革命を決行した長兄の一人だった」と述べ、革命司令官、内相、ペルー駐在大使などとしての貢献を讃えた。

★ペルー人歌手であるボルヘ夫人は、革命歌2曲を亡夫に捧げた。

☆キューバ、ベネズエラ、エクアドールの元首が、オルテガに弔電を打った。告別式には、キューバ革命司令官ラミーロ・バルデス(国家評議会副議長)、ベネズエラ外相ニコラース・マドゥーロ、エル・サルバドール国会議長シグフリード・レジェス、グアテマラマヤ民族のノーベル平和賞受賞者リゴベルタ・メンチューらが参列した。

★遺体は3日、マナグア湖の畔にある革命広場のカルロス・フォンセカの墓の隣に埋葬される。

2012年5月2日水曜日

ボリビアがスペイン子会社を接収

☆★☆ボリビアのエボ・モラレス大統領は、「世界労働者の日(メイデー)」の5月1日、スペインの「エスパーニャ電力網」(REE)の子会社「送電社」(TDE)を接収し、国有化すると発表した。同社は2002年の民営化によって、REEに株の99%以上が渡っていた。

★ボリビア政府は、REEおよびTDEに対し、180日以内に賠償金額を算定・提示するよう要求した。
今後は、ボリビアの「国営電力会社」(ENDE=エンデ)がTDEを管理下に置く。

☆アルゼンチン政府は4月、スペインのREPSOL社が亜国に所有していたYPF(国庫油床)社を再国有化し、国際経済界に衝撃を与えた。ボリビアは、亜国以上に明確な国有化路線に立っている。

★モラレスはこの日、「戦略的企業は国有化する」と、従来の国有化政策の継続をあらためて強調した。

2012年5月1日火曜日

トマース・ボルヘ司令官が死去

★☆★ニカラグア革命の立役者の一人、トマース・ボルヘ司令官が4月30日、マナグアの軍事病院で死去した。81歳だった。

☆ボルヘは4月6日同病院に入院し、肺の手術を受けた。だが高齢と、持病の糖尿病もあって、容体が悪化していた。

★1930年8月13日マタガルパの貧しい家に生まれた。学生時代にソモサ独裁打倒の地下活動に入り、61年、カルロス・フォンセカ=アマドールとともに、サンディニスタ民族解放戦線(FSLN=エフェエセエレエネ)を創設した。キューバで軍事訓練を受けた。

☆76年2月逮捕され、78年8月22日のエデン・パストーラ司令官(コマンダンテ・セロ)らによる国会議事堂占拠により、人質と引き換えに解放された。

★革命戦争で中心的役割を担い、79年7月のソモサ独裁打倒後は、内相を務め、レーガン米政権が仕掛けた内戦のさなか、治安確保に当たった。

☆ダニエル・オルテガ大統領中心の指導部を同志の多くが去っていくなかで、ボルヘは留まった。FSLN政権を維持するという実利主義からだった。21世紀に入ってからオルテガ政権が復活すると、ペルー駐在大使になった。

★作家、詩人としても知られた。

ベネズエラで新労働法公布

☆★☆ベネズエラのウーゴ・チャベス大統領は4月30日、新しい労働組織法に署名した。官報掲載をもって発効する。経営者側に有利だった1936年制定の旧労働法に代わるもので、労働者にかなり有利になっている。

★労働者は1200回の会合を全国で開いて討議し、2万件の要望をまとめた。その9割方が法案に盛り込まれたという。

☆新法は、妊婦に産前6週間、産後20週間の産児有給休暇を保障している。従来週44時間だった労働時間は40時間(週休2日制)が義務付けられた。乳児を持つ父母の解雇は、出産から2年間禁止される。労働者への「社会融資基金」が設立される。

★財界や、財界の大統領候補エンリケ・カプリレスは、新法に猛反発し、「チャベスの集票作戦だ」と非難している。だが労働者はメイデーで、新法とチャベスへの支持を打ち出す。

☆そのチャベスは30日、またもハバナに向かった。2月の癌再発手術後5回目のハバナ行きで、放射線治療を受けるためだ。チャベスは出発前に、神に癌克服の「奇蹟」を願った。

★チャベスまた、この日、米州人権委員会(CIDH=シダーチェ)から脱退すると発表し、国家評議会に諮問するよう求めた。諮問を待って、正式に脱退するもよう。

☆CIDHは米州諸国機構(OEA=オエア、OAS)の機関で、ワシントンに置かれている。チャベスはかねがね、米国および保守・右翼路線の意向を代弁していると同委を非難していた。「CIDHを最初に無視した国は米国だが、CIDHはワシントンにある」と、皮肉を込めて批判している。

★大統領選挙が迫りつつある昨今、同委がベネズエラの人権批判をしていることから、チャベス派はCIDHを「カプリレス支援の狙いが明白」と非難していた。