2012年1月30日月曜日

キューバ共産党全国会議終わる

▼▽▼キューバ共産党(PCC)の第1回全国会議は1月29日、前日から2日間の日程を終えた。ハバナ市内の会議殿堂で開かれ、代議員811人が参加し、市場原理を取り入れた経済改革政策への党の関わり方、党と政府との役割分担の明確化、綱紀粛正などを討議した。

     具体的決定の一つは、昨年4月の第6回党大会で決議された党・政府・国家機関の役職の任期。「一人1期5年、連続2期まで」が追認され、今後実施されることになる。また、「党員資格を公職に就く条件から外していく」方針も決まった。

     また、中央委員(現在114人)を次回党大会(2016年予定)までに20%を若返らせることを決めた。政治局(現在14人)に対しては、党の構造と規約に必要な改革を行なうよう求めた。

     中央委員には、1953年7月26日のモンカダ兵営襲撃蜂起に参加した弁護士メルバ・エルナンデス、代表的な知識人アルマンド・ハルト、革命司令官ギジェルモ・ガルシアら、高齢の革命第一世代が名を連ねている。彼らも<勇退>の対象になる。

     過去には、革命の最高指導者フィデル・カストロ氏(前国家評議会議長、85)が半世紀にわたって最高指導者の地位にあったため、役職に期限を設けることができなかった。このため人事が停滞し、現在の最高指導部は平均80歳という高齢で、<ヘロントクラシア=老人政治>と批判されてきた。

     ラウール・カストロ第1書記(国家評議会議長、80)は、45分間の閉会演説で次のような諸点を強調した。

     「共産党一党体制で社会主義を継続し完成させていく。他党の合法化は、帝国主義政党の国内進出を許すことになる。一党体制は、帝国による侵略に対し、団結と主権を維持するための戦略的武器なのだ。複数政党制はデマゴギーと政治商業化の遊びであり、経済・金融の選良が政治権力を握り、人民大衆は排除される。それゆえに一党体制を守る」

     「だからこそ党員は模範にならねばならない。党と人民が広範な意見交換をし、職業的に優れた報道機関を備えて、キューバを一層民主的な社会にする」

     「腐敗は革命の大敵だ。貧者の貧者による貧者のための革命は、指導部が腐敗すれば崩壊する。腐敗党員は罰せられ、党から追放される。我々は腐敗との闘いに勝つ」

     「党は法的でなく道徳的力として、行政でなく政治管理の任務を遂行する。党は、マンドニズモ(横柄に威張ること)を捨てなければならない」

     「革命の成否は、革命体制50余年の過ちを正せるか否かにかかっている。革命を為した世代が自ら犯した過ちを修正する。我々はもはや若くはなく、この最後の機会を生かさねばならない」

     「米国の陰謀、それと連携する勢力およびメディアを糾弾する」

     「革命の基本的イデオロギーであるマルティ思想、マルクス・レーニン主義を守りつつ、新しい発想を採り入れる。祖国・革命・社会主義が一体化して機能するーこれが基盤だ」

     全国会議は、「インターナショナル」の合唱で幕を閉じた。

世界社会フォーラム(FSM)終了

☆★☆ブラジルのポルトアレーグレで1月24日から開かれていた「世界社会フォーラム(FSM)」の特別版「テーマを定めた社会フォーラム(FST)」は29日終了した。活動家2000人、一般市民4万人、インターネット使用者10万人が参加した。

     FSTは、6月にリオデジャネイロで開かれる「リオ+20首脳会議」と並行してFSMが同市で開く「人民サミット」の議題や戦略を中心に話し合った。

     最終日の29日には、「文化」も議論された。「経済、社会、環境に次ぐ第4の議題として文化を加えるべきだ。環境を破壊しない新しい開発モデルを探る過程で、文化が取り上げられていない。価値観を変えずに開発モデルを変えることなどあり得ない。文化も技術の変化とともに変わる。文化はいまイデオロギー闘争のさなかにあるが、文化を議題として取り上げよう」ーこのような意見が出された。

     ポルトガルの社会学者ボアヴェントゥーラ・デソウザ=サントスは、「大資本は、<緑の経済>が大きな商売になることに気付いた」と指摘。フランス人でATTAC代表のベルナール・カッセンは、「資本家が<緑の経済>に抱く意図は、環境の脅威を金に変えることだ」と批判した。

     FSMは年内にチュニジア、スペイン、カナダで分会を開き、来年はカイロで大規模なフォーラムを開くことにしている。

エクアドールでエロイ・アルファロ将軍惨死100周年式典

▼▼▼「自由主義革命」でエクアドールの近代化に努めたエロイ・アルファロ将軍(1842~1912)が、暴徒に惨殺されてから1月28日で100年が過ぎた。この日、太平洋岸の将軍の出身地モンテクリスティ(シウダー・アルファロ)で、ラファエル・コレア大統領と全閣僚が出席して記念式典が催された。

    自由主義者アルファロは1895年、キトを中心とするアンデス高地の保守勢力に対し戦いを挑んだ。この「自由主義革命」に勝って政権を掌握した将軍は、1897~1901年、1906~1911年の2期、大統領を務めた。

    任期中、自由主義憲法を制定し、電気と電話の導入、海岸地帯と高地を結ぶ鉄道の建設、教育とカトリックの分離などを推進した。このため保守派の敵が少なくなかった。

    2期目の末期、軍事クーデターで政権を追われ、国外に亡命する。だが国内の同志たちに促されて1912年に帰国したところ、政敵の政権に逮捕され、身柄をキトに送られて、同志6人とともに刑務所に入れられた。

    同年1月28日、7人は政権に扇動された暴徒によって刑務所から引き出され、惨殺された。死体は市内のエル・エヒード公園まで引きずられていき、その公園で焼かれた。この事件は「野蛮な焚火」という歴史用語で、人々に記憶されている。

    エクアドール史上最大の政治家との聞こえが高い。1983年には中産層出身の大学生らが「アルファロ・ビーベ、カラホ!(「どっこい、アルファロは生きている」、AVC=アベセ)」という都市ゲリラ組織を結成した。

    レオン・フェブレス=コルデロ大統領の圧政下(1984~88)で、AVCの活動は、断続的ながら激化した。だが幹部約40人が掃討され、1990年前後に活動を終えた。

    AVCは結成後間もない1983年8月、グアヤキル市立博物館からアルファロの剣を盗み去った。隣国コロンビアの都市ゲリラ「4月19日運動(M19)」がシモン・ボリーバルの剣を盗み去ったのに倣ったのだ。AVCは、「この国に本格的な変革政権が出現するまで剣は返還しない」との立場をとっていた。

    2006年、コレアが変革政権樹立を掲げて大統領選挙に出馬すると、AVCは社会運動組織として、コレア陣営に参加する。アルファロ没後100周年のこの日、AVCはアルファロの剣をコレア大統領の前で正式に返還した。

    コレアは記念演説で、「アルファロは我々の市民革命に閃きを与えつつ、かつてなかったほどに生きている。この国の人民に近代化をもたらし、尊厳と自信を与えてくれた。あなたは終生戦いつづけた。あなたを殺害した者たちは、今日、我々に対して陰謀を企てる者と同じ種類の輩だ。暗殺者たちは闇にまぎれて無処罰になった。アルファロよ、今日我々は、同じ敵を持つ光栄に浴している」と述べた。

    コレアは翌29日には、エル・エヒード公園を訪れた。

2012年1月29日日曜日

世界社会フォーラムが人民動員を世界中に呼び掛け

☆★☆ブラジルのポルトアレーグレで1月24日から開かれている「世界社会フォーラム(FSM)」の特別版「テーマを定めた社会フォーラム(FST=フォロ・ソシアル・テマティコ)」は28日、「リオ+20首脳会議」に先立つ6月5日、「地球温暖化を招いた資本制に反対し、環境・社会正義を守るため」、集会を開きデモ行進するよう、世界各地の人民大衆に文書を通じ動員をかけた。

    FSM=FSTは、リオ首脳会議と並行して、6月18~23日リオで「人民サミット」を開く。その立場は、次のようなものだ。

    「<緑の経済>は温暖化の偽りの解決法であり、生命と自然の商業化につながる<資本主義の緑化>にすぎない。これに反対し、共同利益(ビエネス・コムネス)を守る」

    「企業から独立し、人民に奉仕する国家を求める」
    
    「緊縮財政政策は、国有国民資産の民営化、賃金削減、基本的権利の制限、失業増大、資源収奪を招く。これを拒絶する」

    「銀行など金融機関、多国籍企業、巨大メディア、国際機関、その従僕に成り下がった政府は、介入政策と新植民地主義で利益拡大を図っている。そのようなやり方は戦争、軍事占領、新自由主義貿易協定、緊縮財政などを招く。断固反対する」

    26日の「市民社会と政府との対話」に参加したジルマ・ルセフ伯大統領は、リオ首脳会議時の人民参加を求めた。

    FSTには既に4万人が参加している。来年はカイロで、通常のFSMとして開かれる。


    「

2012年1月28日土曜日

グアテマラ軍政テロのリオス=モントが出廷

▼▼▽▼▼グアテマラ内戦中(1960~96)、市民殺戮の最悪時期に軍政を率いていたエフライン・リオス=モント退役将軍(85)が1月26日、法廷に初めて出廷した。

    首都グアテマラ市にある重罪を裁く法廷のカロル・フローレス判事は、「主に陸軍が犯した恐るべき犯罪は、陸軍の最高位にあったリオスの判断次第で避けられた」とし、リオスの重い責任を指摘した。

    判事はリオスに、「自発的に出廷した」として身柄を拘束せず、保釈金50万ケッツァール(約6万4000ドル)の支払いと自宅蟄居を命じた。

    担当のマヌエル・バスケス検事には、2か月以内に捜査し起訴状を作成するよう要請した。

    判事は、リオスの責任の重大さを語る際、「虐殺と人道犯罪で禁錮30年の実刑が科せられるかもしれないが、高齢ゆえに、そうならないかもしれない」と述べた。リオスの弁護士ダニーロ・ロドリゲスは、「公判開始前に禁錮刑に触れた」として、判事を告訴する構えを見せている。

    リオスは、1982年3月から83年8月まで軍政を率いた。陸軍を中心とする軍隊、警察および、「市民自衛巡視隊(PAC=パック)」という準軍部隊を使って、凄まじい殺戮作戦を展開した。

    検察は、エル・キチェー県イシルで起きた先住民267人虐殺を含む226件の掃討作戦で、計1770人を殺し、女性1400人を強姦した事件をリオス政権の責任と見ている。これは判明した件数だけであり、実際の蛮行ははるかに多いとされる。

    リオスは政権を握る直前の1980年1月31日、スペイン大使館に逃げ込んだ反体制派らをスペイン人外交官もろとも焼き殺した。後のノーベル平和賞受賞者リゴベルタ・メンチューの父親ら計37人が死亡した。

    メンチューは1999年スペインの法廷で、虐殺、拷問、国家テロの罪でリオスを告訴した。同法廷は以来、リオスを国際手配してきた。

    グアテマラ憲法裁判所は2008年、スペイン法廷の決定を「不適切」として却下した。だが国内で告訴の動きが続いていた。

    リオスは内戦の和平合意が成る前から国会議員や国会議長に納まり、非逮捕特権を享受していた。だが最後の任期が今年1月14日の新国会発足によって切れたため、出廷を余儀なくされた。

    内戦中に夫を殺された女性たちの組織「グアテマラ全国未亡人連絡会議(CONAVIGUA=コナビグア)」の幹部ロサリーナ・トゥユクは、「この日が来るのを30年も待っていた」と語った。

    この国では1月14日、内戦中に陸軍の高官で、やはり人道犯罪に関与したと見られるオットー・ペレス=モリーナ退役諸軍(66)が政権に就いた。本音と建前が異なる「三権分立」の制度の下で、そして「同じ穴の狢(むじな)」ペレス政権の下で、リオス裁判がどう展開することになるのか。内外世論は、その推移を監視することになる。

キューバ共産党が初の全国会議

▽▼▽▼▽キューバ共産党(PCC)は1月28、29両日、ハバナ市内の会議殿堂で初の「全国会議」を開く。昨年4月の第6回党大会の決定事項を踏まえ、党の役割の明確化、経済改革政策の実施などを中心に討議する。

    党機関紙グランマが27日報じたところによると、党員80万人を代表する代議員811人が出席する。会議の基本議題は昨年10月公開され、これを基に党細胞と共産主義青年同盟(UJC)下部委員会が計6万5000回会合し、討議した。100を超える意見が出され、それを反映させたため、基礎議題96項目のうち78項目が修正され、新たに5項目が加えられた。

    代議員は1月に入ってから、修正された項目と追加された項目を中心に議論を重ねてきた。

    昨年の党大会は、「経済闘争への人民の意識的参加を促すのが党の政治・イデオロギー上の任務の主要課題」と決議している。党大会で正式に承認された、市場原理を導入した「経済・社会政策指針」の実施に関する諸問題の討議が全国会議でも重要議題となる。

    党と政府との役割分担の明確化や、党・政府の要職の任期制限も重要だ。ラウール・カストロ第1書記(国家評議会議長)は、党大会で「1人1期5年・最高2期まで」と提案し、認められており、これがあらためて決められ実施に移されることになるもようだ。

    キューバ指導部は、平均年齢が80歳という<スペルヘロントクラシア=超老人政治>体制だ。その若返りがなければ革命体制の明日もない、というところまで追い込まれているのだ。

    国営通信プレンサ・ラティーナは、「党活動を客観的かつ批判的に評価する」のが全国会議の目的だとし、「共産党の内部がどうなっているのか、会議はそのX線写真を撮る」と書き込んでいる。

    党大会の決定事項に失望したキューバ人の間では、全国会議への期待がある程度高まっているが、ラウール第1書記は、「過度な期待はしないように」と釘を刺している。

『ブエノスアイレス食堂』の「特別料理」

☆★☆アルゼンチン人作家カルロス・バルマセーダの『ブエノスアイレス食堂』(柳原孝敦訳、2011年、白水社)を読んだ。読み始めてすぐに思い出したのは、米国人作家スタンリー・エリンの短編『特別料理』(1946年、邦訳1956年、早川書房)だった。

     『特別料理』は、レストランに客が入ったまま出てこず、人肉料理の材料にされてしまう、という話だ。原題が「食人種の手引書」という『ブエノスアイレス食堂』は、アルゼンチン最大の保養地マルデルプラタのレストランを舞台に、イタリア移民とコックたちが1世紀にわたって織りなす物語だ。

     読み進むうちに、バルマセーダは、ガブリエル・ガルシア=マルケス(GGM)の『孤独の百年』(もしくは『百年の孤独』)の影響を受けていることがわかる。「100年単位で物語を展開させる」という手法が、である。この点では、バルマセーダもGGMの亜流である。

     鼠が人間の肉体を貪り食うという冒頭の衝撃的な場面が、最後にもっと劇的な形に発展して、物語は終わる。まだ読んでいない人たちのために、物語の展開やクライマックスには、敢えて触れない。

     <主人公>である食堂を、ペロン大統領夫人エバ・ペロンが訪ねたり、食堂の女性コックが若き日のチェ・ゲバラに会い、その後、文通を続けるとか、1982年のマルビーナス(フォークランド)戦争の逸話が登場する。<歴史感>を醸すためだろうが、サービス過剰で書かずもがなだと思った。

     全編に繰り返され詳述されるさまざまな料理法には辟易するが、<主人公>が食堂であるからには、料理法が細々と語られるのは当然かもしれない。作家の特技なのだろう。

     ガルシア=マルケス以来、「100年単位のまがい物」作品がスペイン語世界で横行しているが、この小説は悪くない。「訳者あとがき」も興味深い。

     【訳文も読みやすいが、一言だけ苦言を呈すれば、「(社会主義センターの)幹事長」(73ページ)は「書記長」とすべきだった。「幹事長」は、日本の自民党がはやらせた特殊な党最高幹部の名称だ。今日の日本では、共産党以外の政党はことごとく「幹事長」を用いている。だが、国際的に普遍性のある言葉ではない。ましてや「社会主義センター」は1930年当時の話である。革新組織の「セクレタリオ・ヘネラル」は「書記長」だ。もし「幹事」という言葉を拡げて使えば、第一書記は「第一幹事」になってしまう。】

2012年1月27日金曜日

チリ政府が譲歩し「独裁」の用語も復活

▼▼▼チリの国家教育会議(CNED=セネド)は1月26日、小学校と中等学校の歴史教科書で、ピノチェー軍事独裁政権(1973~90)を表す用語として、「独裁」と「軍政」の両方を使うことを決めた。これは、「独裁」を廃止し「軍政」に統一しようと謀ったピニェーラ右翼政権の後退を意味する。

     ハラルド・ベジェル教育相は1月4日、「軍政」だけを使うようCNEDに諮り、CNEDはこれを承認した。ところが民主派や左翼、特に人道犯罪の被害者や遺族から轟々たる非難が巻き起こった。教育相をはじめとする政権内右翼は、世論を見誤っていた。

     ピノチェー独裁時代、3225人が殺され、うち約1200人の遺体は行方不明のままだ。また3万8000人が拷問された。外国への避難や亡命を余儀なくされた者は数万人に及ぶ。

     ピノチェーは晩年、人道犯罪関与で糾弾された。家族ともども公金横領による不正蓄財で起訴された。だが、断罪されないまま死んでいった。

     ピニェーラ政権は、弱肉強食の新自由主義政策推進、公共大学教育の制限、先住民族マプーチェへの弾圧などで支持率が低迷している。今回の「歴史改竄」は、支持率低下をさらに促す要因になりつつあった。 

     そこで教育相は「軍政」用語強制を取り下げ、従来どおり「独裁」の用語も認める<両論併記>の打開策をCNEDに提示した。

     CNEDは、政府の譲歩案を賛成6、棄権1、欠席2で可決した。棄権したのは、ピノチェー時代に弾圧の先頭に立っていた軍と警察の利益を代表する退役将軍だった。欠席したのは民主派で、一人は抗議して25日辞任し、他の一人は「独裁下での人権蹂躙の教科書記述が弱すぎる」と批判していた。

             だが知識人たちは、「政府とCNEDの決定には、<独裁>と<軍政>を同列に並べることで、あたかも同義語のように受け止めさせる狙いがある。都合の悪い<独裁>の真の意味を薄め弱めるためだ」と批判している。
     実業家で富豪のセバスティアン・ピニェーラ大統領は、「イデオロギーに欠け、経済に集中しすぎている。イデオロギーのないところを政権内右翼に付け込まれている」などと、内外で厳しく批判されてきた。イデオロギー政策面で<裸の王様>になっていたということだろう。

     来年は、ピノチェーが率いた軍事クーデターの40周年。自由選挙で選ばれた「世界最初の社会主義政権」と讃えられたアジェンデ政権が崩壊してから40年になるわけだ。1973年9月11日のクーデター当日、サルバドール・アジェンデ大統領は自ら命を絶った。

         ×                    ×                  ×

     私は73年のクーデター後間もなくチリに入り、首都サンティアゴと周辺を取材した。チリ全土を覆っていた、残虐と恐怖と重圧を忘れない。

ブラジル大統領が「新しい開発モデル」提示へ

▽▼▽ブラジルのジルマ・ルセフ大統領は1月26日、「今日直面している困難に対処するには新しい発想をするのが不可欠だ」として、6月リオデジャネイロで開かれる「リオ+20首脳会議」で、「新しい開発モデルを提示する」と述べた。

     南リオグランデ州都ポルトアレーグレで24日から「世界社会フォーラム(FSM)」の特別版「テーマを定めた社会フォーラム(FST=フォロ・ソシアル・テマティコ)」が開かれている。大統領は、その「市民社会と政府との対話」に出席し演説した。

     「先進諸国では富の集中、不平等拡大、失業増大、貧国拡大が起きている。失業と不平等は特に若者、女性、移民労働者にとって残酷だ」

     「先進諸国が経済問題解決のためとして実施してきた財政政策は、社会に忌まわしい結果をもたらした」

     「市場の声と街頭の声の不一致が拡がっている。このような状態が進めば、社会的な蓄積だけでなく民主制度さえも危うくなる」

     ルセフは、このように警告し、6月のリオ会議に社会運動組織も参加するよう呼び掛けた。

キューバ軍が「国防準備の年」へ

▼▽▼キューバ政府は1月26日、防衛戦闘能力を維持するための「国防準備の年」を2月1日、恒例の「バスティオン(要塞)戦略的演習」をもって開始すると発表した。

     政府は1991年10月の第4回共産党大会で、侵略軍に対しキューバ人全員で対抗するという「全人民戦争戦略」を打ち出した。「国防準備の年」は同戦略に基づいており、防衛態勢全般の点検が行なわれる。

     わざわざ「年」を定めたのは、チュニジア、エジプト、リビア、イエメン、シリアと、アラブイスラム諸国で政変や動乱が続いてきたことと無関係ではない。

     キューバ政府は、内なる「破壊的集団(反革命派)」と外部勢力が結託して共産党体制を崩壊に導くという陰謀を警戒している。

     最近、米共和党の大統領候補選出の予備選に出馬している候補らが、フロリダ州などでキューバ系有権者の関心を集めるため「カストロ体制打倒支持」などを口にしていることも「無視できない要因」として背景にある。

     2月1日からの1年は、来年1月の次期米政権発足直後までの1年となる。キューバにとっては、オバマ民主党政権の継続が望ましい。だが、伝統的に反カストロ派の在米キューバ人勢力と結びついてきた共和党の政権が復活すれば、キューバにとっては穏やかではなくなる。

     それにカストロ体制にとって最大の同盟国であるベネズエラのウーゴ・チャベス大統領が癌を抱え、先行きが不安なことも深刻だ。チャベスは10月7日の大統領選挙に出馬し4選を狙うが、万が一、親米保守の野党統一候補に敗れれば、両国関係は急速にしぼみかねない。

     潤沢に供給されているベネズエラ原油が来なくなれば、キューバはエネルギー源を大幅に失うことになる。メキシコ湾経済水域内の海底油田を掘削するためのリグがキューバ沖に到着しており、近く掘削が始まるが、キューバが海底油田開発を急ぐのも「チャベス後」を見据えてのことだ。 

  (2012年1月27日未明 伊高浩昭執筆)

2012年1月25日水曜日

「死亡したのは政治囚ではない」-キューバ政府が声明

▼▽▼キューバ東部のサンティアゴ市の病院で1月19日、受刑囚ウィリアム・ビジャール=メンドーサ(31)が死亡した。死因は敗血症と発表された。

     キューバの非合法人権団体などによると、ビジャールは、サンティアゴの非合法団体「クーバ愛国連合(UPC=ウペセ)」に所属していた。人権団体やUPCは、「ビジャールは抗議行動中に逮捕され、刑務所内で抗議の断食ストライキを50日間続けた末、1月13日入院したが死亡した」として、「政治囚を死に至らしめた政府当局の責任」を追及している。

     これを受けて、欧米などのメディアは「政治囚の死」を一斉に報じた。

     キューバ当局は翌20日、事実関係を公表した。ビジャールは昨年11月25日、「公衆の面前で妻を殴打し、警官にも暴力を振るった」ため、暴行と公務執行妨害の現行犯として逮捕された「一般犯罪人」であり、UPCに加入したのは「逮捕後だ」としている。

     ビジャールは裁判で禁錮4年の実刑を言い渡され、服役していた。「政治囚ではなく、断食ストで死んだのでもない」と、当局は強調する。

     政府は23日、共産党機関紙グランマを通じて声明を発表し、ビジャールが「一般犯罪者」であることをあらためて指摘し、「受刑者の死が、なぜキューバの場合だけこのように取り上げられるのか」と反駁した。

     そのうえで、外国メディア、特に「破壊活動勢力(反体制派)の側に立つ」欧米メディアと幾つかの政府を、「ビジャールの死を、キューバを貶めるために政治的に利用している」と、名指しで非難した。スペインと米国の政府に対しては、両国内での政治囚の死や人権状況を厳しく批判したうえで、糾弾している。

     また、チリ政府報道官について、「キューバの非合法団体の言い分をそのまま受け入れた」と批判するとともに、「学生時代にピノチェー軍政と結びついていた」と、同報道官の過去の政治的立場を暴露して、非難した。

     キューバは3月下旬、ローマ法王を迎える。ビジャールの死がキューバ政府にとって「極めてタイミングの悪い出来事」であるのは疑いない。

世界社会フォーラム(FSM)始まる

☆★☆ブラジル南リオグランデ州都ポルトアレーグレで1月24日、「世界社会フォーラム(FSM)」が開会した。29日まで続く。

    FSMは、スイス・ダボスでの「世界経済フォーラム(WEF)」の新自由主義路線に対抗して2001年に結成された。資本主義でない「もう一つのより良い世界」の創設を理想としている。

    今年は特に「主題を定めた社会フォーラム(FST)」がFSMの中心的会合となる。

    今年6月リオデジャネイロで、国連の「持続可能な開発会議リオ+20首脳会議」が開かれるが、FSMは、その対抗サミットとしてリオで同時期、「諸国人民サミット(クンブレ・デ・ロス・プエブロス)」を開く。FSTは、「リオ+20」と「人民サミット」を「主題」として議論し、「人民サミット」開催の準備をする。

    この日、開会に合わせて、ポルトアレーグレの中心街を若者ら1万5000人が、カーニバル式に行進した。「我々は怒れる99%だ」のスローガンが目立った。アマゾニーア(アマゾン川流域)のブラジル・パラ州で政府が建設しようとしている水力発電用のベロモンテ巨大ダムの建設に反対するスローガンも見られた。

    国連・食糧農業機関(FAO)のジョゼ・グラジアーノ事務局長がFSTの開会式で演説し、食糧安全保障のため協同企業や小規模営農者を支援することを約束した。同事務局長は、ルーラ前ブラジル政権で、食糧安全保障・飢餓撲滅特別相を務めた人物。

    26日には「市民社会と政府との対話」が開かれ、ブラジルのジルマ・ルセフ、ウルグアイのホセ・ムヒーカの両大統領が出席する。

    FSMに属する「自由報道フォーラム(FPL)」の第3回会議も27~29日開かれる。

    一方、25~29日開催のWEFには、ラ米からは、メキシコ、ペルー、パナマ、ハイチの4カ国大統領が出席意思を表明している。

2012年1月24日火曜日

エルナン・コルテスの生地とメキシコ上陸地が姉妹都市に

▼▽▼1521年にアステカ王国を滅ぼしたスペイン人征服者エルナン・コルテスの生まれ故郷と、コルテスがキューバを発進して上陸したメキシコの地が1月23日、覚書に調印し、姉妹都市になった。凄惨な征服史を知る者にとっては、驚くべき出来事だ。

    スペイン西部のエステレマドゥーラ州バダホス県の片田舎にある小さなメデジン市は、コルテスの生地。街の中心には細長い「エルナン・コルテス広場」があり、中央には鎧兜姿のコルテスが、アステカ最後の王クアウテモクのものらしい斬首された首を踏みつけ、剣を高く掲げている銅像がある。その近くには、「コルテスはこの辺りで生まれた」と書かれた小さな石碑がある。広場の彼方の丘の上に、コルテスが洗礼を受けた古く小さな教会が残っている。

   メキシコ湾岸のベラクルス州ラ・アンティグア市は、コルテスが1519年に到達した場所に建てた古い街。「ラ・アンティグア(古都)」の名のとおり、米州の大陸部分で最も古い都市の一つとして知られている。

   そのアルトゥーロ・ナバレテ市長がメデジンを訪れ、迎えたアントニオ・パラル市長と姉妹都市の絆を結んだのだ。両市は社会、歴史、文化、教育、観光の分野で協力を進めていくが、特に観光に力を入れるという。

   調印式はコルテス広場で行なわれ、双方は、「両市は、メデジンの最も優れた息子であるエルナン・コルテスの絆を通じて関係が育まれ強化された」と謳った。

   ナバレテは、「この征服者によるメキシコ史への文化的貢献を特筆したい。コルテスがメキシコで為したすべてのことを認める。とりわけラ・アンティグアを米州大陸最初の都市に選んだことを」と挨拶した。

   パラルは、「歴史の立役者たちが大西洋の両岸で為した業績を共に守るため相互協力しつつ、未来に向かおう」と応じた。

           ×         ×         ×         ×         ×

   今朝(24日朝)、雪かきをしようと早めに起きたところ、メキシコ市に駐在する友人のスペイン人記者から電郵(Eメイル)が入っていた。「君が興味を抱くはずの話だ」とあって、すぐに読んだら、上記の姉妹都市のニュースだった。

   この友人は東京に以前居て、その時、友人になった。90年代に私がエステレマドゥーラ州内の<征服者の地>を取材すると伝えたら、いろいろと教えてくれた。何と、ペルーの征服者フランシスコ・ピサーロの生地である同州カセレス市の出身だったのだ。同市には、「馬上のピサーロ」の銅像があり、それと同じものがペルーの首都リマにもある。

   取材から戻って、土産話をすると、友人は大いに喜んだ。この思い出を思い出し、姉妹都市のニュースを伝えてきてくれたのだ。

   それにしても、コルテスの血塗られた征服を全面肯定し、姉妹都市を結ぶ時代になったとは!
メキシコ市のレフォルマとインスルヘンテスの2大目抜き通りが交差するグロリエタ(ロータリー)にはクアウテモク像がある。

   この像が、あのメデジンのコルテス像と私の脳裏でいま交錯し、戦っている。私は、このコルテス像を見た時、絶句した。私が長年過ごしたメキシコでは「存在し得ない像」だったからだ。

   これから、メキシコ市の友人の感想を訊くことにする。因みに、メデジン市は、コロンビアの大都市メデジンの名前の故郷でもある。

   【エステレマドゥーラ州の<征服者たちの故郷>取材については、拙著『イベリアの道』(1995年、マルジュ社)を参照されたい。】

「チャベスの余命は9カ月か」-スペイン紙が報道

▼▼▼▼▼スペインの日刊紙ABCが1月23日、ワシントン通信員電として報じたところによると、ベネズエラのウーゴ・チャベス大統領は癌細胞が骨髄まで転移しており、医師団は、大統領が厳しい集中治療を受けなければ余命は9カ月しかないと見ている。

     同紙は、「医師団に接近可能な諜報機関情報員が1月12日にまとめた報告による」としており、記事がワシントン発であることから、情報源がCIA関係筋である可能性が強い。

     記事によると、大統領は昨年6月ハバナで手術を受けた際、前立腺癌で、腰部の骨と結腸に転移していることがわかった。前立腺は全摘出し、骨と結腸は化学療法で治療することにした。

     だがその後、癌細胞は転移しつづけ、化学療法の効果が挙がっていないことが明らかになった。医師団は、転移は脊椎まで進んでおり、大統領が必要な集中治療を受けなければ余命は9カ月しかないと、昨年末に判断した。チャベスは、きつい集中治療を拒否しているという。

     チャベスは10月7日の大統領選挙に4選をかけて臨むことにしているが、「余命9カ月」ならば、選挙までもたないことになる。

     今月になって、チャベスは長時間の中継放送出演を再開するなど活動を活発に展開している。だが、それも「鎮痛剤と興奮剤を大量に投与されたため」という。

     この種の諜報機関情報には<観測気球>としての狙いが多く、信憑性は何とも言えない。だが、チャベスの病状が「軽くない」なことだけは確かなようだ。

     一方、チャベスの政権党「ベネズエラ統一社会党(PSUV=ペエセウベ)」は23日、大統領は元気であり、ABC報道は苦笑を禁じ得ないと、同報道を否定した。

2012年1月22日日曜日

ペルー人文化運動家が特別講義

☆★☆ペルーの首都リマ郊外の新興都市ビージャ・エル・サルバドール(VES)で「アレーナ・イ・エステーラス(砂とよしず)」という文化協会を運営しながら町興しと青少年育成に取り組んでいるアナソフィア・ピネード=トグチが1月21日、立教大学ラ米研「現代ラ米情勢」の2011年度最終講座で特別講師として講義した。

    VESが、1980年年代から90年代初めにかけて、極左ゲリラ組織「センデロ・ルミノソ(輝く道)」の拠点として使われ、テロ活動にも見舞われて、極めて危険で困難な状況に陥っていたころ、アナソフィアら数人の少女が暴力と対抗し、町を興していくため、文化運動を開始した。

    色で象徴すれば灰色の暴力が支配する<沈黙の状況>に、音と声、明るい色彩で対抗した。
それは、VESに住みついた貧しい自分たちが、人間として生きることの証明でもあった。そのようにして20年、VESも文化協会も見違えるほどに大きく成長した。

    その間、ペルー政府は、90年代のフジモリ政権から、新自由主義が支配していた。本来、国家が責任を負うべきさまざまな重要分野を民間に任せてしまい、政府は<管理人>に堕していった。それでは、勝手し放題できるようになった富裕層は喜ぶだろうが、貧者は浮かばれない。

    そんな多くの貧者の声が、昨年のオヤンタ・ウマーラ政権の発足で、部分的であっても取り上げられる可能性が出てきた。ウマーラが、社会政策を打ち出し、「国家の復権」を志しているかに見えるからだ。

    母方姓トグチは、沖縄の渡具知。本部半島の渡具知が遠い血の故郷だ。沖縄系3世のアナソフィアは、短期間だが、そこを訪ねて感動した。自分のルーツを知ったアナソフィアは、その<再構築>を試みつつ、新しいイデンティダー(認同=アイデンティティー)を確立していきたい、と言う。

    「東京の街、通りは静かだ。たぶん、日本人が周囲を気遣って静寂を保っているからだろう。それは、他者に敬意を払う日本の文化として素晴らしいと思う。しかし、ペルーでは違う。音、声、仕草、運動で存在を表し、かつ実感し、生きていることを自他ともに証明するのだ」ーこの言葉が印象に残った。

    アナソフィアは1カ月余りの初の日本滞在を1月28日終えて、帰国の途に就く。彼女が日本と沖縄で得た何かが、今後の生き方と活動に新しい視座を与えるのは確かだろう。

2012年1月20日金曜日

英首相がアルゼンチンを「植民地主義」と呼ぶ

▼▼▼▼▼英国のデイヴィド・キャメロン首相は1月18日、英国会で、フォークランド諸島領有権を主張しつづけているアルゼンチンを「植民地主義」と呼んだ。これに対し、同諸島をマルビーナス諸島と呼ぶアルゼンチンのアマード・ブドゥー副大統領(大統領代行)は19日、「恥知らずで唐突な発言だ」と反駁した。

    ブドゥーはまた、「英首相の発言は偶然の産物ではない。我々亜国の外交が効果を発揮していることを示す」と述べた。国際世論を有利な方向に導きつつある外交の成果と捉えているのだ。

    亜国は1982年4月、時の軍政がM諸島奪回を狙って軍事攻撃を仕掛け、同年6月敗北した。以来、外交決着をかけて、粘り強い外交を民政移管した83年から30年近く続けてきた。

    今年は開戦30周年、英国にとってはF諸島解放勝利30周年の年。今年に向けて近年、両国間で外交上の緊張が徐々に高まりつつあった。英国が諸島近海での海底油田開発に着手すると、亜国は諸島への物資供給を断つなど対抗策に出た。

    昨年末、ウルグアイで開かれた南部共同市場(メルコスール)首脳会議は、亜国の主張に沿って、F諸島旗を掲げた船舶のメルコスール域内での入港を禁止する措置をとった。域外だが、M諸島と海空の交通を維持しているチリも賛同した。

    慌てた英国は打開に動いたが埒(らち)は明かず、ウィリアム・ヘイグ外相が1月18~19日、メルコスールの盟主ブラジルを訪れ、F諸島問題を中心に話し合った。だがブラジルはM諸島問題では亜国を支持するとし、国連が要請しているとおり、亜国と対話するよう同外相に求めた。

    ヘイグは立場の隔たりをあらためて認識したが、「英国がラ米と疎遠だった時代はいま終わった。今後はラ米との関係を改善し強化していく」と、リオデジャネイロで明言した。エリザベス英女王は2月6日、戴冠60周年(ダイアモンドジュビリー)を迎える。6月14日にはF戦争勝利30周年が来る。今年はロンドン五輪もある。英政府は、何とかF諸島問題を和らげたいのだ。

    そんな焦りがキャメロン発言につながった、と亜国政府は分析しているわけだ。

    ブドゥーは、「主権を求めている国を植民地主義と呼ぶとは! この言葉はラ米だけでなく、アジアやアフリカの多くの国々を苦しめた歴史を想起させる。過去を誰も忘れていない」と続けた。もっともな発言だ。英国は世界最大の植民地帝国だった。

    帝国主義と表裏一体の植民地主義の時代は大方過去に去ったが、いまや新植民地主義が横行している。つまり「新帝国主義」がある。その犠牲者だ、と亜国は言っている。

    一方、当のケルパー(F諸島住民)は、「我々のほとんどは英国主権下の現状継続を望んでいる。これを亜国が認めれば、仲良くしていくことができる」との立場だ。これは英政府の立場そのものであり、英亜のいずれか帰属先を決める島民投票をしても英国派が勝つとの自信の源になっている。亜国はもちろん、この「既成事実に基づくやり方」を認めない。

    開戦30周年の4月2日に向けて事態は動いている。英亜間の外交戦はさらに熱くなるだろう。

マリオ・バルガス=ジョサがセルバンテス院総裁就任を断る

☆★☆ペルー人にしてスペイン人でもあるノーベル文学賞作家マリオ・バルガス=ジョサ(MVLL)が、スペイン政府のスペイン語および文化の普及機関「セルバンテス院」(インスティトゥート・セルバンテス)の総裁に就任するよう求められたが、執筆活動を理由に断ったという。

     フアン=カルロス国王は1月15日、MVLLに直接電話で要請したが、このことが19日明らかになり、大きな話題になっていた。背景には、マリアーノ・ラホーイ首相が国王に対し、この件で作家に働きかけるよう要請していた事実がある。作家は「少し考えさせてほしい」と応答したというが、19日夜、「執筆活動と時間的に相容れないため断らざるをえないが、協力は従来どおり続けたい」と、首相の元に回答があった、と伝えられる。

     これまでセルバンテス院は、文化省、教育・科学省など関係省庁官僚の縄張り争いに巻き込まれて、思うような活動ができないという事情があったらしい。昨年末、首相に就任したラホーイは、同院を首相の直轄機関としたうえで、世界的に有名なMVLLを総裁に任命する方針を固めていた、と伝えられる。

     国王は名誉総裁であり、今後は国王、総裁とともに<三位一体>で言語と文化の普及に力を注いでいきたい、というのが首相の願いだったようだ。

     フランコ独裁の流れを汲む保守・右翼の政権党PP(国民党)を率いるラホーイは、「パンイスパニカ(汎スペイン)」主義が強い。セルバンテス院を従来以上に機能化し、スペインの存在を世界に印象付けていく文化外交戦略を定めたのだ。文学とともに政治や外交が好きなMVLLが、同院の顔として格好の存在であるのは疑いない。

     作家にとっては、祖国ペルーの立場を、国王や首相に必要な時、直接伝えることができるようになるわけで、就任すれば、ペルーでのこの作家の影響力も一層大きくなるはずだ。

     昨年7月末に就任したペルーのオヤンタ・ウマーラ大統領には、MVLLをスペイン駐在大使に任命する腹案があったとも伝えられる。作家がセルバンテス院総裁になれば、ペルーにとっても外交上の意味は小さくない。

     だが、それは希望に終わったようだ。70代半ばのMVLLは、自身の創作能力を依然信じているのだ。それは、スペイン文化の中枢を担う名誉ある要職をもってしても替えられるものではなかったのだ。

     ノーベル賞は、「御苦労さまでした」という労いのためでなく、「さらに創作を」という激励のためだった。この作家の株は、今回の一件でさらに上がるだろう。

2012年1月19日木曜日

グアテマラ新政権発足-「LATINA」に記事

▽▼▽グアテマラで1月14日、オットー・ペレス=モリーナ退役将軍の政権が発足した。ラ米文化専門の月刊誌「LATINA」2月号(1月20日刊行)は,「<血塗られた将軍>の極右政権発足  和平合意15周年ーグアテマラの逆行」(伊高執筆)を掲載した。

     これは、連載企画「ラ米乱反射」の72回目に当たり、連載が丸6年経ったことを意味する。

     この雑誌自体も1952年5月に「中南米音楽」として創刊されており、今年同月で60周年を迎える。通算700号を超えることになるという。めでたいことだ。

     今や日本には、ラテンアメリカ文化の一つの中心として「LATINA」がある。東京・恵比寿にある編集部と、そこから毎月生まれる雑誌は、この上ない<ラ米サロン>である。

     「LATINA」が60周年と700号を迎えたら、あらためて書くことにしたい。

2012年1月18日水曜日

ラテンアメリカ統合教義策定のため知識人結集を

☆★☆ウルグアイのホセ・ムヒーカ大統領は1月17日、サンパウロで癌治療中のルイス・ルーラ前ブラジル大統領を見舞い、3時間会談した。その後、記者団に次のような構想を明らかにした。

     「国際情勢を見渡しながら話し合ったが、ラ米が欧州に顔を向けつづける時代は終わった。独自性を出し、他地域(アジア太平洋圏など)に顔を向けるべき時代であり、そのためにはラ米統合が不可欠だ」

     「ラ米はいま、統合へのまたとない好機を迎えている。そこでラ米統合のドクトリン(教義)を策定するため、ラ米知識人の組織をつくりたい」

     ムヒーカが指摘した「またとない好機」は、昨年12月3日に「ラ米・カリブ諸国共同体」(CELAC=セラック)が発足したことや、南米諸国連合(ウナスール)、南部共同市場(メルコスール)など広域機関が機能していることを指している。

     また「統合ドクトリン」は、米州をかつて支配し、依然支配したがっている米国の支配ドクトリン「モンロー教義」に対抗する思想として想定されている。モンロー教義宣言は2023年に、200周年を迎えることになる。

     従来は、シモン・ボリーバルの「大きな祖国(ラ米全体)と小さな祖国(ラ米各国)」や、ホセ・マルティの「我らのアメリカ(ラ米)」が統合思想の中心にあった。

     ムヒーカとルーラは、CELACができたいま、世界全体を視野に入れて、新しい統合思想を構築する必要があると考えているわけだ。未来に向けての確固とした教義があれば、米国の巻き返しに対抗しやすいし、他の地域とも対等に渡り合えるとの認識がある。

マリオ・バルガス=ジョサの推理小説

☆★☆MVLLの1986年の作品『誰がパロミノ・モレーロを殺したか』(鼓直訳、1992年、現代企画室)を読んだ。いつ、どこで、誰が、なぜ、何を、どのようにしたのかーというジャーナリズムの事実関係の迷路に何日もはまりこんでいた頭を休めるために、たまたま手元にあったのを読んだのだが、題名のとおり形態は推理小説だった。

    それも、文学性の高い推理小説だ。氏名をあてがわれて登場する人物はすべて、主役、脇役、通行人の区別なく、その人間が描かれている。事件の進行とは別に、人間の物語が流れている。極めて読みやすく面白い小説であり、かつ、十分に味わい深い。

    ペルー北端の、エクアドール国境に近いピウラ一帯が舞台であり、「エクアドールとの密貿易」というジャーナリズムの問題も背景に配置されている。ペルー対エクアドール、という何度か戦争をしたことのある隣国同士の<二項対立>の構図も、この小説の構造に組み込まれている。読者へのサービスの行き届いた物語である。

    かつてリマでインタビューしたMVLLは、「私の唯一の悪癖(ビシオ)は小説を書くことだ」と言っていた。去年6月来日した際の質疑では、「作家には多様性、多面性、多作が重要である」という趣旨の説明を受けた。この作品のような娯楽性の強い物語も、その「多」の意味するところに含まれている。だが単なる娯楽性だけでなく、ペルー北部の情景と、そこに生きる人間の姿が、はっきりと伝わってくる。だから「多」なのだ。

    現実の「いつ、どこで」というジャーナリズムの時空との格闘で疲れた頭を、この小説の架空の時空は、たっぷりと休ませてくれた。

2012年1月17日火曜日

エル・サルバドール大統領が内戦中の虐殺を謝罪

▼▼▽▼▼エル・サルバドール(ES)内戦に終止符を打った1992年1月16日の和平合意調印から20年が経過した。その日、同国北東端のホンジュラス国境に近いモラサン県エル・モソテ村で、マウリシオ・フネス大統領が、同村で起きた虐殺事件を直接かつ正式に謝罪した。

    内戦中の1981年12月10~13日、陸軍特殊部隊「アトゥラカトゥル」は同村を急襲し、老人、女性、子供を中心に村人936人を虐殺した。内戦中に起きた最も大規模で残忍な大量殺害事件として内外で知られている。

    大統領は、「国家の最高指導者がこの事件を謝罪しない時代は終わった。私は大統領として、国軍最高司令官として、犠牲者と遺族に謝罪する」と、目に涙を浮かべ沈痛な声で述べた。

    虐殺された936人全員の氏名が1月15、16両日、新聞に掲載された。犠牲者の存在を氏名とともに記録し、保存して、忘却を阻止する事業の一環として行なわれた。

    内戦は1980年3月24日、首都サンサルバドールのオスカル・ロメーロ大司教が暗殺された事件に端を発し、政府軍とゲリラ連合「ファラブンド・マルティ民族解放戦線」(FMLN)の間で12年間続いた。米国が政府軍を、キューバ、ソ連、ニカラグアがゲリラ軍を、それぞれ支援した。7万5000人が死に、8000人が失踪した。

    和平合意は、メキシコ市のチャプルテペク城でES大統領、FMLN代表、国連総長が調印した。フネス大統領は、政党化したFMLNを政権党とする初の大統領で、だからこそ虐殺事件に謝罪することが可能だった。

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    私は90年代半ば、エル・モソテを取材した。村の小さな広場の片隅には、虐殺された村人たちの死体が放り込まれた大きな穴が残されていた。和平が成って数年後だったが、村人たちは依然怯えており、多くを語ろうとしなかった。

    広場の中心には、芸術家が鉄板を切り抜いて制作した男女と子供2人の家族を思わせる4人が手をつないでいる「犠牲者追悼碑」が建てられていた。記念碑は長らく風雨にさらされていたが、今では屋根や壁によって守られている。

2012年1月16日月曜日

スペインの政治家マヌエル・フラガ死去

▼▼▼現代スペインで「大政治家」と呼ばれた元ガリシア州知事マヌエル・フラガ氏(89)が1月15日、マドリー市内の自宅で心臓発作により死去した。フランコ独裁時代に学者、外交官、政治家になったことから毀誉褒貶の多い人物だが、現代スペインの傑出した人物であったことは疑いない。

     1922年ガリシア州ルーゴに生まれ、48年から50年代半ばにかけてバレンシア大学やコンプルテンセ大学で法学、国家論、憲法などの教授を務めた。51年、イスパノアメリカ文化庁総務に就いたのを始めとしてフランコ体制に関与し、62~69年情報・観光相として、スペインの観光立国の基盤を築いた。

     情報相としては、報道の自由、宗教自由の拡大に貢献した。外交官としては68年にスペイン領赤道ギネアの非植民地化交渉の政府代表を務め、73年には駐英大使に就任した。

     75年にフランコ総統が死去し、ナバーロ政権が発足すると、副首相兼内相になり、76年、
保守政党「アリアンサ・ポプラル」(AP=人民同盟ないし国民同盟)を結成する。78年新憲法の起草者の一人となった。保守の穏健改革派で、英国政治を模範とし、スペインの段階的民主化を促進した。

     77年に就任した下院議員を87年に辞め、欧州議会議員に転出。後継者に、ホセマリーア・アスナールを据えた。90年、APを改造して「パルティード・ポプラル」(PP=人民党ないし国民党)とし、06年まで党首を務めた。

     90年から2005年までガリシア州知事、06~11年上院議員を務めた。その間、アスナールのPP政権を実現させ、後見人としてアスナール首相を支えた。

     昨年9月政界を引退したが、その後、ラホーイ現PP政権の発足を見届けた。

     著書が90点近くあり、知識人としても名高かった。

     ガリシア人2世のフィデル・カストロとも親交があった。カストロが92年7月、バルセローナ五輪時にガリシア州の父親の生家跡を訪ねた折、カストロを大歓迎した。キューバをも訪れている。

     私は、州知事時代の90年代、来日したフラガにインタビューしたことがある。柔和な対応で、政治家としての側面は隠され、知識人の側面が全面的に出ていた。それが印象的だった。

キューバ「革命的野球」50周年

☆★☆キューバが職業野球を廃止しアマチュア野球にしてから1月14日で半世紀を迎え、記念行事が催された。野球はキューバでは「ペロータ」と呼ばれる。

    職業野球は1878年、スペイン植民地時代に、米国から導入され、革命後の1961年廃止された。

    当時のフィデル・カストロ首相は大の野球好きで、アマチュア化第1戦に出場した。「革命的野球」の開始を宣言し、「大選手を育て、ペロータで米国を打ち破ろう」と述べた。

    その後、キューバ野球は隆盛を極め、北京五輪で金、世界選手権でも何度も金に輝いた。だが長らく、優秀な選手の流出によって打撃を受けてきた。米国に亡命をそそのかされ、高額の契約金で大リーグに入ってしまうのだ。

    キューバのスポーツ当局は、「選手交流」について米国と話し合う用意がある、と表明している。

    米国以外の米州では、キューバに次いでカナダ、米植民地プエルト・リコ、ドミニカ共和国、メキシコ、ベネズエラ、ニカラグア、パナマなどで野球が盛ん。

2012年1月15日日曜日

ペルー人女性文化活動家が特別講義

☆★☆★☆ペルーの首都リマ南方郊外の新興都市ビジャ・エル・サルバドールで、「アレーナ・イ・エステーラス(砂地とよしず)」という文化協会を主宰しているアナソフィア・ピネード=トグチ(36歳)さんを、1月21日(土)のラテンアメリカ論IIの授業に招きます。

    立教大学ラ米研「現代ラ米情勢」講座の受講生および、他のラ米研受講生に公開します。この催しは本年度の講座受講生限定のものです。参考資料は当日、会場入り口で配布します。

     アナソフィアは、演劇、サーカス、舞踊、楽器演奏などを通じて町興し、青少年教育に尽力しています。とても魅力的な女性です。質疑応答時間もありますから、意見を交換してください。

   2012年1月17日 東京 伊高浩昭

グアテマラで新大統領就任

▼▽▼グアテマラで1月14日、オットー・ペレス=モリーナ退役将軍(61)が大統領に就任した。ぺレスは昨年9月11日の大統領選挙で得票率36%で1位となり、2位の実業家マヌエル・バルディソーン(23%)とともに11月6日の決選投票に進出した。決選では54%を得票し、当選した。愛国党(PP)に所属し、極右と目されている。

    ペレスは就任演説で、「国は経済と道徳が破綻する瀬戸際の危機にある」と、受け継いだ国の状況を描き、「表明的でない構造的改革」遂行と「改革過程への人民参加」促進を強調した。また、マヤ民族のマヤ暦が定める「歴史の終焉サイクル」に触れて、「新しい変化の時代が始まる」と謳いあげた。

    25万人が殺害された内戦(1960~96)に苦しんだ過去を振り返り、「和平合意が裏切られてきた」と指摘し、合意達成への意欲を示した。「自分の世代が内戦最後の世代で、最初の平和世代になるのを願う」と述べた。

    最優先政策として、麻薬マフィアなどの組織犯罪が野放し状態の治安の回復を挙げた。この就任式前日の13日、首都グアテマラ市内で、国会議員1人が暗殺されたばかり。有権者は、内戦中に弾圧と殺戮を恣(ほしいまま)にした国軍高官だったペレスの「強権発動による治安確保」の公約を受け入れて、ぺレスを当選させた。

    ペレスは、貧困・飢餓対策と、累積債務や財政赤字に苦しむ経済の再建も優先政策として掲げた。

    この国初の女性副大統領に、ロサーナ・バルデッティ前下院議員が就任した。選挙戦中、彼女は、ぺレスの恐持ての印象を和らげるのに貢献した。

    アルバロ・コロム前大統領は、「治安と貧困の問題を残して去るのが心残りだ」と語った。

    就任式には、メキシコ、コロンビア、ニカラグア、エル・サルバドール、コスタ・リカ、ホンジュラス、スリナムの7カ国大統領が出席した。出欠が注目されていたイラン大統領は、結局出席しなかった。

    ベリーズ首相、キューバ副議長、パナマ外相、スペイン皇太子、米平和部隊局長、台湾外交部長らも出席した。

    新国会(定数158)では、政権党PPが58議席、前政権党「希望国民連合(UNE)」が48議席をそれぞれ占める。残る52議席は11会派が分け合っている。

    【参考文献:月刊「LATINA」2012年2月号(1月20日発刊)掲載の伊高執筆「ラ米乱反射第72回」=「<血塗られた将軍>の極右政権が発足ーー和平合意15周年ーグアテマラの逆行」】

2012年1月13日金曜日

イラン大統領がエクアドール訪問

▽▼▽イランのムハーマド・アフマディネジャド大統領は1月12日、エクアドールの首都キトに到着し、ラファエル・コレア大統領と5時間あまり会談した。旧市街にある政庁前の広場は、動員された市民で埋め尽くされた。

     コレアは、「我々に何々をせよと命令するのは許さない」と米政府の干渉を非難して、イラン大統領を迎え、次のような歓迎の言葉を述べた。

     「英雄的イラン人民を大歓迎する。イランとその人民の歴史、闘争、存在を大いに尊重する」
     「この熱烈な歓迎は、イランが非難されればされるほど、イランの勇気を讃える人々がいることを示す」
     「世界は、歴史や最近の出来事から学んでいない。世界を善と悪に二分する宣伝運動は新しいやり方ではない。実際は、従属する者とそうでない者を分けるやり方にすぎない」
     「平和、発展、真実、全人類の団結のため全力を挙げる際、イランはこの兄弟国(エクアドール)を当てにしてほしい」

     これに対しアフマディネジャドは、「愛、慈しみ、友情、連帯のメッセージを届けに来た。この大歓迎に感謝する。帝国主義と傲慢の時代は終わった。革命的人民の時代が始まった。その人民は、世界中で覚醒し、より良く美しい世界を創造するため平和の道を見つけた」と述べた。

     コレアは会談後、「IAEA(国際原子力機関)は、イランのウラン濃縮に関する評価を変えるべきだ」と述べた。またブッシュ前米政権が誤った判断でイラクを侵攻した事実を踏まえて、「イラクで犯した過ちから学ばねばならない」と強調した。 

     イラン大統領は、1月8日からのベネズエラ、ニカラグア、キューバ、エクアドールのラ米4カ国歴訪を13日終えたが、キトから帰国するのか、グアテマラに飛ぶのか不明。同国では14日、オットー・ペレス=モリーナ大統領の就任式が催されるが、アフマディネジャドは招待されている。

2012年1月12日木曜日

ハイチ大地震から丸2年

▽▼▽2010年2月12日、首都ポルトープランスをはじめハイチを見舞ったM7の大地震から2年経った。地震では22万5000人が死亡した。大統領政庁など8万の建物が倒壊した。その瓦礫は半分しか片付いていない。

     市民52万人が依然、756か所の野営地で仮住まいを強いられている。

     ミシェル・マルテリ大統領は、1000万人の人口のうち800万人に電気がないこと、420万人の労働人口のうち正規労働に就いているのは20万人しかいないこと、また読み書きできない者が500万人いることを明らかにした。

     富の偏在と貧富格差が激しく、人口のわずか2%が国富の69%を握っている。人口の80%が1日2米ドルで暮らしている。45%は日々の食事にも困っている。

     大学卒業者の84%は外国に住み、人材不足が著しい。そこで、外国のNGOが入ってきて幅を利かせることになる。

     日々生き延びるために売春を余儀なくされている未成年女性が数多い。

     2010年10月以降、コレラが流行し、52万人が感染し、7000人が死亡した。臨国ドミニカ共和国(RD)に伝染し、2万1000人が感染、360人が死亡した。

     国際社会から寄せられた援助資金の多くは、外国NGO、外国政府機関、外国企業に入り、ハイチ政府・機関にはほんの一部しか入らない。

     政府当局者は12日、「再建が語られてきたが結果が出ていない。嘆かわしい。別の方法で再建すべきだ」と述べ、ハイチ政府に再建政策の主導権を渡すよう暗に要求した。

     市民集団がこの日、「MINUSTAH(国連ハイチ安定化部隊)くたばれ! 被災者に正義と救援を!」をスローガンに、抗議行動をした。「ハイチ人権機構綱領(POHDH)」のアントナル・モルティメー事務局長は、「被災者の再建政策への参画を求め、クリントンに象徴される帝国主義者の政策を拒否するための行動」と説明した。

     国連ハイチ安定化部は、19カ国の兵士8915人、50カ国の警察官3637人、外国民間人572人、地元民間人1345人、国連ボランティア238人。主力は、兵士2200人を送り込んでいるブラジルだ。同国のジルマ・ルセフ大統領は2月初め、ハイチを訪れる。

     隣国RDは、国境に近いハイチ領内に「ロイ・アンリ・クリストフ大学」を建ててハイチに贈った。マルテリ大統領は開学式を挙行した。地震2周年記念式典には、閣僚、国会議員、ジャンクロード・デュバリエ元独裁政権大統領、ビル・クリントン国連ハイチ特使(元米大統領)らが出席した。

     マルテリは、カラカスに本社を置くラ米多国籍テレビ放送テレスールを通じて、大規模な医療団を長期間派遣したキューバと、膨大な支援物資を送ったベネズエラに感謝した。     


             

キューバとイランが「核平和利用権」強調

▼▽▼ラ米歴訪中のマハムード・アフマディネジャド大統領は1月11日昼過ぎ、ニカラグアの首都マナグアからキューバの首都ハバナに到着した。空港では、エステバン・ラソ国家評議会副議長の出迎えを受けた。

    革命宮殿(政府政庁)でのラウール・カストロ国家評議会議長との首脳会談後、共同声明を発表した。双方は声明で、「平和防衛、国際法、国連憲章原則、および核エネルギー平和利用の万国平等の権利に則る」ことを確認した。

    大統領は、ハバナ大学で政治学博士の名誉称号を授与された。その記念演説で、「西側強大諸国の傲慢さと覇権主義」を激しく非難した。

    また、「資本主義は失敗し衰退しつつあり、袋小路に陥った」と前置きし、「論理がなくなると、殺し破壊するため武器を取る。米政府には隣人愛が欠けている」と米国を批判した。

    さらに、「全人類に敬意を払う新秩序、新視座、正義に基づく新思考が必要だ」と指摘し、「我々が新秩序を構築しなければ、奴隷の主人および資本主義者の後継者が我々に別の新秩序を押し付けてくることになる」と警鐘を鳴らした。

    大統領は、ラウール議長との会談に先立ち、フィデル・カストロ前議長とも会談した。大統領は06年9月、ハバナでの非同盟諸国首脳会議の折、病気療養中だったフィデルと会談している。

    大統領は12日、4番目の訪問国エクアドールに向かった。出発に先立ち、前日の会談でフィデル、ラウールと多くの点で意見の一致をみたと語った。空港では、ラウールが見送った。

グアンタナモ収容所10周年

▼▼▼キューバ島東部のグアンタナモ湾の大きな部分は1903年、「無期限租借」という形で米国に奪われた。99年後-2002年の1月11日、そこに収容所が開かれ、最初の20人の「容疑者」が連行されてきた。前年のあの「9・11事件」の「容疑者」である。

     それから丸10年経った。世界中のメディアが「10周年」を伝えている。

     779人にまで膨らんだ収容者は、現在171人に減っている。その内訳は23国籍の、25歳から62歳までの男性だという。

     10年間に8人が死んだが、うち6人は自殺で、他の2人は病死だという。

     バラク・オバマ米大統領は、この収容所の閉鎖を公約していたが、いつしか公約は葬られた。米市民の間には、1月11日を「米国民の恥の日」と捉える人々がいる。

     この収容所でも、ひどい拷問が国際的な大問題になった。数年前には閉鎖を求める世論が世界的に高まった。今でも、その世論は消えていない。

     だが、仮に収容所が閉鎖されたとしても、問題の本質は変わらない。

     当事国キューバをはじめラ米の立場からすれば、グアンタナモ基地がキューバに完全に返還された時、初めて問題が終わることになる。

     英国は香港を、ポルトガルはマカオを、それぞれ中国に返還した。米国は運河地帯をパナマに返した。だが米国は、社会主義キューバには、グアンタナモを絶対に返さない構えだ。

     収容所の存在は依然、人道的見地から大問題だ。だが、歴史的見地からは<租借地>返還こそが問題の核心にある。

2012年1月11日水曜日

アエラ誌がキューバ人の<結婚観>をルポ

☆★☆週刊誌「アエラ」の1月16日号が、「キューバ人はなぜ幸せか」という興味深いルポルタージュ(斉藤真紀子執筆、馬場岳人撮影)を掲載した。「恋愛や性が人生の重要な要素を占めていることを社会全体が認めている」という的を射た指摘が利いている。

     ある財団の2009年の調査で、日本の幸福度指数が世界で75位だったのに対し、キューバは7位だったという。このことは、経済的豊かさ、つまり物質や便利さが人生の中心的な重要事ではないことを示す。「日本人は、幸せとは何か、という命題を突きつけられている」と筆者は記す。

     ラ米というと、よく「マチズモ(俺は男だ!主義)」の本山のように伝えれられる。そのマチズモや<男性解放>教育に触れた部分も面白い。金銭崇拝主義とセクハラ敵視が支配する社会では、「マチョ(雄=オス)」が委縮し、陰湿なヴァーチュアルセックス産業が幅を利かせる。

     キューバには、それがない。<仮想の性遊戯>など、キューバ人はまっぴらごめんだろう。

     ただし、キューバ人が物質生活の向上を願っているのも事実だ。彼らの笑顔は必ずしも、楽しいから、愉快だからが理由ではない。毎日を精一杯生き、苦しさを紛らわせるためにも笑顔が必要だと思っているからだ。

     このルポは、読者にいろいろなことを考えさせる。

オルテガ・ニカラグア大統領が新任期就任式

▽▼▽ニカラグアのダニエル・オルテガ大統領(66)が1月10日、任期5年の新任期に入り、首都マナグアで就任式が挙行された。昨年11月6日の選挙で、得票率62%強で連続2選を果たした。1980年代の政権担当期を加えると、3期目となる。

    式場の革命広場は、赤黒2色の党旗を掲げる政権党「サンディニスタ民族解放戦線(FSLN)」の党員代表8000人が埋め尽くした。「ニカラグア、ニカラギータ」の歌が流れた。正面には、米軍と戦って勝利しながら陰謀で暗殺されたアウグスト・サンディーノ将軍と、FSLN創設者で殺害されたカルロス・フォンセカの肖像が掲げられた。

    オルテガは90分の就任演説で、「新任期もキリスト教、社会主義、連帯を基盤に、貧困と闘い、福祉に努めていく」と強調した。また、「我が政権では人民が大統領であり、野党は人民権力を恐れるべきではない」と述べ、就任式を無視した多くの野党議員らを牽制した。

    大統領は、傍らのイランのマハームド・アフマディネジャド大統領を見やりながら、「核兵器の対決を含む戦争の脅威が増幅している地球で、正義・尊厳・愛・連帯を伴う平和の構築のため闘う」、「イランは陰謀の犠牲者だ。(核開発疑惑でなく)石油が潤沢だからこそ狙われいる。イラクも同じ理由で侵略された」と述べた。

    さらに、「イスラエルの核武装が注目されないのは不可解だ。アフマディネジャド大統領は、イスラエルの核廃棄を要求すべきだ」と強調した。昨年のリビア最高指導者カダフィ大佐の死に触れて、「あの残虐な死は、犯罪だ」と非難した。

    隣席の、ベネズエラのウーゴ・チャベス大統領を念頭に、「ベネズエラは自国、地域、世界の人民のまっとうな暮らしのために闘ってきた」と称賛した。チャベスは年間5億ドルの援助をオルテガ政権に与えている。

    スペインのフェリーペ皇太子に対しては、「ニカラグアとスペインの政権交代でどのような政権が登場しようと、スペインは一貫してニカラグアに連帯し協力してきた」と謝意を表明した。

    経済開発については、「地球上に居場所がなくなった野蛮な資本主義に代わる、連帯と正当性のある経済モデルが必要だ」と指摘した。

    中米で深刻な問題となっている麻薬取引に触れて、「中米は国際麻薬取引の犠牲者だ。先進諸国は、麻薬消費を取り締まるべきだ」と、最大の麻薬消費国・米国をも念頭に、麻薬消費摘発に尽力するよう呼び掛けた。

    就任式には、ベネズエラ、イランのほか、グアテマラ、エル・サルバドール、ホンジュラス、ハイチ、スリナムの大統領が出席した。キューバ、ボリビア、ペルー、ドミニカ共和国は副大統領・副議長が出席した。台湾からは外交部長、日本からは山根隆治副外相が出席した。

    関係が悪化している隣国コスタ・リカからは、外務省儀典局長が出席し、米国はマナグア駐在の大使館員が出席したもよう。パナマからは外相と、マルティン・トリホス前大統領が出席し、14日に就任するグアテマラ次期大統領オットー・ペレス=モリーナ退役将軍も出席した。

2012年1月10日火曜日

第2回CELAC首脳会議は来年1月チリで開催

☆★☆昨年12月3日カラカスで発足したラ米・カリブ33カ国の「ラ米・カリブ諸国共同体(CELAC=セラック)」の第2回首脳会議は、来年1月、サンティアゴ市で開催されることになった。同時期にラ米・欧州連合首脳会議も同市で開かれる。

     CELACの前議長国(ベネズエラ)、現議長国(チリ)、次期議長国(キューバ)のトロイカ外相会議が12月9日サンティアゴで開かれ、決まった。

     ベネズエラのニコラース・マドゥーロ外相は、「CELACは真の経済ブロックになるべきだ」と述べた。キューバのブルーノ・ロドリゲス外相は、「CELACは統合のため独自の議題を持つべきだ」と指摘した。

2012年1月9日月曜日

イラン大統領がベネズエラ訪問

▽▼▽イランのムハーマド・アフマディネジャド大統領は1月8日夜、ラ米歴訪の最初の訪問国ベネズエラの首都カラカスに到着した。9日、ウーゴ・チャベス大統領と会談し、これまでに調印された68の協定の実施状況を検証した。

    会談後の記者会見で、チャベスは、「我々は、米帝国とその同盟諸国による主権国家群への絶望的、非理性的、かつ残虐な蹂躙行為を憂慮している。いかなる国も他国を侵略する権利は持たない」、「この地で、リビア人民蹂躙とカダフィ元首暗殺を、無力感を持って見守るしかなかった」、「今や帝国の砲列は、我々の友邦シリアに向けられている。シリア情勢を伝えてくれるあなた(アフマディネジャド)の来訪は時宜に適っている」と述べた。 

     両大統領は10日、ニカラグアの首都マナグアに飛び、ダニエル・オルテガ大統領の連続2期目の就任式に出席する。チャベスは11日帰国するが、イラン大統領は同日キューバを訪問し、ラウール・カストロ議長との会談後、ハバナ大学で講演する。

     次いで12日、エクアドールに行き、ラファエル・コレア大統領と会談する。同国のリカルド・パティーニョ外相は9日、「イランは平和政策を維持している」と前置きし、「我が国は米国の干渉は受け入れない」と述べ、対イラン外交を規制しようとする米国務省の干渉をはねつけた。

     一方、米国務省は9日、グアテマラ政府に対し、アフマディネジャドに国際義務を守るよう強いメッセージを発するべきだと伝えた。同政府は10日現在、イラン大統領が14日のグアテマラ大統領就任式に出席するかどうかは未確認としている。だが米側の警告は、イラン大統領がエクアドールからグアテマラ入りする公算が大きいことを示唆するとも受け取れる。 

    イランの「核開発疑惑」をめぐり敵対政策を取り続ける米国はいま、イランによるホルムズ海峡閉鎖の可能性が浮上していることから、同国への圧力を一層強めている。そんなワシントンを横目に、アフマディネジャドはラ米歴訪を開始したわけだ。

    米政府は8日、マイアミ駐在のベネズエラ領事リビア・アコスタ=ノゲラを「好ましくない人物」として追放処分にした、と発表した。イラン大統領のベネズエラ入りに合せた発表だった。

    同領事は、昨年12月のスペインテレビ「ウニビシオン」の報道番組によると、在メキシコ大使館に2等書記官として駐在していた07年、米国の核施設にサイバー攻撃をかける陰謀に関与したという。米政府はこの番組内容を「深刻に受け止めた」と、伝えられていた。

    オバマ政権は、イランとともにベネズエラにも圧力をかける作戦だが、11月の米大統領選挙をにらんだ戦略であるのは疑いない

2012年1月8日日曜日

アルゼンチン大統領は癌ではなかった!

▽▼▽アルゼンチン政府は1月7日、クリスティーナ・フェルナンデス=デ・キルチネル(CFK)大統領(58)は「癌ではなかった」と発表した。政府は昨年12月27日、大統領は甲状腺右葉に癌の突起が見つかったと発表。大統領は1月4日、首都の私立病院で患部の除去手術を受けた。

     ところが、医師団が除去した部分を精密検査したところ、癌細胞はなかった、という。

     専門家は、「良性の腫瘍だったに違いない」と、見ている。癌細胞の有無を調べる場合、疑いのある部分を摘出しなければ検査しにくいことが少なくなく、今回の医師団の手術も仕方なかった、と理解する専門家もいる。

     医師団は「放射線治療は不要」としているが、「甲状腺除去により、ホルモン療法が必要になる」との見方も出ている。

     CFK政権に批判的な人々の間では、「世紀の大嘘だった」などと非難の声が上がっている。

     年末から年始にかけて亜国と国際社会に衝撃を与えたCFKの<癌騒動>は、意外な幕切れとなった。

     大統領は7日退院し、首都郊外の大統領公邸に戻った。24日まで静養期間があるため、その間は、アマード・ブドゥー副大統領が職務を代行する模様。

月刊誌「世界」もCELACに注目

☆★☆昨年12月3日、ラテンアメリカ・カリブ諸国共同体(CELAC=セラック)が発足した。ラ米諸国の独立200年期(2010~20年代)と、米国の「モンロー教義」宣言200周年(2023年)の米州の二つの潮流が激しく鬩ぎ合う力学から、CELACは生まれた。

    月刊誌「世界」2月号(岩波書店、1月8日発売)の「世界の潮」欄に、「米国抜きのラ米・カリブ諸国共同体が発足」 が掲載された(筆者は私)。米州史上、キューバ革命に次ぐ画期的な出来事であり、2012年初頭に新たに同誌に取り上げられてよかった。

    CELACは、ベネズエラ独立200年記念日の昨年7月5日発足することになっていた。ところが同国のウーゴ・チャベス大統領が6月に癌腫瘍の除去手術を受けたことから、12月に延期されたのだ。

    チャベスの手術はまさに「寝耳に水」だった。私は既にCELAC発足前触れ記事を、「エコノミスト」(7月5日号、毎日新聞社)、「社会主義」(7月号)に書いていた。だが癌手術のニュースが入って、急遽、「社会主義」(8月号)に延期を伝える記事を書かざるを得なくなった(「エコノミスト」は同誌記者が書いた)。

    「LATINA」(8月号)、「週刊金曜日」(7月29日号)、「選択」(8月号)には、チャベスの癌発病と延期を中心にした記事を書いた。

    12月にCELAC発足が過去形になってからは、「週刊金曜日」(12月9日号)、「LATINA」(2012年1月号)、「選択」(1月号)に書き、共同通信にも提稿した。そして今回「世界」に出たわけだ。

    今後もCELACを柱にした記事を書きつづけることになるはずだ。米州の対立軸が、CELACと米州諸国機構(OEA/OAS)の対峙関係になったからだ。CELACの存在感が増せば増すほど、米州情勢は活気づく。それは米国の影響力のさらなる衰退を意味する。

    米帝国がLAC(ラ米・カリブ)を200年近く<裏庭>視してきたからこそ、「パックスアメリカーナ」の衰退は、米州域内情勢、とりわけLACの動向から明確にわかるのだ。

2012年1月5日木曜日

チリ教科書用語が「軍事独裁」から「軍政」に変更

▼▼▼▼▼チリのハラルド・ベジェル教育相は1月4日、小学校の歴史教科書では今後、ピノチェー軍政(1973年9月11日~90年3月11日の16年半)を「<軍事独裁>と呼ばず、一般的な呼び方である<軍政>と呼ぶことにする」と発表した。

    昨年末、右翼の市長が長期禁錮刑に処せられている元軍人を礼賛する会合を開くなど、ピニェーラ右翼・保守政権になってから、独裁時代への<ノスタルジー>が社会の表面に出つつある。

    人権団体や、軍政下で肉親を殺された遺族会は、「歴史を白紙化しようとしている」と猛反発している。知識人は、「歴史改竄が台頭しつつある」と警告している。

    ピノチェークーデター当日、死んだサルバドール・アジェンデ大統領の娘イサベル・アジェンデ上院議員は、「国会も自由もなく、迫害・暗殺・強制失踪という凄まじい人権侵害のあった獰猛な独裁が17年近く支配したことを誰もが知っている。呼び方を変えるのは常識に反する。これは同じ過ちを繰り返すことになり、民主制度の破壊につながりかねない」と、厳しく批判した。

    また、バチェレー前政権で教育相を務めたパウリーナ・ウルティーアも、「パンはパン、ビノ(ワイン)はビノだ。チリ人は独裁化に17年近く生きて、独裁がどういうものか熟知している。小学生が<単なる軍政だった>と教えられるのは、過去の傷を癒し未来に向かおうとしている国にとって恥だ」と非難した。

           エドゥアルド・フレイ=ルイスタグレ元大統領は、ピノチェー当局に1982年1月毒殺されたエドゥアルド・フレイ=モンタルバ元大統領の息子。「今月で父の暗殺の30周年になる。あれは軍事独裁だったに決まっている」と、糾弾した。

    一方、右翼の政権党は、「権力を民主的に移管した政権を独裁呼ばわりするのは、その政権に汚名を着せることになる」として、呼び方を変えるのを正当化している。

    べジェルは1週間前の12月29日に就任したばかり。ピニェーラ大統領と謀って「軍事独裁」を「軍政」に変えるよう決めたのは明らかだ。

2012年1月4日水曜日

ロサリーア・デ・カストロ詩集『ガリシアの歌』

☆★☆スペイン北西部のガリシア地方(自治州)は、女流詩人ロサリーア・デ・カストロ(1837~1885)を生んだ。ガリシアの南隣はポルトガルだが、ポルトガル語に酷似したガリシア語で綴られた<ガリシア讃歌>とも言うべき詩の数々は率直で、美しい。

    今年最初の読書は、彼女が1863年に出した『ガリシアの歌』(カンターレス・ガジェゴス、下巻、桑原真夫訳、2011年、行路社)だった。ラ米情勢漬けでくたびれた頭を休めるのには詩集がいいと思って、読んだ。

    そのなかの第29篇「ガリシアの風笛」には、次のような一節がある。

哀れなガリシアよ、おまえは決して
自分をスペイン人と呼んではならない、
どんなにおまえが美しくとも、ああ
スペインはおまえなど忘れている。
それはまるで不義の子を恥じるような、
裏切りの母。
ひとかけらの愛もなく
我が子を軽蔑する母。
誰もおまえに救いの手を差し伸べはしない、
誰もおまえの涙を拭ってはくれない、
慎ましくおまえは泣くしかないのだ。
ガリシアよ、おまえには祖国はない、
世界の孤児として生き、
その民は群れながら、
行方定めず流浪し、
悲しみと孤独とともに、
広げられた緑の絨毯の上で
海に希望を祈り、
神に希望を祈っている。
だからこそ祭りの風笛が
どんなに陽気に聞こえようとも、
 ああ私は君に告げよう、
 それは歌っているのではなく、泣いているのだと。

    多くのガリシア人がキューバに渡った。フィデル・カストロの父親もそうだった。裸一貫で渡航し、大成功して、革命家の兄弟を生んだ。この一節には、ガリシア人の<宿命>が描かれている。

    「誰もおまえに救いの手を差し伸べはしない」は、亜国タンゴ「ジーラ、ジーラ」の歌詞と同じだ。タンゴへのガリシア人の貢献は聞いたことがない。だが、通底する何かがある。

    第33篇「滑らかに雨は降っていた」は、ガリシアを讃え詠う。

そこに生まれし人々、
そこに育まれし人々、
故郷を遠ざかれば心傷つき
母なるガリシア
近くあれば慈悲に溢るる。  

    実はまだ、この詩集の上巻を読んでいない。いつになるかわからないが、必ず読むつもりだ。

2012年1月3日火曜日

イラン大統領のラ米訪問が物議醸す

▽▼▽▼▽イランのマハムード・アフマディネジャド大統領が1月10日ニカラグア、14日グアテマラの両国大統領の就任式に出席する。同大統領は、併せてベネズエラ、キューバ、エクアドールなどを訪問する計画と伝えられる。

     グアテマラでは2日、次期政権の外相に内定しているハロルド・カバジェロス氏がイラン大統領の出席を発表した。次期大統領オットー・ペレス=モリーナ退役将軍は、1996年12月に終結した内戦を米政府の支援を受けて戦った国軍高官出身の右翼。その就任式に、米国と対決しつつあるイランの最高指導者が出席するという<ちぐはぐさ>も関心を呼んでいる。

     有力紙「プレンサ・リブレ」は2日、「この招待は新政権の最初の重大な過ちだ」と論評した。グアテマラは元日に国連安保理非常任理事国になったが、同紙は、「イラン大統領が来訪する狙いは明白だ。グアテマラが理事国になったからだろう」と分析した。

     さらに、「国際社会の懸念の中心に居る人物を招いて、どんな実益があるのか。国の印象はどうなるのか。(新)政権はとくと考えるべきだ」と警鐘を鳴らした。

     続けて、「国際社会と広範な関係を維持するという立場はわかるが、この場合は、一部友邦の反応を考慮すれば、正当化できない」と断言。米国への配慮を示した。

     また、「イランが軍事訓練をしないでいい状況であれば、今回の招待を受けることはなかったのではないか」とし、1~2両日のイラン海軍によるホルムズ海峡近海でのミサイル発射実験も踏まえて、指摘した。

     そのうえで、「非常任理事国として国際関係には慎重であらねばならない」と、注意を喚起した。

     今回のイラン大統領のラ米歴訪については、反カストロ派の在米キューバ人の政治家らが非難運動を展開している。

     一方、ニカラグアの大統領就任式は、政権党「サンディニスタ民族解放戦線(FSLN)」のダニエル・オルテガ大統領の連続2期目の新任期入りの儀式であり、イラン大統領の来訪は「取り立てて騒ぐべきことではない」との立場が一般的だ。

2012年1月2日月曜日

ニカラグア政府がクレメンテ顕彰追悼碑建設へ

☆★☆ニカラグア政府は2012年1月1日、プエルト・リコ(PR)人大リーガー、故ロベルト・クレメンテ選手の顕彰追悼碑を建設すると発表した。

    クレメンテは1972年12月31日、大地震で破壊されたマナグアに救援物資を運ぶ途上、飛行機がカリブ海に墜落、帰らぬ人となった。

    ピッツバーグ・パイレーツの主力選手だったクレメンテは、72年11月、PRチームを率いてニカラグアを訪れ、親善試合をした。翌月23日大地震がマナグア一帯を見舞うと、支援活動に乗り出した。その結果、悲劇に遭った。

    ニカラグア人はクレメンテを「忘れ得ぬ人」、「国際連帯の英雄」と讃えてきた。政府は、没後40周年に合せて顕彰追悼碑を建てることにした。

    私は、この地震を現地で取材した。メキシコ空軍の救援物資輸送隊に同行してマナグア入りし、帰りも同じだった。パスポートもビザも不要だった。国家機能が完全に麻痺していたからだ。

    熱帯のマナグアでは、遺体が腐るのが早い。1万人近い人々が死亡したが、多くは路上で、ガソリンをかけられて火葬された。風下にいると異臭が運ばれてきた。辛く厳しい取材だった。クレメンテは私にとっても、忘れがたい人だ。

    私は1969年に3ヶ月間、マナグアを拠点に中米諸国を巡回取材した。その記憶にあった懐かしい街並みは、大地震で消えてしまった。

    顕彰追悼碑建設には、対米関係悪化を避けたいニカラグア政府の思惑が絡んでいるかもしれない。だが私は、クレメンテのヒューマニズムを讃える記念碑の建設として純粋に捉えたい。

    それは、昨年12月3日の「ラ米・カリブ諸国共同体(CELAC=セラック)」発足時の首脳会議で、ダニエル・オルテガ大統領が「CELACでのプエルト・リコの不在」を指摘したことからもうかがえる。

(2012年1月2日 伊高浩昭執筆)

2012年1月1日日曜日

オルーロのカーニバル研究で博士号

☆★☆ボリビア高原のオルーロ市は、かつては「鉱山労働者の首都」だった。エボ・モラレス現大統領の故郷でもある。だがこの街は、国際的には「カルナバル・デ・オルーロ」で知られている。それを20年近く、実地調査を繰り返し研究して、学術博士号を取得した人がいる。

     大学講師の、「こ」島峰(こじま・みね)さんだ。「こ」は貌の偏をとり、残った旁(つくり)の「白」の部分の横棒を上から2本、真ん中で切る。それが「こ」なのだ。私は、このパソコンで、その文字が出せない。苦肉の策で、こんな字解を書かざるを得なかった。

     博士論文の題名は、『口承・無形文化遺産「オルロのカーニバル」の学際的研究ーその政治・経済的意義の変遷と継承される理念ー』。筑波大学に提出され、昨年11月30日に博士号が授与された。快挙である。

     「こ」島さんには数年前、立教大学ラ米研主催の公開講座で講義してもらったことがある。私の講座「現代ラ米情勢」を拡大した公開講座だ。極めて興味深い話で、受講生たちは講座の後、「こ」島さんを池袋での宴に招いた。

     オルーロのカルナバルの研究で博士号を取ったのは日本ではもちろん初めてであり、世界でも聞いたことがない。それだけに希少価値がある。ラ米各地には、ほかにも興味深いカルナバルがある。「こ」島さんの後に続く研究者が現れるのを期待したい。

ラテンアメリカ 2012年

☆★☆★☆謹賀新年2012☆★☆★☆友人および読者のみなさん、悲観も楽観もなく淡々とラ米情勢、世界、沖縄、日本の状況を探り追いかけていきます。新年も過去と同じです。
                                      2012年元日 東京 伊高浩昭


◎2012年の幾つかのラ米日程

元日      クーバ=キューバ革命53周年。「革命54年目の年」始まる
10日      ニカラグアでダニエル・オルテガ大統領が新任期入り
14日      グアテマラ新政権発足(オットー・ペレス=モリーナ大統領就任)
28日      キューバ共産党全国会議開催
3月       ローマ法王が墨玖両国訪問
4月      亜英マルビーナス(フォークランド)開戦30周年
4月       第6回米州首脳会議がコロンビアで開催
4月       ボリビア革命60周年
5月       ドミニカ共和国(レプーブリカ・ドミニカーナ=RD)大統領選挙
7月       メヒコ=メキシコ大統領選挙 
7月       エバ・ペロン没60周年
10月      ベネスエラ=ベネズエラ大統領選挙
10月      クーバ核ミサイル危機勃発50周年
11月      米大統領選挙と、プエルト・リコ住民投票
12月      メヒコ新政権発足