2011年10月31日月曜日

第16回汎米競技大会閉会

   メキシコのグアダラハーラ市で10月14日開会した第16回フエゴス・パナメリカーノス(汎米競技大会)は30日閉会した。汎米スポーツ機構(ODEPA=オデパ)加盟35カ国・7地域が参加した。

   注目のメダル獲得競争は、米国が圧倒的な数で、1位を維持した。米国から半世紀余り敵国扱いされてきたカリブ海最大の島国キューバ(玖)は、金メダル数でブラジル(伯)を凌いだが、メダル獲得総数ではブラジルに後れをとった。2016年にリオデジャネイロ五輪を開催するブラジルは、選手育成の成果を挙げた。開催国メキシコ(墨)も奮闘し、4位に着けた。

   上位6カ国のメダル獲得数は次の通り。

        金     銀     銅     計
米国     92    79     65    236
玖国     58    35     43    136
伯国     48    35     58    141
墨国     42    41     50    133
加国     30    40     49    119
コロンビア    24    25     35    84

以下、アルゼンチン(亜)、ベネズエラ、ドミニカ共和国(RD)、エクアドールと続く。

   次の第17回大会は2015年7月、カナダ(加)のトロントで開催される。

(2011年10月31日 伊高浩昭)     

 

2011年10月30日日曜日

第21回イベロアメリカ首脳会議

  イベロアメリカ(イベリア半島系=スペイン・ポルトガル系=米州)の19カ国と、イベリア半島3カ国(スペイン、ポルトガル、アンドーラ)の計22カ国の首脳が毎年1度集うイベロアメリカ首脳会議の第21回会議が10月28~29日、パラグアイの首都アスンシオンで開かれた。
  
  加盟国の半数の11カ国の首脳が欠席し、会議史上最悪の<首脳欠席数>となった。だが、議論にかなり本音が出て、スペインのホセルイス・ロドリゲス=サパテロ首相は「いつになく実りある議論だった。世界経済の危機が議論に拍車をかけた」と評価した。

  会議は、「国(政府・諸機関)は、社会正義を伴う持続可能な開発を促進する機関としての役割を担う」と、「国家の復権」を強調する「アスンシオン宣言」を採択して閉会した。

  首脳陣のなかで脚光を最も浴びたのは、エクアドールのラファエル・コレア大統領だった。会議に出席していた世界銀行ラ米担当責任者が発言しようとしたところ、緊急発言し、「世銀はラ米と世界に新自由主義を押し付けた責任を謝罪すべきだ。世銀代表がなぜ首脳会議の場にいるのだ。私は世銀代表が発言する間、席を外す」と言い、退場した。

  コレアは、自分の発言の番になると、「歴史的にブルジョア国家であるラ米諸国を人民国家に変えなければならない。ラ米が発展するには、国際機関がラ米に押し付ける新植民地主義に打ち勝たねばならない」と強調した。ボリビアのエボ・モラレス大統領はコレアを支援し、「国際通貨基金(IMF)と世銀はラ米に賠償すべきだ」と訴えた。

  会議の頭上には、08年の米経済危機から昨今の欧州経済危機に至る国際経済の深刻な危機が暗雲となって立ち込めていた。主として一次産品の好況で経済が活況を呈してきたラ米だが、突如として輸出減少と価格低落による危機に陥る可能性があるからだ。

  来年の第22回会議は、スペインのカディスで開かれる。再来年の第23回会議は、パナマ開催が決まった。ラテンアメリカ(ラ米)にありながらフランコアメリカ(フランス系米州)であるため加盟できないハイチは、外相がオブザーバー出席し、正式加盟を申請した。

(2011年10月30日 伊高浩昭) 

  
    

2011年10月29日土曜日

ようやく真実委員会

     ブラジル国会は10月26日、過去の人道犯罪を究明するための「真実委員会」の設置、および機密文書公開を定めた法案を可決した。ジルマ・ルセフ大統領の署名から180日後に発効する。

  軍部は米政府と謀って1964年、ジョアン・ゴラール大統領の民主政権をクーデターで倒し、政権を掌握した。85年に民政が復活するまで21年も支配した。その間、ブラジル軍政は米政府と連携しつつ、トーレス・ボリビア政権打倒、ウルグアイ政変、アジェンデ・チリ政権打倒などに加担し、アルゼンチンに亡命していたゴラール氏を暗殺した。国内では多くの市民を拉致、拷問、殺害した。

  歴代の民主政権は、軍部の存在があまりにも大きくなり、国の利権構造の大きな部分として深く根付いてしまっていたため、恐持てする軍部に敢えて逆らおうとせず、軍政時代の人道犯罪の究明作業ははかどらなかった。それが動き出したのは、21世紀になってからのルーラ政権下でのことである。

  成立した新法は、この国にとっては<歴史的>であり、価値なしとはしないが、極めて<臆病>な内容だ。人道犯罪調査の対象期間は、軍部がジェツリオ・ヴァルガス大統領を倒して勢力を張っていた1946年から現行憲法が制定された88年までと、実に42年に及ぶ。これでは「長期軍政21年」がぼけてしまう。

  公開対象の機密文書も公開までの期限が5年、15年、50年と3種類ある。酒ではないが,<50年物>は超重要機密なのだ。50年後には、軍政の犯罪者はすべてこの世から消え去っている!

  新法は、軍部や警察などの犯罪者を断罪できない。軍政が1979年に制定した「恩赦法」が依然有効なためとされる。ウルグアイ国会がしたように、この「恩赦法」の効力を殺がないかぎり、犯罪者を裁くことはできないわけだ。

  真実委員会は7人で構成され、調査開始から2年後に結果を公表する。人道犯罪の被害者や遺族の団体は、委員に軍・警察関係者を加えてはならないと主張している。また、判明した犯罪者は裁くべきだと訴えている。新法に反対する軍部や保守派には「報復主義だ」との声がある。

  ブラジル、ウルグアイ、アルゼンチン、チリの「コノ・スール」(南の円錐=南米深南部)の4カ国では、いずれも軍政下で人権が蹂躙された。その断罪が最も進んでいるのは、軍政大統領を終身刑に追い込んだアルゼンチン。次いで、ピノチェー将軍にあの世に逃げ込まれたが断罪が進むチリ。続いて、このほど人道犯罪時効を無効としたウルグアイ。ブラジルは人道犯罪糾弾では最後進国だ。

  だが、ブラジルがやっとここまで来た、と捉えることもできる。この国は今、南米・ラ米の経済大国から世界の経済大国へと徐々に進んでいる。過去の人道犯罪の責任をごまかしたまま進めば、将来、似たようなことが起きたり、問題が再浮上したりするだろう。

  ブラジル人の奮起を期待するしかない。

(2011年10月29日 伊高浩昭)  

2011年10月28日金曜日

カストロ2世が講演

   「キューバ革命の指導者」フィデル・カストロ前国家評議会議長の長男フィデル・カストロ=ディアスバラルト氏(62)=通称フィデリート=が10月28日夜、東京・九段のホテル「グランドパレス」で開かれた「21世紀の知識と新技術の革命」と題する講演会で30分講演した。

  同氏は、モスクワに学んだ数理物理学博士で、東西冷戦中、キューバ原子力委員会の委員長を務め、ソ連製原子炉を用いるフラグア原子力発電所(シエンフエゴス市郊外)の建設に尽力した。だが1986年のチェルノブイリ原発事故や91年のソ連消滅を経て、フラグア原発建設は打ち切りを余儀なくされた。その後、フィデリート博士は、国家評議会議長(元首、首相、革命軍最高司令官)の科学顧問に就任した。現在の議長は、フィデルの実弟ラウール・カストロ氏である。

  この夜の講演では、世界人口70億の7分の1に当たる10億人が飢餓状態にあると前置きし、食糧を全人口に行き渡らせるためには、環境に配慮した新しい科学技術が必要になる、と強調した。

  人口が増えればエネルギー消費も増える。今日の世界のエネルギー源の80%は石油、天然ガス、石炭などの化石燃料であり、原子力は6%に過ぎない、とフィデリートは指摘した。

  転じて東京電力福島第一原発の深刻な放射能漏れ大事故に触れて、安全に万全を期すことが大事であると同時に、原発を存続させるか否かの判断をする際には、最大多数の人民が意思決定に関わるべきだと訴えた。

  日本には、原発政策決定のような超重要な意思決定をする場合、国民投票をする規定や習慣がない。民主制度が遅れているわけだが、フィデリートの発言は、その弱点を期せずして突いたように受け止められた。

  むろん「人民参加型民主制」の社会主義キューバと、「資本制民主主義」の日本とは、意思決定過程は大きく異なる。日本と同じ体制の国々では、しばしば国民投票が実施される。だが日本にはそれがない。この点を、体制の異なる国から来たフィデリートは、「期せずして」突いたと、私は思うわけだ。

  博士はまた、今後の世界を人類の幸福のために発展させるには、時代にふさわしい知恵と倫理を拡げていくのが不可欠だ、と述べた。
 
  フィデリ-トは今回の来日では、東京のほか神戸と沖縄を訪れた。

               ×            ×            ×

  私は10年ぶりにフィデリートに会った。10年前のある日、東京のキューバ大使公邸に早朝突然招かれ、朝食会に出席したところ、何とそこにフィデリートがいた。その時、長いインタビューをした。以来久々の再会だったが、「あれから10年も経ったのか」とフィデリートは感慨深げだった。

  フィデリートの風貌と声は、父親に似てきた。スペイン語がクバニズモ(キューバ独特のもの)であるがための類似性は当然あるが、息子は年をとると父親に似てくる。これが、フィデリートにも出てきたのだろう。

(2011年10月28日 伊高浩昭)
     

人道犯罪に時効なし

  ウルグアイ国会下院は10月27日未明、人権犯罪の時効を否定する法案を可決した。法案は既に25日に上院を通過しており、成立した。ホセ・ムヒーカ大統領が28日署名し、発効した。

  この国では1973年から85年まで軍事政権が支配した。その間、ウルグアイ人約200人が軍政によって殺され、多くの市民が拷問された。だが民政移管後の86年、「国家制裁権失効法」が制定され、軍政の犯罪は裁けなくなった。同法の存否は89年と2009年の2度、国民投票にかけられたが、いずれも僅差で存続派が勝ち、今日まで法が生きてきた。

  「失効法」を失効させようという動きは、タバレー・バスケス前政権下で新たに始まった。左翼諸党・政治運動が組織する「拡大戦線(FP=フレンテ・アンプリオ)」が初めて政権党になったからだ。

  FA2代目政権のムヒーカ大統領は、軍政時代に投獄され迫害された経験をもつ。国民投票での勝利が難しいのなら、政権党FAが上下両院で多数派となっている間に「失効法」を葬り去ろう、と努めてきた。

  ところが最高裁は今年5月、「今年11月1日をもって軍政下の犯罪は時効となる」との判断を下した。「失効法」を失効させるための新法の制定は、時間との闘いになった。期限ぎりぎりで成立したわけだ。

  新法には、「国家は、1973~85年の軍政時代の国家テロリズムによる犯罪を断罪できる。国際的に規定されている人道犯罪を裁くのに時効はない」と明記されている。

  軍・警察、保守・右翼、野党などは新法審議過程で猛反対した。国軍参謀長のホセ・ボニージャ将軍は、「11月1日以降ならば、人権犯罪に関する証言が出てくるだろうが、新法が成立すれば、証言は出にくくなる」と口にし、国防相から警告を受けていた。

  先の判断を示した最高裁も、新法に不満なようだ。だが米州人権裁判所は「失効法」の効力を認めておらず、この判断にムヒーカ政権も励まされてきた。
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  私は、都市ゲリラ「トゥパマロス」が軍・警察に戦いを挑んでいた1970年代前半のウルグアイを取材し、85年の「失効法」成立時や89年の国民投票時にも現地で取材した。
                                   
  80年代後半の取材時に首都モンテビデオで、娘を軍政に拉致され殺されるという悲惨な運命に翻弄されていた女性に会った。自宅でインタビューしたのだが、私に、こう言った。

  「あの日の朝、娘は元気よく出て行った。そのまま帰ってきていないから、必ず、ある日の夕方、ただいまって帰ってくるわ」。そして笑顔を見せた。その笑顔は空洞だった。切なかった。

  国民投票の取材中にウルグアイ人のラジオ記者から、「遠い日本のメディアが、なぜ私たちの国の政治状況に関心をもつのか」と訊かれた。私は「民主主義に距離はない。だからです」と答えた。彼は、私とのやり取りを全国にそのまま流した。

  ウルグアイの正式な国名は「ウルグアイ東方共和国=ラ・レプーブリカ・オリエンタル・デ・ウルグアイ」という。大河ラ・プラタの東側に位置するからだ。そのラジオ記者は、「あなたは東洋人、私は東方人。同じオリエンタレスです」と言い、私の手を強く握った。

  ウルグアイの状況は歴史的に、大河の西側のアルゼンチンと良くも悪くも呼応してきた。向こう岸のアルゼンチンの法廷が軍政時代にESMAで起きた人道犯罪を断罪するや、こちら側では「失効法」の対抗法が成立した。今度は見事に呼応した。

(2011年10月28日 伊高浩昭)

2011年10月27日木曜日

人道犯罪で終身刑

  アルゼンチン連邦法廷は10月26日、軍政時代(1976~83)に市民拉致・拷問・殺害に関与した軍人ら12人に終身刑を言い渡した。首都ブエノスアイレス市内にある(旧)海軍機械学校(ESMA=エスマ)で起きた人道犯罪のうちの86件に関わった被告18人に対する判決で、他の2人に禁錮25年、22年と18年が各1人、別の2人は無罪だった。
  
  ESMAで「消された」市民には、軍政と闘ったジャーナリスト、ロドルフォ・ワルシュ、「五月広場の母たちの会」のアスセーナ・ビジャフロールら創設者3人、フランス人尼僧2人も含まれている。犠牲者の多くはヘリコプターや輸送機に乗せられ、ラ・プラタ川に突き落とされた。

  終身刑を言い渡された者のなかで国際的に最も名の知られた元海軍中佐アルフレド・アスティースは、ナチスのヨーゼフ・メンゲレになぞらえて「死の天使(エル・アンヘル・デ・ラ・ムエルテ)」と呼ばれていた。メンゲレは1979年、逃亡先のブラジル・サンパウロ州で海水浴中に心臓発作で死亡している。

  この「ESMA裁判」は09年12月に始まり、今月14日結審した。公判で証人250人が証言した。

  軍政時代の人道犯罪を断罪する機会は、1983年の民政移管によって訪れた。だが、軍部の圧力に耐えきれなかったアルフォンシン政権と、軍部を味方につけようと努めたメネム政権の下で「無処罰」化が進んだ。しかし、キルチネル前政権下で「免罪」や「恩赦」が無効とされ、裁判が加速されてきた。キルチネル夫人クリスティーナ・フェルナンデス(現職大統領)が今月23日の大統領選挙で圧勝し再選を果たした要因には、夫婦2代の政権下で進展した人道犯罪裁判への支持が含まれている。

  ネストル・キルチネル前大統領は昨年10月27日、心臓発作で急死した。1周忌の27日(昨日)、出身地パタゴニアはリオガジェゴの墓地に廟が完成し、フェルナンデス大統領ら遺族が法事を執り行なった。また同市内でキルチネル像の除幕式が行なわれた。

(2011年10月28日 伊高浩昭)  

2011年10月26日水曜日

中村とうようの思い出

  音楽評論家の中村とうよう(本名・東洋)が今年7月21日、自殺した。79歳の覚悟の死だった。衝撃だった。私はとうようさんの友人ではなく、かすかな知人にすぎない。だが、初対面が印象深かったため、いつも私の心のどこかに生きていて、ときどき思い出す人物だった。

  私は1972年初め、キューバを取材旅行した。私とキューバ外務省の監視役の職員と、同じく運転手の3人組の旅だった。監視も、ハバナを離れて2、3日すると仲間のように打ち解けてしまい、ないに等しくなった。運転手は、当時キューバではやっていたトム・ジョーンズの「ディライラ」を繰り返し口ずさみながら運転していた。「マイ、マイ、マイ、ディライラー」と歌うところを、彼は「アイ、ヤイ、ヤイ、ディライラー」と歌っていた。砂糖黍畑のなかを、車はのんびりと走っていた。

  当時カストロ政権は、国際連帯強化とサフラ(砂糖黍収穫)の労働力増強のため国際社会にサフラ参加を呼び掛けており、各国からブリガーダ(砂糖黍刈り隊)がやってきていた。キューバ島中部では、「日玖文化交流研究所」の山本満喜子所長率いる日本隊が働いていた。その野営地訪問を取材日程に組み込んで、現地を訪れた。

  早速、「連帯のため」として私もマチェテ(山刀)、皮手袋、長靴を渡されて、幅2~3メートル、奥行き30メートルぐらいの帯状の土地を割り当てられた。そこに密生する丈の高い砂糖黍を刈り取るのだ。右利きの私は、左手で数本を根元で握り、右手の山刀を高く振り上げ、力を込めて振り下ろし、根元を刈る。たいへんな重労働だ。私の両手はすぐに豆だらけになり、それがつぶれて血だらけになった。

  だが義務は果たさなけらばならない。どれくらい時間がかかったか記憶にないが、前方に光が見え、あと少し刈れば、お終いになるところまでたどり着いた。そして刈り終えると、前方の光のなかから、一人の男が現れた。私と同じ幅と長さの部分を、私の方に向かって刈り進んでいたのだ。

  「コモ・エスタ・ウステー? たいへんな仕事ですね」と話しかけた。すると、相手は首をかしげた。もしやと思い、日本語で話しかけた。すると、返事が返ってきた。それが、40歳のとうようさんだった。精悍な顔は赤銅色に焼けていた。その風貌から、私はキューバ人と勘違いしたのだ。

  後で知ったことだが、とうようさんは、3年前の1969年東京で『ニューミュージック・マガジン』を創刊し、新進気鋭の評論家として鳴らしていた。私は乞われてキューバ情勢を話し、とうようさんからは音楽の話を聴いた。その夜は野営地に泊めてもらい、翌日、次の目的地に向かったのだが、別れ際に「なぜ、筆名を平仮名にしたんですか」と訊いてみた。「戦中派の僕は、大東亜共栄圏とか八紘一宇とか軍国主義のあの時代が大嫌いで、そのため東洋という漢字が気に食わず、平仮名にした」とのことだった。予想どりの答だった。しないでもいい質問だった。

  話は飛ぶ。私は1984年に南アフリカのヨハネスブルク駐在の仕事を終えて東京に戻ったが、ある日、とうようさんから電話がかかってきた。南アのアパルトヘイト状況の原稿を書いてほしいとのことだった。一瞬、ラ米の原稿かと思い、意外だったが、アフリカ音楽にも熱を入れていたとうようさんだから、当然の注文ではあった。再会したとうようさんは、キューバで会ったときと同じように寡黙で、ときおり微笑を浮かべいた。

  私は、とうようさんの雑誌のコラム「とうようズトーク」が好きだった。閃きとエスプリに富み、学ぶところが多かった。とうようさんは、2011年9月号掲載のコラムを辞世の挨拶文として死んでいった。

(2011年10月26日 伊高浩昭)

【本田健治執筆「中村とうようさんを偲んで」(月刊誌『ラティーナ』2011年9月号)参照】

20回連続で経済封鎖撤廃決議

   国連総会は10月25日、米政府によるキューバへの「経済・貿易・金融封鎖」の撤廃決議を、賛成186、反対2(米、イスラエル)、棄権3(ミクロネシア、マーシャル諸島、パラオ)で可決した。1992年以来、連続20回の可決となった。棄権した南太平洋の3国は、いずれも米国に防衛を依存している、米国との「自由連合国」で、米政府の意向に背きにくい。

   この決議には拘束力がない。このため米国が決議に従うことはない。米代表は、「封鎖は米玖間の2国間問題であり、国連総会決議にはなじまない」とうそぶいた。経済封鎖が、日本を含む第3国に深刻な影響を及ぼしており、「2国間問題」という主張は欺瞞そのものだ。

   キューバのブルーノ・ロドリゲス外相は投票に先立ち、ケネディ米政権時代の1962年2月7日以来の経済封鎖による損害は累計総額9750億ドルに及ぶ、と明らかにした。経済封鎖は、キューバ革命のあった1959年からアイゼンハワー米政権によって徐々に発動されていた。このため「損害額」は実際には、もっと多いはずだ。

  駐日キューバ大使ホセ・フェルナンデス=デ・コシーオ氏は10月6日、経済封鎖問題について在京大使館で記者会見した。その折、「封鎖の第3国規制によって日本の主権も侵害されている。たとえば日本企業がステンレススティールを米国に輸出する場合、日本側はキューバ産ニッケルを使用していないことを証明するため、使用したニッケルの原産地証明を提出しなければならない」と指摘した。

  経済封鎖を担当している米財務省はこのところ、日本の銀行に対し、日本企業がキューバに輸入代金を支払う際に発行するLC(信用状)を発行しないよう圧力をかけている。企業はLCを欧州の銀行に送り、ユーロでキューバに代金を支払ってきたが、米財務省は、日本の銀行に対し、LCを発行する場合、そのLCをいったん米国の銀行に渡し、そこから欧州の銀行に回すよう強制しているという。ひどい干渉だ。この圧力は、英蘭独などの銀行にもかけられている。

  ある日本の大手商社がキューバに小型発電機を輸出しようとした際、日本の経産省から横やりが入り、輸出を断念したこともある。米財務省の思惑を経産省が先取りして警告したわけだが、この商談は結局、韓国の現代(ヒョンデ)に持っていかれた。

  日本も国連総会で封鎖解除に賛成してきたが、第3国規制に反逆できないのが実情だ。なお採決にはリビアとスウェーデンが不参加(欠席)、新生・南スーダンは参加した。


(2011年10月26日 伊高浩昭)

2011年10月24日月曜日

アルゼンチン大統領選挙

   アルゼンチンで10月23日大統領選挙が実施され、現職のクリスティーナ・フェルナンデス=デ・キルチネル(CFK、故ネストル・キルチネル前大統領夫人)が得票率54・11%で当選した。2位の社民主義者エルメス・ビネル候補(16・80%)に37ポイント差をつけての圧勝だった。

   勝因としては、人気の高かった前大統領の急死(昨年10月27日)を悼む人々が夫人を支援したことや、夫人が夫に支援されて、民営化されていた国民年金を国営に戻したり、労組交渉権を復活させるなど、国民生活に密接に関わる分野で新自由主義政策を覆す政策を推進したことへの高い評価などが挙げられる。

       また、亡夫の遺志を継いで、軍政時代(1976~83年)に犯された人道犯罪の責任者を法廷で裁き続けていることも、人民大衆の支持を集める重要な要因となった。

  CFKは、ペロン主義政党「正義党(PJ)」の左翼。ペロン主義政界で夫とともに、1990年代に新自由主義を強引に押し進めたカルロス・メネム大統領(ペロン主義右翼)の対極にあった。CFKの新任期は12月10日から4年間。同時に実施された国会議員選挙で、政権党は下院で多数派となり、上院でも議席を増やした。また改選9州知事選でも8州を制した。

(2011年10月25日1230更新 伊高浩昭)

【今回の大統領選挙結果およびアルゼンチン情勢については、月刊誌『ラティーナ』12月号(11月20日刊行)の「ラ米乱反射」などで分析します。】

   

2011年10月23日日曜日

スペインの季節

  スペイン北部バスク州の独立派政治・武闘組織「バスク国と自由(ETA=エウスカディ・タ・アスカタスナ)」が10月20日、「武闘恒久放棄宣言」をした。11月20日に控える総選挙のちょうど1か月前という日付を計算しての宣言がいかにも<政治的>で、気になる。総選挙で劣勢が伝えられるサパテロ政権の政権党スペイン労働社会党(PSOE=ペソエ)は、同宣言が自党に有利に作用することを明らかに期待しているように見受けられる。だが宣言に意味がないわけではない。

  バスク州の主要都市の一つサンセバスティアンで10月17日、コフィ・アナン前国連事務総長、ゲリー・アダムス氏(北アイルランドの政治家)ら国際的な政治畑の人々も出席して「サンセバスティアン国際平和会議」が開かれ、ETA(エタ)に武闘放棄を呼び掛けた。その3日後にETAが宣言に踏み切ったわけだ。

  1年ちょっとさかのぼる2010年9月25日、バスク州の主要な政治家らがゲルニーカに集って、「ゲルニカ合意(アクエルド・デ・ゲルニーカ)」 を結んだ。ETAに武闘恒久放棄を呼び掛け、スペイン政府には獄中にいるETA要員の身柄をバスク州内の刑務所に移すよう要求した。その延長線上に「サンセバスティアン会議」があった。

  ETAの宣言を受けて10月22日土曜日、数万人の市民がバスク州中心都市ビルバオの中心街をデモ行進した。先頭には「解決が必要だ」とバスク語で書かれた巨大な横断幕が掲げられていた。デモ隊代表は、次のような要求を盛り込んだ声明を発表した。

  一つ、スペイン、フランス両国政府にETAとの対話を求める。
  一つ、武闘は終わっても、政治闘争は終わらない。
  一つ、囚人(ETA要員)の人権を尊重せよ。
  一つ、政府は、北アイルランド和平を達成した英国政府のような対応をすべきだ。
  一つ、来年1月7日、デモ行進をしよう。

  私はフランコ時代末期、フランス南部でETA若手幹部とインタビューしたことがある。当時のETAは、フランコ独裁体制への抵抗者と見なされ、広範な支持と共感を得ていた。だからこそ、私のような外国人記者に会見取材が可能だった。90年代にはバスク州の主要な政治家やETA公然部門と見られていた政党の指導者とインタビューした。

  エスパーニャ(スペイン)とイスパノアメリカ(スペイン系米州)の歴史は長らく表裏一体だった。現代でも、切っても切れない関係にある。ラ米学徒はイベリア半島情勢を常に観察していなければならない。ETAの恒久武闘放棄宣言は、ラ米学徒にとっても印象深い。希望が恒久化するのを祈りたい。 

(2011年10月23日 伊高浩昭) 【私のバスク取材については、拙著『ボスニアからスペインへー戦(いくさ)の傷跡をたどる』(2004年、論創社)を参照されたい。】  

米州新聞協会

  米州(ラス・アメリカス=南北両米大陸およびカリブ海地域)には、米州新聞協会(SIP=シップ)がある。新聞経営者と編集主幹らの組織である。東西冷戦時代には、米政府の意向に沿って、反共主義で凝り固まっていた。冷戦が終わって20年余り、反・新自由主義や反米・嫌米の国々のメディア政策への批判ないし非難が目立っている。

  SIPの第67回総会が10月18~19日、ペルーの首都リマで開かれた。会長が、グアテマラ紙「21世紀」の編集幹部ゴンサロ・マロキンから、ワシントンポスト編集幹部ミルトン・コールマンに移った。伝えられるところによると、マロキンは開会演説で、ベネズエラ、アルゼンチン、ニカラグア、エクアドールの名前を挙げて「自由の約束を裏切った」と非難し、「当面の報道の自由の敵は、組織犯罪と専横政権だ」と指摘した。

  新会長コールマンも、「ベネズエラ、エクアドール、ホンジュラス、アルゼンチン、ボリビアなどで言論の自由が挑戦を受けている」と、就任演説で語ったと伝えられる。総会決議には、「エクアドールでは言論の自由が失われつつある。チャベス・ベネズエラ政権は専横政権だ。アルゼンチン政府のメディア介入が目立っている」などの文言が盛り込まれたという。

  言論の自由は基本的人権としては不変だが、時代や政治体制の変化に影響される。武力革命でカストロ兄弟政権の生まれた社会主義キューバを除いては、SIPの新旧会長が国名を挙げた国々の政権は普通の選挙で選ばれている。「米州ボリバリアーナ同盟(ALBA=アルバ)」を構成するベネズエラ、ボリビア、ニカラグア、エクアドールなどラ米左翼諸国では、「現代風の人民民主主義」とも言うべき「人民参加型民主主義」が支配的だ。それが、強力な指導者の下で、貧しい多数派の意思として表明されている。

  東西冷戦は終わったが、欧米型民主制度とくに米国式のそれに忠実なSIPは今や、人民参加型民主主義体制に対し、新たな冷戦を挑んでいるかに見える。米国務省の干渉政策と酷似している。「新聞経団連」の性格の強いSIPであるからには、当然の傾向と言えるかもしれない。

  敢えて付記すれば、欧米型民主制のラ米諸国の記者たちの多くは、SIPの主張にほとんど無関心なのだ。ラ米の多数派である貧困層にとって重要極まりない「社会正義」や「変革(富の公平な分配)」などの価値をめぐる欺瞞が、ALBA諸国よりも欧米型民主制諸国に強く深いことに気づいているからではないか。

  SIPの次回総会は、サンパウロで開かれる。

(2011年10月23日 伊高浩昭)
  

  

2011年10月21日金曜日

かくも遠く遅き謝罪

  1954年6月27日、グアテマラのハコボ・アルベンス大統領の改革政権は、米政府の陰謀による軍事侵攻で倒された。時は、1944年10月20日の「グアテマラの春」と呼ばれた民主化の始まりからほぼ10年経っていたが、2代の政権による改革政策は流血の侵攻で消え去ってしまった。
  改革の柱は、スペイン植民地時代に始まる大土地所有制を廃止し、本来の土地所有者であるマヤ民族をはじめとする貧しい農民たちに配分するための農地改革だった。米国の国策会社ユナイテッドフルーツ社(UFC)は最大の地主だったが、土地を接収されて怒った。
  当時はアイゼンハワー米政権時代だったが、UFCは密接な利害関係を持っていたジョン・ダレス国務長官に働きかけ、政変を画策する。ダレスはCIAに命じ、CIAは堕落したグアテマラ軍人らを隣国ホンジュラスに集め、軍事訓練を施してグアテマラに侵攻させた。
  侵攻軍は米軍機の空爆に支援されて攻勢をかけた。アルベンス政権はもろくも崩れ、多くの支持者が殺されていった。生き残った改革派の軍人や市民はゲリラとなった。1959年元日キューバ革命が成功するとゲリラは勢いづき、60年、親米右翼政権の打倒を目指してゲリラ戦に入った。 
  この内戦は1996年まで36年も続き、米政府の支援を受けた軍・警察が攻勢を維持した。25万人が命を落としたが、その多くは、軍・警察の殺戮作戦による犠牲者だった。
  アルベンスは政変後メキシコに亡命し、1971年失意のうちに死んでいった。生存している遺族は息子ハコボ・アルベンス=ビラノーバと、孫、曾孫たちだ。

           ×                ×               ×

  「グアテマラの春」開始からちょうど67年経った2011年10月20日(「1944年革命の日」)、グアテマラ市の大統領政庁で重要な儀式が執り行なわれた。
  アルバロ・コロム現大統領が遺族を招いて、あの政変について公式に謝罪したのだ。コロムは次のように述べた。

  「私は国家元首、共和国大統領、国軍最高司令官として、1954年6月27日に起きた一大犯罪について謝罪したい。あれは、アルベンス大統領夫妻と家族への犯罪であると同時に、グアテマラにとって歴史的犯罪だった。あの日グアテマラは変わってしまい、いまだに回復していない」
  「グアテマラの悪人たちとCIAが犯したグアテマラ社会への犯罪だった。民主の春を受け継いだ(アルベンス)政権への侵略だった」
  「悲劇は1954年に起きたが、グアテマラ人民は36年間の内戦で25万人が死ぬという代償を払った」

  あまりにも遠く遅い謝罪だった。だが歴史的謝罪だった。

  コロムは来年1月14日、政権を後任に渡す。9月11日の大統領選挙で過半数得票に達しなかった上位2人が11月6日の決選投票に臨む。悪名高い極右の元将軍オットー・ペレス=モリーナと、成金実業家で右翼のマヌエル・バルディソーンだが、このどちらからも政変の謝罪など到底望めそうもない。コロムは、政権の末期に歴史的使命を果たしたのだ。

  思い出すのは、1999年3月グアテマラを訪れた当時の米大統領ビル・クリントンが、米大統領として初めてグアテマラへの犯罪的干渉を謝罪したことだ。クリントンは以下のように述べた。

  「米国がグアテマラ内戦中に、報告されているような弾圧に関与し、軍や諜報機関を支援したのは誤りだった。このことを私が明言するのが重要だと確信する」

  クリントンは内戦中の米政府の関与について謝った。だが、内戦の契機となった1954年の政変については謝らなかった。コロムは、おそらくそのことを念頭に置きつつ、米国の分まで謝ったのではなかったか。(2011年10月21日 伊高浩昭)

カダフィの死ーーラ米の反応

  リビア中部の地中海岸の都市シルトで10月20日、生きたまま捕えられ射殺されたとも伝えられる同国の元最高指導者ムアマル・カダフィ大佐(69)の死について、ラテンアメリカの一部諸国の指導者や知識人から反応が出ている。

  大佐と親交のあったベネズエラのウーゴ・チャベス大統領は20日、ハバナで癌の精密検査を終えて帰国した際、「カダフィは生きて捕らえられてから殺害された。ラウール(カストロ・キューバ国家評議会議長)は<カダフィは殺されるだろう>と言っていたが、そうなった。命への蹂躙だ、と言うしかない。彼は殉教者として記憶されるだろう。生涯を通じて闘士だった。彼の死によっても、人民の抵抗は終わるまい。リビアの歴史は今、新しく始まる」と語った。

    政権党ベネズエラ統一社会党(PSUV=ペエセウベ)は21日、カダフィの死について「米仏英指揮下の占領軍部隊によるマグニシディオ(大物要人暗殺)だった」と糾弾した。

  ニカラグアのダニエル・オルテガ大統領は11月6日に連続再選をかけた大統領選挙に臨むが、20日、「カダフィが死んだという情報は疑わしい」と述べた。一方、野党・立憲自由党幹部は同日、「再選を狙うオルテガにとって、カダフィの死は悪夢だろう。援助してくれた友人を失ったのだから」と語った。

  エクアドールの外務省高官は20日、「リビアの政権移行国民評議会を承認しない。事態の推移を見守る」と表明した。
    エクアドールのラファエル・コレア大統領は22日、カダフィの死を祝う国際社会の動きを非難し、「カダフィは生きて捕らえられ、処刑された。死の真相を調査すべきだ」と述べた。

  キューバの「革命指導者」フィデル・カストロ前国家評議会議長は24日のコラム「省察」で、「NATOの虐殺の役割」と題して、「カダフィは、乗っていた車がNATO空軍機に爆撃され重傷を負って捕えられ、NATOが武装した者たちによって殺害された。遺体は奪われ、戦利品のように展示された。これは、イスラム教をはじめ世界の宗教の規範に最も反する行為だ」と糾弾した。
  キューバ政府も、リビア暫定政権を承認しないと表明している。
 
  コロンビアのフアン・サントス大統領は20日、「リビアが正常に戻り、民主が定着するのを期待する」と述べた。

  チリのアルフレド・モレーノ外相は20日、「平和の機会が訪れ、諸問題の解決が進む契機になる」と語った。

  南米諸国連合(UNASUR=ウナスール)のマリーア・メヒーア事務総長(コロンビア人)は20日、「リビア人民が和解に向かうのを期待する」と述べた。

  メキシコ紙ラ・ホルナーダに執筆しているアンヘル・ゲラ=カブレーラ氏は、「NATOのリビア介入は、米帝国とその仲間が、気に食わない政府に介入し、それをつぶすモデルになる。石油や金が豊かな、チャベス政権のベネズエラなどが介入の標的になりうる」という趣旨の指摘をしている。

  ボリビア政府は11月1日、「死者の日」に因んで、外務省でダビー・チョケウアンカ外相主催で故人を偲ぶ会合を開いた。スペイン植民勢力に対する抵抗の英雄トゥパック・カタリ、ボリビアでゲリラ戦の末に死んだ革命家チェ・ゲバラらと並んで、カダフィも追悼対象になった。ボリビアのエボ・モラレス大統領は、大統領になる前の2000年に「カダフィ人権賞」を受賞している。


 【2011年10月21~11月2日 伊高浩昭まとめ】 

2011年10月20日木曜日

先住民の長征

   ボリビア北東部のアマソニーア(アマゾン川流域)には、面積109万hrの「イシーボロ・セクロ国立公園先住民領土(TIPNIS=ティプニス)」がある。ベニ州南部とコチャバンバ州北部にまたがる地域で、シリオノー、チマン、ヤラカレー、トゥリニタリオなどの民族が共同体をつくって住んでいる。地理的にボリビアの中央部に位置し、交通の要路となりうる戦略的な場所を占めている。
   南米には、「域内インフラストゥラクチャー統合(IIRSA=イイルサ)構想」という一大計画があり、ティプニスは、これに目をつけられた。大国ブラジルは、ボリビアを通過して太平洋岸のチリとペルーの港に出るための南米縦貫自動車道の建設を長年構想していた。前大統領ルイス・ルーラとボリビアのエボ・モラレス大統領(以下エボ)は、この道路建設で合意した。ブラジルは、パナマ運河や南米南端沖を通らずに中国、インド、ASEAN、日本などと物流の大動脈を築き、加米墨の両洋国家3国で構成するTLCAN=NAFTA(テエレカン=ナフタ、北米自由貿易協定)地域に対抗し、それを凌ぐ戦略を抱いてきた。それが、この道路建設で実現するというわけだ。
  ブラジルの国立経済社会開発銀行(BNDES)は、ティプニス通過部分の総工費4億ドルの80%を負担し、残り20%はボリビアが出す。工事を請け負ったのもブラジルの土建会社だった。

   ボリビア国内を通過する道路は支線も入れて総延長1402kmで、うち177kmはティプニスを通る。その工事が始まり、住民は危機に陥った。8月15日、住民組織は道路建設断固反対をあらためて宣言し、1500人の行進隊を組んで、600km離れた政治首都ラパスに派遣することにした。行進隊は、七色の先住民族旗や国旗をなびかせて、長くきつい闘いの旅に出た。
   ボリビアでは、首都から見て遠隔地の先住民、農民、鉱山労働者らが首都に徒歩で抗議に向かう行進行動はまったく珍しくない。あの「ウカマウ」の名画群でもおなじみの大行進の光景が、事あるごとに展開される。何百キロも難儀して歩き、帰りも同じ距離を歩く。歩く人々は、なけなしの交通手段、自分たちの足と脚で長距離を移動するしかない。それだけに真剣かつ本気なのだ。
   この抗議の「長征」が脚光を浴びたのは、9月25日のベニ州南部での行進隊と、その前進を阻もうとする建設賛成派のよそ者との衝突だった。エボの代理として仲裁のため割って入った先住民族であるダビー・チョケウアンカ外相は4時間にわたって行進隊の「人質」になり、待機していた警察機動隊が「救出のため」として介入し、実力を行使した。これにより、行進隊員を中心に70人が負傷した。

  この事件は、先住民族アイマラ人のエボの権威を著しく傷つけた。エボは、誰よりも「母なる大地(マデレ・ティエラ)」、「ビビール・ビエン(大自然と共存し善く生きること)」、「先住民族の復権」、「自然環境保護」を政治哲学の基盤に据えている。2009年には、スペイン人による侵略で3流市民、否、「市民外」に置かれ酷使され虐げられていた多数派の先住民族の「5世紀ぶりの復権」を実現する柱として、「多民族国家」建設の新憲法を公布した。そのエボが、自らの権力の末端にして最先端の警察を使って、最大の支持基盤である先住民族に暴力を振るった、と受け止められたのだ。
  反エボ派のメディアの一斉攻撃もあって、ティプニス住民だけでなく国中の先住民族に「裏切られた」との思いが拡がった。エボは9月26日、当座の妥協案として道路工事の一時中止を決めた。だが建設計画を廃棄するつもりはなく、ティプニス住民だけでなく関係両州の住民全体を対象として、道路建設の是非を問う州民投票を実施する方針を打ち出した。
  だが行進隊はその方針には見向きもせず、州都までの行進続行を決めた。ボリビア中央労連(COB=コブ)は28日、連帯のゼネストを打った。COBもエボの重要な支持団体だ。エボは、「警察の過剰行動」を謝罪せざるをえなくなった。

  エボは10月4日、アルバロ・ガルシア副大統領を通じて、工事の無期限停止を発表した。9日のチェ・ゲバラ処刑44周年記念日には、エボの開発主義へ抗議の動きが見られた。エボはまた、12日のクリストーバル・コロン(コロンブス)の米州(カリブ海)漂着記念日の名称を、政令で「非植民地化(デスコロニサシオン=脱植民地)の日」と変えた(それまでは「解放・アイデンティティー・多文化の日」だった)。エボの与党「社会主義運動(MAS=マス)」が多数派の国会は、大慌てでティプニスを「環境保護地域」に指定し、道路建設には事前の地元住民への諮問を義務付ける新法を制定した。だがエボと国会の対症療法は影が薄かった。
  それもそのはず、行進隊がラパスに迫っていたからだ。2000人に膨らんだ行進隊は、最大の難所である、標高4300mのアンデス山脈の鞍部を越えて、アルティプラーノ(中央高原)にたどり着いていた。いまや彼らは「英雄」だった。沿道の貧しい人々はなけなしの食料や水を提供し、学生や労農組織は行進隊を守った。一見、巡礼のようにも映る長い行列が、ラパスに向かっていた。
  高地の先住民族には、酸素をより多く吸収し蓄えるためか、生来の「鳩胸」がある。低地から来た行進隊の多くはアンデス越えと高原の行進で酸素不足に陥った。これを高原の人々が酸素吸入器を提供して守ったのだ。

  行進隊は8月半ばトゥリニダーを出発してから65日、ラパスについに到達した。数万人の大群衆が拍手で英雄たちを迎えた。幾山河を足と脚で踏破した彼らの鉄の意志を讃えたのだ。彼らは、パラシオ・ケマード(大統領政庁)の目の前のムリージョ広場で集会を開き、行進隊の指導者フェルナンド・バルガスは、「大統領は母なる大地、生態系(生物多様性)、自然環境の最大の破壊者だ。ティプニスにコカ葉栽培地を拡げようと図っている」と激しく非難した。
  たしかにティプニスは、エボの権力基盤の中核であるコカレロ(コカ葉栽培農民)の本拠地であるチャパレー地方に近い。同地方から遠くないコチャバンバ市内にはコカレロ組織の本部があり、エボはかつて、ここを拠点に政治活動をしていた。私は90年代半ば、この拠点でエボにインタビューしたが、エボは「コカ葉は神様、コカインは悪魔」と名言をはき、コカレロは合法の栽培をしているだけで、コカ葉がどう使用されるかまで気配りはできない、という趣旨の発言をした。
  ティプニスの道路建設賛成派には、エボの息のかかったコカレロの一団が混ざっていたと、行進隊は指摘する。エボの政治的出自と、大統領になった今もコカレロ組織を率いているエボの「倫理的在り方」に刃が突き付けられたのだ。

  行進隊は19日、エボの呼びかけに応じて、エボと20日に交渉するのを受け入れた。エボは、新憲法に基づく主要な新国家建設の基盤を決める重要選挙の最後と位置づける「司法選挙」を16日実施していた。憲法裁、最高裁の判事ら司法機関の28の要職に就く人々を選ぶ選挙だが、投票が義務制のため投票率は80%と高かったにせよ、非公式な算定で有効投票率は40%を切り、白票と無効票が60%を上回った。エボは選挙結果を有効と判断したが、投票動向はエボ人気の信じがたいほどの陰りを示した。
  「先住民族の復権」と開発主義は多くの場合、矛盾する。先住民に国富を還元するには一定の開発が必要だろうが、開発は先住民の「母なる大地」を破壊しがちだ。エボは昨年12月上旬、リティウム開発交渉を主要な議題として来日したが、私は記者会見場で久々に言葉を交わし握手した。その時のエボは、自信に満ちているように感じられた。ところが帰国後、「近隣諸国へのガソリン密輸を阻止するため」として打った「ガソリナソ」(石油燃料大幅値上げ政策)が貧しい人民大衆の暴動を招き、運輸業界の猛反発を食らい、エボは政策を白紙に戻さざるをえなくなった。ティプニス道路建設問題は、ガソリナソ事件に次ぐエボの大失策となった。

  エボは「母なる大地」に立つ「コスモビシオン(世界観)」をよく口にする。大統領就任以来、富裕層、保守右翼層、米政府の内政干渉を主要な敵として、これを撃破しつづけていたエボだが、自分と同じ先住人民との「同族間の争い」は泣き所だ。政権連続2期目のエボは次回大統領選挙には出馬しない。

  ティプニス問題の解決は、「人民(主として先住民族)に従いながら統治する」というエボの政治哲学を実践したものだ。だが、対ブラジル関係に影響を及ぼす今回の一大譲歩を境に、後継者問題が重要性を帯びてきた。エボは、同じ世界観を持つ同志を「予定より早く」育成しなければならなくなるはずだ。

(2011年10月20日 伊高浩昭)

★★★エボは10月21日記者会見し、ティプニスを通過する道路建設は断念した、と発表した。

2011年10月19日水曜日

アジェンデとネルーダ

  私は、ラ米文化専門の月刊誌『ラティーナ』に「ラ米乱反射」シリーズを6年近く連載してきた。10月20日発行の11月号には、「<9・11アジェンデの死>はやはり自殺だったーー永遠の眠りを邪魔されなかったネルーダ」と題して、同時代の偉大なチリ人2人の死にまつわる逸話について書いた。
  1973年9月11日チリで起きたピノチェーとニクソンの連携による軍事クーデター当日、首都サンティアゴのラ・モネーダ政庁内で死亡した社会主義者サルバドール・アジェンデ大統領と、盟友だったノーベル文学賞詩人パブロ・ネルーダの同月23日の<後追い急死>には長らく、謎がつきまとっていた。
  アジェンデの死因は、イサベル・アジェンデ上院議員ら遺族の要請を受けて法的な遺体解剖がなされて今年七月、自殺と公式に断定された。一方、ネルーダには毒殺の疑いがあったが、司法当局は、病死の可能性が強く、解剖はしないとの立場を示した。妻マティルデが生前、「前立腺癌による死」を明言していたことなどによる。一緒に眠っているネルーダ夫妻の墓が解剖のために暴かれることはなくなり、私は「永遠の眠りを邪魔されなかった。。。」と書いた。
  チリ共産党幹部だったネルーダは1949年、政府から迫害されて52年まで欧州でマティルデとともに亡命生活を送った。52年には地中海のイタリア領カプリ島に住んだのだが、この事実を基にチリ人作家アントニオ・スカールメタは85年、『ネルーダの郵便配達夫』という小説を書いた。これを映画化したのが、94年のイタリア映画『イル・ポスティーノ(郵便配達夫)』である。
  私は今年3月、カプリ島を訪れ、ネルーダ夫妻が半年余り暮した邸宅を探した。島人たちの協力で探し当てることができた。このエピソードも11月号の文章に盛り込んである。
  私はアジェンデ政権時代の70年代初め、ネルーダの肉声による詩の朗読をラジオで聴いた。その一節を紹介したい。

  チリよ、お前が黙っている時が好きだ
  いないみたいだからだ
  チリよ、お前が眠っている時が好きだ
  遠くにいるみたいだからだ
  チリよ、お前が遠くにいる時が好きだ   
  心の中にいるからだ

  この詩の「チリ」を、恋人や故郷に置き換えて読んでみてはいかがか。

【ラティーナ社 電話03-5768-5588、電郵(イーメイル)latina@latina.co.jp,
HP http://www.latina.co.jp/】  2011年10月19日 伊高浩昭)

2011年10月18日火曜日

新自由主義政権に挑むチリ学生

  チリでことし4月から中等学校(高校、大学予科)生と大学生が、セバスティアン・ピニェーラ大統領の新自由主義政権に40波もの抗議デモを全国規模でかけ、教育政策の変更を迫っている。端的にいえば、「無料で質の高い公共教育」の実現を要求しているのだが、富豪の実業家ピニェーラを戴く政権が「無料教育の普遍化」に首を縦に振るわけがない。弱肉強食イデオロギーを前面に打ち出している右翼政権と、教育の機会均等復活を目指す学生は、教育を対立点としつつ、本質的には新自由主義政策の存否をめぐって戦っているのだ。
  この国の教育民営化が進んだのは、1973年9月社会主義政権を、当時のニクソン米政権と連携して流血の軍事クーデターで倒し登場したピノチェー新自由主義実験政権の下でだった。90年3月の民政移管以降の中道・左翼の4政権は、新自由主義に立った経済の構造を変えることはできなかったが、福祉面などで「中産・貧困層への利益還元」策を加味して、政権を計20年間維持した。言わば「弱肉色」を和らげたのだ。そして昨年、ピノチェー軍政下で潤った財界・富裕層・保守右翼層を基盤とするピニェーラ政権が発足した。軍政の経済政策の流れを汲む政権で、弱肉強食の牙を剥き出しにした。
  実業家政権は、企業益や私益の追求には敏いが、国政には無知・無関心・無能だ。政治哲学があるとすれば「金儲け」だろう。富裕層優遇税制を敷いて富を拡大し、労働市場<柔軟化>で労組の抵抗力を殺ぎ、多数派が求める教育・保健・雇用・社会保障の拡充は手を抜き疎かにした。ピニェーラは、チリを大企業を経営するかのように(国政でなく)<私政>に熱中していた。
  これに怒りを爆発させたのが、未来が見えなくなった学生だった。昨今「富裕層1%に対する怒れる99%の反乱」が世界各地で展開されているが、チリの学生は政変を実現させたエジプトなどの人民運動にも触発され、インターネットを駆使しつつ、ピニェーラ施政2年目の開始時に変革の戦いを挑んだのだ。アジェンデ政権時代に日常化していた人民運動の伝統が久々に甦ったと言うこともできる。
  すでに全国で学生を中心に労働者、主婦など延べ350万人がデモ行進に参加したが、このほか250万人が参加の用意があると意思表示しているという。世論調査では、チリ人の80%が学生を支持している。市民団体である「教授会」が組織して10月7~8日実施された教育問題をめぐる「国民投票」には有権者150万人が参加し、無料教育普遍化に88%が賛成した。またこのような、市民が組織する国民意思確認の投票実施を同じく95%が支持した。
  教育の民営化がこのまま進み続ければ、「機会均等がさらに失われるばかりか、チリのイデンティダー(アイデンティティー=認同)がばらばらになってしまう」、「批判力や判断力をもつ個性ある人格の形成が困難になり、企業に都合のよい人材だけが大量に生み出されることになる」と、学生は訴えてきた。
  チリが「ラ米1の経済先進国」、「最も投資家に有利な国の一つ」などと喧伝されて久しい。だがチリは同時に「貧富格差が最もひどい国の一つ」でもあるのだ。チリ学生の多くは、自分たちの闘いを「一種の階級闘争」と見なしていると伝えられる。
  世界最大級の銅生産国であるチリには、世界最大の国営銅会社(CODELCO=コデルコ)があるが、ピニェーラは国際資本と連携して、その民営化を狙っている。その荒業を打つ前に「教育問題ごときに足を引っ張られてはならない」と考えているようだ。そのピニェーラの支持率は20%台に落ちた。
  「金のかかる教育」、「機会均等が薄れ富裕層に有利な社会」は、21世紀初頭の日本社会の象徴的事象でもある。チリ学生の果敢な闘争は、地震と津波の関係のように、太平洋を挟んで私たちとつながっている。(2011年10月18日執筆 伊高浩昭)
      

2011年10月17日月曜日

あるメキシコ人ジャーナリストの死

  メキシコのジャーナリズム界を代表するジャーナリストの一人で、「マエストロ」の敬称で呼ばれていたミゲル=アンヘル・グラナドース=チャパが10月16日、入院先のメキシコ市内の病院で死去した。70歳だった。数年前から癌を患っていた。死の2日前の14日、レフォルマ紙のコラム「プラサ・プブリカ(公共広場)」で、「皆さんとの出会いもこれが最後になる。さようなら」と、読者と、1964年以来47年間の自身のジャーナリスト生活に別れを告げていた。
  私は1967~75年、メキシコ市を拠点にラ米諸国を取材した。これが私の「第1期ラ米時代」なのだが、その間の70年代前半、私はグラナードスと記者会見、自宅パーティー、祝宴の場などで会い、メキシコ政治の真相を聞かせてもらっていた。当時の彼はエクセルシオール紙に、政治評論を書いていた。言葉に無駄がなく内容の豊かな記事だった。
  メキシコ政界では、長らく一党支配を続けていた制度的革命党(PRI)の長期的な凋落傾向が始まったころで、そのタガの緩みから情報が漏れつつあった。しかし、PRIのメディア支配は依然完璧で、ほとんどの記者は現金をつかまされ買収されていた。「プレンサ・ベンディーダ(売られたプレス)」、「プレンサ・コンプラーダ(買われたプレス)」という言葉が、当のメディアや記者たちによって自嘲気味に使われていた。
  私のような、当時若かった異邦人ジャーナリストが政治の核心に迫るのは難しかった。あるとき私がPRIの政治集会を取材していたところ、たちまち秘密警察まがいの監視員に見つかり、つまみ出されてしまった。そんなのが常態だった。
  だからこそ、グラナードスのような地元大新聞のコラムニストと接近し、情報をもらうのは、取材活動の中心を占めていた。その情報を左から右へと流し報じることはなかったが、分析記事を書く折、状況判断を間違えないですんだ。ときには、彼からもらった秘話を盛り込むこともあった。

  実は昨年8月から9月にかけて私はグラナードスの秘書と連絡を取り、10月4日にグラナードスにインタビューする約束を取り付けていた。ところが前日の3日メキシコ市に着くと、グラナードスは急用でメキシコ市を離れなければならなくなった、と連絡が届いていた。残念ながら、インタビューはできずじまいだった。私は、彼のジャーナリストとしての思想とメキシコ政治の混沌について訊き出し、長い記事を書こうと楽しみにしていたのだが、叶わなかった。
  それから1年と12日経ってグラナードスが死んでしまうとは! 私は、弔電を打った。インタビューが実現しなかったことが、あらためて悔やまれる。(2011年10月17日 伊高浩昭)   

むのたけじ講演会

  東京神田の東京堂で9月16日、96歳のジャーナリスト、むのたけじ(武野武治)の講演会があった。『希望は絶望のど真ん中に』(岩波新書)の出版に合わせた会合だった。私は応募して、参加する権利を得た。私の心は躍っていた。私が尊敬する数人のジャーナリストのなかの一人だからだ。
  私と、この大先輩の共通点は、大学時代にスペイン語を学んだこと、メディア記者だったこと、エドゥガー・スノー(故人、中国革命を内側から報じた米国人ジャーナリスト)を尊敬すること、ぐらいしかない。この本には「トンテリーア」、「ケ・セラ・セラ」、「ブエノスアイレス」などスペイン語が幾つか登場するが、この点をとっかかりとして、私はこのブログにこの文書を載せることにした。
  ジャーナリストになるのを目指していた学生時代、むのたけじの最初の著書2冊、『たいまつ十六年』(1963年、企画通信社)と『雪と足と』(1964年、文藝春秋新社)を読み、感動した。以来、むのたけじは、私がジャーナリストの理想像を構成するうえで大きな存在になった。
  この日の講演でむのたけじが語った要点を、前述の新刊書内容とやや重複するが、並べる。

  「私は18歳のとき社会主義者であることを宣言し、これが生涯を貫くエネルギーになってきた。思想を抱きながら生活するのが不可能な軍国主義の時世だったため、選ぶべき職業はジャーナリズムぐらいしかなかった。75年間淡々と歩んできたが、ジャーナリストとして生きてきてよかったとは思わず、後悔もしていない」

  「人生=LIFEの完結である死は、誕生と同じくらいめでたいものではないか」

  「敗戦した日本は開戦責任を自らに問うことなく、1970~80年代の好景気で成金になってしまった。そのバブルが日本人の心になり、日本と日本人は自分自身を見失ってしまった」

  「兵役のない時代の子供は自由で、大人と対等に話し合える。現代の子供は、互いの相違点を認め合ったうえで理解し合い、連帯できる」

  「本気の恋に失恋はない。ひとはよく、愛がすべてとか、愛よりうえのものはない、などと言う。しかし、敬うという価値が愛の上にあるのではないか」

  講演の後、質疑応答となった。むのたけじは講演開始から1時間半、立ちっぱなしで大声で話しつづけた。私は『雪と足と』などを読んだ思い出を披露してから質問した。「尊敬するジャーナリストは」と訊くと、「あまりいませんな。『中国の赤い星』を書いたエドゥガー・スノーですかね」と答えた。私は以前、むのたけじがスノーに敬意を抱いていると述べていたのを知っていたが、確認するために敢えて訊いた。
  「気に食わないジャーナリズムの傾向は」と訊くと、ことし5月初めの、バラク・オバマ米大統領のオサマ・ビンラディン殺害作戦を挙げて、「国際世論は、ビンラディンになぜテロリズムを決行したか、その理由を聞きたかった。その機会を奪って抹殺してしまうとは許し難い。生きて捕えるべきだった」と即座に答えた。
  新刊書の冒頭には、「職業を問われると、私はジャーナリストと答えるが、とてもためらう。きのうきょうに始まったことではない」と記されている。それはなぜか? その答えが新刊書に盛り込まれている。私も、同じ刃を45年間、自分自身に突き付けてきた。
  私は通信社記者だった1990年代に秋田県にむのたけじを訪ね、インタビューしたことがある。そのときの取材メモがうまく見つかれば、それを紹介したい。(2011年10月17日 伊高浩昭)
 
  

2011年10月15日土曜日

キューバ元外相の消息

  社会主義キューバの経済は、ソ連が1991年に消滅し巨額の援助が停止して、1990年代、どん底に陥っていた。ソ連から来ていた石油は、国防や非常時のために備蓄され、電力に代わって人力や牛馬がエネルギーの中枢を占めるようになっていた。キューバ人の誰もが飢えており、餌をもらえない犬や猫はあばら骨が腹から浮き出し、瀕死の毎日を送っていた。
  カストロ体制が革命後最悪の危機に置かれたこの90年代、共産党青年部の37歳の指導者が外相に抜擢され、キューバの政治と外交の表舞台に登場した。その名はロベルト・ロバイナ。「ロベルティーコ」の愛称で呼ばれ、フィデル・カストロから重用されていた。
  私は90年代半ば、来日したロバイナ外相と質疑応答する機会があった。ロバイナには、いっぺんにたくさんの質問を受け、まとめて回答する習慣があった。一問一答形式が望ましいのだが、自信たっぷりのロバイナは「まとめ」方式を記者に強制していた。
  ところが1999年、ロバイナは突然解任されてしまった。キューバの常で、「本当の真相」が発表されることはなく、断片的に入ってくる情報を分析して「真相」に迫るしかない。伝わってきたのは、「夫人が腐敗に関係した」、「忠誠心を失った」、「野心的でありすぎ、将来の最高指導部入りを狙った」などの解任理由だった。
  その後、2002年に共産党からも追放された。外相時代、国家評議会員、共産党政治局員も務めたロバイナからは、想像もつかないほどの凋落ぶりだった。防衛学校で一般人民並の軍事訓練を叩き込まれたり、公園管理の職場をあてがわれたりしている、というような情報も届いていた。
  2005年のこと、ロバイナが絵を描き、それを展示し、作品を売ることもある、というニュースがハバナから流れてきた。ようやく人前に出られるようになったのだ、と私は理解した。それから6年経ったが、本日(14日)、メキシコのミレニオ紙、パナマのエストゥレージャ紙などが、ロバイナの近況をハバナ発AFP電を基に報じたのだ。
  それによると、55歳になったロバイナはハバナに住み、画家として白・黒両色を中心に抽象画を描いているが、2カ月前からハバナのベダード地区でカフェテリアとバーの機能を持つパラダレス(私営食堂)を経営しているらしい。
  AFPは、ロバイナにインタビューしたのだが、「ロバイナは外相時代、外国の実業家や政治家に許可なく接触した。たとえば麻薬犯罪への関与が指摘されていたメキシコ・キンタナロー州の知事から資金をもらってキューバ外務省を修繕した」という趣旨の外相時代の<罪状>にも触れている。AFPは、ロバイナが02年に米テレビ放送との会見で過去の過ちを認めたことも伝えている。
  ロバイナは、「怨念をもっては生きられない。過去に何であったかより、現在何をしているかが重要だ。人生は新聞の1面トップに出ることよりも価値がある」と述懐したという。ロバイナの後任で、はるかに馬力があり存在が際立っていたフェリーペ・ペレス=ロケ外相も09年、突如解任された。「野心的でありすぎた」というのが理由だった。ロバイナの失敗に学ばなかったのだ。

2011年10月14日執筆 伊高浩昭

  

2011年10月14日金曜日

ブログ開設のお知らせ

 シベルナウタ(サイバー航海士)、ブロゲロ(ブログ操縦士)の皆さん、
            私サルバドールこと伊高浩昭はこのほど当ブログを開設しました。

 ブログ「現代ラテンアメリカ情勢」
http://vagpress-salvador.blogspot.com/
   
 今後書く記事は、ラ米(ラテンアメリカ)情勢が中心ですが、ジャーナリズム、文化、ラ米以外のテーマも取り上げます。サイバー網の散歩中に、ぜひ当ブログの扉をたたいてください。
 では、網の中で!
   
2011年10月14日 東京にて 伊高浩昭(サルバドール)

2011年10月12日水曜日

エルネスト・チェ・ゲバラ処刑44周年に思う

   革命家チェ・ゲバラは1967年10月8日、ボリビア・サンタクルス州のアンデス前衛山脈山中でのゲリラ戦に敗れ、ボリビア軍にラ・イゲーラ村に連行されて、CIAから尋問された。そして翌9日、ボリビア軍の兵士によって至近距離から撃たれ処刑された。それから44年が過ぎた。

   「無花果(イチジク)の村」を意味するラ・イゲーラ村は、山脈の尾根に拡がる平地の小さな村だ。チェが一夜監禁され尋問されたのは、内部が2部屋に仕切られた一棟の小さな小学校だったが、後にキューバ政府の支援で診療所になり、ボリビア人医師が定期的に診療に通ってくる来るようになった。それまで無医村だった寒村に医療の灯がともることになったのだが、これは医師だったチェの遺志をフィデル・カストロが汲んで命じた措置だった。

   今日、この村や、村が行政上属する山脈裾野のバジェグランデ町は、「チェの聖地」となっている。チェの遺体はラ・イゲーラ村からヘリコプターでバジェグランデに運ばれ、病院内で検死がなされ、その後、メディアに公開された。そして、両腕を肘下で切断されてから、町なかの小さな飛行場の滑走路の下の地中に密かに埋められた。腕の切断は指紋を確認するためだった。

     遺体が発見されたのは、没後30周年の1997年のことだ。チェの遺体は、両腕の骨が肘から先が無いたため特定しやすかった。もちろんDNA鑑定がなされた。

   今年も10月8、9両日を挟んで、戦闘地域だった渓谷などを含めバジェグランデからラ・イゲーラまでの山岳地帯は、チェを信奉する若者たちの巡礼の順路となった。私は90年代半ばにこの一帯を取材したが、村に自家発電の電気しかなかった当時、まっ暗闇の尾根から満天の星座群を何時間も眺め、あまりの星の美しさに感激したものだ。流れ星がひっきりなしに走っていた。おそらく生涯、あれほど美しい星降る夜を体験することはないだろう。

   世界中の、とりわけラ米の若者たちの間で「チェ信仰」は衰えることをしらない。「キューバ革命を知らずにチェに憧れる世代」である。全球化(グローバリゼーション)によって、弱肉強食・貧富格差の一大矛盾が地球的規模で拡がっている。だが、その状況は変えたくとも容易には変えられない。絶望が来る。だが、絶望してはならない。

     そこに一筋の希望の光が差す。そこにチェがいる。チェは、ラ米革命、世界革命という見果てぬ夢を見つつ死んでいった。革命も知らない現代の若者たちは、「変革への希望の神」としてチェを捉え、帰依するのだろう。

   チェの娘で小児科医のアレイダ・ゲバラ=マルチ(50歳)が7月21日~8月11日、3度目の来日を果たし、東日本大地震と放射能事故の現場を訪ね、広島・長崎の原爆式典に出席した。

       私は今回も長いインタビューをしたのだが、「キューバ革命から52年が経って、チェが打ち出した<新しい革命的人間>を現代キューバの若者に教えるのは難しくなっているのではないか」と問うた。

     すると彼女は、「現代キューバの問題は、人民に社会的認識を失わせないことだ。たとえばクエンタプロピスタ(自営業者)は教育や医療が無料なことを忘れず、利益の一部を社会に還元する義務を怠ってはならない。教育程度の高いキューバの若者はイデオロギーや革命文化を学びつづけており、チェの思想も一層価値を増している」と答えた。

   チェは早世して、永遠の英雄になった。生きていれば83歳になるが、そんな老いぼれたチェの姿を誰も見たくも想像したくもないだろう。

      その老いぼれた姿をさらして依然先頭に立っているのが、弟ラウールと兄フィデルのカストロ兄弟だ。人間と同じように革命もまた死ぬ運命にある。凛々しく死んだチェは、ある意味で幸福だった。

伊高浩昭


【ラ・イゲーラ村ルポルタージュは、伊高浩昭著『キューバ変貌』(三省堂)参照。今回のアレイダ・ゲバラへのインタビューについては、伊高浩昭執筆「アレイダ・ゲバラ医師に聞く」(『世界11月号』岩波書店)参照】
   

スペインの日

 10月12日は、1492年のその日、クリストーバル・コロンがカリブ海に到達した記念日で、スペインの国祭日となっている。フランコ時代には「エル・ディア・デ・ラ・イスパニダー(スペインアイデンティティーの日)」と呼ばれていた。私は毎年この日、スペイン大使公邸でビノとハモンとケソを味わわせてもらっている。
  私は、ラ米文化専門の月刊誌「ラティーナ」に「ラ米乱反射」を連載しているが、11月号(10月20日刊)に、チリの話を書く。そのなかにノーベル文学賞詩人パブロ・ネルーダ(1904~73)が登場する。その文章を書くにあたって、ネルーダの自伝『コンフィエソ・ケ・エ・ビビード(我が生涯の告白)』を久々にひもといた。
  「スペイン戦争(内戦)は、フェデリコ・ガルシア=ロルカ(FGL)の消滅で始まった。この戦争は私の詩を変えた」ーー印象深い言葉だ。ネルーダは1933年、領事として赴任したブエノスアイレスでFGLと会って、詩人同士、意気投合した。翌34年、領事としてバルセローナに行き、FGLと再会する。親交はゆるぎないものとなる。だが内戦勃発から間もない36年8月、FGLはフランコ派ファシスト勢力から殺されてしまう。遺骨はいまだに見つかっていない。ネルーダは、この暗殺を「内戦の起点」と詩的に捉えているのだ。
  自伝には、「詩は常に平和の行為である。パンが小麦から生まれるように、詩は平和から生まれる」とある。だが、「スペインとの接触が私を強化し成熟させた」と述懐。ここに、「この戦争が私の詩を変えた」の意味がある。詩は平和の行為だが、時として戦争からも生み出さなければならない、ということだろう。ネルーダは37年、詩集『心の中のスペイン』を発表する。私が大好きな詩集だ。
  ネルーダはスペイン内戦後の1940~43年、総領事としてメキシコ市に住む。内戦を本気で戦った壁画家ダビー・アルファロ=シケイロスと親交を結ぶ。サンティアゴのネルーダの邸宅「ラ・チャスコーナ」には、シケイロスから贈られたキャンバス画が飾られている。
  「市場(いちば)のなかにメヒコがある」、「米州にはメヒコ人ほどの人間的深さをもつ国はない」、「メヒコの知的生活は絵画に支配されていた」ーー洞察に満ちた絵画的文章が並ぶ。メキシコ市を8年半、拠点にしてラ米を取材報道した私には、よく理解できる。私もシケイロスから仕事を通じてたいへん世話になった。【拙著『メヒコの芸術家たち』(現代企画室)参照】
  ネルーダはメキシコ駐在が終わると、チリへの帰途、マチュピチュに行く。「私はマチュピチュの頂で、歌(詩)を続けるための信仰告白を見いだした」と高らかに謳う。帰国し1945年、チリ共産党に入党する。「私はチリ人の詩人になることができた」と記す。
  アンデス山脈を、「我々の山脈の、あの無秩序や、あの巨石の狂乱や、あの憤怒の荒涼」と描く。超大で豪壮で険しいアンデスは、詩人の心を映していたのだろう。ネルーダは1973年9月23日、前立腺癌を患いつつ、失意のうちに死んでいった。ピノチェー軍部とニクソン米政権によるクーデターでアジェンデ社会主義政権が崩壊した9月11日の、わずか12日後の死だった。

伊高浩昭