2016年11月26日土曜日

★★★★★革命家フィデル・カストロ(90歳)が死去

 20世紀ラ米最重要の出来事と位置付けられるクーバ革命を1959年元日なし遂げ、革命体制を半世紀に亘って率いたフィデル・カストロ=ルス(90)が11月25日夜(日本時間26日昼過ぎ)死去した。実弟ラウール・カストロ国家評議会議長(85)がテレビを通じ、沈痛な面持ちで発表した。国葬の日程については26日朝、明らかにされる。

 フィデルは、人間味とカリスマあふれる熱血の革命家であると同時に、権謀術数に長けたずるがしこい政治家だった。1956年12月から59年元日までの革命戦争中から1976年の社会主義憲法制定までの長い期間、さまざまな権力闘争で政敵を次々に失脚させ、権力を固めた。最大援助源だったソ連の言いなりにもならなかった。

 1989年の天安門事件で中国の社会主義体制がぐらつくと、フィデルはアンゴラ覇権クーバ軍の現地司令官で、人気の高い英雄だったアルナルド・オチョア陸軍中将ら軍と内務省の高官4人を「麻薬取引に関与した」として、国家反逆罪で裁き、銃殺刑に処した。

 これは、当時、米政府からかけられていた「カストロ指導部の麻薬取引関与」疑惑を打ち払い、併せて、国内の反体制派を沈黙させる冷酷な荒療治だった。

 フィデルの泣き所は経済建設だった。それに成功したことは一度もなく、ラウールが陰でしりぬぐいし、辛くも国家経済を支えていた。ソ連消滅で経済がどん底状態に陥った90年代、カストロ兄弟は、米政府の体制打倒圧力を撥ね退け、台頭した国内反体制派を厳しく弾圧して、21世紀に革命体制を延命させた。

 しかしフィデルは2006年7月、大腸癌と指摘された重病で倒れ、ラウールら集団指導部に実権を委譲、08年2月、正式にラウールが実権を握った。破綻した台所事情を誰よりも知るラウールは、11年の第6回クーバ共産党大会で市場原理を正式に導入。今年の第7回党大会では、新しい「クーバ経済社会モデル」の構築に着手した。

 その間、12年7月から極秘裏に対米関係正常化交渉に入り、14年12月、正常化で合意。15年7月、玖米両国は54年半ぶりに国交を復活させた。米国と敵対的関係を続けたのでは経済建設が困難ないし不可能になると見るラウールは、積極的に正常化深化に努めてきた。

 そんな矢先、今月8日の米大統領選挙でクーバに厳しい姿勢を見せるドナルド・トランプが当選した。正常化深化の目論見が狂ったラウールは、来年1月20日発足するトランプ政権との厳しい対峙関係を覚悟、国防を含め、対策を準備している。

 国父フィデルは、ラウールにとって外交政策の最大の御意見番だった。その死は、大きな痛手だ。内外の反体制派は勢いづくだろう。

 一方、フィデルとクーバ革命が1960年代以降、世界に残した「革命的遺産」は大きい。国際社会の変革可能性を証明したのがクーバ革命だった。アンゴラ独立を守り、ナミビアを独立させ、南アフリカの人種差別体制を崩壊に導いたのもクーバ軍だった。

 学生時代の1962年からクーバ情勢とフィデルの言動を見守ってき、フィデルにあちこちで会う機会のあった私は、大きく深い感慨をもって、フィデルの死をいま迎えている。

 (私の16年生きた雄の愛猫<玉二毛=たまにけ>も、フィデルに先立ち26日未明、死んでいった。日本時間でフィデルと同じ日である。)