船は6月2日パペーテに入港した。14ヶ月ぶりだ。乗客としてこの船旅に参加している広島・長崎の被爆者8人らと、フランスによるムルロア環礁水爆実験被曝者らとの会合に出席した。会場は、パペーテ郊外にあるファアア市の会議場だった。正面の壁には、フランス語とタヒチ語で「自由・平等・友愛」と書かれてあった。「ティ・アマラア、ティ・ファイトラア、ティ・タエアラア」。オスカル・テマル市長の息子テトゥア・ハウ・テマル市長代理が議長となって、被曝者2人が体験を語った。
マリウス・シャン(67)は、フランス語で話した。元警察官。1978年から3年間、地下核実験場の警備を担当した。立ち入り禁止を徹底させるための警備だった。被曝の危険性については、一切説明されていなかった。だが、ある出来事を契機に、彼らの隠し事が暴露された。住民が蛸を食べた翌日、強い痛みが出、体中に湿疹ができて、救急車で病院に搬送された。
シャンは同乗を拒否されたため、蛸の捕れた海岸へ行き、原因を知った。被害者への面会を求めたが、当局から拒絶された。真実を知らせろと上司に迫ると拒否され、罰としてさらなる実験場警備を命じられたが、断った。フランス政府は、実験場一体の住民に、汚染食糧に代わる食糧を供給した。
地下実験上では、サイレンが鳴ってからカウントダウンが始まり、3秒でしゃがみ込む。0秒で島全体が揺れる。当局は、礁湖で死んで浮いた魚などを採集して、調査していた。
警官だから、拳銃を所持していた。これで誰を撃ち殺すべきか、と考えさえした。フランス政府関係者を案内する仕事もしたが、上司から、質問されても一切答えるなと命じられていた。今も体調が思わしくない。
次いでレイモン・ピア(69)がタヒチ語で話した。核実験場で1968~90年働いた。大型の風船で核爆弾を吊り上げる仕事だった。74年からは、礁湖地下の実験場に変わった。フランス人が立ち会う時だけ、放射能測定器が使われた。彼らは去っていったが、その多くは死んでしまった。我々の仕事仲間の多くは癌で死んだ。反核行動を起こさないと、事態は変わらない。
1990年に発病し、体調は依然おかしい。生き残っている仲間の多くも同じだ。当時、塩を保存用の材料として用いていたが、当局から塩を使うなと言われたが、理由の説明はなかった。フランス政府は真実を明かさない。立ち上がろう。後継世代に真実を伝えよう。
今度は三瀬清一朗(79)が長崎での被爆体験を語った。内容は、先方にはフランス語訳の文書であらかじめ手渡されていた。
「ムルロア・エ・タトゥ」の代表ロラン・オールダム(64)が、ムルロア核実験被曝実態を展示する資料館を建設する計画について話した。予算は8万4000ユーロだが、独立性を維持するため、フランス政府には支援を求めないことにしている。「博物館」という呼称は、若い世代に敬遠されがちなため、使用しない方針だ。記憶の記念碑のようなものにしたい。資金は国連、NGOなどに求めていく。ポリネシア全体に、この運動を広げていきたい。
これを受けて、ピースボート船内代表(航海ディレキター)の田村美和子が、世界周航で各国に働きかけていくことを約束した。
独立か従属かを決める住民投票は今年9月、ニューカレドニアで実施される。私がタヒチでの見通しを市長代理に訊くと、住民は洗脳されてしまっており、いま住民投票しても意味がない、とのことだった。2013年5月17日、国連はタヒチを植民地名簿に復活させた。フランスは1963年に名簿から外したが、78年にテマルが復活運動を開始した。最近、国連はフランス政府に核実験情報を住民に明かすよう要請した。時間をかけてタヒチ人に情報を与え、意識化を達成してから住民投票をしても遅くはない、という。
意味のある会合だった。DJスプーキー、タヒチから乗船した高瀬毅夫妻も出席した。スプーキーとガビーはパペーテで下船した。
船は翌朝、ボラボラ島に入港した。巨大なエイの頭部そっくりの形をした奇怪なオテマヌ山(標高727m)が心に刻み込まれた。透明な礁湖の海に30分つかった。出港してから、3回続きのハワイイ講座の歴史編と移民編を済ませた。船は6日夜半に赤道を越え、北半球に戻った。南十字星は後方にあり、前方には北極星がある。灰田勝彦、岡晴夫、山口淑子の歌を聴いた。若い船客100人が熱演した「ア・コモン・ビート」は楽しかった。
全被爆者死後、被爆実態をいかに後世に伝えていくべきか、で話し合いがあった。これもピースボートならではの会合だ。活動家(被爆者・支援者)、ジャーナリズム、芸術家、アカデミズムが協力して運動を起こすのがいいかもしれない。