2016年4月20日水曜日

チリ民政移管に尽くしたパトリシオ・エイルウィン元大統領が死去

 パトリシオ・エイルウィン元チレ大統領(97)が4月19日、サンティアゴで死去した。ミチェル・バチェレー大統領は同日、「民主国家チレの再建に尽くした」と讃え、3日間の国喪を決めた。

 エイルウィンは1918年、太平洋岸のビニャデルマルに生まれ、スペイン・フランコ派の影響を受けた保守・右翼系の政治団体「ファランヘ・ナシオナル」(FN)を45年結成。57年、FNとキリスト教社会主義系諸団体と合同し、キリスト教民主党(DC)を結党、翌年、党首に就任した。

 64年、党幹部のエドゥアルド・フレイ=モンタルバが大統領に就任、70年まで、その政権を支えた。同年、サルバドール・アジェンデ大統領の人民連合(UP)社会主義政権が発足、エイルウィンのDCは協力を決める。

 だがUP政権の左傾化を危惧、DCは野党に回り、やがて軍事クーデターやむなしという立場をとる。これがアウグスト・ピノチェー陸軍司令官を筆頭とする軍部に、クーデターを是とする「お墨付き」を与える結果となった。

 73年9月11日の流血の政変で発足した軍政は左翼ら反対派を殺戮、ピノチェーらは長期軍政を担う野心を明確にした。エイルウィン党首のDCは軍政に反対、83年、民政移管に備えて「民主同盟」(AD)を結成する。そのころ軍政は、やはり軍政に反対していたフレイ元大統領を毒殺した。

 エイルウィンは旧UP参加の左翼諸党と「民主のための政党協和」(コンセルタシオン)を結成、88年10月5日の国民投票で勝ち、政権にさらに8年間居座ろうとしたピノチェーの野心を打ち砕いた。

 翌年エイルウィンはコンセルタシオン候補として大統領選挙に勝利、1990年3月11日の民政移管で政権に就いた。直ちに「国家真実・和解委員会」を設置、軍政下で犯された人道犯罪の調査に着手、後に3195人の犠牲者が特定されることになる。91年3月には、犠牲者の遺族に「国家の犯罪」を謝罪した。

 エイルウィンは94年にエドゥアルド・フレイ=ルイスタグレ(元大統領の息子)に政権を渡し、米州開銀(BID)や国連機関で要職に就き、2002年、政界を引退した。

 [私は、エイルウィンが勝った大統領選挙、就任式などを取材、一度インタビューした。温厚で保守的な調整型の政治家だった。]


▼ラ米短信  アイチ(ハイチ)の選管「暫定選挙理事会」(CEP)は4月17日、今月24日に予定されていた大統領選挙決選の実施を無期限延期する、と発表した。政情混乱で実施条件が整わないため、というのが理由。

 ミシェル・マルテリ前大統領と国会は2月5日協定を結び、4月の決選実施と5月の新政権発足で合意していた。決選延期を受けてマルテリは18日、約束が違うと怒り、ジョスレルム・プリヴェール暫定大統領(前上院議長)に公開書簡で抗議した。

 一方、混乱に乗じて18日、武装集団が首都ポルトープランス一帯で自動車道をバリケードで遮断、タイヤを燃やした。市内の最貧困地区シテ・ソレイユでは銃撃があり、負傷者や逮捕者が出ている。

 地続きの隣国ドミニカ共和国では5月15日、大統領選挙が実施されるが、候補者の間で「国境に壁を建設しよう」と言う声が出ている。