2011年10月17日月曜日

あるメキシコ人ジャーナリストの死

  メキシコのジャーナリズム界を代表するジャーナリストの一人で、「マエストロ」の敬称で呼ばれていたミゲル=アンヘル・グラナドース=チャパが10月16日、入院先のメキシコ市内の病院で死去した。70歳だった。数年前から癌を患っていた。死の2日前の14日、レフォルマ紙のコラム「プラサ・プブリカ(公共広場)」で、「皆さんとの出会いもこれが最後になる。さようなら」と、読者と、1964年以来47年間の自身のジャーナリスト生活に別れを告げていた。
  私は1967~75年、メキシコ市を拠点にラ米諸国を取材した。これが私の「第1期ラ米時代」なのだが、その間の70年代前半、私はグラナードスと記者会見、自宅パーティー、祝宴の場などで会い、メキシコ政治の真相を聞かせてもらっていた。当時の彼はエクセルシオール紙に、政治評論を書いていた。言葉に無駄がなく内容の豊かな記事だった。
  メキシコ政界では、長らく一党支配を続けていた制度的革命党(PRI)の長期的な凋落傾向が始まったころで、そのタガの緩みから情報が漏れつつあった。しかし、PRIのメディア支配は依然完璧で、ほとんどの記者は現金をつかまされ買収されていた。「プレンサ・ベンディーダ(売られたプレス)」、「プレンサ・コンプラーダ(買われたプレス)」という言葉が、当のメディアや記者たちによって自嘲気味に使われていた。
  私のような、当時若かった異邦人ジャーナリストが政治の核心に迫るのは難しかった。あるとき私がPRIの政治集会を取材していたところ、たちまち秘密警察まがいの監視員に見つかり、つまみ出されてしまった。そんなのが常態だった。
  だからこそ、グラナードスのような地元大新聞のコラムニストと接近し、情報をもらうのは、取材活動の中心を占めていた。その情報を左から右へと流し報じることはなかったが、分析記事を書く折、状況判断を間違えないですんだ。ときには、彼からもらった秘話を盛り込むこともあった。

  実は昨年8月から9月にかけて私はグラナードスの秘書と連絡を取り、10月4日にグラナードスにインタビューする約束を取り付けていた。ところが前日の3日メキシコ市に着くと、グラナードスは急用でメキシコ市を離れなければならなくなった、と連絡が届いていた。残念ながら、インタビューはできずじまいだった。私は、彼のジャーナリストとしての思想とメキシコ政治の混沌について訊き出し、長い記事を書こうと楽しみにしていたのだが、叶わなかった。
  それから1年と12日経ってグラナードスが死んでしまうとは! 私は、弔電を打った。インタビューが実現しなかったことが、あらためて悔やまれる。(2011年10月17日 伊高浩昭)