【7月22~23日ニカラグアにて伊高浩昭】パナマ運河を経て太平洋に入ってから、船内でサンディニスタ・ニカラグア政権の高官および同系の歴史学者と討論した。私の講座に二人を招き、ニカラグア文化について船客と質疑応答する時間も設けた。船客たちは詩人ルベーン・ダリーオに関心を抱き、これがコリント港からニカラグアに上陸した後、大いに役立った。行く先々での交流で、「ルベーン・ダリーオとサンディーノの国にようこそ」という歓迎の言葉が盛んに飛び出したからだ。サンディーノは言うまでもなく、サンディニスタ(サンディーノ主義者)の基となった歴史上の人物アウグスト=セサル・サンディーノ将軍だ。
ダリーオの墓は、レオン市の大聖堂の中にある。同市を訪れた人々は、墓に参り、「日本に帰ったら、あなたの詩集を日本語訳で必ず読みますからね」などと声をかけていた。
私はレオン市一帯で、小口融資制度による女性の自立支援政策を取材した。とても興味深い制度で、一本の記事にまとめたい。ニカラグア人の半数近くが上水道に恵まれておらず、その解決策、つまり深い井戸を掘って水道管で井戸の周辺地域に飲料水を配るという政策の実施現場も見た。水道管を敷設するための溝を10mほど、道路沿いの荒れ地に掘って連帯した。久々の肉体労働で、その直後の地元料理の昼食がうまかった。
23日夕、首都マナグアに移動し、ルベーン・ダリーオ国立劇場で民俗舞踊を観た。数十人の少女がそろってマンボを踊ったのが素晴らしかった。ピースボート(PB)船客の若者有志は、小倉祇園太鼓を披露し、ニカラグア人たちから大喝采を浴びせられた。マナグア湖畔にある、劇場や革命広場のある地域は、1972年の大地震で破壊された旧マナグア市の中心街だった。私は、この大震災を取材した若い日のことを思い出していた。
次いで、ダニエル・オルテガ大統領、夫人で政権の情宣政策を指揮している詩人ロサリオ・ムリージョが主宰する歓迎会に臨んだ。PB創設者の吉岡達也代表が、「原発廃絶運動を進めているが、ぜひ協力してほしい」と持ちかけると、大統領は「我々は核兵器廃絶外交を続けてきたが、今後は原発廃絶運動にも協力したい」と応じた。NGOと一国政府首班との「約束」であるが、極めて異例な人民外交だ。私は2010年にコリント港でオルテガにインタビューしたが、それ以来2年ぶりに言葉を交わした。
1979年のサンディニスタ革命後、レーガン米政権の軍事介入で内戦を余儀なくされ、90年に下野したオルテガだが、6年前に政権に返り咲いてからは、「社会主義・キリスト教・連帯」をスローガンに、急進的でない、したがって無理のない改革政策を進めている。それは成功しつつある。ニカラグアは革命、内戦、新自由主義政権を経験した結果、現在の地道な改革政権に到達したのだ。変革のための財源確保が最大の問題だが、他の発展途上国の人道的開発モデルになりうる体制だと見た。「革命」とは、人道的開発政策を意味するのだ。
大統領夫妻を何かにつけて持ち上げる〈個人崇拝〉が支持者人民の間で見受けられるが、夫妻
が強大な権力を確立しているのは疑いない。11月に市長・市議会議員選挙が実施されるが、政権はサンディニスタ体制の一層の支配強化を狙っている。
Pbオーシャドゥリーム号は24日、グアテマラ・ケッツァル港に向けてエル・ザルバドール沖を航行している。大きなウミガメが時折海面に浮かび出て、挨拶を送ってくれる。