2017年2月5日日曜日

H・チャベスが率いたベネズエラ軍事蜂起25周年式典催さる

 故ウーゴ・チャベス前大統領が陸軍中佐時代の1992年2月4日に決行した軍事クーデター未遂事件(4F)から25年経った4日、記念式典が盛大に挙行された。ニコラース・マドゥーロ大統領のチャベス派政権は、四半世紀前のこの日を「現代史の転換点」と位置付けている。

 式典は軍事蜂起が始まった未明の時刻に合わせ、チャベスが指揮を執った「山の兵営」で開始された。この兵営は、カラカス市リベルタドール区1月23日町モンテピエダー地区にある。チャベスは蜂起を「エセキエル・サモーラ作戦」と命名、自身の暗号名を「ホセ=マリーア」としていた。

 式典では、チャベスに従って決起したディオスダード・カベージョ大尉(現国会議員、政権党PSUV=ベネスエラ統一社会党=副党首)が記念演説をぶった。

 「兵士たちはベネスエラの自由、主権、独立のため、そして人民に最大幸福を与えるため、旧制度を変革しようと蜂起した」と強調した。チャベスは1998年の大統領選挙で当選、99年2月政権に就いた。クーデター失敗後に逮捕されたチャベスは、「今は引き下がろう」と部下たちに降伏するよう勧めた。その「今は」の発言の主が7年後、大統領に上り詰めたのだ。

、禁錮刑に処せられたチャベスは94年、恩赦で釈放され、苦難の道を歩みながら、政治運動を展開。それが実った。だが同志たちの離脱が相次いだ。カベージョは、「25年間に離脱者が出たのは仕方ない。革命の深さが理解できなかったからだ。我々には団結するしか道はない。我々は4Fの30周年記念日、40周年記念日を見据えている」と謳いあげた。

 決起の政治的意味については、「限界に達していた2大政党制(プント・フィホ体制)を崩壊に導いた」と指摘。だが、コムーナ(コミューン)権力体制の確立などはまだまだだと、課題が少なからず残っていることにも触れた。

 マドゥーロ大統領夫妻、副大統領、国防相、故大統領の実兄アダン・チャベス文化相、チャベスの娘らも出席した。「山の兵営」では続いて軍隊が行進した。

 次いで大統領以下はアラグア州マラカイ市のパエス兵営に移動、第2の式典が催された。チャベスは蜂起当時、同兵営に所属する陸軍空挺大隊の司令官だった。91年12月上旬、蜂起を謀議、2ヶ月後に決行した。

 マドゥーロ大統領は、「ここから反IMF(国際通貨基金)、反寡頭搾取階級への革命的反逆が始まった。それは160年に亘る人民搾取と売国への叛乱だった。その流れを変える出発点となった」と指摘した。

 さらに、「チャベスの真実」を克明かつ正確に描く映画と、テレビ映画を制作するよう、関係当局に命じた。また4F蜂起および、これに続く92年11月27日の軍事蜂起「27N」に参加した元兵士計310人を国軍社会保障受給者とすることを決めた。両蜂起で戦死した兵卒たちを第2軍曹に死後昇格させ、遺族に年金を支払うことも決めた。

 一方、チャベスとの共著のあるアレイダ・ゲバラ=マルチ医師(チェ・ゲバラの娘)は2日、滞在中のスペイン・カナリア諸島中心地テネリフェ市で、「ベネスエラの石油は以前は米国に支えられた家族らのものだったが、今は学校、病院、住宅、無料福利のために流れている」と讃えた。

 「革命過程を不安定化させようとする陰謀のせいで物資不足はあるが、ベネスエラは連帯を拡げている」、「ベネスエラは革命過程成熟化の時間が十分にない。常に米国が頭上にいて<第2のクーバは許さない>と圧力をかけているからだ。ベネスエラと石油が彼らの手を離れてしまい、大打撃を受けたからだ」とも語った。

▼ラ米短信  ◎ロシアとベネスエラが外相会談へ

 ロシア外務省は2月4日声明を発表、モスクワで6日、セルゲイ・ラヴロフ外相とデルシー・ロドリゲス外相が会談すると明らかにした。両国は、国際価格安定化のための原油生産削減、軍備、投資などで協力関係にある。

 ロシアにとってベネスエラは、クーバ、ニカラグアと並ぶ重要なラ米の同盟国である。外相会談を受けて、マドゥーロ大統領が訪露する可能性がある。

▼ラ米短信  ◎コロンビアが「紛争後内閣」組織

 コロンビアのJMサントス大統領は2月4日、内戦終結過程進行に伴い、「紛争後内閣」を結成した。内務、外務、労働、財務、防衛、農業、運輸、鉱山エネルギーの8閣僚および、関係機関高官7人で構成されている。