クーバ共産党(PCC)は10月3日、結党50周年を迎えた。その記念行事が2日、ホセ=ラモーン・マチャード第2書記(国家評議会副議長)によって執り行われた。ミゲル・ディアスカネル政治局員(同第1副議長)、ラミーロ・バルデス政治局員(同副議長、革命司令官)、ギジェルモ・ガルシア中央委員(革命司令官)ら、党と政府の幹部が出席した。
マチャードは、「革命の英雄的業績はすべて中央委員会に集積されている」とのフィデル・カストロ前第1書記の祝辞を読み上げた。
1959年元日の革命戦争勝利後、権力闘争を経て、フィデルの率いる「7月26日運動」(M-26-7)、人民社会党(PSP=旧共産党)、革命幹部会(DR、ハバナ大学生らの組織)は1961年7月26日、新しい共産党結成に向けて「革命統一機構」(0RI)を組織。ORIは63年2月、「社会主義革命統一党」(PURS)に再組織された。
PURS内部では、M-26-7系とPSP系がさらなる権力闘争を展開、最終的に65年10月3日、フィデルが中央委員会名簿を発表、新生共産党が成った。フィデルが第1書記、実弟ラウールが第2書記(現・第1書記)に就任した。
この名簿発表の際、フィデルは「ここにいるべき人物がいない」として、チェ・ゲバラの不在に触れ、チェがその年4月1日フィデルに渡した「別れの手紙」を読み上げた。チェはクーバを去り、ルムンバ派ゲリラを支援するためコンゴで戦っていた。
フィデルは手紙の末尾を改竄し、「アスタ・ラ・ビクトリア、シエンプレ」(勝利まで、必ず)という「チェの革命標語」を仕立てた。[伊高浩昭著『チェ・ゲバラ 旅、キューバ革命、ボリビア』(中公新書2015年)参照]
PCC中央委員会発足と同時に、M-26-7機関紙レボルシオンとPSP機関紙オイは統合されて、今日に続くPCC機関紙グランマとなった。「グランマ」は1956年末、フィデル、ラウール、チェら82人の青年が革命戦争開始のためメヒコを出航、クーバ島東部に乗り着けたクルーザーの名前だ。
記念式典にラウール第1書記が出席しなかった理由は、来年4月の第7回党大会で退任が予想されるマチャード第2書記に花を持たせるためか、ラウールが国連総会訪問や相次ぐ来賓への対応などで疲労がたまっているためか、過去の「偉業」に拘泥しないラウールが対米関係深化過程にあるため敢えて共産党式典への出席を避けたのか、これらの「理由」が重なったためか、定かでない。