2011年10月21日金曜日

かくも遠く遅き謝罪

  1954年6月27日、グアテマラのハコボ・アルベンス大統領の改革政権は、米政府の陰謀による軍事侵攻で倒された。時は、1944年10月20日の「グアテマラの春」と呼ばれた民主化の始まりからほぼ10年経っていたが、2代の政権による改革政策は流血の侵攻で消え去ってしまった。
  改革の柱は、スペイン植民地時代に始まる大土地所有制を廃止し、本来の土地所有者であるマヤ民族をはじめとする貧しい農民たちに配分するための農地改革だった。米国の国策会社ユナイテッドフルーツ社(UFC)は最大の地主だったが、土地を接収されて怒った。
  当時はアイゼンハワー米政権時代だったが、UFCは密接な利害関係を持っていたジョン・ダレス国務長官に働きかけ、政変を画策する。ダレスはCIAに命じ、CIAは堕落したグアテマラ軍人らを隣国ホンジュラスに集め、軍事訓練を施してグアテマラに侵攻させた。
  侵攻軍は米軍機の空爆に支援されて攻勢をかけた。アルベンス政権はもろくも崩れ、多くの支持者が殺されていった。生き残った改革派の軍人や市民はゲリラとなった。1959年元日キューバ革命が成功するとゲリラは勢いづき、60年、親米右翼政権の打倒を目指してゲリラ戦に入った。 
  この内戦は1996年まで36年も続き、米政府の支援を受けた軍・警察が攻勢を維持した。25万人が命を落としたが、その多くは、軍・警察の殺戮作戦による犠牲者だった。
  アルベンスは政変後メキシコに亡命し、1971年失意のうちに死んでいった。生存している遺族は息子ハコボ・アルベンス=ビラノーバと、孫、曾孫たちだ。

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  「グアテマラの春」開始からちょうど67年経った2011年10月20日(「1944年革命の日」)、グアテマラ市の大統領政庁で重要な儀式が執り行なわれた。
  アルバロ・コロム現大統領が遺族を招いて、あの政変について公式に謝罪したのだ。コロムは次のように述べた。

  「私は国家元首、共和国大統領、国軍最高司令官として、1954年6月27日に起きた一大犯罪について謝罪したい。あれは、アルベンス大統領夫妻と家族への犯罪であると同時に、グアテマラにとって歴史的犯罪だった。あの日グアテマラは変わってしまい、いまだに回復していない」
  「グアテマラの悪人たちとCIAが犯したグアテマラ社会への犯罪だった。民主の春を受け継いだ(アルベンス)政権への侵略だった」
  「悲劇は1954年に起きたが、グアテマラ人民は36年間の内戦で25万人が死ぬという代償を払った」

  あまりにも遠く遅い謝罪だった。だが歴史的謝罪だった。

  コロムは来年1月14日、政権を後任に渡す。9月11日の大統領選挙で過半数得票に達しなかった上位2人が11月6日の決選投票に臨む。悪名高い極右の元将軍オットー・ペレス=モリーナと、成金実業家で右翼のマヌエル・バルディソーンだが、このどちらからも政変の謝罪など到底望めそうもない。コロムは、政権の末期に歴史的使命を果たしたのだ。

  思い出すのは、1999年3月グアテマラを訪れた当時の米大統領ビル・クリントンが、米大統領として初めてグアテマラへの犯罪的干渉を謝罪したことだ。クリントンは以下のように述べた。

  「米国がグアテマラ内戦中に、報告されているような弾圧に関与し、軍や諜報機関を支援したのは誤りだった。このことを私が明言するのが重要だと確信する」

  クリントンは内戦中の米政府の関与について謝った。だが、内戦の契機となった1954年の政変については謝らなかった。コロムは、おそらくそのことを念頭に置きつつ、米国の分まで謝ったのではなかったか。(2011年10月21日 伊高浩昭)