音楽評論家の中村とうよう(本名・東洋)が今年7月21日、自殺した。79歳の覚悟の死だった。衝撃だった。私はとうようさんの友人ではなく、かすかな知人にすぎない。だが、初対面が印象深かったため、いつも私の心のどこかに生きていて、ときどき思い出す人物だった。
私は1972年初め、キューバを取材旅行した。私とキューバ外務省の監視役の職員と、同じく運転手の3人組の旅だった。監視も、ハバナを離れて2、3日すると仲間のように打ち解けてしまい、ないに等しくなった。運転手は、当時キューバではやっていたトム・ジョーンズの「ディライラ」を繰り返し口ずさみながら運転していた。「マイ、マイ、マイ、ディライラー」と歌うところを、彼は「アイ、ヤイ、ヤイ、ディライラー」と歌っていた。砂糖黍畑のなかを、車はのんびりと走っていた。
当時カストロ政権は、国際連帯強化とサフラ(砂糖黍収穫)の労働力増強のため国際社会にサフラ参加を呼び掛けており、各国からブリガーダ(砂糖黍刈り隊)がやってきていた。キューバ島中部では、「日玖文化交流研究所」の山本満喜子所長率いる日本隊が働いていた。その野営地訪問を取材日程に組み込んで、現地を訪れた。
早速、「連帯のため」として私もマチェテ(山刀)、皮手袋、長靴を渡されて、幅2~3メートル、奥行き30メートルぐらいの帯状の土地を割り当てられた。そこに密生する丈の高い砂糖黍を刈り取るのだ。右利きの私は、左手で数本を根元で握り、右手の山刀を高く振り上げ、力を込めて振り下ろし、根元を刈る。たいへんな重労働だ。私の両手はすぐに豆だらけになり、それがつぶれて血だらけになった。
だが義務は果たさなけらばならない。どれくらい時間がかかったか記憶にないが、前方に光が見え、あと少し刈れば、お終いになるところまでたどり着いた。そして刈り終えると、前方の光のなかから、一人の男が現れた。私と同じ幅と長さの部分を、私の方に向かって刈り進んでいたのだ。
「コモ・エスタ・ウステー? たいへんな仕事ですね」と話しかけた。すると、相手は首をかしげた。もしやと思い、日本語で話しかけた。すると、返事が返ってきた。それが、40歳のとうようさんだった。精悍な顔は赤銅色に焼けていた。その風貌から、私はキューバ人と勘違いしたのだ。
後で知ったことだが、とうようさんは、3年前の1969年東京で『ニューミュージック・マガジン』を創刊し、新進気鋭の評論家として鳴らしていた。私は乞われてキューバ情勢を話し、とうようさんからは音楽の話を聴いた。その夜は野営地に泊めてもらい、翌日、次の目的地に向かったのだが、別れ際に「なぜ、筆名を平仮名にしたんですか」と訊いてみた。「戦中派の僕は、大東亜共栄圏とか八紘一宇とか軍国主義のあの時代が大嫌いで、そのため東洋という漢字が気に食わず、平仮名にした」とのことだった。予想どりの答だった。しないでもいい質問だった。
話は飛ぶ。私は1984年に南アフリカのヨハネスブルク駐在の仕事を終えて東京に戻ったが、ある日、とうようさんから電話がかかってきた。南アのアパルトヘイト状況の原稿を書いてほしいとのことだった。一瞬、ラ米の原稿かと思い、意外だったが、アフリカ音楽にも熱を入れていたとうようさんだから、当然の注文ではあった。再会したとうようさんは、キューバで会ったときと同じように寡黙で、ときおり微笑を浮かべいた。
私は、とうようさんの雑誌のコラム「とうようズトーク」が好きだった。閃きとエスプリに富み、学ぶところが多かった。とうようさんは、2011年9月号掲載のコラムを辞世の挨拶文として死んでいった。
(2011年10月26日 伊高浩昭)
【本田健治執筆「中村とうようさんを偲んで」(月刊誌『ラティーナ』2011年9月号)参照】