2012年2月5日日曜日

第2次ハバナ宣言から50年

☆★☆1962年2月4日、ハバナの革命広場に市民100万人を動員して開かれた第2回人民集会で、フィデル・カストロ首相(当時)は、「第2次ハバナ宣言」を発表した。それから、この2月4日で半世紀が過ぎた。

     「全革命家の義務は、革命を為すことだ」-こう高らかに謳いあげたこの宣言は、「反米帝国主義」と、「ラ米の広範な地域に革命を拡げていくキューバの理想」を打ち出した重要な歴史的文書として位置付けられている。

     その4日前の62年1月31日、米州諸国機構(OEA=OAS)は、ウルグアイの保養地プンタデルエステで開かれた外相会議で、ケネディ米政権の主導により、キューバを同機構から追放した。この追放は、米軍によるキューバ直接侵攻に備えた外交的措置と解釈されている。

     追放決議は、賛成14、反対1(キューバ)、棄権6(亜、ボリビア、伯、智、エクアド-ル、墨)で可決された。当時OEAには、カリブ英連邦諸国、カナダ、スリナムは加盟していなかった。

     フィデルは、この追放決議を受けて、人民集会を招集した。米国と、その言いなりになってキューバを追放したラ米諸国を糾弾し、次のように語った。

     「キューバが教えられるものは何か? それは、人民にとって革命は可能だ、ということだ。現代世界には、人民解放運動を止められる勢力はない。ラ米の多くの国に、革命が起こりうる現実がある。帝国主義か革命かのジレンマにあって、最も進歩的な層は人民である」

     フィデルは、59年元日の革命直後からラ米での革命運動の支援に着手していたが、第2次宣言後、その支援活動に拍車をかけた。

     米政府は、これを<革命輸出>と呼んでいた。フィデルは「各国の条件が異なるため、革命輸出などありえない」と否定する一方で、米国のラ米での抑圧政策を<反革命輸出>と呼んだ。