2012年5月16日水曜日

沖縄<施政権返還>40周年

▼▽▼日本が明治維新後、強引に日本領とした琉球(沖縄)は、太平洋戦争敗戦の1945年、米軍に占領され、施政権は日本から米国に移った。それが27年後の72年5月15日、日本に返還された。<沖縄の日本復帰>である。政府は事実関係を矮小化して<本土復帰>という不正確な用語をはやらせ、多くのマスメディアがこの言葉を用いた。施政権は沖縄と本土の間の問題ではなく、日米間の問題だった。日本から奪われ日本に還ったのであり、<日本復帰>が正しい。その施政権が日本に返還された日から40年が過ぎた。

★私は77年初めから79年末まで3年近く通信社の那覇支局員として、復帰から5~7年の沖縄情勢を取材し報道した。政府は軍事植民地状態を維持するため、沖縄経済を自立させない経済援助を続け、思想と制度の面では沖縄の日本化を推進していた。沖縄の<同化>に躍起となっていたのだ。

☆ウチナーンチュの記者たちから<ヤマトンチュ>とけなされ、毎夜、酒場で喧嘩や論争を吹っ掛けられた。そうするうちに理解し合って、多くの友人ができ、友情は今日まで続いている。

★この40年間、知事選は革新4勝、保守7勝。知事在職期間は革新14年、保守26年である。現在の保守・仲井真知事になってから、保守知事でありながら、米海兵隊普天間航空基地の辺野古移転に反対を表明するようになった。それまでの20年余りの保守県政は、対米従属主義の自民党政権と歩調を合わせて米軍基地の存在をやむなしとしていた。

☆いまや沖縄の生活は相当に豊かである。特に第三世界諸国の状況と比べるのが無意味なほど発展している。その発展の過程で、有権者の過半数が保守の知事をより多く選んできた。現在の知事が普天間問題で政府に<異議>を唱えたのは、沖縄の県民生活の向上と無縁ではないだろう。

★沖縄経済は依然自立していない。だが生活はかなり豊かになった。いまこそ政治面で主張すべきだという次元に達したのではないだろうか。政府の長年の分断統治策は効力を失いつつある。保革が本気で一致して声を大にすれば、軍事基地は動かざるを得なくなるだろう。

☆<心あるヤマトンチュ>は、政府と沖縄保守県民・政界の、軍事基地維持における<共犯性>に長らく疑念を抱き、心を痛めていた。この<共犯性>は、沖縄保守の変化によって薄れてきた。

★現実問題として日本は、海軍増強などによる軍事圧力と尖閣諸島領有権問題で中国から揺さぶられている。沖縄は、その最前線にある。中国には人口圧力もある。「沖縄・日本」対「中国」という、<一衣帯水の宿命>である。だが<宿命>も長期的には変化しうる。

☆現時点で考えられる打開策は、沖・日がじっくり話し合い、その結果を踏まえて日米が協議を重ね、沖縄から米国の海兵隊および陸軍の基地をなくしていくことだろう。そのためには、沖縄と本土の世論が一致しなければならない。米海空両軍の基地の扱いは、将来の課題となる。日米協議では、政府間だけに限らず、有権者の代表である国会議員同士の協議が不可欠だ。

★沖縄における自衛隊基地の在り方も当然、関連付けて協議されなければならない。

☆復帰40周年に際して、沖縄について書いた。上記の矮小化に関連してもう一例挙げれば、日米安保条約に付随する「在日米軍地位協定」を、政府は「日米地位協定」と訳し、メディアもこれに追随している。この協定は「日米」ではなく、「在日米軍」の地位に関するものだが、政府訳では意味が極めて曖昧になる。軍事植民地状態にある政府官僚の卑屈さの顕れとも言えようか。 沖縄のメディアまでが「日米。。。」とやっているが、なぜだろうか。

【『沖縄アイデンティティー』(1986年、マルジュ社)、『双頭の沖縄』(2001年、現代企画室)、『沖縄-孤高への招待』(02年、海風書房)=いずれも拙著=参照】