★☆★横浜でのサッカークラブ世界一決定戦(12月18日)をテレビ観戦した。バルセローナがサントスを4対0で奈落の底に突き落とした。バルサの勝利に意外性はない。だが、サントスに、「もしかしたら」を演じてほしい気もしていた。
最大の見どころは、バルセローナの流麗なパス回しだった。去年の南アW杯大会で優勝したスペインチームが見せたあのサッカーだ。だがこのサントス戦での流麗さは、残酷なほどだった。
バルセローナは、フランコ独裁時代「ピレネー山脈の南からアフリカは始まる」とスペインが馬鹿にされていたころ、地中海の文明の波が洗う、欧州に通じる入口だった。私が最初にこのカタルーニャの都を訪れたのは、独裁末期だった。その後、1982年のサッカーW杯スペイン大会、92年のバルセローナ五輪、スペイン内戦の傷跡取材などで何度も訪れた。
サントスは、日本人ブラジル移住者の上陸港だった。その80周年祭を1988年に現地から報道した。昔も今もコーヒーの輸出港だが、今では鉱工業産品、食品などの輸出品の方が多い。クラブサントスには、あの王様ペレーがいた。(日本式に「ぺ」を強く「ペレ」と発音すると、ポルトガル語で「皮膚」の意味になる。ペレーと「レ」を強く発音してほしいものだ。) 全盛期のペレーにグアダラハーラ(メキシコ)でインタビューし、後年リオデジャネイロで再び取材した。
試合を見ながら、私の脳裏ではサッカーと両市の思い出が錯綜していた。そして、「スポーツのわからない外信(国際報道)記者は駄目だ。国際情勢がわからない運動記者も駄目だ」と、先輩から教えられたことを思い出した。私は、外信記者だった。
幸いにも、メキシコ五輪(68年)とバルセローナ五輪、サッカーW杯はメキシコ大会(70年)とスペイン大会を取材した。W杯コロンビア大会(86年)も取材することになっていたが、コロンビアが財政と治安の事情で開催地を返上し、メキシコに代わったことから取材し損なった。
サッカーの大試合を観るたびに、ノスタルヒアにかられてしまう。人生の過去が深く、未来が浅いのがわかっているからだ。