2015年12月26日土曜日

アルゼンチン:「39年ぶりの対面」は事実でなかった

 亜国軍政期の1976年11月24日ブエノスイアレス州都ラプラタ市で、軍・警察コマンドに急襲され殺害されたペロン派極左モントネロス要員4人のうちの一人の娘で軍政に奪われたクラーラ=アナイー・マリアーニ=テルッジ(当時生後3カ月)を名乗る女性が(2015年)12月24日、「祖母」の元を訪れ、「39年ぶりに再会」と大々的に報じられた。だがノーチェ・ブエナ(クリスマスイヴ)に合わせた偽りだったことがわかった。

 祖母マリーア・チェロビック=デ・マリアーニ(91)の代理人である弁護士が、法廷に判断を依頼したところ、法廷は国立遺伝子試料銀行(BNDG)に照会、その結果、名乗り出た女性は孫娘クラーラ=アナイーでないことが判明した。代理人はナビダー(クリスマス)の25日、この沈痛な事実を発表した。

 その女性はコルドバ州内に住むマリーア=エレーナ・ウェルリ(39)。ことし6月、同州内の民間検査施設で遺伝子検査を受け、76年に殺害されたモントネロス要員ディアナ・テルッジ(当時26、母親)の娘に「99・9%間違いない」と判断された。そこでウェルリはBNDGに照会したが、同銀行は保管試料に基づき血縁を否定した。しかし女性は、その事実を「祖母」と対面した時、言わなかった。

 つまり、女性は半年前から孫娘でないことを知っていたことになる。祖母の息子で孫娘の父ダニエル・マリアーニ(当時28)は77年8月治安部隊に殺害されたが、祖母のDNAと名乗り出た女性のDNAはかけ離れたものだった。

 軍政期に奪われた孫たちを探し続ける「五月広場の祖母たちの会」は「120人目の孫が見つかった」と歓喜したが、一転して落胆した。マリーア・チェロビックも同会創設者の一人で、2代目会長を務めた。

 軍部は76年3月、イサベル・ペロン政権をクーデターで倒した。登場したホルヘ・ビデーラ軍政は周到に用意していた左翼活動家、知識人らの暗殺名簿を基に殺戮作戦を開始。82年の対英マルビーナス(フォークランド)戦争敗北を経て83年に4代の軍政が終わった時、少なくとも3万2000人が殺されていた。日本国籍保持者1人を含む日系人約10人も殺された。

 フォード米政権はビデーラ軍政を支持していた。日本政府もビデーラを訪日に招いた。ビデーラは2013年5月、罪を悔い改めないまま獄中で転倒し死亡した。