4月半ばの、日付が変わったばかりのある深夜、羽田空港からアラブ首長国連邦のエミレイト航空機で日本を離れた。羽田から日本を離れたのは、1967年に初めてメヒコに向かった時と、72年に再びメヒコに向かった時以来で、3回目だと思う。しかし今の羽田の国際便専用空港部分は、世界でも真新しい光輝く殿堂で、遠い日の追憶と郷愁を許さない、過去と隔絶した機械的空間だった。
機は、ソウル、北京の上空をかすめ、中国の外延部を回ってインド北部からパキスタンを縦断し、インド洋上に出た。アフガニスタンとイランの領空通過を避けた航路である。オマーンの南を通ってドゥバイに着く。荒れ地に蜃気楼のごとく現れる石油の富が生んだ人工都市である。空港内を1kmは歩いて、アテネ行きの待合室に辿り着く。当然のことながら、アラブの人々が行き交うのが新鮮だ。女たちは色白だが、男達は浅黒く髭が濃い。時差は5時間。
羽田で知り合ったフラメンコ歌手のハイメと夫人は、グラナダの故郷に帰るため、マドリー行きの待合室に去っていった。機中で隣合わせた人のいい蘭人商業者もアムステルダム便目指して、うれしそうに歩いていった。機はペルシャ湾を、イラン領空を避けつつ西西北に飛び、クウェート上空からイラクに入る。バスーラとバグダッドの上空を通過して北西端に出て、トルコを東端から横断する。通常の航路はシリア経由だが、その上空を避けたわけだ。イスミール上空からエーゲ海に出て、アテネに着いた。飛行4時間半。時差が1時間加わる。都心のホテルに入った時、東京の家を出てからぴったり24時間経っていた。正味1日であり、くたびれた。眠る。
翌朝、シンタグマ広場から繁華街を通って、アクローポロスを彼方に見上げる広場に行き、そこから丘を巻くように登ってアクローポリス正面下に出た。大通りを経てシンタグマ広場に戻り、ホテルへ。1時間、大急ぎ、5km弱の散策だった。13ヶ月ぶりのアテネだったが、元気を出し過ぎて疲れてしまった。
タクシーで小30分、ピレウス港へ。我が海の家、ピースボート「オーシャン・ドゥリーム」号に迎えられる。この大型旅客船は横浜を経って既に一ヶ月経っている。スエズ運河、トルコ、ミコノス島を経て、到着していた。若い仲間たちと抱擁を交わし、再会を祝した。この船が、向こう70日間の我が家となる。
横浜から乗ってきていて、アテネで下船し帰国する中東研究者の高橋和夫水案(船上講師)と、久々に会う。彼から水案のバトンを渡された。ギリシャ駐在の西林万寿夫大使が正午来船、船内を視察。昼食は、エーゲ海を見下ろす断崖上の舟形のヨットクラブレストランで海産物料理を大使からご馳走になった。ギリシャ経済、海運産業の特別な地位、対日関係などについて聴き、日本社会、ラ米情勢を話す。昨日発生した韓国フェリーの海難事故について、新情報をもらう。
17日、「内外ニュース」を80分に亘って船客に伝える。これが終わったところに、ガブリエル・ガルシア=マルケスがメヒコの自邸で死去した、との一報が届いた。87歳だった。私は出発前に、肺炎にかかっていたガボは退院したが容態は微妙、という情報をブログに記した。やはり、死ぬために自邸に帰ったのだ。ガボの数多い作品や評論には世話になった。学ぶことが多かった。
24日に東京で発売される拙訳『ウーゴ・チャベス-ベネズエラ革命の内幕』は、ラ・アバーナからカラカスに向かう機内でのチャベスとガボの会話から始まる。ガボには70年代初めのメヒコから90年代初めの東京まで、何度かインタビューしたり言葉を交わす機会があった。忘れ得ぬラ米知識人の一人だ。
時差は1時間加わる。船は、ペロポネソス半島を大きく迂回して、イタリア東海岸に向かう。晩冬の寒気が迫ってきた。