2017年4月3日月曜日

★★★エクアドル大統領選挙決選で政権党候補レニーン・モレーノが当選。新自由主義路線の銀行家ギジェルモ・ラッソ候補を接戦で凌ぎ、「南米左翼の潮流」を辛くも守る▼マルビーナス(フォークランド)戦争35周年行事催さる

 エクアドール(赤道国)で4月2日実施された大統領選挙決選で、政権党「パイース同盟」(AP)候補レニーン・モレーノ元副大統領(64)が当選した。同国のアンデス通信をはじめ内外がメディアが一斉に報じた。

 国家選挙理事会(CNE=中央選管)が開票率95・56%段階で、モレーノ候補51・10%、対立候補ギジェルモ・ラッソ48・90%で、モレーノ当選と発表した。ラッソは銀行家で元経済相。「機会創出運動」(CREO)党首で、「行動活発化統合社会運動」(SUMA)と連合している。その後、開票率98%段階でモレーノ51・14%、ラッソ48・86%で、趨勢は変わらなかった。

  モレーノは当確を受けて、「市民革命は続く。だが作風が変わる。敬意を払い対決はしない」と述べた。

 現地時間1700の投票終了時に公表された出口調査結果は、A社とB社は52%対48%でモレーノ勝利。C社は53%対47%でラッソ勝利だった。今決選は赤道国史上最高の接戦で、出口調査結果以上の激戦だった。新政権は5月24日発足する。任期は4年。ラッソはC社の数字を頼りに、「開票の不正」があったと主張、票の数え直しを要求していた。

 モレーノは、ラファエル・コレア大統領が連続10年間続けてきた「市民革命」と名付けられた改革政策を継続する。これに対しラッソは、内外大企業優先の新自由主義経済路線の推進者。

 南米左翼が下降傾向にある中、エクアドールの決選は「南米左右両勢力の潮流の行方を懸けた戦い」と位置付けられていた。モレーノn勝利は、「南米左翼は辛くも踏ん張った」ことを意味する。

 決選直前の3月末、このブログでも詳述した通り、ベネスエラでは一時的に「国会閉鎖状況」となり、マドゥーロ政権は「憲政破壊」、「お手盛りクーデター」と厳しく批判された。

 ベネスエラ主導のラ米・カリブ左翼・進歩主義諸国の「米州ボリバリアーナ同盟」(ALBA)にコレア政権の赤道国が加盟していることから、選挙戦最終段階でラッソ候補は、「モレーノが勝てばベネスエラのようになる」と宣伝した。これがある程度奏功し、得票差が縮んだもよう。

 3月21日発表の支持率調査では、モレーノ52%、ラッソ48%だった。この時点で「支持候補未決定」(浮動票)は、有権者1243万人の16%で、これが勝敗を左右すると見られていた。だが決選の投票率は75%で、浮動票の動向はさほど影響しなかったと分析される。

 ラッソは、コレア現政権10年の施政を攻撃、「変化」を強調して支持を固めた。2月19日の第1回投票では、モレーノの39・36%に対し、28・09%で2位に着けたラッソは、第1回投票での落選候補たちの票を取り込んで20ポイントも支持票を増やした。

 当選条件は過半数得票者が居ない場合、得票率40%以上で、2位に10ポイント差をつけること。モレーノは40%にわずかに及ばず、決選に持ち込まれた。

 ラッソは追い上げた勢いとベネスエラ情勢の影響で勝利の可能性もあった。だが選挙戦終盤初期に、ラッソがパナマに所有する銀行の租税回避疑惑が報じられて痛撃となり、これが最後まで響いた。

 このため、ラッソは、それまで否定していた「無料の社会政策」実施などを公約に加えた。ところが社会政策重視は政権党の最重要政策であり、ラッソの唐突な追加公約は自身の独自性を弱める結果となった。

 モレーノは熱血漢のコレアと比べ穏健な改革者で、コレアの「急進主義」的作風とラッソの富裕層優先策の中間に位置し、選挙民に安心感を与えたと言えるかもしれない。事件に遭い車椅子生活を余儀なくされているモレーノは、身体障害者への理解が深く、この「人道的雰囲気」も有利に作用したはずだ。

 第1回投票と決選で、南米諸国連合(ウナスール)の選挙監視団代表を務めたホセ・ムヒーカ前ウルグアイ大統領は「選挙は全く問題なく実施された」と評価した。

▼ラ米短信   ◎亜英マルビーナス戦争35周年

 ガルティエリ亜国軍事政権が1982年4月2日、同国東方の南大西洋にある英領マルビーナス(フォークランド)諸島奪回を狙って開始した戦争から35年経った。この日、亜国法で諸島が同国最南端のティエラ・デル・フエゴ州に属することから、州都ウスアイアで記念式典が催された。

 政府代表のロヘリオ・フリヘリオ内相は演説し、「主権を要求し続ける。主権回復のため賢明な道を探ろう」と、元従軍兵や、戦死者の遺族らに呼び掛けた。ロサーナ・ベルトネ州知事は、マルビーナス島民を「フエギーノス」(州民よ)と呼んだ。

 戦争は6月まで74日続き、サッチャー政権の英国が勝った。亜国兵649人、英国兵255人、島民3人が戦死した。