革命前から革命後にかけクーバで造園、花卉栽培、新種開発に努めた日本人、竹内憲治(1901~77)の足跡を辿るTV番組を観た。懐かしかった。私が1972年のクーバ取材で竹内をハバナ郊外の農園に訪ねインタビューしていたからだ。
当時の竹内は71歳だった。穏やかな人柄だったが、眼光は鋭かった。20世紀最初の年に広島県に生まれ、園芸が好きだったため、ニューヨークのコーネル大学で造園を学ぼうと1931年、米国を目指した。だが船が寄港したハバナで病気にかかり入院、米国留学の夢は砕かれた。
竹内は留まった革命前のクーバで、経済を牛耳っていた米資本の一つデュポンの社長に見込まれ、バラデロ海浜に広大な庭園を築いた。私はそこを訪れてから竹内に会った。
革命前の話も革命後の話も同じように面白かった。革命の覇者フィデル・カストロ首相から絶大な信頼を受け、猛暑が続くと、首相はビールを何ダースも農園に送ってよこした。(当時のクーバは大統領制で、首相が実権を握っていた。76年に国家評議会議長が元首として首相を兼任する現行制度に移行した。)
今回のTV番組の案内人、向井理は理知的で良かった。最後に向井は、竹内の理念と行動は革命イデオロギーを超えていたという趣旨のまとめの言葉を述べたが、的を射ている。私は長い時間、竹内と対話しながら、まさに同じことを考えていた。
竹内は「近く伝記を出すつもりで準備中」と言い、題名を「老人と花」にしたい、と言った。同時代をクーバで過ごしたアーネスト・ヘミングウェイの「老人と海」を愛読していたからだ。
だが竹内は、自伝が刊行される3か月前に76歳で帰らぬ人となった。題名は「花と革命」となり、東京の学苑社から出た。私が本人から聴いた多くのことが盛り込まれていた。
竹内が開発した白百合「ホセ・マルティ」は今日、クーバ社会に欠かせない花となっている。クーバ史上最大の人物とされる偉人の名前を付けたところにも、竹内のクーバへの思い入れが窺える。
クーバに竹内が植え付けた造園、花卉栽培などの技術は、クーバ人にしっかりと受け継がれている。竹内が蒔いた種は大輪の花を咲かせたのだ。
島国日本を離れた竹内は、越境し、独自の創作的境地を見出し、その新天地に溶け込んだことによって、国境を無くした。私がラ米世界で会うことのできた最も印象深い日本移住者の中の一人である。