往年の日本の「タンゴの女王」藤沢嵐子が8月22日88歳で死去してから1カ月が過ぎた。何年か前、長岡市内の彼女の自宅を訪ねてインタビューをしたいと考えたことがある。だが人には会わないと間接的に伝えられ、諦めた。
敗戦後の日本では、哀愁に充ちたタンゴ・アルヘンティーノ(亜国タンゴ)が大ヒットした時期がある。アルフレド・ハウゼ楽団のコンティネンタル(欧州大陸)タンゴも続いて流行った。嵐子は、一大タンゴブームの最大のスターだった。
私は小学生から中学生にかけてラジオ、そしてテレビで嵐子の歌う、異国情緒たっぷりのタンゴに魅せられた。声量も素晴らしかった。
記者になり1970年代初め、ブエノスアイレス取材を開始した。街のレコード店に行けば必ず、「嵐子は元気か」と訊かれたものだ。なんとなく嬉しかった。
嵐子は、1953年に当時のフアン・ペロン大統領が公邸で催した茶会に招かれ、「ママ、ヨ・キエロ・ノビオ」(ママ、恋人が欲しいの)を歌って一躍有名になった。
エバ・ペロンは前年7月26日に子宮癌で死去していた。エバは、敗戦直後の日本やイタリアに物資を満載した貨物船を派遣した。
圧倒的な人気を誇っていたタンゴの女王リベルター・ラマルケ(1908~2000)がいた。だがエバに疎まれ、1946年にメキシコに去り、帰化していた。
その「空洞」を嵐子が埋められるわけはなかったが、タンゴ好きの亜国人の耳に認められ、大統領の前で歌うことになったのだ。
嵐子は1990年代初めに引退した。そのころインタビューしておけばよかった、と悔やまれてならない。
月刊LATINA10月号(9月20日刊行)が嵐子の特集ページを組んでいる。この雑誌ならではの鮮やかな即応ぶりだ。