今年亡くなった数多くの内外人の中で最も心に染みた死は、河原温のそれだった。2014年7月上旬、定住地ニューヨークで81歳で死去した。
私はメヒコ市のモンテカルロというホテルで1967~68年、温さん、人形作りのひろ子さんの夫妻と知己になった。内庭を隔てた部屋に住む長期同宿の友だった。私はずっと年下だったが、ジャーナリズムをしていて、それなりの情報を持っていたこともあって、かわいがられた。
温さんは毎日、黒い小さなキャンバスに白字でその日の日付を書く「日記」という作品をつくっていた。これが後に知った有名な「日付絵画」だった。
その日、朝から夜まで会った人の名前を、会った順にタイプで縦に書き並べる仕事もしていて、夫妻の部屋にしばしばお邪魔していた私は何度も登場した。同じ日に3回訪ねれば、3回名前が記されるのだ。詩のように映った。
温さんを「今夜はキャバレーで踊りや歌を楽しみましょう」と誘うと、約束の時刻に現れる温さんは、決まって背広、ネクタイで身を固めていた。それが温さんのスタイルだったのだ。
夫妻はある日、南米に旅立った。68年に戻ってきて間もなく、荷物をたたんでニューヨークに去っていった。別れる日、彫刻のような作品をもらった。「彫刻ですね」と言うと、「いや、それは絵だよ」と言われてしまった。
「ニューヨークにいらっしゃい。泊めてあげるよ」と言われたのが最後だった。その後、NYに何度か滞在したが、会う機会はなかった。
ことし、チレ人でメヒコ在住の映画監督アレハンドロ・ホドロフスキーが来日した。彼を私に紹介してくれたのは温さんだった。このほか、メヒコ人やメヒコ在住の諸外国の芸術家も紹介してもらった。
私は67年6月に壁画家シケイロスにインタビューし、記事を書いていた。温さんは記事に興味を持ってくれた。47年間も会わず終いだったが、温さんは私の心に生き続けている。