2011年11月7日月曜日

<違憲性>粉砕した貧者の論理

   近隣のグアテマラは11月6日の決選投票で、過去の殺戮の亡霊のような退役将軍を次期大統領に選んだが、ニカラグアは同じ日の大統領選挙で「復活した過去の革命」の強化・定着を選んだ。

   現職のダニエル・オルテガ大統領は、開票率85・80%で、得票率62・65%(132万票)に達し、2位のファビオ・ガデア候補(独立自由党)の30・96%(65万票)に大きく水をあけた。この段階で選管は、オルテガ勝利を認定した。

   オルテガは、父子3代・43年間のソモサ家独裁を1979年7月に倒したサンディニスタ革命の立役者の一人だった。ゲリラ組織「サンディニスタ民族解放戦線(FSLN=エフェエセエレエネ)」は政党化し、1984年の大統領選挙でオルテガが当選し、90年まで政権にあった。

   この80年代は、反共帝国主義に凝り固まったレーガン米政権に内戦を仕掛けられ、ニカラグアは戦火の巷となった。レーガンは、ホンジュラスで反革命(コントラ)ゲリラ部隊を組織し、ニカラグアに送り込んで、建設過程に入っていた革命を破壊した。

   因みにレーガンは1983年には、カリブ海のグレナダに、キューバに接近しすぎたとの理由で軍事侵略し、政権を倒した。
 
   1990年以降、チャモロ、アレマン、ボラーニョと、3代の親米・新自由主義政権が続き、革命の成果は殺ぎ落とされ、貧富格差が拡大した。貧しい多数派は、2006年11月の大統領選挙で、「復活したオルテガ」を勝利させた。

   だが、オルテガにとって決して楽勝ではなく、選挙前に、カトリック教会など保守派との妥協を強いられた。私は2010年9月、現地でオルテガにインタビューしたが、90年の第1期政権末期のオルテガと随分と雰囲気が変わっていた。年もとり(今月11日で66歳)、人間もまろやかに、かつ狡猾になっていた。 

   大群衆を前に演説し、「今のニカラグアは、<キリスト教、社会主義、連帯>、この三つが柱だ!」と強調した。大統領選挙出馬について問題点を含めて訊くと、「すべては有権者人民が決める」と答えるだけだった。

   オルテガの横には、ニカラグア・カトリックの総元締め、マナグア大司教のミゲル・オバンド枢機卿の姿があった。20世紀の遺物が並んでいるような印象をもった。

   1990年の大統領選挙時、反サンディニスタ派は、毎週のようにマナグア市内の日本大使公邸で戦略会議を開いていた。日本政府は、「情報収集だった」と言い訳するだろうが、明らかに内政干渉をしていた。オバンドは、この会合の常連だった。チャモロや、米大使館員も参加していた。 

   オバンドに、かつての宿敵オルテガとの<蜜月状態>について訊くと、「政府はとてもよくやっている。これでいいのだ」と言った。平和共存は、利害関係の一致を物語る。

   しかしオルテガは、戦略に長けた百戦錬磨のつわものになっていた。「ボリバリアーナ革命」を遂行するベネズエラのウーゴ・チャベス大統領から巨額の援助を取り付け、これを<真水>として、貧困大衆に注ぎ込んだ。広い底辺層はオルテガを熱狂的に支持した。オルテガは、その底辺層をFSLNの下部組織とした。

  いわば、ボリバリアーナ革命が、傷だらけになっていたサンディニスタ革命を救ったのだ。無料の保健、教育など、かつての革命の成果が復活した。重要なのは、FSLN指導部に、新自由主義をできるかぎり修正して、社会正義を広めようという意思があることだ。

  野党は、新自由主義・親米主義程度しか頭になく、対抗イデオロギーを打ち出せない。候補を一本化できず、強くなったオルテガには到底及ばなくなっている。

  オルテガの泣き所は、憲法が「同一人物の大統領就任は2期まで」、「連続2期は不可」と規定していること。ソモサ長期独裁を教訓とした規定である。

   オルテガの出馬は、「3期目」を狙うものであり、「連続2期目」規定への挑戦だった。

   だがオルテガは自派で最高裁を固め、「この憲法規定は適用されない」という奇妙な判断を昨年までに勝ち取り、出馬した。野党は、今選挙戦で「違憲」、「非合法」などと攻撃した。

   しかし貧困大衆は、オルテガに圧勝を贈って、「憲政の論理」を押しつぶした。

   欧州連合の選挙監視団は、オルテガ勝利を認めながらも、「選管は政府からの独立性が薄く、透明性に問題があった」、「監視団の行動が十分に認められない場合があった」という趣旨の批判をし、政府に改善を求めた。
   オルテガは、次期任期の終わりには71歳を越える。サンディニスタの人民大衆も若返りが進んでいる。引退し、後継者に政権を譲る覚悟で、新たな船出を図るべきだろう。

(2011年11月7日 伊高浩昭)