クーバのフィデル・カストロ前国家評議会議長が8月13日、満88歳の誕生日を迎えた。
フィデルは政府、共産党、軍、国会の公職から離れているが、「クーバ革命の指導者」の名誉称号を与えられている。
1953年7月26日、サンティゴ市内にある陸軍モンカーダ兵営を襲撃した。攻略には失敗したが、来るべき革命の狼煙を上げることには成功した。
亡命地メヒコで亜国人旅行者エルネスト・ゲバーラと出会い、「チェ」と呼んで、仲間に加えた。ゲリラ戦の準備を整え、56年11月、クルーザー「グランマ」でトゥースパン港を出航し、12月2日、クーバ島東部の海岸に上陸する。
その後、マエストラ山脈に立て籠もって革命戦争の指揮をとり、59年元日のフルヘンシオ・バティスタ逃亡をもって、革命戦争
は勝利した。
以後、幾多の試行錯誤を経て、72年7月、ソ連圏の経済相互援助会議(コメコン)に加盟し、経済を安定させた。
76年、政治体制をソ連化し、それまでの革命軍最高司令官(元帥級)、共産党第一書記に加え、国家評議会議長(国家元首)兼閣僚評議会議長(首相)の地位に就いた。
社会主義クーバは政権両面の安定期に入ったが、80年、不満派12万5000人が米国に出国する。
80年代半ば、ソ連共産党書記長にミハイル・ゴルバチョフが就任すると、玖ソ関係に隙間風が吹き始めた。
89年12月、ベルリンの壁崩壊を経てコメコンは崩壊、米ソ首脳は東西冷戦終結を宣言する。ソ連も91年末に消滅した。
援助源を失ったクーバ経済はどん底に陥る。90年代は、革命体制死守のための超耐乏生活の時代となる。背に腹は代えられず、米ドルなど外貨の合法化、外資導入、観光産業重視と、改革政策に着手する。
99年2月、ベネスエラにウーゴ・チャベス大統領の革新政権が登場すると、石油がクーバに入るようになり、クーバ経済は一息つく。
経済はやがてソ連時代末期の水準まで戻り、その後は徐々に成長期に入る。ところが06年7月、腸内出血で倒れ、実弟ラウール・カストロらに政権を委譲する。
08年、正式に議長・首相の地位をラウールに譲る。ラウールは遠慮して最高司令官の地位には就かず、上級大将の地位に留まって革命軍を指揮するようになる。
11年4月、第6回共産党大会で、第一書記の地位もラウールに譲った。これで政界から完全に身を引いた。ラウールの施政には、相談を持ちかけられた場合を除いて、一切、口を挟まないことにしている。
新聞コラム、伝記、戦記の出版、外国要人との会談などで、しばしば話題になる。
生地オルギン州ビラーンの再建された家(史跡、博物館)は今、新たに修復されている。
全国で88歳の祝いの行事が展開されている。