『日本の作家が語るボルヘスとわたし』(野谷文昭編、岩波書店)を読んだ。作家10人と編者がボルヘスを語っている。結論は、確信をもってボルヘスを語る者はひとりもいない、ということだ。
人間の関わるものすごく複雑な事象、心理などすべてを、ごく短い文章にまとめるのだから、不可解に決まっている。分からないのが当然なのだ。
ボルヘス自身も、わかってもらいたくはなかったのだろう。
書かれたものが全体を象徴している部分であっても、それは氷山の一角にすぎず、海中にある大きな本体を見なければ真に何を言いたいのかわからない。全体の構成部分であれば、海中にある大部分は見えない。したがって、何が何だかわからない。
この本に登場しない鶴見俊輔は、「過度の簡潔さは、沈黙と見合う文章、暮らしに溶けていく文章、この二つの理想の前に立つ」と言っている。だがボルヘスは、これにも当てはまらない。
本書に登場する語りでは、星野智幸の意見がいちばん面白い。コロンビアの大学教授による「ボルヘス受容の不幸な歴史」という話を以下のように紹介している。
「左翼的知識人の多いラ米では、ボルヘスはあまりに政治的に毛嫌いされ、まともに読まれてこなかった。その結果、ラ米文学はガルシア=マルケス的な側面に代表されることになった。ボルヘス的なものが黙殺されたのは不幸だった」
星野は、「読めば読むほど、ボルヘスをまったく無批判に受け入れていいのだろうか、という疑念が湧いてきた。そこには<ボルヘス>と口にすれば知的に見られ、わからない者は軽蔑される、といった日本の文学環境への違和感があったかもしれない」と続ける。
さらに、「僕は、ボルヘスのどこに引っかかるのか、何をずるいと思うのか。突き詰めていくと、ボルヘスが長編を書かないこと、読者としてのボルヘスも本質的に長編嫌いであること、その辺りと関係がありそうだ」と書く。
正直でいい。惜しむらくは、ボルヘス夫人マリーア・コダマの意見が本書に出ていないことだ。日本の作家でないからだろうが、例外で登場させてほしかった。
夫人は最初に夫と来日し、その後、少なくとも3回は来日している。私は、その3回とも会い、うち2回は長いインタビューをした。その折、ボルヘスの作風について分析を求めた。
「エスクエトであることを重んじたのね」という答だった。無装飾、寡黙というような意味だ。
私は、ボルヘスは、わからないまま、わかろうとせずに、ページをめくるだけだ。